毎日暑いですね~。
本日はまたまた古事記ではありません。
しかし古事記シリーズは続きます。
古事記とは日本の哲学ですね?
その、哲学に繋がる話しをしてみようと思います。
古事記を離れたとて、その哲学は根っこで繋がるのです。
何故ならば日本人だからです。
そんな哲学を持った日本人が生きて、そして死んだ。
そんな話しです。
最近はあちらこちらで語られる様になって来たので知っている方もいらっしゃると思います。
しかし「最近」と言うWordが出る話しです。
戦神
我々と同じ日本人でかつて戦神(いくさがみ)と呼ばれた男がいました。
男の名前は根本博。
大日本帝国陸軍中将です。
明治24年(1891)生まれ、二本松藩(福島県岩瀬郡仁井田村)現須賀川市出身です。
仙台陸軍地方幼年学校を出て、陸軍中央幼年学校に上がり、陸軍士官学校を23期で卒業されました。
陸軍大学34期生として陸軍に任官し、以後陸軍畑一本の道を歩んだ人です。
本来の目的
終戦時、根本博中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルに居ました。
八月十五日、中将のもとに「武装解除」の命令が届きました。
八月九日以降、ソ連軍があちこちで略奪、暴行、強姦、殺戮を繰り広げていました。
この情報は勿論、根本中将のもとにも届いていました。
その中で八月十五日、ポツダム宣言受諾と共に武装解除命令が下っていました。
しかし、「我々が武装解除したからとて…日本人居留民が保護されるのか…」その確証もなく悩んでいました。
考えた挙句に民間人の命を守るのが軍人の仕事だ!その守るべき民間人の保護に確たる見通しがない!としこの武装解除命令を無視。
独断で「理由の如何に関わらず、陣地に浸入するソ連兵は断乎コレを撃滅すべし!これに対する責任は一切司令官が負う!」と、命令を発しました。
八月十九日遂にソ連軍と支那八路軍の混成軍が蒙古へなだれ込んで来ました。
ソ連製T型戦車を先頭に、周囲を兵で固め空爆を駆使し数万の軍勢で一気に日本軍をなぎ倒そうとしたのです。
激しい戦いは三日三晩。
そもそも根本中将率いる駐蒙軍はソ連軍が攻めて来た時に2日間の猶予を求めました。
4万人近い日本人居留民がいたからです。
けれどソ連軍は聞き入れませんでした。
そして「軍人の本分は民間人の保護にある!民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じず!」の決断をしたのです。
この決意を知った日本軍将兵の士気は一気に上がりました。
すでに祖国の敗戦を知りながら、日本人を守る為に戦う!この一点に士気は上がりました。
20日午後及び夜間にソ連軍が攻撃してきましたが、これを反撃し撃退。
21日各方向から一部陣地内に混成軍が突入しましたが白兵戦を交え、奪還攻撃をかけ、迂回して陣地後方要点を占領し混成軍を撤退させました。
そしてこの日の夕方には張家口に集まった日本人全員の引き揚げを完了させています。
この戦いで戦死及び行方不明70名。
しかし、顕彰される事はありませんでした。
しかし間違いなく邦人4万人の命を救いました。
この戦いに先立ち、根本中将は避難民の為に列車を手配し、各駅にあらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運ばせていました。
引き揚げる日本人が衣食に困らないようにしていたのです。
その手配のお陰でモンゴルから脱出した邦人には他の地域で見られた様な悲壮感は少なかったのです。
また、張家口から天津まで列車で7時間位の距離です。しかし、3日かけて天津に到着。
その際も要所要所に軍人を配置し、この列車の護衛に当たらせました。
同時期の他の地域では、在留邦人が女子供ばかりの所を襲撃され皆殺しにされ、混成軍兵士から暴行凌辱を受け、或いは地元民に襲撃されて所持品は着衣まで、文字通り身包みを剥がれたりしていました。
21日ソ連軍を蹴散らした根本中将率いる駐蒙軍は夜陰に紛れて撤収しています。
列車は民間人移送の為に使用されていた為、徒歩で帰還しました。
