古事記シリーズです。
いよいよ前回から大国主命へと突入しました。
前回も話しましたが、この部分は古事記の中でも特に重要な部分です。
そして言わば秘伝です。
そこから一体何を伝え様としているのでしょうか?
それらを少し考えてみようと思います。
ウシハク・シラス
古事記は結論から入る様な英文の様な記述だったりします。
大国主命と言えばクライマックスはやはり「国譲り」です。
この国譲りに関してウシハクとシラスが出て来ます。
このウシハクとシラスが初めてここに表れ、そしてこのウシハクとシラスが日本人の哲学を現しています。
汝之字志波祁流
此葦原中國者
我御子之所知國
と、原文はこうなります。
現代語ならば
「汝のウシハケる、この葦原の中つ国は、我が御子のシラス国なるぞ」
この「ウシハケる」はウシハクです。
ウシハクとは領有すると言う事です。
「シラス」とは統治すると言う事です。
この記述は「日本書紀」にはありません。
これはその部分を軽んじたのではありません。
これが前回お話しした秘伝だからです。
此れこそが日本統治の極意であり秘伝なのです。そして日本の根幹であり、哲学の重要な部分なんです。
シリーズ中でも申してますが、古事記と言うのは疑問や理解し難い部分を別の書物などを用いて解決してはいけない!という大原則があります。
古事記は古事記内で解決しなければ、それは最早古事記ではなくなります。
つまり、この部分は日本書紀に書かれていないからと無視したり、なかった事にしては古事記を理解出来ないのです。
ウシハクとは領有です。
ウシとは主人と言う意味です。ハクとは佩くと言い、此れは身につけると言う意味です。
つまり主人が身につけると言う事です。
これは一人の主人が居て私有する事を現しています。
これは一人の権力者が全てを私有することで、領地を持つ権力者はその領地内の全てを私有することです。「全て」です。
水、土、草、木、作物、獣。そして「人」です。
一組の夫婦が居て、その夫婦の夫は妻が自分のものです。しかし、夫は領主のものです。私有する夫の妻は領主のもの。
これがウシハクとなる訳です。
ですから、領主=権力者は夫の妻を好きな様にできます。また、夫婦の所有物を好きな様にできます。領地内にある全てを好きな様にできます。夫婦が気に入らなければ権力者は殺します。権力者の私有物ですから殺しても構わないのです。
一方シラス。
シラスとは「知らす」です。シラスとは「統治」とも書きます。
原文には知國とありますね。
これは共有社会と言う意味で「知ることを共有する」と言う意味になります。
ウシハクでは全てが権力者の私有ですから、共有などしません。
情報も権力者のものです。
シラスは知ることを共有します。情報共有社会です。
これは「シラス」とい統治システムを最も重要な事だと言っているのです。
ここに日本人の生き方と死に方に対する哲学があるのです。
このシラス=統治とは、國譲りの物語を通して我々日本人とは「この様に生きる」と教えています。
それは、日本統治の根幹であり大原則です。
我々全ての民は「大御宝」であると示しています。大御宝(おおみたから)と言います。
國譲りで言うならば、「この世界は天照大御神の統治する世界で、大国主命が私有するものではない」と言っているのです。
大国主命の国作りは決して簡単なものではありませんでした。
それは次回より又詳しくお話しします。
しかし、艱難辛苦を乗り越えやっと理想の国作りを成功しました。
しかし、それは大国主命が私有するものではなく天神である天照大御神が統治する国である。
では統治するとはなんでしょうか?
それは広く全てを見ていると言う事です。
その広く全てを御覧になっている神の御子が統治する「知らす」のであって私的に領有してはいけない!と言っています。
そしてその御子が降りてくる。
これが國譲りから天孫降臨へという流れの話しです。
そしてシラス存在の末裔が天皇となるのです。
世界はウシハク
ウシハク=権力者には全てが集中します。
何もかもが権力者の私有ですから、富も情報も全て権力者に集中してしまいます。
ウシハク者はその全てを私有する訳ですから、富を独り占めし、贅沢三昧を尽くし、逆らう者は殺してしまいます。
一人のウシハク者は財力と贅沢三昧と言う特権を与え例え神々であっても懐柔する事は簡単です。巨大な財力で政治を行います。
人はその財力や特権に懐柔されてしまう弱い生き物です。
ですから、その「弱さ」に負けてしまいます。
弱さに負ければ、その財力で懐柔されてフェアな決断ができません。
財力に買収されおかしな判定を下す。
スポーツにおいても金で買収されおかしな判定を下す。
嘘の情報でも、その財力に魅せられあたかも本当であるかの様に流す。
権力者はこれを継続したい。つまり権力を維持したいと考えます。
維持する為にはどうするか?
