前回は「農地解放」による明治維新を述べましたね。
では、今回は特権階級と呼べる武士階級について、どんな明治維新を迎えたのか。
明治維新で損をしたのは?
農地解放による、ダイナミックな経済改革は、これまでの制度をぶち壊すものです。
得をする者もいれば、損をする者もいます。
農民は得をした代表です。
では損をしたのは誰でしょうか?
それは武士だったのではないでしょうか。
「地租改正」は、それまで武士が持っていた土地を農民に分配するものです。
結果、武士階級は生活の基盤である土地を失いました。
富国強兵プロジェクトには莫大な資金が必要です。
最大の財源として「武士特権の剥奪」でありました。
武士が持っていた既得権益を取り上げる事で富国強兵プロジェクトの財源としました。
現代で言うならば、会社の役員をばっさり切り捨て、会社再建の費用を捻出するようなものです。
しかも武士の既得権益を奪ったのは、武士自身です。
この辺りが明治維新が「革命」ではないと言うことです。
既得権益に虐げられた階級が既得権益を打ち破り、自らの手で国を作る。
それが、世界で起きた革命です。
しかし日本の明治維新は既得権益が既得権益を打ち破り新しい国を作るのです。
既得権益が自らの既得権益を打ち破る。
それを革命とは呼びません。
かの坂本龍馬も下級ではあっても武士です。
既得権益側の立場です。
その既得権益で飯を食う人間が自らの食い扶持をぶち壊すのです。
これを革命とは呼びません。
明治新政府の要人は大部分が武士です。
武士特権剥奪に際しアホの左翼などは「薩長武士だけは優遇された」とほざきます。
確かに要人に薩長の武士出身者は多かった。
しかし、制度的に優遇された事実はありません。
「薩長閥」があったけれど、それは政治的派閥であって決して「制度的優遇」があった訳ではありません。
国の制度としては薩長も諸藩の武士も同じ扱いで、薩長武士も同じ様に特権を剥奪されています。
路頭に迷った武士階級出身者からは、明治新政府の指導者達は恨まれたものです。
武士団解体と言う軍制改革を実施しようとした大村益次郎は明治2年に暗殺されています。
また大久保利通も暗殺されています。
大久保利通は特に出身地の薩摩で強い恨みを買っており、鹿児島に彼の銅像が建てられたのは没後100年です。
明治新政府の要人は出身母体を自ら切り捨てる事でプロジェクトを推進しました。
自らの身を捨てても合理性を取る。
これこそが明治維新成功の大きな理由ではないでしょうか。
敵も味方も
明治維新の大変重要なスローガンは
「人材の登用」
門閥や立場、身分などにとらわれず優秀な人材を採用することにあります。
人材の登用は組織を合理化し、活性化する上では大変重要です。
しかし、これを実行するのは簡単なことではありません。
門閥や立場や敵味方を超えて広く人材の登用をすれば必ず利害がぶつかります。
とくに激しくぶつかり合った幕府側からの登用は感情的対立も生みます。
かなり困難なことです。
しかし明治新政府は旧幕臣からも積極的に採用しました。
最後まで明治新政府に抵抗した榎本武揚などは、3年ほどの刑期を終えると、そのまま政府高官に起用されています。
初代ロシア公使になっています。
当時はロシアと国境問題を抱えており、ロシア外交は特に慎重さを求められた。
その重要なポストに、つい5年前まで新政府と対立していた男を充てたのです。
明治8年には榎本武揚は中露特命全権大使として日露間で「樺太、千島交換条約」の締結を行い、日本の外交史に名を刻みました。
内閣制度発足後には文部大臣、外務大臣といった要職も歴任しています。
他にも幕府軍の実質的総司令官だった勝海舟も、明治新政府で初代海軍卿になっています。
敵の大将を新政府の海軍大臣にしたのです。
明治に活躍した旧幕臣は枚挙にいとまはありません。
実務を支える中、下級官僚にも多くの旧幕臣が名を連ねます。
明治4年には不平等条約改正の下交渉と欧米視察のために岩倉使節団が組織されました。
使節団は総勢46名。
うち10名が旧幕臣です。
明治新政府が如何に柔軟であったか。
明治政府はその後、首脳部の登用も門閥を廃し、能力主義に切り替えました。
発足当初の新政府は旧大名や皇族を中心に据えてきました。
これは明治維新はあくまで薩長のクーデターではなく諸藩が団結して天皇中心とした新国家を作る為です。
しかし明治4年の制度改正がなされると、明治維新で名を挙げた下級武士達が政権の中枢を担う様になります。
旧大名や皇族方では実質的に役に立たなかった、ということもあった。
明治新政府は「地位は高いが役立たず」を大ナタでばっさりリストラすることで、明治日本の活性化を達成した要因だと言えるでしょう。
では、今回は特権階級と呼べる武士階級について、どんな明治維新を迎えたのか。
明治維新で損をしたのは?