どんな時でも軍人たる者は、助けるべきを助け、命懸けの戦いをする。
そして自分達は最後に帰投する。
これこそ武人!古来から変わらぬ武人たる振る舞いです。
モンゴルでの戦いに勝った根本中将は武装を解かずそのまま北京に駐屯しています。
中将はそのまま北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官となりました。
それは根本中将に今度は北支那に残る軍民合わせて35万人の命が置かれたのです。
当時の支那は、まだ蒋介石の国民党が幅を利かせていました。
しかし、大勝利者を自負する蒋介石も根本中将率いる北支方面軍には手出し出来ませんでした。
根本中将以下北支方面軍が武装解除しないからです。
国民党軍の小競り合い、ソ連軍の支援を得た八路軍との銃撃は無数にあったけれども根本中将率いる北支方面軍はどの戦いも敵を完膚なきまでに叩きのめしています。
既に北支方面軍は装備も弾薬も不十分であるにも関わらず手出し出来ない。
次第に根本中将は国民党軍や八路軍にそれは恐ろしい戦神と呼ばれる様になりました。
支那人の伝統的思考なのでしょう、戦神には勝てないと思っていました。
遂に蒋介石は戦神と交渉することにしました。
昭和20年12月18日。
根本中将とて武装の目的は邦人保護にあります。断る理由はありません。
むしろ国民党の協力を得る方が得策です。
かくして蒋介石は次の要件を確約。
一、北支方面軍とは戦わない。
二、日本人居留民の安全と無事な帰国復員事業に協力する。
この時根本中将は「東亜の平和の為、そして閣下の為に私でお役に立つ事があればいつでも馳せ参じます」と蒋介石に謝辞を込め発言しています。
結果、在留邦人帰国復員事業は約1年で全員無事完了しました。
根本中将は昭和21年7月、最後の船で帰国しました。武人たる者は最後に帰るのです。
釣り竿片手に
帰国して三年が経ち昭和24年。
支那では国民党軍と共産軍の内戦が激化。
戦いは共産軍の勝利に終わろうとしていました。
人民解放軍と称していた共産軍はあちこちで虐殺を繰り広げていました。
蒋介石は撃滅され台湾に逃れていました。
米国務省は「既に国民党政府は大衆の支持を失っている」として国民党への軍事支援打ち切りを公式に発表しました。
蒋介石に残された場所は最早台湾。
ここを落とされれば台湾は現在のチベットやウイグルとなってしまいます。
とにかく共産軍はそこらじゅうで虐殺の限りを尽くしていました。
チベットに攻め込んだ共産軍は150万人を虐殺しています。
そんな連中が共産軍です。
この時、東京多摩の根本中将の自宅に一人の台湾訛りの青年が尋ねて来ました。
彼は李と名乗りました。
蒋介石率いる国民党の危機を伝えました。
台湾人は元同胞、元日本人です。
このまま蒋介石率いる国民党軍が負ければ元日本人が虐殺されます。
今こそ日本人居留民復員事業に力を貸してくれた蒋介石に報いる時だ!とこの危機を脱する為に力を貸す事を決意しました。
台湾行きを決意した根本中将は先ず元台湾総督明石二郎の息子、明石元長氏に会いました。
台湾に国民党が来て以来、台湾人「元同胞」が何かと差別され諍いが絶えない事を承知していました。
しかし、蒋介石が負ければ毛沢東率いる共産軍がなだれ込み共産政権に台湾は飲み込まれ、台湾人元同胞はもっと悲惨な目に合う。
明石元長氏は何とか軍事面で蒋介石を支援せねばと考えていました。
その折りに「戦神」からの面会。
これは台湾に送り込むしかないと考えました。
ですが終戦直後です。明石氏も無一文。
渡航費用がありません。明石氏は当時の手帳に「金、一銭もなし」と残しています。
どれだけ金策に苦労したでしょう。
そして、ようやく小さな船を手配出来ました。
船は釣り船です。昭和24年6月26日、延岡の港から台湾に向け出港しました。
それを見届けた明石元長氏は過労により4日後に還らぬ人となりました。42歳の若さでした。
根本中将を乗せた釣り船はGHQに見つからぬ様にと台湾まで最短を取りました。
