43. 注文の多い言語学 (千野栄一著 1986年発行)
『 この「注文の多い言語学」というタイトルは私の創作ではなく、一種の盗用で、宮沢賢治の「注文の多い料理店」をもじったものである。
話は二人の西洋かぶれの紳士が森へ狩に行くところから始まる。この日は不猟で、しかも2匹の猟犬も泡を吐いて死んでしまう。
そこで猟を止めえ帰ろうと思うが、急に空腹であることに気がつく。そのとき、そこに「西洋料理店 山猫軒」がある。
この料理店は一風変わっていて、いろいろなことが書かれてあり、扉にも「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこは御承知ください」と書かれている。
さらに、髪はきちんとしろとか、はきものの泥をおとせとか、鉄砲と弾丸をここにおけとか、帽子と外套と靴をとれという風にいろいろ注意がある。
やがて、金物類は身につけるな、クリームを手や足に塗れ、香水(実は酢)をふりかけろ、塩をぬりこめと要求はエスカレートして、二人はやがておかしいと気がつく。
そして、逆に食べられそうになった二人が泣いていると、死んだと思っていた犬と猟師が助けにきて、あやしげな動物にたぶらかされていた二人が助けだされるという筋である。
「料理店」と「注文する」は相互に依存されている語である。そして、この2つの語の組み合わせでは「料理店で注文がなされる」のが普通で、料理店で注文するのは客、注文されるのは料理店である。
ところがこの作品ではその関係が逆になっている。そして、その注文の並べ方が最初は常識的なありうるものから、やがて合理化の説明が苦しくなり、読者が首をかしげる内容に変わっていき、ついに破綻したとき、この作品の種明かしがされる。 』
『 もうそろそろ二十年(1960年ごろ)近くなるが、一人のお役人がプラハにやって来た。当時は、社会主義国に入国するのはそう容易ではなかったし、そもそも役人の旅行というものは、名目がなければ、勝手に日程を変更できないようになっている。
美しいプラハの町を見るために、チェコに於ける輸血の施設の視察という理由を思い立ったのである。
通訳として呼び出された私への指示は、視察は相手に失礼にならない範囲でごく簡単にしたいとのことであった。
最新の血液センターを説明にうなずきながら足早に通りすぎ、いよいよ見学が終わりというときになって、われわれを案内してくれた金髪の研究員の人がコーヒーでも一杯といって応接室へとわれわれを招待した。
「ことわるのも失礼だし、トルココーヒーを一杯いただくのも悪くないなあ」といって、この招待に応じたが、これは運命の分かれ目で、この人はプラハの見学を棒にふったのである。
コーヒーが出て、話題がとぎれたとき、「この金髪のおばちゃんの専門はなんだろう。一寸きてみて」というので、専門に研究なさっている部門はとたずねてみると、血液が凝固するのを防ぐ物質があって、それがテーマだとのことであった。
「えっ、それじゃxxxxxxx? 私もそれなの。これは驚いた。」このあと外が暗くなるまで話し合い、私がそれを通訳したが、xxxxxxxxと書いた舌を噛みそうな物質(私にはホルモンだか、薬品だか皆目見当がつかなっかった)をめぐって話しはつきなかった。
「それじゃ、温度は?」「でも、xxxxが出てくるでしょ」「xxxxxを入れる?」「反応を防ぐxxxxxは使わないの」「するとxxxxの方ね」「その条件を研究しているんだが」「あなたも、するとxxxxxはどこから?」という風に話しが続いて、通訳の私には全く分からず、しばしばお二人に、「ちゃんと通じているんですか」と私がきくはめになった。
「大丈夫、完璧だよ。それより、これをきいてくれない?」ということで話しはつきず、結局、センターを閉め出され、ワインケラーへ席を移し、金髪の女医さんの御主人が夜中に車で迎えにくるまで、二人の専門家は夢中でしゃべりあった。
通訳というのは原則として通訳している内容を理解してないとうまく訳せないものである。しかし、テーマが定まって、伝達だけをその目的として話し合えばうまく通ずるということが分かって、私にとっても貴重な体験であった。
髪の色も、年齢も、性も違う二人の人間が夢中で話し合う姿は美しいものであり、話しの内容が何も分からないにも拘らず楽しい通訳であった。 』