愚民化政策です。
つまり権力者にとって都合が良いのは民がアホである事です。
権力者に対して疑問を抱かせない事です。
逆らう者は殺し、逆らわない者には飴を与えます。
民は権力者を崇めてさえいれば殺されず飴を貰える。飴が欲しいから貰う為だけに生きる。
権力者はアホの民が反抗しない様に飴を与えます。朝鮮の格言に泣く子は飴を沢山貰える。大泣きする子は飴を全部貰える。とあります。
反抗されたくない権力者は大泣きする子に飴を与え、殺されず飴が欲しい民はどうすれば飴を貰えるのかに必死になります。
こういう社会で育つとありもしない話しを泣きながらして飴を貰おうとします。
「従軍慰安婦」の記者会見など正にズバリ!
世界はこのウシハクで成り立っていました。
有史以来、世界ではこのウシハクが続けられてきました。
それを、修正しようとしたのが市民革命であったりする訳です。支配する者とされる者。この力関係を破壊し、民衆が選んだ代表者に政治をさせる。自由と平等を勝ち取る。これがリベラリズムということです。
しかし、どういう訳か一旦のこの座に就くと理想が曖昧になり「ウシハク権力者」になってしまう。
民を私物化してしまいます。
アジアやアフリカで白人が行なった「植民地支配」は正にこのウシハク政策であったのです。
日本はシラス
日本はシラスの国です。
シラスとは広く全てを見ていると言う事です。
統治者はその全てを広く御覧になる訳で私有化する訳ではありません。
日本は古来、歴史が書かれる以前よりウシハクを否定していました。
大日本帝国憲法には第1条に「万世一系の天皇これを統治す」と書かれています。
日本という国は万世一系の天皇が統治する、つまり天皇が広く全てを御覧になると書かれているのです。
これ、実は最初「しらす」と書かれていたんですよ!これはあまり知られていませんね。
この大日本帝国憲法草案を考えたのは井上毅(いのうえこわし)という人物です。近現代日本の天才です。
この人物はあの「教育勅語」を書いた人です。
伊藤博文から「お前が憲法草案を書け」と言われて世界中の憲法を読破し、日本初の成文憲法を持つに辺り真似ではない、日本固有の根幹を成す為に努力した人です。
古事記や日本書紀を読破し、更にその中から「日本固有」の国体をズバリ現す。
これはかなり難しいですよね。
それを見事に「大日本帝国は万世一系の天皇がこれをしらす」としました。
しかし、当時既にしらすは古語でもあり解り難いとなり「統治す」としたのです。
では、この日本固有の「知らす者」とはなんでしょうか?
