多元的全体食のすすめ(五) 食べ物研究家 五十嵐玲二談
5. 食べることの精神的意味
食べることは、命をいただくことであり、人の世界と神の世界をつなぐことである。(マタギより)
かって日本人は、自然を畏れ、敬いながら生きてきた。狩りの獲物にも、人間のための「食べ物」としてではなく、自然から「命をいただく」という姿勢を持って向かい、ありがたく供養してきた。マタギの狩りには脈々と受け継がれているのだ。
狩りによって、獲物を得るには、狩猟する人が、その自然を大切にして、自然の恵みの永続性を確保する必要があります。その自然の恵みによって、自分たちの命が支えられていることを、彼らはよく知っているからである。
このことは、人間以外の頂点捕食者、トラやタカやオオカミやラッコなどの頂点捕食者においても、その森の生態系が崩れるとき、彼らのヒナや子どもが獲物がとれずに、育てられず、頂点捕食者が一番最初に、絶滅することを彼らは経験的に知っている。
そのために常に山の神を敬い、神様に五穀豊穣を祈り願ってきた。農耕の民といえども、気象条件や自然災害は、人間の力だけではいかんともしがたく、最善を尽くしたうえで、五穀豊穣や大漁と安全を、山の神、海の神に祈り願ってきた。
農耕民族でも、遊牧民族に於いても、一頭の熊でも、一頭の羊でも、非常に貴重な蛋白源であり、ご馳走です。そのため手塩にかけて育てた羊を、お腹に小さな切れ込みを入れて、そこから手を入れて、心臓近くの大動脈を引きちぎて、屠畜します。
この方法は、羊が苦しむことなく、血の一滴も無駄にするこてなく、血は、内臓の一部と香辛料で、胃または腸に詰めて、鍋で煮て食べます。もちろん内臓も、骨のまわりの小さな肉も無駄にすることは、ありません。
羊の皮はなめされ、骨の部分以外はすべて、食べられます。すなわち羊の様々な部位の栄養分が、得られたことになります。
この事は、一頭の羊、一頭の熊、一羽の鶏についても、人類の祖先はすべての部位を食べることによって、羊一頭の全体食の養分を得たきたと考えられます。もちろん一頭を何人もで分けて食べ、ごちそうとして食べる訳ですので、量的には多くはありません。
すなわち一頭の羊、一頭の熊、一羽の鶏を長い期間で見たとき、全体食をしたことになります。一頭の羊でも全体を食べることによって、栄養のバランスをとっていたと考えられます。
第二の食べること精神的意味は、家族(ある時は集落)で、作物を育て、食材を確保し、それを調理し、家族で分けあって食べることです。鳥類や哺乳類の他の動物でも、子育ての一時期はつがいが、協力して子育てをおこないますが。
しかし、作物を育て、食材を確保し、それらを火や道具を使って調理し、家族が一緒に分けあって、”いいただきます”と言って食べますが、これは人類の重要な特徴です。これらのために人類は言葉を獲得し、家族の絆を深め、文化を発展させてきたと考えられます。
現代は、家庭で料理を工夫しながら、つくる機会が減少し、工場でつくられたり、海外から輸入されることが、多くなりましたが、家族の絆や文化は、大丈夫なのでしょうか。 (第5回)