「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

読書コーナー~「大谷翔平の素顔」ほか2冊~

2018年04月28日 | 読書コーナー

読書にふさわしいのは秋というのが相場だが、なぜか気候が良くなると本が読みたくなり、つい熱中してブログの更新がおろそかになってしまった(笑)。

さて、以前のブログにも書いたことがあるが、図書館の充実度はその地域の文化水準を表す指標になるらしい。

全国津々浦々の図書館を歴訪され埋もれた資料を発掘しながら数々の優れた歴史小説をものにされた作家の「吉村昭」さん(故人)のエッセイにそう書かれていた。

それからすると我が居住地の別府市は住むのには好きな土地柄だが惜しいことに図書館だけはどうしても感心できない。

まず専用の建物がない。古びたビルの2階の、それ程広くもない1フロワーを借り切っているだけなので蔵書もお粗末だし、専用駐車場もないしで人口10万人以上の都市としてはきっと全国でも最低水準に違いない。

そこで、つい押し掛けるのが人口が3万人程度の鄙びた隣町の図書館。別府市と違って堂々たる図書館が2年ほど前に開館された。以前は「(帆足)万里」図書館といっていた。

「帆足万里」と言ってもおそらく「それって誰?」だろうが、江戸時代後期の儒学者で「三浦梅園」「広瀬淡窓」と並んで「豊後三賢」の一人である。やはり立派な図書館が建立されるにはそれなりの文化的な歴史と背景が必要とされるようだ。

風光明媚な別府市だがこれまで名だたる文人は輩出されていない。温泉と観光にまつわるサービス産業で生きてきた町だから、どうやら「そろばん勘定」で忙しかったらしい(笑)。

グチはそのくらいにして、この隣町の図書館は誰にでも本を貸し出してくれるし、
しかも都会では引っ張りだこでなかなか読めそうもない新刊が簡単に借りられる、いわば穴場的な存在となっている。

    

今回も運よく上記の3冊が借りられた。

☆ 道ひらく、海わたる~大谷翔平のすべて~

メジャーリーグで今や「時の人」になっている大谷翔平選手の生い立ちから素顔まで詳細に記した「道ひらく、海わたる~大谷翔平の素顔~」は「鵜の目鷹の目」の都会ではまず簡単に借りられないはず。 

著者の佐々木氏は大谷選手が高校1年生のときに出会って以降8年間ずっと接触されてこられた方で、これ1冊読むと大谷選手の育ち、性格、そして運動能力まですべてわかると言っても過言ではない。

大谷選手を一言でいえば「何か何まで器が大きい」に尽きる。スポーツ選手に欠かせないメンタル的なタフさとチャレンジ精神がひときわ光っているのも印象的。

素人の戯言と受けとられても仕方ないが、今後「空前絶後の野球選手」になると折り紙をつけておこう。大谷選手に興味のある方はぜひご一読をお勧めしたい。

☆ 豆腐の角に頭ぶつけて死んでしまえ事件~空前絶後の密室殺人~

6つの短編が収められており、いずれも面白かった。これまで限りなくミステリを読んできたので、僭越ながら一読しただけで作家に才能があるかないかはおおよそ分かるが、この作者「倉知 淳」氏は大いに才能あり(笑)。

表題の「豆腐の角に・・・」は、その中の1篇だが、戦争中の陸軍の諜報活動を題材にした人体実験のお話である。頭部に深い傷を負った練習兵が実験室で死亡しており、その周りに「豆腐」が散乱していた。まるで「豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまった」としか言いようのない事件である。

まことに滑稽で奇妙な事件だが、後で謎解きがされており成る程と感心した!

ただし「馬鹿にするな!」とお腹立ちの方もいるかもしれない。

ミステリなのでこれ以上の詳述は避けておこう(笑)。

☆ ヴァイオリン&ヴァイオリニスト(音楽之友社編)

地方の片田舎でこんな本が借りられるのだからたまらない。我が家のオーディオ・システムは「ヴァイオリンがうまく鳴ってくれないことには始まらない」ほどの「ヴァイオリン・命」を旨としている。

本書にざっと目を通してみたが、その大好きなヴァイオリンについて楽器から演奏者までありとあらゆることが満載されており、これは「ぜひ常備しておかねば」と、急いでネットで注文したほどの充実した本だった。

とりわけ重宝するのがヴァイオリニストたちの紹介で「歴史的偉人」に始まり、「現代の名ヴァイオリニスト」たちが数多く登場する。

現在お気に入りなのは「マキシム・ヴェンゲーロフ」「ギル・シャハム」そして「ヒラリー・ハーン」といったところだが、本書でも大いに称賛されていたのはうれしかった。

                