それは常に民の幸せをを祈り続ける存在です。
天照大御神も統治する人々の幸せをを祈り続け、そこから長く長く続く歴史を経て今上陛下に繋がり、その今上陛下も民の幸せを祈り続けて居られます。
日本はこの統治者が民の幸せを祈り続ける事でまとめてきました。
いろんな人から報告を受けて「そうか」、「ではがんばりなさい」とその責任を激励し、皆に仕事をさせて話しを聞く。
話しを、聞くだけで国をまとめてしまうのです。国土がまとまり、人々がまとまり、文化や伝統、習俗、習慣、意識など日本そのものを一つに束ねてきました。
こんな国は世界広しといえど日本だけです。
いざとなれば民の為に犠牲になる覚悟を持って、生きる。民の幸せだけを祈り続けて生きる。
それが日本の「シラス統治」なのです。
古来の武将も領地を持ち、領主となっていました。しかし、その領地も領地内にある全ての者や物は領主の私有ではありません。
「シラス統治」からの預かりなのです。
ですから、領地の夫婦を見ても妻は夫の者で領主の私有ではありません。
民も木々も土も獣も「シラス」お方の大御宝でその御宝を「お預かり」しているのです。
ですから、大御宝を苦しませる様な事は「シラス」に逆らう事になります。
領主は存在として「ウシハク」ですが、そのウシハクをウシハクとしないのが「シラス」でお預かりした民の為に治世を行わねばなりません。
領主は民の為に開墾をし、飢えさせない為に努力します。飢饉になれば民に備蓄米を分け、洪水が起きれば治水をし、常に民の為に治世を行う。
その為、領主は実は借金塗れで贅沢三昧とは程遠い生活です。
だから武士は食わねど高楊枝などとなる訳です。
その御存在
そしてそのシラス統治をする御存在の前では人々は謙虚に振る舞います。
それは民の幸せを祈り続け、民の為に生き民の為に死ぬ。私事を真っ先にお捨てになる。
その御存在の末裔が天皇陛下であるのです。
話しを聞くだけで国をまとめてしまう御存在とはその様な尊い存在なのです。
一つの案件に対し、右だ左だ、賛成反対に分かれ、口汚く罵しり合っていても、その尊い御存在の前では「バーカ!」とか「ハゲ頭!」などと罵る訳にはいきません。
「陛下、只今この案件について二つの意見が御座います」となるのです。
そしてその尊い御存在の前では謙虚に振る舞い「此方にはこの様な問題もあり…」とか「其方の意見のここは同意できますな」とか話しているうちに一致点を見出し話しがまとまる。
合議の上で総意を得るのです
で、統治者は最後に「では、その様に致しなさい」と仰る。
それは政を行う者を選ぶにも同じです。
「我々はこの人物に政を行わせる事にしようと思います」とお聞きします。
統治者は「では皆で決めたのならば、それはその様に致しなさい」と仰る。
これが天皇陛下の国事行為になるのです。
総理任命、内閣任命、国会召集。
我々が決めた、それを統治者がお聞きになり「では民の為にがんばりなさい」と仰る。
そして今で言うならば安倍晋三その人に「大御宝」を預ける。
その大御宝を預かった安倍晋三は民の為に治世を行うのです。
大御宝が飢えたり、苦しんだり、無闇に死なない為にがんばります。
今般の安保法制と集団的自衛権がこの「大御宝」を預かる安倍晋三の責任であるのです。
この尊い御存在は我々日本人にとっての根幹です。文化、伝統、習慣、習俗全ての根幹です。
これらを一つに体系化した古事記が日本人の哲学書だと主張する理由です。
今から1300年前に文書として示した。
しかし、文字にしたというだけで、この哲学がそれ以前より存在したのです。
そしてこの哲学を象徴する御存在が天皇陛下であり、国民統合の象徴とはそうした事です。
我々日本人にとっては当たり前の御存在で、其処に居られる。
それは何かというならば大豆や昆布や魚とも同じ事です。
急になんだ?
そう思うでしょう。
しかし、大豆から醤油や味噌が作られます。
昆布や魚から出汁を取ります。
我々は生まれながらに、そこに醤油も味噌もあり出汁もあり、その味を疑う事もなく過ごしています。既に其処にあり日本人ならば当然の当たり前の事です。
しかし、明日から大豆や昆布や魚を禁止されたらどうしますか?
味噌や醤油や出汁はない。
何の疑いも無く味わい続け、それで生きて来た、其れを明日からダメだと言われたら日本人は立ち上がるでしょう。
天皇陛下という御存在もまた同じなのです。
広く御覧になって、常に民の為に生き、民の幸せを祈り続け、自らは真っ先に私をお捨てになる。
その「シラス」を以って日本はアジアの解放をしようとした。
その「シラス」を以って朝鮮、台湾の統治をしようとした。
しかし、その「シラス」を無視すればどうなるのか?
先の大戦突入前の御前会議で昭和天皇は明治天皇の御製四方の海を二回詠まれた。
そこで皆気づいたが、止める事ができなかった。
我々日本人の哲学とは何時からあるのかわからない、わからない時代からその哲学を基に生きて来た。
それを古事記から、その行間から読み解こうとするのが古事記シリーズの目的です。
次回へ続く…
いよいよ前回から大国主命へと突入しました。
前回も話しましたが、この部分は古事記の中でも特に重要な部分です。
そして言わば秘伝です。
そこから一体何を伝え様としているのでしょうか?
それらを少し考えてみようと思います。
ウシハク・シラス
古事記は結論から入る様な英文の様な記述だったりします。
大国主命と言えばクライマックスはやはり「国譲り」です。
この国譲りに関してウシハクとシラスが出て来ます。
このウシハクとシラスが初めてここに表れ、そしてこのウシハクとシラスが日本人の哲学を現しています。
汝之字志波祁流
此葦原中國者
我御子之所知國
と、原文はこうなります。
現代語ならば
「汝のウシハケる、この葦原の中つ国は、我が御子のシラス国なるぞ」
この「ウシハケる」はウシハクです。
ウシハクとは領有すると言う事です。
「シラス」とは統治すると言う事です。
この記述は「日本書紀」にはありません。
これはその部分を軽んじたのではありません。
これが前回お話しした秘伝だからです。
此れこそが日本統治の極意であり秘伝なのです。そして日本の根幹であり、哲学の重要な部分なんです。
シリーズ中でも申してますが、古事記と言うのは疑問や理解し難い部分を別の書物などを用いて解決してはいけない!という大原則があります。
古事記は古事記内で解決しなければ、それは最早古事記ではなくなります。
つまり、この部分は日本書紀に書かれていないからと無視したり、なかった事にしては古事記を理解出来ないのです。
ウシハクとは領有です。
ウシとは主人と言う意味です。ハクとは佩くと言い、此れは身につけると言う意味です。
つまり主人が身につけると言う事です。
これは一人の主人が居て私有する事を現しています。
これは一人の権力者が全てを私有することで、領地を持つ権力者はその領地内の全てを私有することです。「全て」です。
水、土、草、木、作物、獣。そして「人」です。
一組の夫婦が居て、その夫婦の夫は妻が自分のものです。しかし、夫は領主のものです。私有する夫の妻は領主のもの。
これがウシハクとなる訳です。
ですから、領主=権力者は夫の妻を好きな様にできます。また、夫婦の所有物を好きな様にできます。領地内にある全てを好きな様にできます。夫婦が気に入らなければ権力者は殺します。権力者の私有物ですから殺しても構わないのです。
一方シラス。
シラスとは「知らす」です。シラスとは「統治」とも書きます。
原文には知國とありますね。
これは共有社会と言う意味で「知ることを共有する」と言う意味になります。
ウシハクでは全てが権力者の私有ですから、共有などしません。
情報も権力者のものです。
シラスは知ることを共有します。情報共有社会です。
これは「シラス」とい統治システムを最も重要な事だと言っているのです。
ここに日本人の生き方と死に方に対する哲学があるのです。
このシラス=統治とは、國譲りの物語を通して我々日本人とは「この様に生きる」と教えています。
それは、日本統治の根幹であり大原則です。
我々全ての民は「大御宝」であると示しています。大御宝(おおみたから)と言います。
國譲りで言うならば、「この世界は天照大御神の統治する世界で、大国主命が私有するものではない」と言っているのです。
大国主命の国作りは決して簡単なものではありませんでした。
それは次回より又詳しくお話しします。
しかし、艱難辛苦を乗り越えやっと理想の国作りを成功しました。
しかし、それは大国主命が私有するものではなく天神である天照大御神が統治する国である。
では統治するとはなんでしょうか?
それは広く全てを見ていると言う事です。
その広く全てを御覧になっている神の御子が統治する「知らす」のであって私的に領有してはいけない!と言っています。
そしてその御子が降りてくる。
これが國譲りから天孫降臨へという流れの話しです。
そしてシラス存在の末裔が天皇となるのです。
世界はウシハク
ウシハク=権力者には全てが集中します。
何もかもが権力者の私有ですから、富も情報も全て権力者に集中してしまいます。
ウシハク者はその全てを私有する訳ですから、富を独り占めし、贅沢三昧を尽くし、逆らう者は殺してしまいます。
一人のウシハク者は財力と贅沢三昧と言う特権を与え例え神々であっても懐柔する事は簡単です。巨大な財力で政治を行います。
人はその財力や特権に懐柔されてしまう弱い生き物です。
ですから、その「弱さ」に負けてしまいます。
弱さに負ければ、その財力で懐柔されてフェアな決断ができません。
財力に買収されおかしな判定を下す。
スポーツにおいても金で買収されおかしな判定を下す。
嘘の情報でも、その財力に魅せられあたかも本当であるかの様に流す。
権力者はこれを継続したい。つまり権力を維持したいと考えます。
維持する為にはどうするか?
