先日の音楽談義”意味がなければスイングはない”の末尾で取り上げた逸話の持主、ピアニスト「ルービンシュタイン」に改めて興味が湧いた。
あのスペインの高級娼家で即席コンサートを開いたルービンシュタイン。その飾らない(?)人となりと芸術に対する資質との関連を何だか確認してみたくなったというのがその理由。
ルービンシュタインの紹介記事についてはWikipediaにこうある。
アルトゥール・ルービンシュタイン(1887~1982) ポーランド出身(ショパンと同郷)
前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカで活躍した。ショパンの専門家として有名だがブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。20世紀の代表的なピアニストの一人。(中略)
引退後、自伝「華麗なる旋律」を執筆。結婚中に数多くの女性と浮名を流し最晩年になっても愛人と同棲していた。バイセクシャルであることを隠そうともしなかった。
以上のとおりだが、こうした「へその下には人格なし」のような大ピアニストが、果たしてあの上品で優雅の極みともいえるショパンをどのように弾きこなしているのだろうか、大いに興味があるところ。
たしか彼の弾いたショパンを持っていたはずと、手持ちのCD盤の中からルービンシュタイン演奏のものを探してみたところ意外にも次の6枚が見つかった。
ルービンシュタインの弾くショパンは定評があるので、いつかは聴こうと思ってずっと以前に購入しておいて、どうやらそのままお蔵入りになっていたようだ。
ショパン 夜想曲(ノクターン)Vol.1(第1番~10番) 1965年RCAスタジオ録音
〃 夜想曲Vol.2(第11番~19番)、同上
〃 マズルカ(第2番~47番)、1965年、ニューヨークで録音
〃 バラード(第1番~4番)、スケルツォ(第1番~4番)、同上
〃 ワルツ(第1番~14番)、1963年、RCAスタジオ録音
ベートーベン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、同4番「ト長調」、ボストン交響楽団
この中でワルツは例外的にときどき聴いており、録音状態は昔のレコードをCD盤に焼き直したものであまり良くないが、オーディオのテスト盤として、この盤のピアノがうまく鳴らないときはどこかで調整がうまくいってない判定の証として重宝している盤。
したがって、今回はこの盤を除いて残る5枚を全て試聴してみた。
久しぶりに耳をそば立てて集中して聴いたが全てが実に良かった。特に感銘を受けたのは夜想曲(ノクターン)。甘美で感傷的な旋律を歌わせる夢想的な小品集だが
優雅の極みを通り越して幻想的でショパン独特の世界に誘われる気がした。
これらをずっと聴かないでそのまま放置しておいた時間を取り戻したいほどの名演で、比較するために今度はアルフレッド・コルトーのCD盤(全集盤)を引っ張り出して試聴してみた。
コルトー(1877~1962)はフランスの名ピアニストで1907年、パリ国立音楽院ピアノ科教授に就任しショパンの極め付きの模範的な奏者として知られている。
試聴結果だがやはりコルトーは、学者の趣を感じさせるタッチで「ショパンはこのように弾きなさい」とまるで生徒に言い聞かせるような立派な演奏。ただし、録音の悪いのが玉に瑕。
それに比べて、ルービンシュタインの方は抑制と情緒性のバランスがよくとれた演奏でそれも透き通ったピアノの音の響きが驚くほどきれい。総合的にみてルービンシュタインの方に軍配を上げたいほど。ライナーノートには意外にも録音時の真摯かつシビアな様子とともに他人に細やかな心遣いをするやさしい人柄が記載されている。
やはり、人間が持つ多面性と個有の芸術性とはひとくくりにはできないものであるとつくづく思った。実は、こういう例は音楽の世界ではルービンシュタインだけに限らない。
例えば作曲家では、あのモーツァルトは一種のふざけ屋さんで”なーんちゃって音楽”(青柳いずみ子氏)の趣を強く持っているし、決して聖人君子でもなく、映画「アマデウス」で描かれた人間像はウソではないと思う。
また、ベートーベンの晩年は随分ケチでわからずやだったし(耳が遠くなったので無理もないが)、ドビュッシーはお金のために一緒に苦労した妻を捨てて金持ちの未亡人に走った。楽劇で知られるワグナーは友人でもある指揮者の奥さんを平気で寝取って自分の妻にした。ほかにも自分が知らないだけでおそらく一癖も二癖もある連中が実に多い。
指揮者にしても、一流として知られるべーム、クレンペラー、フルトヴェングラーなども人間的にはあまりいい評判を聞かない。
こうした実例に接すると結局のところ、芸術家といっても一人の人間に過ぎない。
作品のイメージと重ね合わせてあまねく高潔な人格を持った人物として偶像視するのはどうやらやめておいたほうがよさそうで、むしろ、そうした血の通った人間味が作品と私たちを結び付けてくれる要素の一つかもしれないなどと思っている。