しかし、途中大シケに遭い、出港4日目に岩礁に乗り上げ船に穴を開け板を貼って応急処置。
染み出す海水をバケツで汲んでは捨てを繰り返し台湾に14日かけて到着しました。
到着した時には釣り船はボロボロ、根本中将以下乗組員は痩せこけて髭は伸び放題。
まるで浮浪者の様でした。
一行は全員その場で密航者として逮捕されてしまいました。
根本中将は牢獄で「国民党軍を助けに来た日本人だ!」と何度も主張しましたが、誰も信じません。
まるで浮浪者の様ですから、当然と言えば当然です。
しかし二週間もするとおかしな日本人がいると噂になりました。
この噂を聞きつけたのが国民党軍幹部の一人。
この国民党軍幹部は根本中将が北支方面軍司令官だった頃に交流があった人物でした。
この幹部は「あの人ならば、あり得る」と直感しました。
国民党軍幹部が来ると知らされた看守達は慌てて一行を風呂に入れ食事をさせました。
この看守達の態度に根本中将は「いよいよ処刑か…」と覚悟を決めたそうです。
そこへ幹部が現れ「根本先生!」と駆け寄り手を握りました。
あの戦神が台湾に来た!これはどれほど心強い事か。
8月1日台北に移動した根本中将は国民党軍司令官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けました。
遂に戦神が
湯恩伯将軍は実は日本の陸軍士官学校出身の親日派で、日本語も流暢でした。
蒋介石の耳にも根本中将の話しがはいりました。直ぐに根本中将に会見を求めました。
蒋介石は根本中将に「老友人」と固く手を握りました。老友人とは古くからの友人、信頼出来る友人という意味です。
既に国民党軍ら福建省の廈門界隈だけが国民党が守る支那大陸の足掛かりでした。
最早これを失えば一気に共産軍に台湾へ攻め込まれ蒋介石の命は危うい。
その廈門視察に偽名を使い到着した根本中将は「ここは守れない」と判断しました。
更に廈門は20万人が住む商都です。
当然、民間人に犠牲が出る。戦闘になれば軍民の食糧確保など持久戦など無理です。
しかしすぐ対岸の「金門島」は廈門の外側にあり、海峡が狭く海流が早い。
上陸には時間が掛かります。
島民は4万人、島民は漁業とサツマイモ栽培で生計を立てており食糧自給が出来る。
大陸との通行を遮断されてもここを拠点にすれば長期戦が出来ます。
この考えを湯恩伯将軍に話しましたが、湯恩伯は押し黙る。
廈門を放棄すれば共産軍はそれを宣伝します、そうなれば湯恩伯将軍は敗軍の将となり延いては蒋介石の信頼も失うかもしれない。
しかし根本中将は「台湾防衛、国民党政府を守ることが重要です。自分の名誉より台湾を守る道筋を付ける事が軍人の務めではありませんか?」と湯恩伯将軍に迫ります。
この根本中将の言葉に湯恩伯将軍は決意。
廈門を棄て金門島死守に転じます。
根本中将は作戦を立てました。
共産軍は海軍がありません。海を渡るには近辺からジャンク船と呼ばれる小型の木造船を調達しなければなりません。
この木造船ならば海で迎え討つことも出来ますが、それでは損害が少ない。
そこで敵の大兵力を一旦上陸させ、その上で一気に殲滅、国民党軍の圧倒的強さを見せる。
先の大戦で帝国陸軍が得意とした塹壕戦を採用しました。海岸や岩陰に穴を掘り、敵を誘い込んで殲滅するという、硫黄島や沖縄戦で米軍に大打撃を与えた戦法です。
根本中将は作戦遂行、更に成功する為に細かに指示を出しました。
10月1日、中華人民共和国の成立宣言が発せられると毛沢東は勢いに乗り金門島に立て籠る国民党軍を「こんな小島、直ぐに取れる。大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけだ」と豪語しました。
10月24日夜、遂に金門島への上陸作戦を開始しました。
金門島の海岸には2万の共産軍兵士であふれかえりました。
しかしアッサリと上陸。島からは一発の銃撃も砲撃もありません。
共産軍は悠々と上陸し露営の構築に取り掛かり始めたその時です。
突然共産軍が乗船して来た船から火の手が上がりました。
辺りが明るくなりかけた頃、突然島の中から砲撃音が鳴り響きます!