『 そう、もうかれこれ十年ほどになるが、大学の会議に出ていた私のところに電話が入って、その場からすぐにタクシーで羽田へ飛んで欲しいという要請があった。
羽田には到着しだい航空会社のカウンターに行けば、その時点で最初に飛ぶ飛行機の航空券が確保されていて、千歳空港には車を待たせてあるというのである。
用件をきてみると、北海道を転戦中のチェコスロバキアのバレーボールの選手の一人が変調をうったえ、入院しなければならないらしい。
しかし、社会主義国のナショナルチームには、必ずチームドクターが付いているので、その旨を伝えると、そのドクターの要請で、私の到着後すぐ地元の専門医と話し合ってから手術をするかどうかを決定したいとのことであった。
あとで分かったことだが、オリンピックの前年で、すでにもう高度のコンビネーション・テクニックを練習中なので、この手術はチームの根本的改革を意味し、オリンピックを目的に練習を重ねてきた選手にとっても、手術をするかしないかは非常に重大な意味を持っていた。それになにより選手の生命に関することである。
チームドクターと話して見ると、監督、コーチは手術を望んでないが、自分としては手術は避けられないと思う。
医者としては間違う余地のない明白な盲腸で、しかも、そろそろ一刻をあらそう時期が近づいている。
ただ、自分はスポーツ医学と内科が専門なので、外科医の意見を念のためにききたい。当人はシャワーに入れてあり、このまま病院へ行く予定とのことであった。
市の中央病院に乗り付けると、外科の医長さんは不在で、若い担当医が出てきた。そして形通りの診察が行われたが、一メートル九八センチ、九〇キロある選手を見て、「デッケーナー」といった言葉に、選手は「手術といったのか」とせきこんで私にたずねた。
この一言は余計なことはしゃべってはいけないと同時に、言葉が理解できない不安は解消していかなければならないという方針を私に与えることになった。
ものの十五分もしないうちに、町で夕食中の医長が探し出され、診察室にあらわれた。
そして、チームドクターの説明を聞いてから、「拝見しましょう」といって、選手の身体をちょっとさわってから、「すこし検査が必要なので、検査室を準備させますから、そこで休んでください」と選手に伝えた。
しかし、実はそれ以前に、おなかをちょっとさわった段階で、医長さんは選手に見えないように白衣のうしろでニギリコブシを二・三度開いて見せ、そのサインで看護婦さんは手術の準備へと散っていった。
結局、その場で手術はおこなわれた。手術の説明があってチームドクターが同意し、医長さんが執刀した。手術の間も手順の確認と同意が目で繰り返され、手術は順調に終わった。
二人の専門家の見立て通り盲腸で、それもその晩がギリギリという危ういところであり、真赤に充血した盲腸がとりだされたとき安堵のため息が手術室に広がった。
チームドクターによると手術の方法はチェコと全く同じとのことであり、医長さんの話では腹筋を鍛えてあり、しかも日本人にはないような厚い皮下脂肪があったので切り口をジグザグにしなければならなかったとのことであった。
元気な選手のことでもあり、手術後の回復も順調で、結局、転戦後のチームと一緒に帰国していったが、この手術の通訳は人の役にたったという充実感を私に残してくれた。
そうもう一つ、手術が終わったとき、疲労のため手術室の中で一人の人が気分が悪くなり、倒れかかって別室につれ出され、椅子に座らされたが、白衣をぬぎ、マスクや帽子をとってみると、現れたのは通訳であった。 』
『 言語学は外国語上達法にどのような意味を持つか」という問いには、「言語学は外国語の習得にはかくし味のような役割をしている」と答えることにする。
かくし味とは何かを厳密に定義できるほど料理に精通しているわけではないが、かくし味というのは料理を作るプロセスでさりげなく入れたものが、後になってきいてくる味のことで、直接的に味を左右するものではないが、全体の味に重要な役割をはたすものである。
世界のどの言語といえども、単語と文法のない言語はないという事実に気がつく。そしてすべての言語に於いて、単語の数と文法の規則の数を比較すると単語の数の方が多い。
今仮に、文法だけしか知らない人と単語だけしか知らない人を比べれば、前者は実世界では何の役のも立たないことに気がつくであろう。