以前、ヴェンゲーロフの「ブルッフのヴァイオリン協奏曲」の重厚な響きを聴いて「凄いヴァイオリニストだ!」と、感銘を受けたがその後故障による引退が伝えられてがっかりしたものの、本書によると4年後に見事に復活を遂げたようでこれは朗報。

またヒラリー・ハーンの名声が本国アメリカで非常に高まっているとのことだが、ハーンほど賛否両論別れるヴァイオリニストも珍しい。バッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタ」はその典型で、「精確無比の演奏だがこれはバッハではない」という声も聞く。

たしかめる意味でシベリウスとエルガーのヴァイオリン協奏曲を購入して聴いてみたが、どうも情感的な面で物足りないと思うものの「未完の大器」のような趣があっていつも気になるヴァイオリニストである。

ただし、現在の活動の拠点アメリカからクラシックの本場であるヨーロッパに(拠点を)移さないと、どうがんばっても脱皮できないような気がする。

ギル・シャハムは妹(ピアニスト)と共演したモーツァルトの「ヴァイオリン・ソナタ集」に尽きる。これは自分にとっては永遠の名盤である。現在でも脂が乗り切った状態で音楽活動に励んでいるようでたいへん頼もしい。

とにかくヴァイオリン好きの方にはぜひ常備しておきたい1冊である。

 

 


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長時間聴いても疲れない音

2018年04月24日 | オーディオ談義

我が家にやってきてからおよそ2か月になるJBLの「175」ドライバー。

    


すでに小型のハチの巣ホーンを持っていたので、本体を手に入れてセットにしたうえで「な~に、気に入らない音が出たときはオークションにでも出そうか。」ぐらいに思っていた。。

ところが、実際に同じJBLのD130(イン・ウェストミンスター:口径38センチ)と組み合わせたところ(クロス1000ヘルツ)、まるで水を得た魚のようにとてもいい具合で鳴ってくれる。

ジャズを聴くのなら絶対にこのシステムで、そしてクラシックならワーフェデールの2ウェイ、両方聴くのなら「AXIOM80」という棲み分けに大いに満足していたのだが、そのうちやっぱりジャズはどうしても肌に合わないようでめったに聴かない。

サキコロなど音響試験時のテスト盤としては重宝しているが、日常聴くとなるとエラ・フィッツゼラルドなどの女性ボーカルを聴く程度で、やっぱりモーツァルトが落ち着く(笑)。

こういうことなら何もジャズ専用のシステムなんか必要ないというわけで、しばらく「175」を休養させることにした。音の素性はいいのでもったいないですけどねえ。

実はヴァイオリンがソースによって、とてもうまく鳴るときと、そうでないときの落差が激しいのも休養させた一因だった。ときに、いや~な金属的な響きが出てしまうのでため息が出てしまう。これはもうダイヤフラムを使ったユニットの限界に違いないが、もちろんジャズにはこの響きがもってこいなので仕方がない。

そこで「175」の代わりに登場したのがワーフェデール・システムの中高音域部分に使っていた木製のホーンだった。

   

当初は楕円形の「イソフォン」(8Ω:ドイツ)を収めて聴いていたのだが、音の響きが若干足りないようなのでグッドマン(16Ω:イギリス)に変えたところさすがだった。大きめのアルニコマグネットの威力も捨て難い。

以前ならこの2ウェイシステムにツィーターを付け加えるところだが、周波数レンジよりもハーモニーを重視して無視することにした。

後日のためにチャンデバを使ったこのシステムの概要を記録しておこう。

CDトラポとDACは「dCS」(イギリス) → 
プリアンプ「クリスキットマークⅥ」 → チャンデバ「2ウェイ仕様のクロス1000ヘルツ:12db/oct」

低音域(~1000ヘルツ)

パワーアンプ「71Aシングル1号機」(前段管:6SN7) → スピーカーJBL「D130」(口径38センチ:イン・ウェストミンスター)


高音域(1000ヘルツ~)

パワーアンプ「71Aシングル2号機」(前段管:ナス管AC/HL) → グッドマン楕円形ユニット(イン・木製ホーン)

低音域と高音域のアンプを「71Aシングル」に統一した威力は絶大だった。とても素直な出力管とあって、まったく音色に違和感がなく大型のフルレンジが鳴っているような錯覚に陥らせてくれる。

   

最大のメリットは長時間ぶっ続けで聴いてもまったく耳が疲れないところ。

音質の品定めの要素にはいろいろあって「分解能」「奥行き感」「艶」「セパレーション」「周波数レンジ」など枚挙にいとまがないが、これらを全部ひっくるめて「長時間聴いても疲れない」には太刀打ちできないように思えてきた。