すると今まで何もないと思っていたところから国民党軍の戦車21両が現れ37mm砲を撃ちまくりながら共産軍2万に襲い掛かりました。
逃げようにも船はありません。
共産軍は戦車が出てきた方向とは逆に逃げ出しました。
ずっと敗北を喫していた国民党軍は、殆ど始めてとも言える快勝に兵士達は血気にはやりました。一気に攻め込もうとしました。
しかし根本中将は待ったを、かけます。
「このままでは一般人に犠牲が出る、一般人に犠牲が出れば今後、国民党軍が金門島を拠点に抵抗するのが難しくなる」と諭します。
北方の戦車隊を後退させ南側から猛攻をかけ、敵に逃げ道を与え北方の海岸に後退させて、海からと陸からの挟み撃ちで包囲殲滅する作戦を湯恩伯将軍に進言。
湯恩伯将軍は根本中将のあまりの見事な戦術にこれをそのまま採用しました。
10月26日午後3時、根本中将の作戦に基づき南側から猛攻、案の定敵は北方へ後退しました。
そこにはあらかじめ砲艇が待ち構えています。
海からは砲艇、陸からは戦車。
共産軍に逃げ場はなく、阿鼻叫喚の地獄絵さながらの状況となりました。
共産軍の生存者は武器を棄て全員投降しました。
この戦闘で共産軍は死者1万4千人、捕虜6千人。
国民党軍は怪我人を含め3千人余り。
戦いは国民党軍の一方的勝利です。
この戦闘はアッと言う間に噂になり国民党軍に戦神と呼ばれる日本人が顧問についたからだ!とも噂になりました。
日本陸軍の強さは世界の常識です。
その陸軍の「戦神」が後ろに、共産軍からみれば死神を、いやそれ以上の恐ろしい者を相手にするのです。
共産軍の進撃は止まりました。
そして六十余年、今も金門島は台湾です。
眼と鼻の先に支那大陸があるのにです。
湯恩伯将軍、根本中将を出迎えた蒋介石は「ありがとう、ありがとう」と繰り返しましたが、根本中将は「支那撤退の際に蒋介石総統には大変世話になりました、その恩返しです」と答えました。
そして根本中将はこの功績に対する報償を一切受け取らず、また、日本で周囲の人間に迷惑がかかると、この戦いの一切の公式記録から自分を抹消してほしいと頼み台湾を後にします。
羽田のタラップを降りる時、根本中将の手には釣り竿が握られていました。
これは台湾に出掛ける時に家族に対して「釣りに行ってくる」と言って出掛けたからです。
そして出掛けた時のそのままに帰ってきた。
釣りに行くと出掛けて3年。
随分と長い釣行ですね。
しかし、これが根本中将なのです。
もう自分は退役した軍人です、だからこそ必ず家族のもとに帰る。
その為に釣り竿を手放さず残していた。
どんなに激しい戦いでも、どんな困難が有ろうと退役軍人は夫として父として家族のもとに必ず帰る。
根本中将が行方不明だった3年間、根本夫人もご苦労された筈です。
しかし、帰還した根本中将を責めることなく温かく迎え、一切愚痴など言いませんでした。
3年間夫が一体どこで何をして来たのかも解りません。
けれど、そういう夫は何か人の役に立つ事をしてきたんだろう…と、その一点だけは信じ切れる。だからこそ問わず、聞く必要もない。
時が来れば、知るべき時に知る。
その時まで夫を信じるのみ。
これが日本の武人の妻なのでしょうか。
その信頼がなければ根本中将も生きては帰れず、また3年も黙って夫を待てはしません。
あの戦後の混乱に何万人もの命を救い、台湾一千万の命を救い。
しかし一切の功績を誇る事も、報償を受け取る事もしませんでした。
其ればかりか何も語らず、一介の国民として戦後を生き昭和41年、遂に何も語ることなく永眠されました。
そして、冒頭に申した「最近」と言う意味は、台湾での功績です。
公式記録は一切なく、本人も話しをしていない為に誰も知らなかった。
しかし2008年遂にその事実が明らかになりました。
ご本人は結局、一切を語ることなく亡くなり何十年と経過して明らかになりました。
我々日本人の先達です。
我が国の本当の鍛え上げられた武人。
その精神を我々は後世に語り継がなければなりません。
本来の目的、本来の日本人の哲学である他者を生かす生き方が此処にあります。
我々後世はこの精神を引き継がなければなりません。
自分の為にだけ生きたとてそれは虚しさしか生みません。
誰かの役に立つ、誰かを喜ばせる、自分以外の他者を思う。
それが日本人であり、古事記にもある哲学であるからです。
本日はまたまた古事記ではありません。
しかし古事記シリーズは続きます。
古事記とは日本の哲学ですね?