外国語の習得とは第一に単語を覚えることにつきる。一つの言語にある単語のあり方を見ると、どの単語もその言語にとって同じ重要性を持っているのではない。
そこには極端な差があり、ある単語はその言語にとって非常な重要性をもち、テキストの中に繰り返し出てくるのに、あるものは極めて稀にしか出てこない。
わたくしたちは、母国語でさえ単語が覚えきれなくて辞書を引くわけだから、外国語で辞書を引くのは当然である。しかし、辞書を引くからといって単語を覚える必要がないというのはうそである。
例えば、英語でbe動詞とかin、at、on、to …というような前置詞とか、I,it、this …のような代名詞を毎回引く時間と、この単語を覚える時間とを比べたら、覚えた方が絶対に得である。
そこで、どこまで覚え、どこから辞書を引くかの線を定めることが必要になってくる。ここで、言語学が貴重なアドバイスをする。
すべての語彙は四つのグループのいずれかに属することが解る。すなわち、
(一) 広い分野に出てきて頻度が高い。
(二) 広い分野に出てくるが頻度は低い。
(三) 狭い分野に出てくるが頻度は高い。
(四) 狭い分野に出てきて頻度が低い。
これを見たとき、(一)の単語は覚え、(四)は辞書に頼るとして、(二)と(三)が問題である。
もし、あなたが外国語の単語を覚えるとき、狭い範囲の文献だけを読むつもりなら、(三)は(二)より優先させなければならない。しかし、ある限られたテーマにこだわらずに広く読みたい人は、(二)を(三)に優先させるほうが得策であろう。 』
『 一つの言語を正しく学ぶには文法は不可欠である。なぜなら文法のない言語はないのであるから!
ただ、文法のあり方は言語によって大きく異なり、形態論が豊かな古代ギリシャ語や、サンスクリットなどの言語では、文法の変化形を覚えなければ辞書を引くことすら不可能である。
文法の習得でも、何をどのくらいどの順序で覚えるかが問題になる。例えば、英語で名詞の複数形を作る規則を覚えるとしたら、まず、-s、-es のつく規則形を覚えるべきである。
だが、しかし、同時に、foot:feet、deer:deer、ox:oxen …というような不規則形も覚えなければならない。
何故なら、このような不規則な変化をしている語は、頻度数の高い語に決まっているからである。
もし、何万語に一度しか出てこない語が、不規則な複数形を作ったり、be 動詞のような活用をしたら、言語の話し手の記憶の大きな負担になるであろう。
英語での動詞の強変化、形容詞の比較級、人代名詞などの不規則変化は、すべて頻度数の高い語に限られている。
外国語のテキストにある重要な変化表のうち黒枠で囲まれているものをノートにはり直すとたった7頁にしかならないそうである。
言語にはその存在が絶対に必要な中心領域とそのまわりにある周辺領域とがあり、中心領域をなすのは、頻度の高い基礎語彙と文法である。
従って、まずそれらの習得が外国語の習得の第一歩だということも言語学は教えるのである。 』
『 翻訳しようとする言語にそこで述べられているレアーリア(realia:実在するもの)がないと、説明しなければならないが、実はここに翻訳の実体があり、翻訳は可能であるという見解と翻訳は不可能であるという見解が、それぞれ真実の一面を付いていることを示している。
このことを可能にしているのは言語の一つの性質で、プラハ学派の創立者で優れた言語学者であるビレーム・マテジウスは、そのことをつぎのように述べている。
「ことばが多種多様きわまりない現実をどれほど明確に、どれほど詳細に言い表すことができるかについて、これまでにもういくつかお考えになったことがおありかどうか知りませんが、よりいっそう研究を進めると、ことばの表現力の柔軟さは二つのものに依存していることが見出せます。
一つには、現実的にその全部がことばによって表現されているのではなく、表現によりよく適している簡単化の枠の中に現実が整理されてあること、もう一つには、ことばで表現するとき、相互に関連する記号である驚くべき体系、すなわち言語を使うことです。」 』(第44回)
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