今のところ、是非読みたい本があって、それは1月30日付けのブログ「クルマの運転中に”マタイ受難曲"を聴くなんて!」の中で出てきたN響のオーボエ奏者の「茂木大輔」さんの著書「オーケストラは素敵だ」。
とはいうものの、随分昔の本みたいなので地方の書店ではとても無理、そこでとりあえず県立図書館へと足を向けてみた。1月31日の日曜日のこと。
館内に設置されたパソコンで検索してみると「貸出し中」の表示が出ていてあっさりアウトで残念無念。
ただし、続編の「続・オーケストラは素敵だ」~オーボエ吹きの修行帖~があったので、行きがけの駄賃とばかり早速借りて一読してみた。
「続・オーケストラは素敵だ」(1995.7.10、音楽之友社)
いや~、面白かった。この著者は音楽家にもかかわらず筆力の冴えにも恵まれていて文章にリズムと展開力がある。どうやら「天は二物を与える」ものらしい。思わず熱中して瞬く間に読み上げてしまった。
内容のほうも、自分のような楽譜の読めない素人はもちろん音楽評論家でさえも”うかがい”知れない演奏者の視点からの音楽論がなかなか新鮮。
一番興味を持てたのは、オーケストラ〔以下、「オケ」)の一員からみた指揮者論だった。
「悪いオーケストラはない、悪い指揮者がいるだけだ」という有名な言葉があるが、オケと指揮者の関係を赤裸々に綴っているのが出色。
「何だ、そんなことぐらい分かっている」と、言われる方もあるかと思うが次のとおり。
学生時代「指揮者なんてものはただのカザリに過ぎないのに演奏会でもレコードでもたいへんに大きく扱われ舞台でも一番偉そうにしているのはなぜなんだろう?」という素朴な疑問がまず出発点。
そして、実際にオケで演奏するようになってから「素晴らしい指揮者もそうでない指揮者も両方体験して」具体的な指揮者論が次のとおり展開される。
1 まずテンポが違う。指揮者の基本的な仕事は「拍」を示すことでそれが最も顕著に影響するのはテンポ。このテンポほど音楽の表情を変えてしまうものも外にはない。
2 次に指揮者の動作による音楽の構築。舞台の上でどっちを向いているか、動作全体の大きさ、特に左手はどうしているか。人間は不思議なものでこっちを向かれると思わず真剣になる。また、自分のほうに手をかざされると自然と音は小さくなる。
3 N響定期公演にはそれぞれ3日間午前午後2時間ずつのリハーサルが予定されており、この使い方が指揮者の力量によって大きく違う。」
というわけでサバリッシュ、シュタイン、デュトワといったN響の名誉指揮者たちが続々と出てきて練習の仕方が紹介されるがそれぞれ個性的で各人各様なのが面白い。
以上のとおりだが、指揮者論になるといつも出てくるのが、文学、絵画、彫刻などと違って音楽は(楽譜が大元になっている間接芸術なので)指揮者(演奏者)の数だけ作品があるという話。
これが芸術としていいことなのか、悪いことなのか速断できないが、多様性を楽しめる点は実にいい。選択肢が増えるし、いろんな演奏の比較が出来ることでより一層興趣が深まると思う。
たとえば、自分の場合大のお気に入りのモーツァルトのオペラ「魔笛」をCD,DVDなど全部合わせて44セット購入したおかげで、好きなイメージにマッチした演奏を発掘できたし、その過程を大いに堪能出来たのは本当にありがたかった。
最後に、「オーケストラ楽員は指揮者に何を期待するか」というアンケート結果があるのでそれを紹介して終わりとしよう。(シャルル・ミンシュ著「指揮者という仕事」から)
☆ 音楽について際立った解釈をして楽員を奮い立たせること。
☆ ソロ(単独演奏)が力まないでもはっきり聴き取れるようにオケのバランスをとること
☆ 明瞭なビート(拍子の指示)は基本的な役割
☆ 本番中に事故(演奏者が思わず犯すミス)が起きても気づかない振りをすべき。〔笑)
☆ トスカニーニの時代は去ったことを悟るべきだ。芸術上の独裁者は良くない。
☆ 指揮者は最小限の「発言」で意思伝達が出来るように。トスカニーニは実に非凡でそれをバトンテクニックの技のうちに秘めていた。
☆ リハーサルで奏きそこないがあるたびに冒頭に戻る習慣は、楽員たちの反感を買うだけだ。
☆ 奏者と楽器の両方の能力と限界を知っている専門家であるべき。
☆ 教師であり、指導者であり、最高の専門家であり、そして音楽史上の偉大な作曲家たちの最も深遠な思想が通り抜けねばならない煙突である。