犬神スケキヨ~さざれ石

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武士と騎士

2015-11-09 16:30:55 | 草莽崛起
今回はちょっと古事記をお休みしまして別の話しをします。

とあるお母さんの話です。


そこから見る日本と日本人を感じ、我々の振る舞いを考えるキッカケになればと思います。

母来たる

1968年(昭和43年)4月28日

一人の老女がオーストラリアの地を訪れました。

オーストラリアの新聞は一面トップでこの老女を取り上げました。
そして、それ以降この老女を連日のように報道するのです。
「勇者の母」として。

この老女の名前は松尾まつ枝さん。
そして勇者は松尾敬宇海軍大尉です。

松尾大尉はシドニー港を攻撃した事で後に「軍神」と称えられた人物です。

当初、松尾まつ枝さんのオーストラリア訪問に日本外務省は旅券発行を渋るのでした。
当時の日本はオーストラリアの交易をめぐる外交懸案がありました。
その状況でシドニーを攻撃した軍人の母が訪問すればオーストラリア国民の感情を逆撫でし外交問題化するかもしれないと外務省は恐れたのです。

外務省の答えは「オーストラリア訪問は、佐藤首相が外交懸案を解決してからにして頂けないか」と、言う事でした。

しかし、まつ枝さんはキッパリと「私は行きます」と言い放ちます。

まつ枝さんはオーストラリアの思いや、外交懸案がある状況だからこそ行くべきだ。
日本、オーストラリアの関係は好転する。
そんな思いがあったのかもしれません。

事実としてオーストラリアは松尾まつ枝さんを最大の歓迎をしています。

世界の戦死者のシンボル

その様に賞賛しました。

松尾まつ枝さんの息子、松尾敬宇海軍大尉は1919年(大正6年)熊本県山鹿市生まれ。
任官後は特殊潜航艇の任務につきました。
真珠湾攻撃の前には港の偵察も行なっています。
自らも真珠湾攻撃の第一攻撃隊参加を志願していますが叶えられませんでした。

真珠湾攻撃実施から半年後、第二次攻撃隊が編成されることになりました。
目的地はシドニー軍港。
松尾大尉もその攻撃隊に選ばれた。

出撃前の昭和17年3月29日
呉の旅館で家族を招いて最後の夜を過ごしました。

夜、就寝するときに旅館の女中さんが家族五人の布団を五つ敷きました。
しかし松尾大尉は「四つにして欲しい」と頼みます。

「今晩はお母さんと一緒に寝たい」と言ったのです。
松尾大尉はこの出撃で死を覚悟していました。
今生の思い出に母と寝る。
母を思う子の心。子を思う母の心。
いつの時代も決して変わることはありません。
松尾大尉は最後の夜を母と過ごし、最後の親孝行をしようと考えたのではないでしょうか。

松尾大尉の乗る特殊潜航艇は二人乗りです。
松尾大尉と同乗し戦死した都竹正雄兵曹も松尾大尉と同じ様に母と最後の夜を過ごしていました。
都竹兵曹は日記に残しています。

「俺が母のことを思うといつも自然に涙が出てくる。うれし涙、感謝の涙、次々に出てくる。他の母と何も別に異なったところはないと思う。学識もない、また教養も高いとはいえない。しかし立派な母である。俺には過ぎた母である。俺が今日ここにいるのも母のおかげだ。下宿で同じ床にて今は俺より小さい体、痩せた手で頭を撫でながら『正雄、最期までしっかりやってくれよ』ただこれを繰り返された。『ハイ』の一言、あとは俺も言葉が出なかった。母も後の言葉は出ぬらしく、ただ目を瞑っておられた。今、俺は南洋群島の南の果ての海上でペンを走らせている。今、ペンを走らせながら涙が出て仕方ない。母の追憶。一億の人に一億の母あれど、我が母に優る母あらめやも」

親から我が子に「死んで帰れ」と簡単に口に出来るものではありません。
子も我が親から「死んで帰れ」と言われ励みになるはずもなく。
しかし「生きて帰れ」と口にすれば、これから命懸けの出撃をする息子に笑われる。
ただ「しっかりやってこい」と励ます。
全ての思いをこの言葉に込めるしかないのです。