その、哲学に繋がる話しをしてみようと思います。
古事記を離れたとて、その哲学は根っこで繋がるのです。
何故ならば日本人だからです。
そんな哲学を持った日本人が生きて、そして死んだ。
そんな話しです。
最近はあちらこちらで語られる様になって来たので知っている方もいらっしゃると思います。
しかし「最近」と言うWordが出る話しです。
戦神
我々と同じ日本人でかつて戦神(いくさがみ)と呼ばれた男がいました。
男の名前は根本博。
大日本帝国陸軍中将です。
明治24年(1891)生まれ、二本松藩(福島県岩瀬郡仁井田村)現須賀川市出身です。
仙台陸軍地方幼年学校を出て、陸軍中央幼年学校に上がり、陸軍士官学校を23期で卒業されました。
陸軍大学34期生として陸軍に任官し、以後陸軍畑一本の道を歩んだ人です。
本来の目的
終戦時、根本博中将は駐蒙軍司令官としてモンゴルに居ました。
八月十五日、中将のもとに「武装解除」の命令が届きました。
八月九日以降、ソ連軍があちこちで略奪、暴行、強姦、殺戮を繰り広げていました。
この情報は勿論、根本中将のもとにも届いていました。
その中で八月十五日、ポツダム宣言受諾と共に武装解除命令が下っていました。
しかし、「我々が武装解除したからとて…日本人居留民が保護されるのか…」その確証もなく悩んでいました。
考えた挙句に民間人の命を守るのが軍人の仕事だ!その守るべき民間人の保護に確たる見通しがない!としこの武装解除命令を無視。
独断で「理由の如何に関わらず、陣地に浸入するソ連兵は断乎コレを撃滅すべし!これに対する責任は一切司令官が負う!」と、命令を発しました。
八月十九日遂にソ連軍と支那八路軍の混成軍が蒙古へなだれ込んで来ました。
ソ連製T型戦車を先頭に、周囲を兵で固め空爆を駆使し数万の軍勢で一気に日本軍をなぎ倒そうとしたのです。
激しい戦いは三日三晩。
そもそも根本中将率いる駐蒙軍はソ連軍が攻めて来た時に2日間の猶予を求めました。
4万人近い日本人居留民がいたからです。
けれどソ連軍は聞き入れませんでした。
そして「軍人の本分は民間人の保護にある!民間人保護の確たる見通しがない状態で武装解除には応じず!」の決断をしたのです。
この決意を知った日本軍将兵の士気は一気に上がりました。
すでに祖国の敗戦を知りながら、日本人を守る為に戦う!この一点に士気は上がりました。
20日午後及び夜間にソ連軍が攻撃してきましたが、これを反撃し撃退。
21日各方向から一部陣地内に混成軍が突入しましたが白兵戦を交え、奪還攻撃をかけ、迂回して陣地後方要点を占領し混成軍を撤退させました。
そしてこの日の夕方には張家口に集まった日本人全員の引き揚げを完了させています。
この戦いで戦死及び行方不明70名。
しかし、顕彰される事はありませんでした。
しかし間違いなく邦人4万人の命を救いました。
この戦いに先立ち、根本中将は避難民の為に列車を手配し、各駅にあらかじめ軍の倉庫から軍用食や衣類をトラックで運ばせていました。
引き揚げる日本人が衣食に困らないようにしていたのです。
その手配のお陰でモンゴルから脱出した邦人には他の地域で見られた様な悲壮感は少なかったのです。
また、張家口から天津まで列車で7時間位の距離です。しかし、3日かけて天津に到着。
その際も要所要所に軍人を配置し、この列車の護衛に当たらせました。
同時期の他の地域では、在留邦人が女子供ばかりの所を襲撃され皆殺しにされ、混成軍兵士から暴行凌辱を受け、或いは地元民に襲撃されて所持品は着衣まで、文字通り身包みを剥がれたりしていました。
21日ソ連軍を蹴散らした根本中将率いる駐蒙軍は夜陰に紛れて撤収しています。
列車は民間人移送の為に使用されていた為、徒歩で帰還しました。
どんな時でも軍人たる者は、助けるべきを助け、命懸けの戦いをする。
そして自分達は最後に帰投する。
これこそ武人!古来から変わらぬ武人たる振る舞いです。
