今回は少し教育について考えてみようと思います。
今回考えるのはイジメに付いてです。
先般も岩手県にて村松亮君が自殺しました。
まだ13歳です。
何故、彼はまだ見ぬ未来を捨て自ら命を絶ってしまったのでしょうか?
一体この国は何時になったら少年少女の命の重さを自覚するのでしょうか?
またか…
岩手県矢巾町の中学生村松亮君が7月5日、イジメを苦に列車に飛び込み自殺をしました。
正直、「あぁ、また子供の自殺か…」と率直に思いました。
その「またか…」の意味はイジメで自殺か、と言うことです。
もう今更驚きもしない自分がいる事に気付きながら、また一人未来ある少年が死んだ。
そんな感じでした。
これが自殺でなく殺人であっても、昔ほどには驚きはしないでしょう。
今迄生きてきた経験の中で知らぬ間にマヒすらしてしまうのです。
それと同時に未だ少年少女の自殺が、それもイジメを苦に自ら命を絶ってしまう。
それが無くならない事実に怒りと失望を感じます。
村松亮君はある特定のグループから連日、頭を叩かれたり、髪の毛を掴まれたり、机に頭を打ち付けられるなどのイジメを受けていました。
それは他の生徒からも度々目撃されています。
言わば誰もが知る周知の事実でもありました。
また、これは本当に驚くことですが担任も把握していた。
生活記録ノートなるものがあり、これを担任と交換しながらやり取りをしていました。
その中に「なぐられたり、けられたり、首しめられた」と書いていました。
「もうげんかいです」とまで書いてあった。
自らの死についても村松君は書いていました。
村松亮君はずっとSOSを発信していました。
それに対して担任は「上から目線ですね」とか「明日から研修たのしみましょう」と村松君のSOSを実質無視していました。
こんな事は幾度繰り返されたでしょうか?
イジメがエスカレートし殺されてしまった事件すらあったのにです。
同じような事件が何度起きても、この国の教育現場には変化がない。
行政も変わらない。
全く教訓として生かされていない。
何故でしょうか?
先ずイジメと言う言葉で片付けてしまっている事に問題があると思います。
人を自殺に追い込むほどの事を「イジメ」等と言って良いのか?
頭を殴る、又は万引きを強要したり、金を奪ったり。これを「イジメ」なる言葉でごまかしているのではありませんか?
これはどう考えても犯罪行為です。
その犯罪を同級生や同じ学校の生徒がやっているのです。
仲間が仲間に犯罪行為をしているのです。
何故イジメなる軽い言葉で片付けているのか。
そして、その被害に遭った少年が自殺すると大人は「死ななくても…」とか、学校や教育委員会や教師が悪い!と短絡的に考えます。
それは単なる犯人探しです。
この少年少女の自殺は自ら命を絶つ事で行う、大人達への復讐なのではないでしょうか?
イジメられる少年は多数から被害を受け抵抗も出来ず「自分は無力だ」と感じます。
無力な少年少女が取る復讐の手段が自殺なのではないのでしょうか?
自分をイジメたグループに、更に幾らSOSを発しても助けてくれない大人達へ。
自殺することで「自分の思い」を伝える。
それが村松亮君に出来る「復讐」だったのではないかと思います。
そうする事で、直接イジメを行なって来たグループに、SOSを無視した大人達へ復讐を果たす。死んで初めて周囲の人間に知らしめることができる。
それは、この死を背負わせることになる。
少年少女の自殺は自殺ではあるが復讐なんだと思います。
我々は、この様な事件が明るみに出て初めて考えます。
我々は彼の死による復讐を受けたのではありませんか?