出撃

1942年5月31日

満月が照らす夜、松尾大尉と都竹兵曹は特殊潜航艇にて出撃します。
シドニー港は奥に細く長い港湾です。

その為に特殊潜航艇での任務は至難の業。
この天然の要害に更に磁気探知機や防潜網、機雷。鉄壁の守りをオーストラリア軍は固めていました。

一番に出撃した中馬大尉と大森二等兵曹の潜航艇は網に引っかかり身動きが取れず、敵の接収を恐れて自爆。

二番目に出撃した、伴中尉、芦辺一等兵曹艇は湾内で重巡シカゴを追いかけ回す。
一発目の魚雷は外れて岸壁へ。
二発目はシカゴを外れたが、軍艦クタバルに命中。
激しい音と水しぶきを上げ轟沈。
伴、芦辺艇は「撤退の時」と母艦を目指すも攻撃を受け、そのまま深海へ沈みました。

三番目が松尾大尉と都竹兵曹艇。
既にシドニー港はサイレンが鳴り響いており、索敵のライトが回っていたのです。
「未知の敵」に大混乱しています。

この混乱の間隙をぬって重巡シカゴに肉薄します。しかし艇の前方を岸壁に接触させてしまい魚雷が発射出来ない。
「最早、艇もろともシカゴに体当たりしあの世に道づれだ!」

その瞬間、敵哨戒機の爆雷攻撃の直撃を受けます。

「無念」と自爆。それと共に二人は拳銃で自決。

松尾大尉享年二十四歳。

攻撃の成果としては大したものではなかった。
しかし、不意を突き鉄壁のシドニー湾に潜り込み攻撃をした勇猛さはオーストラリア軍、オーストラリア国民を寒からしめるに充分なものでした。
この特殊潜航艇の攻撃はオーストラリア国民に恐怖を植え付けた。
それだけではなく「敵ながら天晴れ」な攻撃に尊敬の念を芽生えさせたのです。

日本軍は特殊潜航艇が全滅した事を確認するとオーストラリア東海岸に攻撃を開始します。

この時、シドニー地区海軍司令官グルード少将は二隻の特殊潜航艇を引き上げ、四人の日本海軍人の遺体を「海軍葬」の礼をもって弔う様に指示しました。
日本がシドニー市街を攻撃している最中にです。

もちろん反対する者もいました。
日本軍がシドニーを攻撃している最中に敵軍人を海軍葬をするとは何ごとか?
しかしグルード少将は一切耳を傾けず「海軍葬」を命令したのです。

オーストラリアはその後、戦争中にもかかわらず四人の遺骨を日本の中壕大使に託し帰国させています。

武士と母

オーストラリアの日本軍人への礼節は正に騎士道精神と言うものでしょう。
松尾大尉の母、松尾まつ枝さんの訪問はこの騎士道に対する武士道での答礼と言うことです。

この訪問の発起人は九州大学教授などを歴任した松本唯一博士でした。
当初人々は趣旨に賛同しても、まつ枝さんが83歳と高齢であること、資金集めの目処がないと難色を示していました。
しかし、結局は地道な活動もあり松本博士の教え子や旧海軍関係者から当初の予定額170万円を大きく超える408万円が集まりました。

「伴さーん!芦辺さーん!」
オーストラリアに到着し、タスマン海を見渡す場所で、まつ枝さんは叫びます。
涙雨が降る中、老女が此れ程の声が出せるのかと驚くほどの声で叫びました。

まつ枝さんは我が子だけではなく、一緒に散華した英霊全員と対面する為に訪れたのです。

因みに2006年シドニー北海岸から5.5km離れた地点でフジツボに覆われた特殊潜航艇が発見されました。
伴、芦辺艇でした。
これに対し文化遺産担当大臣キャンベル上院議員は「特殊潜航艇の発見は日豪両国にとって重要な意義があり、文化遺産として最大限の敬意と名誉をもって扱う」と述べています。

