8月に入っても相変わらず暑い毎日。
日は短くなって、夕方は涼しい風が吹くようになったけれど、残者はますます厳しい予報。
さて、日本太極拳友会の交流演武大会も無事終了、来週は陳式普及会の合宿だ!
せめてアタマを涼しく、柔らかく。
陳 正雷老師の「いかに効率よく太極拳を練習するか」、最終回は、太極拳の練習に大切な三要素の話。
近道はない!地道に飽きず、焦らず、続けるっきゃない!のであ~る。
~~~~~~~~~~~~・~~~~~~~~~~~~~
「いかに効率よく太極拳を練習するか」(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」より)
三要素の具備
三要素とは、師質、資質、それに一心不乱の練習である。
「師質」は、太極拳を修得するための第一の要素である。
先人は「師は伝授し教え、困惑を解く者なり」と言っている。文を習い武を練習する場合にはもちろんであるが、とりわけ太極拳の練習には、老師の働きが第一の条件であり、老師の指導を介さずして独学修得できた例は、未だに聞いたことがない。無論、娯楽や遊びとしてなら別であるが…。
太極拳を修得したければ、道徳品性が高く拳芸に秀で、理論に詳しく教授法に精通した老師が必要であり、そのような老師の下でこそ、遠回りせずに正しい道を進むことができ、半分の労力で倍の成果をあげることができる。老師の正しい指導がなく誤った道に入り込めば、太極拳の殿堂には至ることができない。
「資質」もまた、太極拳を修得するための重要な要素である。
成果を上げたい人は、聡明な資質と高い受容力、明晰な発想と敏感な反応力、一を聞いて十を知る類推力がなければならない。
太極拳の奥義は、老師の指導に頼るだけでなく、自ら体験し、研鑽努力しなければ得られるものではない。悟ることはできるが、言葉では伝えることができないというのは、別に秘密主義をとっているからではなく、確かに言葉では伝えにくいことがあるからである。
資質に恵まれ理解力があり、その他の諸条件が整えば、拳術の理を悟り、より高い境地に達することができよう。そうでなければ、有名な老師の下で時間をかけて努力しても、拳術の奥義を悟ることはできず、二流のレベルに留まるだけである。学校での勉強のように、同じように努力してもその成績が違うのは、資質が異なるからである。
「一心不乱の練習」は、太極拳を修得する上での決定的な要素である。
素晴らしい資質に恵まれ、有名な老師についても、苦しさや辛さを耐え忍ぶ精神力がなければ、成功するはずがない。拳論に言うように「拳術の理をはっきりと理解でき、道理に明るくても、まだ成功はおぼつかない。日々努力を続け、終始功夫を積み、長年練習をしてはじめて、自ずから成就する」のである。それまでは簡単に成就することはなく、また、成就に至る近道があるわけでもない。ただ一心不乱の練習しかないのである。
拳芸は練習して取得するものであり、一心不乱の懸命の練習をした場合にのみ、体得することができる。すぐれた老師の指導の下で、規範に従ってたゆまず練習を積み重ね、功夫を育み蓄積して、次第に量から質への転換が生じる。不断の練習の蓄積があってのみ、一瞬のひらめきを感じ取ることができるようになり、また、太極拳の醍醐味を味わえるのである。自分は物事が分かっているとうぬぼれて、真面目に練習に打ち込まなければ、年老いても拳術の奥義を悟ることはできず、太極拳の殿堂の周囲を徘徊するだけで終わってしまうであろう。
以上述べてきたことは固定した絶対的なものでも、不変のものでもない。個々の要素は互いに関連し、促進しあうものである。例えば、理解が明確になれば、五心は早期に確立される。資質に恵まれていない人でも、懸命に練習すれば、勤勉さが不器用さを補い、拳術の真髄を極めることができよう。
(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」より引用)
日は短くなって、夕方は涼しい風が吹くようになったけれど、残者はますます厳しい予報。
さて、日本太極拳友会の交流演武大会も無事終了、来週は陳式普及会の合宿だ!
せめてアタマを涼しく、柔らかく。
陳 正雷老師の「いかに効率よく太極拳を練習するか」、最終回は、太極拳の練習に大切な三要素の話。
近道はない!地道に飽きず、焦らず、続けるっきゃない!のであ~る。
~~~~~~~~~~~~・~~~~~~~~~~~~~
「いかに効率よく太極拳を練習するか」(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」より)
三要素の具備
三要素とは、師質、資質、それに一心不乱の練習である。
「師質」は、太極拳を修得するための第一の要素である。
先人は「師は伝授し教え、困惑を解く者なり」と言っている。文を習い武を練習する場合にはもちろんであるが、とりわけ太極拳の練習には、老師の働きが第一の条件であり、老師の指導を介さずして独学修得できた例は、未だに聞いたことがない。無論、娯楽や遊びとしてなら別であるが…。
太極拳を修得したければ、道徳品性が高く拳芸に秀で、理論に詳しく教授法に精通した老師が必要であり、そのような老師の下でこそ、遠回りせずに正しい道を進むことができ、半分の労力で倍の成果をあげることができる。老師の正しい指導がなく誤った道に入り込めば、太極拳の殿堂には至ることができない。
「資質」もまた、太極拳を修得するための重要な要素である。
成果を上げたい人は、聡明な資質と高い受容力、明晰な発想と敏感な反応力、一を聞いて十を知る類推力がなければならない。
太極拳の奥義は、老師の指導に頼るだけでなく、自ら体験し、研鑽努力しなければ得られるものではない。悟ることはできるが、言葉では伝えることができないというのは、別に秘密主義をとっているからではなく、確かに言葉では伝えにくいことがあるからである。
資質に恵まれ理解力があり、その他の諸条件が整えば、拳術の理を悟り、より高い境地に達することができよう。そうでなければ、有名な老師の下で時間をかけて努力しても、拳術の奥義を悟ることはできず、二流のレベルに留まるだけである。学校での勉強のように、同じように努力してもその成績が違うのは、資質が異なるからである。
「一心不乱の練習」は、太極拳を修得する上での決定的な要素である。
素晴らしい資質に恵まれ、有名な老師についても、苦しさや辛さを耐え忍ぶ精神力がなければ、成功するはずがない。拳論に言うように「拳術の理をはっきりと理解でき、道理に明るくても、まだ成功はおぼつかない。日々努力を続け、終始功夫を積み、長年練習をしてはじめて、自ずから成就する」のである。それまでは簡単に成就することはなく、また、成就に至る近道があるわけでもない。ただ一心不乱の練習しかないのである。
拳芸は練習して取得するものであり、一心不乱の懸命の練習をした場合にのみ、体得することができる。すぐれた老師の指導の下で、規範に従ってたゆまず練習を積み重ね、功夫を育み蓄積して、次第に量から質への転換が生じる。不断の練習の蓄積があってのみ、一瞬のひらめきを感じ取ることができるようになり、また、太極拳の醍醐味を味わえるのである。自分は物事が分かっているとうぬぼれて、真面目に練習に打ち込まなければ、年老いても拳術の奥義を悟ることはできず、太極拳の殿堂の周囲を徘徊するだけで終わってしまうであろう。
以上述べてきたことは固定した絶対的なものでも、不変のものでもない。個々の要素は互いに関連し、促進しあうものである。例えば、理解が明確になれば、五心は早期に確立される。資質に恵まれていない人でも、懸命に練習すれば、勤勉さが不器用さを補い、拳術の真髄を極めることができよう。
(日本陳式太極拳学会会報「陳家溝」より引用)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます