犬神スケキヨ~さざれ石

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古事記を摘んで日本を知る!その11

2015-06-12 21:14:06 | 古事記
お待たせ致しました!

古事記シリーズです。

古事記から色々な日本を知る事が出来ますね!

なんとな~く習慣になってる事が実は古事記由来であるとかありますね。

現在の日本の統治だって古事記や日本書紀に則り行われていますからね。

面白いんですよ!日本という国は!

神々のお約束ごと

前回は「箸流し」を紹介しましたね。
今回はその箸流しからの話しです。

さてさて、お忘れかもしれませんが、川上から箸が流れて来た事で須佐之男命は民家があるなと思いました。

そして川上へ行くとやはり民家があった。

ところがそこに老夫婦が娘を挟んで泣いています。足名椎(あしなづち)と手名椎(てなづち)と言う夫婦です。

大山津見神(おおやまつみのかみ)の子らしいのです。

大山津見神と言うのは山の神で出雲地方の神様のようです。

この夫婦の娘は櫛名田比売(くしなだひめ)と言う名前です。
どうした事かと話しを聞いてみると「私には八人の娘がいました。でも毎年、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)と言う化物が来て一人ずつ食べてしまいます。残るのは一人になってしまいました。そろそろ怪物が来る時期で、いよいよ今生の別れになると泣いていました。」と話しました。

「その遠呂智てなんじゃ?」と聞いたら、それはそれはとんでもない怪物だ!と言う話し。

なんと目は真っ赤、頭は八つ、尾は八つ!
しかも苔とか檜とか杉が生えている!

苔が生えてるのは亀でも甲羅に生えますから、しかし杉や檜が生えてるて。
どんだけデカいねん!
体のサイズは八つの谷、八つの峰に渡る!
簡単に言うと山八つ!
とんでもない怪物です。
そして毎年、毎年、娘をさらっていくんです。

七年で娘七人さらわれてます。遂に八年目にして最後の一人になりました。
いやいや!そこまでなる前に引っ越せよ!
とか意地悪を言ってはいけません。

しかし八岐大蛇は若い娘さんしかさらっていきません。
母親である手名椎はさらわれてませんからね。
しかもバアさんは娘を挟んで泣いてますね。
自分はさらわれるとは微塵も考えてません。
食われるのは娘だと半ば安心してる様子ですかね…

それを聞いて須佐之男命も「なんとかしなければ…」と思います。
「どげんかせんといかん」と薩摩弁で言ったかは知りません。

しかし、「娘をワシにくれ!」と言い出します。「へ?」です。
普通は話しが逆です。
スーパーマリオですら大ボスを倒してピーチ姫と結ばれるんです。
姫を貰ってから戦うというのは、まぁないでしょうよ、しかも初対面。

頑張ったらご褒美があるからモチベーションも上がる訳ですから、だからとんでもない相手とも戦えるてなもんです。
しかし日本の話しとはこうなるのです。
先ず結婚。それから大事業に取り掛かる。
これが神様のお約束ごとです。
これは日本人独特の発想なんだそうです。
ん~前払い制と言うヤツですかね。

姉はセレブリティ

いきなり娘をくれ!と言った須佐之男命。
しかし爺さんは「え~と、あの~、あなた様はどちら様ですかね?」と聞きました。
初対面ですからね、それが娘くれ!ですからね、そりゃそうです。

そこで須佐之男命は「こりゃすまん、私は天照大御神の弟である」と言います。
これはちょっと不思議ですね?
「伊邪那岐命の長男である」でもいいんです。
実際、長男か次男かわかりませんよ。
月読命が性別わかりませんからね。
しかし「伊邪那岐命の子である」で良いはずですが、「天照大御神の弟である」と名乗りました。

これは何故でしょう?

これはやはり統治者であるという事です。
父が伊邪那岐命であっても高天原の統治者は天照大御神です。天上界の統治者であり、地上界の統治者でもあります。
つまりそこが基準なんだ!と言う話しなんですね。お父さんがどうこうって言う話しより、統治者の弟だと名乗る方が良い。
「あ!統治者の弟さんですか!」とわかりやすい訳です。

これ、現代に当てはめるならば天照大御神は今上陛下となります。
我々も父が母がと話して日本人と解らせるよりも「天皇陛下の臣民である!」と、それが日本人なんだという話しです。
日本人の基準が天皇陛下であると。
日本の統治者である天皇陛下の臣民、大御宝であると説明する方が外国の方には説明がしやすいというものです。

天照大御神は産まれの順序で言えば後の方なんです。しかも女神です。
尊い存在、太陽の神とか色々言われますが問題はそうではなく高天原の統治者という事が第一なんです。
ですから、「その弟だ!」と名乗るのは理にかなっているのです。

それを聞いた足名椎は「そうですか!どうりで立派な方ど思いました!そうでしたか、どうぞどうぞ」と娘を差し出しました。
それで櫛名田比売と須佐之男命は結婚しますが、普通に考えたらそのままどっか行けば娘さんは八岐大蛇に食われませんよ。
しかし次は娘がいないので母親であるバアさんを食うかもしれません。
いや、口に合わずペッと吐くかもわかりませんが、とにかく母親が危ない。
それで結婚してから戦うという面白い話しなんですね。

任せろ!と言った割りに

いよいよ八岐大蛇と対決です。
須佐之男命は先ず櫛名田比売を櫛に変えてしまいます。ダジャレ?
その櫛を自分の髪に挿しました。

コレ、須佐之男命は相当デカイ。
多分ウルトラマンぐらいのサイズです。なんせ櫛に変えた人間を髪に挿してしまう訳ですから。まぁ敵もかなりのサイズ、山八つです。
そんな化物と対峙するのですから須佐之男命もウルトラマンぐらいのサイズなんです。