モンゴルでの戦いに勝った根本中将は武装を解かずそのまま北京に駐屯しています。
中将はそのまま北支方面軍司令官兼駐蒙軍司令官となりました。
それは根本中将に今度は北支那に残る軍民合わせて35万人の命が置かれたのです。
当時の支那は、まだ蒋介石の国民党が幅を利かせていました。
しかし、大勝利者を自負する蒋介石も根本中将率いる北支方面軍には手出し出来ませんでした。
根本中将以下北支方面軍が武装解除しないからです。
国民党軍の小競り合い、ソ連軍の支援を得た八路軍との銃撃は無数にあったけれども根本中将率いる北支方面軍はどの戦いも敵を完膚なきまでに叩きのめしています。
既に北支方面軍は装備も弾薬も不十分であるにも関わらず手出し出来ない。
次第に根本中将は国民党軍や八路軍にそれは恐ろしい戦神と呼ばれる様になりました。
支那人の伝統的思考なのでしょう、戦神には勝てないと思っていました。
遂に蒋介石は戦神と交渉することにしました。
昭和20年12月18日。
根本中将とて武装の目的は邦人保護にあります。断る理由はありません。
むしろ国民党の協力を得る方が得策です。
かくして蒋介石は次の要件を確約。
一、北支方面軍とは戦わない。
二、日本人居留民の安全と無事な帰国復員事業に協力する。
この時根本中将は「東亜の平和の為、そして閣下の為に私でお役に立つ事があればいつでも馳せ参じます」と蒋介石に謝辞を込め発言しています。
結果、在留邦人帰国復員事業は約1年で全員無事完了しました。
根本中将は昭和21年7月、最後の船で帰国しました。武人たる者は最後に帰るのです。
釣り竿片手に
帰国して三年が経ち昭和24年。
支那では国民党軍と共産軍の内戦が激化。
戦いは共産軍の勝利に終わろうとしていました。
人民解放軍と称していた共産軍はあちこちで虐殺を繰り広げていました。
蒋介石は撃滅され台湾に逃れていました。
米国務省は「既に国民党政府は大衆の支持を失っている」として国民党への軍事支援打ち切りを公式に発表しました。
蒋介石に残された場所は最早台湾。
ここを落とされれば台湾は現在のチベットやウイグルとなってしまいます。
とにかく共産軍はそこらじゅうで虐殺の限りを尽くしていました。
チベットに攻め込んだ共産軍は150万人を虐殺しています。
そんな連中が共産軍です。
この時、東京多摩の根本中将の自宅に一人の台湾訛りの青年が尋ねて来ました。
彼は李と名乗りました。
蒋介石率いる国民党の危機を伝えました。
台湾人は元同胞、元日本人です。
このまま蒋介石率いる国民党軍が負ければ元日本人が虐殺されます。
今こそ日本人居留民復員事業に力を貸してくれた蒋介石に報いる時だ!とこの危機を脱する為に力を貸す事を決意しました。
台湾行きを決意した根本中将は先ず元台湾総督明石二郎の息子、明石元長氏に会いました。
台湾に国民党が来て以来、台湾人「元同胞」が何かと差別され諍いが絶えない事を承知していました。
しかし、蒋介石が負ければ毛沢東率いる共産軍がなだれ込み共産政権に台湾は飲み込まれ、台湾人元同胞はもっと悲惨な目に合う。
明石元長氏は何とか軍事面で蒋介石を支援せねばと考えていました。
その折りに「戦神」からの面会。
これは台湾に送り込むしかないと考えました。
ですが終戦直後です。明石氏も無一文。
渡航費用がありません。明石氏は当時の手帳に「金、一銭もなし」と残しています。
どれだけ金策に苦労したでしょう。
そして、ようやく小さな船を手配出来ました。
船は釣り船です。昭和24年6月26日、延岡の港から台湾に向け出港しました。
それを見届けた明石元長氏は過労により4日後に還らぬ人となりました。42歳の若さでした。
根本中将を乗せた釣り船はGHQに見つからぬ様にと台湾まで最短を取りました。
しかし、途中大シケに遭い、出港4日目に岩礁に乗り上げ船に穴を開け板を貼って応急処置。
染み出す海水をバケツで汲んでは捨てを繰り返し台湾に14日かけて到着しました。