全く生かされていない
一昨年のこと。
いじめ防止対策推進法が成立しましたね。
しかし、また少年の自殺という復讐を受ける事になってしまいました。
この法が全く機能していない、何の効力もない事が判りました。
正に絵に描いた餅であった訳です。
未だイジメが起きれば、学校や教育委員会は把握していた事が明るみに出ます。
知っていながら隠蔽する。
大津では中二の少年が自殺しました。
先の法律のキッカケになった事件です。
その時、隠蔽どころか虚偽発表までしており、自殺した、つまり被害者少年の家庭に問題があり自殺したとまで虚偽発表する始末でした。
それを教訓に出来た法律が全く機能していないのです。
そしてイジメと言う言葉を使う事で軽く扱われてしまいます。
これは犯罪なんだと認識しなければなりません。
心理的圧迫、直接的暴力或いは傷害、そして恐喝。全てこれに当てはまります。
この認識の甘さこそが、この問題の核心です。
担任教師や学校にしても自分の受け持つクラスや学校にイジメがあると教師や学校としての力量が問われる事になります。
だから隠したくなる。
更にマニュアル化された事は淡々とこなせるが、自分の評価に係る事は踏み込まず、我関せずとなる。
むしろイジメに気付いた事をプラスと評価し、それに向き合い克服した教師や学校をプラスとして評価するシステムにしなければ学校や教師は積極的に関わりません。
マイナスの評価を受けるならば、自分の受け持つ間は事なかれに過ごし、その責任を次へ次へと先伸ばしにし、見て見ぬふりをします。
イジメに気付く事が評価プラスになるならば、教師も積極的に考えます。
そうなれば小さなことにも目が行き、最悪な状況まで行く手前やまたは早い段階で表に出ることになるでしょう。
これぐらいのシステムの変更は直ぐにでも出来ます。
勿論、此れだけではありません。
しかし、先ずは直ぐ出来る事から始め、少しでも自ら命を絶つ子供を減らし、子供は国の宝だと大人達が守らねばなりません。
大人達に求められている事はこれ以上、犠牲者を出さない!子供を死なせない!と言う気概です!
そして、ここへ行き着く
先に示したシステムだけではこの問題は解決しません。
更にもっと考えるならば、自らの死によってしか伝えられないとか自らの死によってしか復讐が出来ないなんて社会は地獄そのものです。
支那の圧政に焼身と言う形でしか抗議出来ないチベットを見れば判るはずです。
幾らシステムだけを変えようと運用する人間が変わらなければ自殺する子供は減りません。
同じ学校で学ぶ仲間を自殺まで追い込むことをさせてはいけない。
させない為にはどうするのか?
やはり教育であると、ここに行き着きます。
我々の日本は「シラス」の国です。
天子のもと民は平等である。
此れがシラスです。
敗戦後、アメリカから頂いた憲法で生きて来た、そして国は自ら理念を持つ事を捨てました。
アメリカの理念で作られた憲法を有り難がり、他人の理念で生きています。
そして先の大戦で我々後世の為に戦って下さった方々を悪者にしてきました。
その中で受けた教育に日本人としての理念も哲学もありません。
そんな生き方をしているうちに、親が子を殺し、子が親を殺し。
同じ学び舎の仲間を殺し。
同じ日本人が拉致され様と見て見ぬふりをする。
そんな社会になってしまいました。
僅か13歳で生きる望みを捨て、ただ復讐の為に自らの命を絶つ。
あの沖縄で散華された少女達は我々の為に自ら自決なさった。
我々を生かしてくれた。
それはこのブログでも紹介しました。
例えばここです。
しかし、村松君は復讐の為に自ら死んでしまいました。
他者の理念で生き、ただ自分の為にだけに人は生きれば良いと教育されました。
元来日本人はそんな生き方はしません。
他者を生かし、他者の為に生きる。
そうする事で生きる意味、死ぬ理由を身につけました。
自分の為にだけ生きてもつまらない、他者を生かす事で自らも生かされ、そしてそれが次の世代へと受け継がれ…死んで灰となるだけの虚しさもそれで報われるのです。
その象徴的存在が天皇陛下の御存在です。
民が大事、民こそ宝。
あなたの為に、あなたこそ宝。
其れこそが天皇陛下の御心であり、生き方です。それを真っ先に御示しに成られる。
だからこそ、このブログにて古事記を取り上げているのです。
古事記には日本人の哲学があります。
日本人とはどう生きるのか?
人間とは何の為に生きて、死ぬのか?
自分の利益の為には人は死ねません。
其処を子供たちに教育し、大人達に再教育しなければ根本はかわりません。
イジメる側とイジメられる側と言う私事の狭い関係の中でしか考えられなくなってしまっていても「将来、こんな自分も人の為に生きることが出来る。こんな自分も誰かの役に立つ」と理解できれば自ら死んで復讐を果たす子供たちが減るのではありませんか?
あなたの為に死ぬなら私は本望だ。
あなたの為になら死ねる。
だから、私はあなたを守る為に生きる。
そんな、生き方をするならば仲間をイジメ殺したり出来なくなるのではないかと思います。
日本人は死ぬ理由から生きる意味を見出せる民族なのです。
今回考えるのはイジメに付いてです。
先般も岩手県にて村松亮君が自殺しました。
まだ13歳です。
何故、彼はまだ見ぬ未来を捨て自ら命を絶ってしまったのでしょうか?