愚民化政策です。
つまり権力者にとって都合が良いのは民がアホである事です。
権力者に対して疑問を抱かせない事です。
逆らう者は殺し、逆らわない者には飴を与えます。
民は権力者を崇めてさえいれば殺されず飴を貰える。飴が欲しいから貰う為だけに生きる。
権力者はアホの民が反抗しない様に飴を与えます。朝鮮の格言に泣く子は飴を沢山貰える。大泣きする子は飴を全部貰える。とあります。
反抗されたくない権力者は大泣きする子に飴を与え、殺されず飴が欲しい民はどうすれば飴を貰えるのかに必死になります。
こういう社会で育つとありもしない話しを泣きながらして飴を貰おうとします。
「従軍慰安婦」の記者会見など正にズバリ!
世界はこのウシハクで成り立っていました。
有史以来、世界ではこのウシハクが続けられてきました。
それを、修正しようとしたのが市民革命であったりする訳です。支配する者とされる者。この力関係を破壊し、民衆が選んだ代表者に政治をさせる。自由と平等を勝ち取る。これがリベラリズムということです。
しかし、どういう訳か一旦のこの座に就くと理想が曖昧になり「ウシハク権力者」になってしまう。
民を私物化してしまいます。
アジアやアフリカで白人が行なった「植民地支配」は正にこのウシハク政策であったのです。
日本はシラス
日本はシラスの国です。
シラスとは広く全てを見ていると言う事です。
統治者はその全てを広く御覧になる訳で私有化する訳ではありません。
日本は古来、歴史が書かれる以前よりウシハクを否定していました。
大日本帝国憲法には第1条に「万世一系の天皇これを統治す」と書かれています。
日本という国は万世一系の天皇が統治する、つまり天皇が広く全てを御覧になると書かれているのです。
これ、実は最初「しらす」と書かれていたんですよ!これはあまり知られていませんね。
この大日本帝国憲法草案を考えたのは井上毅(いのうえこわし)という人物です。近現代日本の天才です。
この人物はあの「教育勅語」を書いた人です。
伊藤博文から「お前が憲法草案を書け」と言われて世界中の憲法を読破し、日本初の成文憲法を持つに辺り真似ではない、日本固有の根幹を成す為に努力した人です。
古事記や日本書紀を読破し、更にその中から「日本固有」の国体をズバリ現す。
これはかなり難しいですよね。
それを見事に「大日本帝国は万世一系の天皇がこれをしらす」としました。
しかし、当時既にしらすは古語でもあり解り難いとなり「統治す」としたのです。
では、この日本固有の「知らす者」とはなんでしょうか?