今のところ、これが我が家のベスト・システムかもしれない(笑)。

   

 


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オーディオ仙人の枯れた夢

2018年04月22日 | 独り言

2週間ほど前の「日本経済新聞」に大きく一面を使って「日本人の夢を大調査」という記事があった。

そのうちのランキングベスト3を紹介してみよう。(調査の対象は全国47都道府県から各300人、総勢14,100人)

第1位 健康な生活を送りたい(810件 11.1%)

第2位 好きな趣味に打ち込みたい(724件 9.9%)

第3位 マイホーム(一戸建て)に住みたい(626件 8.5%)

「夢」とはいいながら誰にでもちょっと手を伸ばせば届きそうな、いかにも堅実でささやかなものばかりですねえ(笑)。

取り分け第2位の「好きな趣味・・・・」は簡単に実現できそうな気もするが、中高年の働き盛りにとっては日常の仕事に追いまくられているので趣味に割く時間がもっと欲しいという欲求の表れなのだろう。

好きな趣味に打ち込むことがいかに楽しいかということを改めて思い知らされるとともに、引退したら思う存分熱中したいという願望は自分にも切実だったのでその気持ちはよく分かる(笑)。

幸いなことに、ここ10年ほどはたっぷりある自由時間をフルに活用し、明けても暮れても「音楽&オーディオ」三昧だったのはこのブログでもご覧のとおりだが、実はこれでもう十分「夢」をかなえた気がしている。

たとえば、人間は「おぎゃあ」と生まれた時点で「100年以内にお前を死刑執行する。具体的な時期と執行方法は教えない。」と宣告される悲しい存在だが、もし「お前は明日死ぬ」と宣告されたとしても「ハイ、わかりました。もう思い残すことはありません。」と従容(しょうよう)として死を受け容れてもいいほど楽しませてもらった(笑)。

まるで達観したような物言いだが、実は先日(15日)の「2018九州ハイエンド・オーディオ・フェア」の影響もこういう気持ちの背景のどこかにある。

なぜかというと、アンプもスピーカーも数百万円もする高級機器群が期待以上の音を出してくれないことにガッカリしてしまった。お値段が高い機器はそれなりの実力を発揮してくれないと困る。もう「夢」がぶち壊し~。

つくづく「お金」だけではカタがつかないオーディオの限界を思い知らされたわけだが、「夢をもらう」積りで出かけたオーディオ・フェアが逆に「夢を断ち切る」方向に作用したのだからほんとうに困ったことです(笑)。

現実に高級機が期待できないなら自分の価値観に基づいて新たに発掘するしかないが、
近年身の回りでどうしても手に入れたいという真空管やオーディオ機器がとみに少なくなってきたのも事実。

現状の音にほぼ満足しているし、いろいろやってみてもこれ以上のドラスティックな改善は望むべくもなく、所詮は五十歩百歩という気配がより一層濃厚になった気がする。

これが進歩か退歩かよく分からないが、オーディオは音に満足した時点で進歩が止まるのが通例で、その代わり音楽の方に専念できるという別の魅力的な世界が開けてくる。

「好きな音楽さえ気持ちよく鳴ってくれれば細かい音質の差なんかどうでもいい」という「オーディオ仙人の枯れた夢」に到達できればそれで良しとしたいが、はたしてこれからどうなることやら(笑)。

旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる(芭蕉)



 


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2018九州ハイエンド・オーディオ・フェア

2018年04月19日 | 独り言

去る15日(日)、「2018九州ハイエンド・オーディオ・フェア」(会場:福岡市、「マックス・オーデイオ」主催)に行ってきた。

         

昨年に続いて2回目の訪問だが、九州の片田舎では日ごろ聴けない高級機が一堂に会する得難い機会なのでオーディオ仲間(4名)で押し掛けた。

10か所ほどのブースを聴いて回ったが、機器の「エージング不足」を割り引く必要があるし、我が家の旧式な音と比較しての個人的な感想なのでどうか「真に受けないようにね」とお断りして、腹蔵のない意見を述べてみよう。

何しろ他人のシステムを云々するときとは違って、いくら貶(けな)してもいっこうに構わないのがとてもいい(笑)。


まず個別のスピーカーごとの感想からいこう。

   

JBLの「エベレスト」(648万円)だが、妙に低音域が膨らんでいて嫌な音だった。2本のウーファーのうち1本はサブウーファーの役割とのことだが、「コルトレーン&ハートマン」(レコード)では音像(歌手の口元)がやたらに大きくなってとても聴けたものではなかった。

同行の仲間曰く「カートリッジの選択ミスですね。昔のレコードをこんなところで鳴らすものではありません。」

「成る程、スピーカー側の一方的な責任ではないかもしれませんがそれにしてもねえ。こんなスピーカーならただでくれるといっても願い下げですよ。」(笑)。

    