一体この国は何時になったら少年少女の命の重さを自覚するのでしょうか?
またか…
岩手県矢巾町の中学生村松亮君が7月5日、イジメを苦に列車に飛び込み自殺をしました。
正直、「あぁ、また子供の自殺か…」と率直に思いました。
その「またか…」の意味はイジメで自殺か、と言うことです。
もう今更驚きもしない自分がいる事に気付きながら、また一人未来ある少年が死んだ。
そんな感じでした。
これが自殺でなく殺人であっても、昔ほどには驚きはしないでしょう。
今迄生きてきた経験の中で知らぬ間にマヒすらしてしまうのです。
それと同時に未だ少年少女の自殺が、それもイジメを苦に自ら命を絶ってしまう。
それが無くならない事実に怒りと失望を感じます。
村松亮君はある特定のグループから連日、頭を叩かれたり、髪の毛を掴まれたり、机に頭を打ち付けられるなどのイジメを受けていました。
それは他の生徒からも度々目撃されています。
言わば誰もが知る周知の事実でもありました。
また、これは本当に驚くことですが担任も把握していた。
生活記録ノートなるものがあり、これを担任と交換しながらやり取りをしていました。
その中に「なぐられたり、けられたり、首しめられた」と書いていました。
「もうげんかいです」とまで書いてあった。
自らの死についても村松君は書いていました。
村松亮君はずっとSOSを発信していました。
それに対して担任は「上から目線ですね」とか「明日から研修たのしみましょう」と村松君のSOSを実質無視していました。
こんな事は幾度繰り返されたでしょうか?
イジメがエスカレートし殺されてしまった事件すらあったのにです。
同じような事件が何度起きても、この国の教育現場には変化がない。
行政も変わらない。
全く教訓として生かされていない。
何故でしょうか?
先ずイジメと言う言葉で片付けてしまっている事に問題があると思います。
人を自殺に追い込むほどの事を「イジメ」等と言って良いのか?
頭を殴る、又は万引きを強要したり、金を奪ったり。これを「イジメ」なる言葉でごまかしているのではありませんか?
これはどう考えても犯罪行為です。
その犯罪を同級生や同じ学校の生徒がやっているのです。
仲間が仲間に犯罪行為をしているのです。
何故イジメなる軽い言葉で片付けているのか。
そして、その被害に遭った少年が自殺すると大人は「死ななくても…」とか、学校や教育委員会や教師が悪い!と短絡的に考えます。
それは単なる犯人探しです。
この少年少女の自殺は自ら命を絶つ事で行う、大人達への復讐なのではないでしょうか?
イジメられる少年は多数から被害を受け抵抗も出来ず「自分は無力だ」と感じます。
無力な少年少女が取る復讐の手段が自殺なのではないのでしょうか?
自分をイジメたグループに、更に幾らSOSを発しても助けてくれない大人達へ。
自殺することで「自分の思い」を伝える。
それが村松亮君に出来る「復讐」だったのではないかと思います。
そうする事で、直接イジメを行なって来たグループに、SOSを無視した大人達へ復讐を果たす。死んで初めて周囲の人間に知らしめることができる。
それは、この死を背負わせることになる。
少年少女の自殺は自殺ではあるが復讐なんだと思います。
我々は、この様な事件が明るみに出て初めて考えます。
我々は彼の死による復讐を受けたのではありませんか?