それは常に民の幸せをを祈り続ける存在です。
天照大御神も統治する人々の幸せをを祈り続け、そこから長く長く続く歴史を経て今上陛下に繋がり、その今上陛下も民の幸せを祈り続けて居られます。
日本はこの統治者が民の幸せを祈り続ける事でまとめてきました。
いろんな人から報告を受けて「そうか」、「ではがんばりなさい」とその責任を激励し、皆に仕事をさせて話しを聞く。
話しを、聞くだけで国をまとめてしまうのです。国土がまとまり、人々がまとまり、文化や伝統、習俗、習慣、意識など日本そのものを一つに束ねてきました。
こんな国は世界広しといえど日本だけです。
いざとなれば民の為に犠牲になる覚悟を持って、生きる。民の幸せだけを祈り続けて生きる。
それが日本の「シラス統治」なのです。
古来の武将も領地を持ち、領主となっていました。しかし、その領地も領地内にある全ての者や物は領主の私有ではありません。
「シラス統治」からの預かりなのです。
ですから、領地の夫婦を見ても妻は夫の者で領主の私有ではありません。
民も木々も土も獣も「シラス」お方の大御宝でその御宝を「お預かり」しているのです。
ですから、大御宝を苦しませる様な事は「シラス」に逆らう事になります。
領主は存在として「ウシハク」ですが、そのウシハクをウシハクとしないのが「シラス」でお預かりした民の為に治世を行わねばなりません。
領主は民の為に開墾をし、飢えさせない為に努力します。飢饉になれば民に備蓄米を分け、洪水が起きれば治水をし、常に民の為に治世を行う。
その為、領主は実は借金塗れで贅沢三昧とは程遠い生活です。
だから武士は食わねど高楊枝などとなる訳です。
その御存在
そしてそのシラス統治をする御存在の前では人々は謙虚に振る舞います。
それは民の幸せを祈り続け、民の為に生き民の為に死ぬ。私事を真っ先にお捨てになる。
その御存在の末裔が天皇陛下であるのです。
話しを聞くだけで国をまとめてしまう御存在とはその様な尊い存在なのです。
一つの案件に対し、右だ左だ、賛成反対に分かれ、口汚く罵しり合っていても、その尊い御存在の前では「バーカ!」とか「ハゲ頭!」などと罵る訳にはいきません。
「陛下、只今この案件について二つの意見が御座います」となるのです。
そしてその尊い御存在の前では謙虚に振る舞い「此方にはこの様な問題もあり…」とか「其方の意見のここは同意できますな」とか話しているうちに一致点を見出し話しがまとまる。
合議の上で総意を得るのです
で、統治者は最後に「では、その様に致しなさい」と仰る。
それは政を行う者を選ぶにも同じです。
「我々はこの人物に政を行わせる事にしようと思います」とお聞きします。
統治者は「では皆で決めたのならば、それはその様に致しなさい」と仰る。
これが天皇陛下の国事行為になるのです。
総理任命、内閣任命、国会召集。
我々が決めた、それを統治者がお聞きになり「では民の為にがんばりなさい」と仰る。
そして今で言うならば安倍晋三その人に「大御宝」を預ける。
その大御宝を預かった安倍晋三は民の為に治世を行うのです。
大御宝が飢えたり、苦しんだり、無闇に死なない為にがんばります。
今般の安保法制と集団的自衛権がこの「大御宝」を預かる安倍晋三の責任であるのです。
この尊い御存在は我々日本人にとっての根幹です。文化、伝統、習慣、習俗全ての根幹です。
これらを一つに体系化した古事記が日本人の哲学書だと主張する理由です。
今から1300年前に文書として示した。
しかし、文字にしたというだけで、この哲学がそれ以前より存在したのです。
そしてこの哲学を象徴する御存在が天皇陛下であり、国民統合の象徴とはそうした事です。
我々日本人にとっては当たり前の御存在で、其処に居られる。
それは何かというならば大豆や昆布や魚とも同じ事です。
急になんだ?
そう思うでしょう。
しかし、大豆から醤油や味噌が作られます。
昆布や魚から出汁を取ります。
我々は生まれながらに、そこに醤油も味噌もあり出汁もあり、その味を疑う事もなく過ごしています。既に其処にあり日本人ならば当然の当たり前の事です。
しかし、明日から大豆や昆布や魚を禁止されたらどうしますか?
味噌や醤油や出汁はない。
何の疑いも無く味わい続け、それで生きて来た、其れを明日からダメだと言われたら日本人は立ち上がるでしょう。
天皇陛下という御存在もまた同じなのです。
広く御覧になって、常に民の為に生き、民の幸せを祈り続け、自らは真っ先に私をお捨てになる。
その「シラス」を以って日本はアジアの解放をしようとした。
その「シラス」を以って朝鮮、台湾の統治をしようとした。
しかし、その「シラス」を無視すればどうなるのか?
先の大戦突入前の御前会議で昭和天皇は明治天皇の御製四方の海を二回詠まれた。
そこで皆気づいたが、止める事ができなかった。
我々日本人の哲学とは何時からあるのかわからない、わからない時代からその哲学を基に生きて来た。
それを古事記から、その行間から読み解こうとするのが古事記シリーズの目的です。
次回へ続く…