まつ枝さんはジョン・ゴードン首相と会見します。
「オーストラリア海軍が戦争の中に我が戦士にしめされた行為はイギリス騎士道の発露であり心から感謝いたします」と挨拶しました。
現代日本ならば「我が子が攻撃をして迷惑をかけました」とくだらぬ謝罪をするのでしょう。
しかし、そうは言わなかった。
その母をオーストラリア国民は「勇者の母」と称えたのです。
くだらぬ謝罪をする母ならば称えはしなかったでしょう。
オーストラリア国民は決死の攻撃を敢行した日本海軍人に敬意を払っていたのですからね。

ある記者が会見で訪ねます。
「お母さん、最愛の息子を失いさぞ寂しいでしょう?」
まつ枝さんはこう返します。
「日本では国に忠義を尽くすことが本当の親孝行です。私の子供は大きな親孝行をしてくれました。少しも寂しくありません。心から満足しています」

しかしまつ枝さんはこんな歌を残しています。
君がため 散れと育てし 花なれど 嵐のあとの 庭さびしけれ

我が子を亡くし寂しくない母はいないのです。
しかし、武士の母は涙など見せぬのです。

オーストラリア国民は世界の戦士者の母のシンボルと称え、オーストラリア政府は「名誉市民」の称号をまつ枝さんに与えました。
更に佐藤栄作総理の積み残した外交懸案事項はことごとく解決しました。

まつ枝さんは後に松尾家の床の間に飾ってあった「教育勅語」を指差して「あの精神で行ってきましたよ!」と仰っています。

母の真実

日本に帰国したまつ枝さんに、このオーストラリアでの事を知ったテレビが取材しています。

事前の打ち合わせで局側からは「お母さん、最後は戦争は嫌だという言葉で結んで下さい」と言いました。

これに対し、まつ枝さんはこう返します。
「戦争が好きな人はいません。しかし、外国から無理難題を言われれば、やらねばならない場合もあります」
まつ枝さんは「戦争が嫌だ」と言う言葉を拒否したのです。

「戦争が嫌だというのは、暑いのは嫌だ、腹が減るのは嫌だと言うのと同じようなもので、一種の駄々っ子みたいなものではないでしょうか。戦争が嫌だと言うだけで日本が守れましょうか?」
と仰っる。

現代の我々に響く言葉です。

安藤てる子と言う戦争未亡人の歌があります。
「かくばかり みにくき国と なりたるか 捧げたる人の ただ惜しまる」

決して戦争など礼賛するものではありません。
しかし、この母を守る為に息子は散華したのです。

母もまた手塩にかけて育てた息子は忠義の孝行をする。死出の旅に行く。
この息子が一億の民を救うのだと、最大限の親孝行をするのだと。

我が子が死んで喜ぶ母などいない。
生まれて乳を与え、我が身より子供の成長を願い育て、その息子が自分より早く死ぬのです。

息子はその恩に報い、忠義を尽くす。

忠とは心の中と書きます。

それは心の真ん中、心の中心。
その真ん中に何を置くのか?と言う事です。

それが忠義なのです。

人には必ず母がいる。
母のいない人はいません。

その母が我が身を脱して自分を育て、立派な人間として生きていく事を願い教えるのです。

例えば、マンション建設偽装の当事者が母にメールをしたとか。
その母は取材に対し息子の過ちを謝罪する。

これは立派な人間になれ!と育ててくれた母の教えに対する裏切りなのです。
我が身を惜しみ、保身に走る。
過ちを認めず、今上手くやって罪から逃れる。

これは全て母への裏切り、母の教えに背くこと。

「戦争が嫌だと言って国が守れるのか?」と問う母の言葉。

日本の政治家は母の言葉、母の教え、母の願いを裏切ってはいませんか?

我々の生き方は母に胸を張って誇れるのでしょうか?

幾ら自分が凄い業績を成しても、その話しを聞いた母は必ず最後には「元気にしてるのかい?」と我が子の体を気遣う母に胸を張って誇れるのでしょうか?