そして姫様を櫛に変え挿したのはファッションからではありませんよ。
櫛名田比売は山の神の孫です。その孫を櫛にして髪に挿せば山の神の霊力に守られるのです。
だから最初に結婚をしたんです。

これは天上界から降りてきた、しかし地上界には何の縁もないのです。
そして、山の神の孫と結婚し地上界と縁を持つのです。
その孫を櫛に変え髪に挿して山の神の霊力を受ける。その縁と霊力によって戦うのだと、そういう算段なんです。
全てに理由があるのです。

次に何をしたかと言うと、須佐之男命は何もしない。全部老夫婦に任せるのです。
何をさせたかと言うと八度繰り返し醸造した酒を作らせました。
垣根をめぐらせ、そこに穴を開け穴毎に台を置いて、それぞれに酒船を置き強い酒を入れる。
「そして待ちなさい」と老夫婦に言う。
自分でやらんのか!と突っ込みどころ満載な感じです。

遂に来ました!

そうやって待っていると聞いた通りの姿をした八岐大蛇が登場です。

目は真っ赤、杉や檜が生えて、谷八つ峰八つの巨体。腹には血まで滲んでます。
とんでもなくキモい奴です。

どうやら酒好きみたいです。須佐之男命の目論見通りガブガブと酒を飲んでます。
八つの頭がそれぞれ酒船に頭突っ込んで飲んだのでしょう。それぞれに酒を用意してありますからね。
八つの頭で飲みますから八倍です。
自分は一合のつもりでも八つの頭で飲めば八合です。そんな飲み方ですから急に酒が回ります。しまいにグッスリと寝てしまいます。
そこで須佐之男命は十握剣でバサッと一気に斬りかかる。
て、イメージ違いますね?なんか退治というと死闘を繰り広げ…みたいな感じしてましたでしょ?違うんですね。
実は飲み過ぎてひっくりかえって寝てるとこをバサッと、なんです。
用意は年寄りにさせといて「お!寝やがったか」と言ってバサ~って感じです。
別に須佐之男命じゃなくともやれたんじゃ…

なんか卑怯な感じですが、古事記にはこの様な戦法が多々出てきます。
昔はこれを「卑怯」とは言わず「知恵」としていました。
武士道なんてのは古事記からすれば最近の話しです。
必ず勝つ!勝ちに拘る!これが古代の兵法なんですね。

これが太安万侶
八岐大蛇と言われてもよくわかりません。
これが古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)の天才的技術ですね。
「頭が八つの蛇」だとすぐイメージしてしまいます。しかし、八岐大蛇と言われ、一人ずつ娘を食うと、八岐大蛇は正確には八俣遠呂智と書きます。

八俣は八の頭、遠呂智は万葉仮名です。
ですから八俣遠呂智ではなんのこっちゃ解りません。
読み手は「なんだ!なんだ!」と引き込まれます。更に目は真っ赤とか杉檜ボーボーとかもう「ええーっ!」となります。
もういろんな想像をする訳です。
そして最後に「寝てる蛇に斬りかかる」とあって「あ!蛇なんや」と解るのです。
天才の為せる技ですね。

三種の神器

それであっちこっち刺したり斬ったりしたと思います。そして最後に尻尾をエイッ!と切るとカチン!と何かに当たりました。
十握剣が欠けたと。十握剣(とつかのつるぎ)と言えば其れなりの名刀です。須佐之男命が持っているのですからね、それが欠けた。

良く見ると、それはそれは神々しい剣が出てきた!「これは非常に神々しい!」神聖な物だ!ということで「これはお姉様にあげよう」てことになります。

この剣が草薙剣です。
これが天皇が天皇である証し。三種の神器の一つです。
これで三種の神器全てが揃いました。
鏡、勾玉、剣が揃いました。

これは八岐大蛇の中に剣があったと言うよりも八岐大蛇そのものが草薙剣だったのでしょう。
剣自体が何らかの理由で肉体を持ったと考えると良いのではないでしょうか。

八岐大蛇は娘七人を食って、更に八人目を食い殺そうとした邪悪な存在みたいですね。
悪の権化みたいです。
しかし、その体から神々しい剣が出てきた。
邪悪な存在の様で、しかしそうじゃない。
神々しい剣だった。これが三種の神器の一つであった。

これをどう読めば良いでしょうか?

それはこれが自然の摂理だと説いているのではないでしょうか。

例えば「海」です。海は時に大災害をもたらします。先の大震災に於いても想像を絶する津波で東北の人々を殺しました。
それは宛ら地獄絵の様になりました。

しかし「海」はそんな悪魔の様な振る舞いを時に見せます、しかし邪悪な存在でしょうか?
違いますね。
普段は我々は海の恵みを受けています。
特に周りを海に囲まれた日本はどれほど海の恩恵を受けているでしょう。
塩、魚、貝や昆布など、しかし普段は恵みを与えてくれても時に多大な災害をもたらし多くの命を奪います。

しかし海は善でも悪でもありません。
それは大自然なのです。

八岐大蛇とは大自然そのものを現しているのかもしれません。

普段は邪悪な振る舞いを見せていたが実は神々しい存在でもある。

大自然を八岐大蛇で表現した、それは太安万侶の天才的筆技でもあり自然と共に生きて、そして死ぬ。日本人の自然哲学を現しているのかもしれません。
それが古事記であり、神話であり、そして日本人の哲学なのかもしれません。