全く生かされていない
一昨年のこと。
いじめ防止対策推進法が成立しましたね。
しかし、また少年の自殺という復讐を受ける事になってしまいました。
この法が全く機能していない、何の効力もない事が判りました。
正に絵に描いた餅であった訳です。
未だイジメが起きれば、学校や教育委員会は把握していた事が明るみに出ます。
知っていながら隠蔽する。
大津では中二の少年が自殺しました。
先の法律のキッカケになった事件です。
その時、隠蔽どころか虚偽発表までしており、自殺した、つまり被害者少年の家庭に問題があり自殺したとまで虚偽発表する始末でした。
それを教訓に出来た法律が全く機能していないのです。
そしてイジメと言う言葉を使う事で軽く扱われてしまいます。
これは犯罪なんだと認識しなければなりません。
心理的圧迫、直接的暴力或いは傷害、そして恐喝。全てこれに当てはまります。
この認識の甘さこそが、この問題の核心です。
担任教師や学校にしても自分の受け持つクラスや学校にイジメがあると教師や学校としての力量が問われる事になります。
だから隠したくなる。
更にマニュアル化された事は淡々とこなせるが、自分の評価に係る事は踏み込まず、我関せずとなる。
むしろイジメに気付いた事をプラスと評価し、それに向き合い克服した教師や学校をプラスとして評価するシステムにしなければ学校や教師は積極的に関わりません。
マイナスの評価を受けるならば、自分の受け持つ間は事なかれに過ごし、その責任を次へ次へと先伸ばしにし、見て見ぬふりをします。
イジメに気付く事が評価プラスになるならば、教師も積極的に考えます。
そうなれば小さなことにも目が行き、最悪な状況まで行く手前やまたは早い段階で表に出ることになるでしょう。
これぐらいのシステムの変更は直ぐにでも出来ます。
勿論、此れだけではありません。
しかし、先ずは直ぐ出来る事から始め、少しでも自ら命を絶つ子供を減らし、子供は国の宝だと大人達が守らねばなりません。
大人達に求められている事はこれ以上、犠牲者を出さない!子供を死なせない!と言う気概です!
そして、ここへ行き着く
先に示したシステムだけではこの問題は解決しません。
更にもっと考えるならば、自らの死によってしか伝えられないとか自らの死によってしか復讐が出来ないなんて社会は地獄そのものです。
支那の圧政に焼身と言う形でしか抗議出来ないチベットを見れば判るはずです。
幾らシステムだけを変えようと運用する人間が変わらなければ自殺する子供は減りません。
同じ学校で学ぶ仲間を自殺まで追い込むことをさせてはいけない。
させない為にはどうするのか?
やはり教育であると、ここに行き着きます。
我々の日本は「シラス」の国です。
天子のもと民は平等である。
此れがシラスです。
敗戦後、アメリカから頂いた憲法で生きて来た、そして国は自ら理念を持つ事を捨てました。
アメリカの理念で作られた憲法を有り難がり、他人の理念で生きています。
そして先の大戦で我々後世の為に戦って下さった方々を悪者にしてきました。
その中で受けた教育に日本人としての理念も哲学もありません。
そんな生き方をしているうちに、親が子を殺し、子が親を殺し。
同じ学び舎の仲間を殺し。
同じ日本人が拉致され様と見て見ぬふりをする。
そんな社会になってしまいました。
僅か13歳で生きる望みを捨て、ただ復讐の為に自らの命を絶つ。
あの沖縄で散華された少女達は我々の為に自ら自決なさった。
我々を生かしてくれた。
それはこのブログでも紹介しました。
例えばここです。
しかし、村松君は復讐の為に自ら死んでしまいました。
他者の理念で生き、ただ自分の為にだけに人は生きれば良いと教育されました。
元来日本人はそんな生き方はしません。
他者を生かし、他者の為に生きる。
そうする事で生きる意味、死ぬ理由を身につけました。
自分の為にだけ生きてもつまらない、他者を生かす事で自らも生かされ、そしてそれが次の世代へと受け継がれ…死んで灰となるだけの虚しさもそれで報われるのです。
その象徴的存在が天皇陛下の御存在です。
民が大事、民こそ宝。
あなたの為に、あなたこそ宝。
其れこそが天皇陛下の御心であり、生き方です。それを真っ先に御示しに成られる。
だからこそ、このブログにて古事記を取り上げているのです。
古事記には日本人の哲学があります。
日本人とはどう生きるのか?
人間とは何の為に生きて、死ぬのか?
自分の利益の為には人は死ねません。
其処を子供たちに教育し、大人達に再教育しなければ根本はかわりません。
イジメる側とイジメられる側と言う私事の狭い関係の中でしか考えられなくなってしまっていても「将来、こんな自分も人の為に生きることが出来る。こんな自分も誰かの役に立つ」と理解できれば自ら死んで復讐を果たす子供たちが減るのではありませんか?
あなたの為に死ぬなら私は本望だ。
あなたの為になら死ねる。
だから、私はあなたを守る為に生きる。
そんな、生き方をするならば仲間をイジメ殺したり出来なくなるのではないかと思います。
日本人は死ぬ理由から生きる意味を見出せる民族なのです。