到着した時には釣り船はボロボロ、根本中将以下乗組員は痩せこけて髭は伸び放題。
まるで浮浪者の様でした。
一行は全員その場で密航者として逮捕されてしまいました。
根本中将は牢獄で「国民党軍を助けに来た日本人だ!」と何度も主張しましたが、誰も信じません。
まるで浮浪者の様ですから、当然と言えば当然です。
しかし二週間もするとおかしな日本人がいると噂になりました。
この噂を聞きつけたのが国民党軍幹部の一人。
この国民党軍幹部は根本中将が北支方面軍司令官だった頃に交流があった人物でした。
この幹部は「あの人ならば、あり得る」と直感しました。
国民党軍幹部が来ると知らされた看守達は慌てて一行を風呂に入れ食事をさせました。
この看守達の態度に根本中将は「いよいよ処刑か…」と覚悟を決めたそうです。
そこへ幹部が現れ「根本先生!」と駆け寄り手を握りました。
あの戦神が台湾に来た!これはどれほど心強い事か。
8月1日台北に移動した根本中将は国民党軍司令官である湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けました。
遂に戦神が
湯恩伯将軍は実は日本の陸軍士官学校出身の親日派で、日本語も流暢でした。
蒋介石の耳にも根本中将の話しがはいりました。直ぐに根本中将に会見を求めました。
蒋介石は根本中将に「老友人」と固く手を握りました。老友人とは古くからの友人、信頼出来る友人という意味です。
既に国民党軍ら福建省の廈門界隈だけが国民党が守る支那大陸の足掛かりでした。
最早これを失えば一気に共産軍に台湾へ攻め込まれ蒋介石の命は危うい。
その廈門視察に偽名を使い到着した根本中将は「ここは守れない」と判断しました。
更に廈門は20万人が住む商都です。
当然、民間人に犠牲が出る。戦闘になれば軍民の食糧確保など持久戦など無理です。
しかしすぐ対岸の「金門島」は廈門の外側にあり、海峡が狭く海流が早い。
上陸には時間が掛かります。
島民は4万人、島民は漁業とサツマイモ栽培で生計を立てており食糧自給が出来る。
大陸との通行を遮断されてもここを拠点にすれば長期戦が出来ます。
この考えを湯恩伯将軍に話しましたが、湯恩伯は押し黙る。
廈門を放棄すれば共産軍はそれを宣伝します、そうなれば湯恩伯将軍は敗軍の将となり延いては蒋介石の信頼も失うかもしれない。
しかし根本中将は「台湾防衛、国民党政府を守ることが重要です。自分の名誉より台湾を守る道筋を付ける事が軍人の務めではありませんか?」と湯恩伯将軍に迫ります。
この根本中将の言葉に湯恩伯将軍は決意。
廈門を棄て金門島死守に転じます。
根本中将は作戦を立てました。
共産軍は海軍がありません。海を渡るには近辺からジャンク船と呼ばれる小型の木造船を調達しなければなりません。
この木造船ならば海で迎え討つことも出来ますが、それでは損害が少ない。
そこで敵の大兵力を一旦上陸させ、その上で一気に殲滅、国民党軍の圧倒的強さを見せる。
先の大戦で帝国陸軍が得意とした塹壕戦を採用しました。海岸や岩陰に穴を掘り、敵を誘い込んで殲滅するという、硫黄島や沖縄戦で米軍に大打撃を与えた戦法です。
根本中将は作戦遂行、更に成功する為に細かに指示を出しました。
10月1日、中華人民共和国の成立宣言が発せられると毛沢東は勢いに乗り金門島に立て籠る国民党軍を「こんな小島、直ぐに取れる。大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけだ」と豪語しました。
10月24日夜、遂に金門島への上陸作戦を開始しました。
金門島の海岸には2万の共産軍兵士であふれかえりました。
しかしアッサリと上陸。島からは一発の銃撃も砲撃もありません。
共産軍は悠々と上陸し露営の構築に取り掛かり始めたその時です。
突然共産軍が乗船して来た船から火の手が上がりました。
辺りが明るくなりかけた頃、突然島の中から砲撃音が鳴り響きます!
