10. 四千万歩の男(井上ひさし著 1990発行)
『十七歳になり、親戚の者の口ききで伊能家に奉公にあがった。伊能家には、経史、諸子、本草、医術、算法、詩文、和歌、物語などの各分野にわたって三千冊を超える蔵書があると噂されていたが、忠敬はこの蔵書を目あてに奉公するつもりになったのだった。
三代前の主人と4年前に亡くなった女婿の景茂がたいへんな読書家だったらしい。店を切り回していたのは、家つき娘で景茂の妻の達(みち)と番頭だったが、忠敬はこの二人のどちらかから「書物を読んでもよろしい」という許可を得ようとして、はじめて学問を忘れ、身を粉にして働いた。
学問をするためにまず学問を忘れなければならなかったとは皮肉なはなしだが、忠敬の働き振りのよさはもうひとつの大きな皮肉を生み出した。達の後見人たちが忠敬を見込んで、彼をこの家つき娘の二度目の婿にしてはと騒ぎ出したのである。
婚礼の宴が果てて母屋の寝間に引き揚げた忠敬は――いまでもはっきり憶えているのだが――物置の書物の山の中から見つけておいた関孝和の「開平方術」という算法書を枕元の行灯の灯のかざした。(これからは多少の暇もできよう。その暇を生かして算法の研究にはげもう)
うきうきとそんなことを思いながら頁をめくっていると、一足おくれて入ってきた達がいきなり忠敬の手からその算法書を叩き落した。「書見をするような婿どのはこの伊能家にはいりませぬ、どうしてもと言うのでしたら、この縁組は破談にいたします」
相手は家つき娘、しかも自分より四つ年上で結婚の経験もある。貫禄のちがいが忠敬の口を封じた。「祖父も亡くなった前の夫も学問が好きでした。小作人や店の差配よりも書物をひろげることに精を出し、おかげで下総第一の名家ともいわれたこの伊能家、すこしく傾きました。
あなたを夫に選んだのは働きぶりが群を抜いて見事だったからで、わたしがあなたを好いたからではありません。あなたの役目はこの伊能家をふたたび下総第一の名家に押し上げること。それが出来そうにないと見たら、いつでもあなたを追い出しますよ。すくなくとも四十歳の声を聞くまでは、書見はいや。ねえ、約束してくださいね」
右の台詞、あとになるにつれて声も鼻にかかりちょっと艶かしくはなったけれど、忠敬はこのとき達を怖い女だと思った。婿入り先を叩き出されたときの父の哀れな様子を知っているだけにひとしお恐ろしかった。(……あの関孝和の「開平方術」をふたたび行灯のそばへ持ち出したのはあの夜から二十年後、達が四十三歳で死んでからであった)』
伊能忠敬(1745~1821)は現在の九十九里町に神保貞恒の次男として生まれた。6歳の時、母が亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れて、実家の神保家に戻る。生家は、母の弟が継ぎ、10歳の時、父の元に引き取られる。
18歳の時、伊能家の婿養子に入り、酒の醸造、新田の開発、小作人による稲作、米取引、名主、村方後見(新田の開発、水田の水管理の調整役)などの事業をいくつもの台帳の数字によって管理し、江戸と大阪の米相場、関東、東北の米の作柄、の情報によって、忠敬が婿入りしてから、50歳で家督を譲るまでの32年間で、今(1975年)のお金で、資産を3億から70億にした。
忠敬は、利根川の洪水、浅間山の噴火、天明の飢饉のときは、佐原村のために米やお金を使った。
50歳を迎えた忠敬は、隠居後、天文学を勉強する為に江戸へ出る。忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。高橋至時32歳。忠敬は51歳。当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。
当時、経度一度の間に、直線距離にして、地表ではどのくらい歩くか、35里だとか、25里とか大問題であった。当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった。
忠敬は、陸路を北上しつつ、北極星の高度を計り、歩測し、子午線の1度の長さを28.2里を実測した。56歳~72歳までの16年間「2歩で1間」の歩幅で日本の海岸線を歩き回り実測による日本地図を完成させた。
忠敬の作った地図は、幕府に納めた1部と師匠の高橋至時に1部、自分用1部であったが、至時の後継者であり、長男の景保は、シーボルトの洋書と地図を交換した。それが問題になり、高橋景保は、獄死する。(第11回)
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