農地解放による、ダイナミックな経済改革は、これまでの制度をぶち壊すものです。
得をする者もいれば、損をする者もいます。
農民は得をした代表です。
では損をしたのは誰でしょうか?
それは武士だったのではないでしょうか。
「地租改正」は、それまで武士が持っていた土地を農民に分配するものです。
結果、武士階級は生活の基盤である土地を失いました。
富国強兵プロジェクトには莫大な資金が必要です。
最大の財源として「武士特権の剥奪」でありました。
武士が持っていた既得権益を取り上げる事で富国強兵プロジェクトの財源としました。
現代で言うならば、会社の役員をばっさり切り捨て、会社再建の費用を捻出するようなものです。
しかも武士の既得権益を奪ったのは、武士自身です。
この辺りが明治維新が「革命」ではないと言うことです。
既得権益に虐げられた階級が既得権益を打ち破り、自らの手で国を作る。
それが、世界で起きた革命です。
しかし日本の明治維新は既得権益が既得権益を打ち破り新しい国を作るのです。
既得権益が自らの既得権益を打ち破る。
それを革命とは呼びません。
かの坂本龍馬も下級ではあっても武士です。
既得権益側の立場です。
その既得権益で飯を食う人間が自らの食い扶持をぶち壊すのです。
これを革命とは呼びません。
明治新政府の要人は大部分が武士です。
武士特権剥奪に際しアホの左翼などは「薩長武士だけは優遇された」とほざきます。
確かに要人に薩長の武士出身者は多かった。
しかし、制度的に優遇された事実はありません。
「薩長閥」があったけれど、それは政治的派閥であって決して「制度的優遇」があった訳ではありません。
国の制度としては薩長も諸藩の武士も同じ扱いで、薩長武士も同じ様に特権を剥奪されています。
路頭に迷った武士階級出身者からは、明治新政府の指導者達は恨まれたものです。
武士団解体と言う軍制改革を実施しようとした大村益次郎は明治2年に暗殺されています。
また大久保利通も暗殺されています。
大久保利通は特に出身地の薩摩で強い恨みを買っており、鹿児島に彼の銅像が建てられたのは没後100年です。
明治新政府の要人は出身母体を自ら切り捨てる事でプロジェクトを推進しました。
自らの身を捨てても合理性を取る。
これこそが明治維新成功の大きな理由ではないでしょうか。
敵も味方も
明治維新の大変重要なスローガンは
「人材の登用」
門閥や立場、身分などにとらわれず優秀な人材を採用することにあります。
人材の登用は組織を合理化し、活性化する上では大変重要です。
しかし、これを実行するのは簡単なことではありません。
門閥や立場や敵味方を超えて広く人材の登用をすれば必ず利害がぶつかります。
とくに激しくぶつかり合った幕府側からの登用は感情的対立も生みます。
かなり困難なことです。
しかし明治新政府は旧幕臣からも積極的に採用しました。
最後まで明治新政府に抵抗した榎本武揚などは、3年ほどの刑期を終えると、そのまま政府高官に起用されています。
初代ロシア公使になっています。
当時はロシアと国境問題を抱えており、ロシア外交は特に慎重さを求められた。
その重要なポストに、つい5年前まで新政府と対立していた男を充てたのです。
明治8年には榎本武揚は中露特命全権大使として日露間で「樺太、千島交換条約」の締結を行い、日本の外交史に名を刻みました。
内閣制度発足後には文部大臣、外務大臣といった要職も歴任しています。
他にも幕府軍の実質的総司令官だった勝海舟も、明治新政府で初代海軍卿になっています。
敵の大将を新政府の海軍大臣にしたのです。
明治に活躍した旧幕臣は枚挙にいとまはありません。
実務を支える中、下級官僚にも多くの旧幕臣が名を連ねます。
明治4年には不平等条約改正の下交渉と欧米視察のために岩倉使節団が組織されました。
使節団は総勢46名。
うち10名が旧幕臣です。
明治新政府が如何に柔軟であったか。
明治政府はその後、首脳部の登用も門閥を廃し、能力主義に切り替えました。
発足当初の新政府は旧大名や皇族を中心に据えてきました。
これは明治維新はあくまで薩長のクーデターではなく諸藩が団結して天皇中心とした新国家を作る為です。
しかし明治4年の制度改正がなされると、明治維新で名を挙げた下級武士達が政権の中枢を担う様になります。
旧大名や皇族方では実質的に役に立たなかった、ということもあった。
明治新政府は「地位は高いが役立たず」を大ナタでばっさりリストラすることで、明治日本の活性化を達成した要因だと言えるでしょう。