犬神スケキヨ~さざれ石

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我が国のかたち...参

2017-12-24 19:26:40 | 草莽崛起
さて、このシリーズも3つ目になります。

このシリーズ、元ネタは故渡部昇一先生のお話が基になっております。

これを私なりに話してみたいと言う事で始めたものです。

このシリーズに触れて、故渡部昇一先生に興味を持っていただき是非とも氏の著書に触れていただきたいと言う思いです。

神風と言うもの


十三世紀の蒙古、支那の王朝になった『元』。
世界的に見てもこれは空前の大帝国であったわけです。

その蒙古・元の皇帝フビライ・ハーンからの日本への国書。
これが属国の高麗を通じて太宰府に来たのが1168年の元旦のこと。

太宰府は蒙古並びに高麗の国書を幕府に届け、これを幕府は直ちに朝廷へと届けています。
しかしこの国書の中身といえば、通好を求めるようでありながら実は
言うことを聞け!さもなくば戦をするぞ!
と言う様なものでした。

これは無礼であると、返答せずに高麗の使者を返したのです。

これには時の幕府もことの重大性を考え、北条政村が身を引く事になります。

その後、若い北条時宗を八代目に擁立するのです。

それから三年。

1271年蒙古襲来の計画が高麗より伝わって来ます。

幕府は鎮西の将軍に『国防強化』を指示します。

そこへ高麗蒙古から使者が国書を届けにやって来ます。
しかし幕府はこれも無礼であると追い返してしまいます。

この間に蒙古や高麗の使者達は、二ヶ月に渡り滞在していました。
しかしこれは、地勢人情などの調査を行っていたのでした。

翌年も高麗から国交を求める使者は来るのですが、これにも我が国は応じていません。

1273年
趙 良弼(ちょう りょうひつ)と言う人物が百人程の部下を連れて日本にやってきましたが、これも追い返しています。
帰国後フビライに日本について聞かれた趙 良弼はこの様に答えています。

日本人は非常に野蛮で好戦的。土地は山と川しかなく、この様な土地では獲得したところで富にはならず。更に海を渡らねばならぬけれど、風は定まらず如何なる損害がでるかわからない。

要するに『関わるな』と言うことです。

しかしフビライは聞き入れません。

この趙 良弼の指摘は的確です。

文永十一年 蒙古・高麗連合軍は日本に向け出発、十月五日対馬に上陸

元軍一万五千

高麗軍五千六百

高麗人の水夫・舵取り六千七百

計三万の軍勢!

対馬守護代宗助国がこれに立ち向かいます。
しかし、僅か80騎程度の戦力。
全員玉砕。

十四日には元・高麗連合軍は壱岐に上陸。

守護代平景隆は奮戦、勇戦するも利せずに自害。

対馬から急報を受けた太宰府は西国豪族に連絡をしていました。
豪族たちは肥前沿岸に集結しつつありました。

しかしながら、源平一騎打ちしか知らない日本軍、対して元・高麗連合軍は集団戦法を取り石火矢という鉄砲の一種や毒矢までも使用していました。

この為、日本軍は苦戦を強いられます。

しかし、九州の豪族少弐資能(しょうにすけよし)の息子景資の放った矢が敵将劉復亨を倒しました。

その為、元の軍隊は追撃を止め船に引き揚げたのです。

二十日夜には幸いな事に暴風雨となり元・高麗連合軍の多くの船が沈んでいったのです。

これが『文永の役』であり、最初の神風!

その後も、フビライは日本征服を諦めず1281年夏に、朝鮮半島から四万人の軍勢が九百の船で壱岐・対馬を襲い、さらに筑前志賀島、能古島を占領。
宗像の海岸で激戦を繰り広げるのです。

さらに元は南方より范文虎率いる十万の軍勢が三千五百隻の船で、志賀島・能古島・鷹島に上陸。

しかし、最終的にはまたも台風による大打撃により撤退を強いられてしまいます。

『弘安の役』で二度目の神風!

最終的には、神風による大打撃がとどめを刺した形で決着するのですが、そこに至るまでに北条時宗を筆頭に、宗助国ら豪族たちの奮戦、勇戦、善戦があったのです。

その奮戦、勇戦、善戦の為に元の軍勢は上陸しても海岸付近から先に進むことが出来ず、モタついている間に台風が来たのです。

もし貴族が政権にあったなら、こうした実戦、外交が実質的にできたでしょうか?
武士が台頭し政権を握ったからこそ元寇で軍事的選択をし善戦できたのではないか?

この元寇という国難に対しリアリズムで対抗出来たからこそ退けることが出来たと言えるのです。