すると今まで何もないと思っていたところから国民党軍の戦車21両が現れ37mm砲を撃ちまくりながら共産軍2万に襲い掛かりました。
逃げようにも船はありません。
共産軍は戦車が出てきた方向とは逆に逃げ出しました。
ずっと敗北を喫していた国民党軍は、殆ど始めてとも言える快勝に兵士達は血気にはやりました。一気に攻め込もうとしました。
しかし根本中将は待ったを、かけます。
「このままでは一般人に犠牲が出る、一般人に犠牲が出れば今後、国民党軍が金門島を拠点に抵抗するのが難しくなる」と諭します。
北方の戦車隊を後退させ南側から猛攻をかけ、敵に逃げ道を与え北方の海岸に後退させて、海からと陸からの挟み撃ちで包囲殲滅する作戦を湯恩伯将軍に進言。
湯恩伯将軍は根本中将のあまりの見事な戦術にこれをそのまま採用しました。
10月26日午後3時、根本中将の作戦に基づき南側から猛攻、案の定敵は北方へ後退しました。
そこにはあらかじめ砲艇が待ち構えています。
海からは砲艇、陸からは戦車。
共産軍に逃げ場はなく、阿鼻叫喚の地獄絵さながらの状況となりました。
共産軍の生存者は武器を棄て全員投降しました。
この戦闘で共産軍は死者1万4千人、捕虜6千人。
国民党軍は怪我人を含め3千人余り。
戦いは国民党軍の一方的勝利です。
この戦闘はアッと言う間に噂になり国民党軍に戦神と呼ばれる日本人が顧問についたからだ!とも噂になりました。
日本陸軍の強さは世界の常識です。
その陸軍の「戦神」が後ろに、共産軍からみれば死神を、いやそれ以上の恐ろしい者を相手にするのです。
共産軍の進撃は止まりました。
そして六十余年、今も金門島は台湾です。
眼と鼻の先に支那大陸があるのにです。
湯恩伯将軍、根本中将を出迎えた蒋介石は「ありがとう、ありがとう」と繰り返しましたが、根本中将は「支那撤退の際に蒋介石総統には大変世話になりました、その恩返しです」と答えました。
そして根本中将はこの功績に対する報償を一切受け取らず、また、日本で周囲の人間に迷惑がかかると、この戦いの一切の公式記録から自分を抹消してほしいと頼み台湾を後にします。
羽田のタラップを降りる時、根本中将の手には釣り竿が握られていました。
これは台湾に出掛ける時に家族に対して「釣りに行ってくる」と言って出掛けたからです。
そして出掛けた時のそのままに帰ってきた。
釣りに行くと出掛けて3年。
随分と長い釣行ですね。
しかし、これが根本中将なのです。
もう自分は退役した軍人です、だからこそ必ず家族のもとに帰る。
その為に釣り竿を手放さず残していた。
どんなに激しい戦いでも、どんな困難が有ろうと退役軍人は夫として父として家族のもとに必ず帰る。
根本中将が行方不明だった3年間、根本夫人もご苦労された筈です。
しかし、帰還した根本中将を責めることなく温かく迎え、一切愚痴など言いませんでした。
3年間夫が一体どこで何をして来たのかも解りません。
けれど、そういう夫は何か人の役に立つ事をしてきたんだろう…と、その一点だけは信じ切れる。だからこそ問わず、聞く必要もない。
時が来れば、知るべき時に知る。
その時まで夫を信じるのみ。
これが日本の武人の妻なのでしょうか。
その信頼がなければ根本中将も生きては帰れず、また3年も黙って夫を待てはしません。
あの戦後の混乱に何万人もの命を救い、台湾一千万の命を救い。
しかし一切の功績を誇る事も、報償を受け取る事もしませんでした。
其ればかりか何も語らず、一介の国民として戦後を生き昭和41年、遂に何も語ることなく永眠されました。
そして、冒頭に申した「最近」と言う意味は、台湾での功績です。
公式記録は一切なく、本人も話しをしていない為に誰も知らなかった。
しかし2008年遂にその事実が明らかになりました。
ご本人は結局、一切を語ることなく亡くなり何十年と経過して明らかになりました。
我々日本人の先達です。
我が国の本当の鍛え上げられた武人。
その精神を我々は後世に語り継がなければなりません。
本来の目的、本来の日本人の哲学である他者を生かす生き方が此処にあります。
我々後世はこの精神を引き継がなければなりません。
自分の為にだけ生きたとてそれは虚しさしか生みません。
誰かの役に立つ、誰かを喜ばせる、自分以外の他者を思う。
それが日本人であり、古事記にもある哲学であるからです。