アバロン(580万円)というスピーカーだったが、もう弦の音が固くて硬くて・・・。このスピーカーの存在価値がどうもよく分からない。

     

タンノイさんの「カンタベリー」(356万円)だが、これも感心できなかった。やたらに高音域がうるさく何だか金属的な響きがするし、低音域の沈み込みも明らかに足りない。

昔のタンノイは良くも悪くも「いぶし銀のような音」に特徴があったのだが、まさに隔世の感がある。

クラシック再生に限らずジャズの再生も併せて狙ったような音だったがどうも周波数レンジを広げ過ぎて音の密度を薄くしたような印象で、このスピーカーもただでくれるといっても要らない。

   

モニターオーディオ(イギリス)の「PLー300Ⅱ」(160万円)だが、これが一番気に入った。日本のイギリス大使館に収めてあるそうだが、とてもバランスが良く品のいい音で感心した。

低音域の沈み込み、独特のツィーターによる高音域の自然な佇まいなど非の打ちどころがなく、これは欲しいなあ、一瞬、我が家のウェストミンスターを叩き売ろうかと思ったほど(笑)。

ただし、仲間に「モニターオーディオが一番良かった!」と言っても皆さん「?」だったが、それぞれが個別に回ったので聴く機会がなかったのかもしれない。

    

これは大きな真空管ですねえ!「CSーport」のシングルアンプ(5、378千円)だそうで、見かけに応じてどうせ大味な音だろうと思ったがそうでもなかった。

しかし、こういう大型管を使う必然性とメリットについては短い試聴時間ではどうもよくわからなかった。

以上のとおりだったが、総合的な所感は次のとおり。

 総じて周波数レンジが広くてよく言えばブライト、悪く言えばギラギラした音が多かった。こういう音は「ちょっと聴き」はいいのだろうが長時間聴くとなると耳が疲れそうで、ついていけない気がした。少なくとも静謐感のもとでクラシック音楽に浸れる音ではない。まあ、瞬間風速向けのデモ用に調整された音なのかもしれないが。

 オーディオはどんなに高価な機器でも必ずしも「気に入った音は出ない」ことを改めて感じた。「パワーとお金は、かければかけるほど音が悪くなる」という通説は一面の真実ではありますなあ。

いずれにしても今回のフェアを通じてアンプにしろスピーカーにしろ昔と比べて進歩したのだろうかという思いが沸き起こったが、一方では自分の耳がガラパゴス化した可能性もありそうだ(笑)。


 


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モーツァルトの「ケッヘル467」

2018年04月17日 | 音楽談義

1か月に1度のペースで薬をもらいに訪れる近くのクリニック(整形外科)。

昼下がりの待合室で備え付けの週刊誌「サンデー毎日」(2018.4.8)を読んでいたところ、先日(2018.3.13)亡くなられた作家「内田康夫」(享年83歳)さんの記事が目に入った。

内田さんと言えばルポライターが探偵役となって活躍するミステリ「浅見光彦」シリーズ(軽く100冊を超える)で有名だが、文庫本の発行部数が累計9700万部というから凄い。

実はこのシリーズは自慢するわけではないが図書管から借りてきてほとんど読み尽くしている。いわば肩の凝らないライトミステリーという印象だが、文章が巧みなせいか読者をぐいぐい引っ張る力がある。次から次にベストセラーになって読み継がれていくのも「むべなるかな」。

ただし、2015年に脳梗塞を患らわれたせいか、それ以降、僭越ながら明らかに筆力の衰えを感じていたのだが突然の訃報にやはり淋しい思いを禁じ得ない。

週刊誌の記事には内田さんがリハビリ中に詠まれた短歌が掲載されていた。クリニックの受付嬢にお願いしてメモ用紙をいただき記載したのがこれ。

「いつの日か 終れる生命(いのち)の いとしくて 耳かたむける ケッヘル467」

いわば「辞世の句」ともいえそうだが「ケッヘル467」といえば、言わずと知れたモーツァルトのピノ協奏曲21番のことですね。第二楽章の美しい旋律はとても有名で洋画のテーマ音楽(「短くも美しく燃え」)などにも使われている。

また有名ピアニストのレパートリーにも数多く含まれている名曲


    

ちなみに「ケッヘル」とはご存知の方も多いと思うがモーツァルトの研究家「ケッヘル博士」が膨大な曲目を独自に編纂した作品番号のことである。モーツァルトと不可分に結びついた作品番号によってケッヘル博士は永遠に名を遺したことになる。

内田さんがクラシックファンとは初耳だった。しかもモーツァルトですか・・・。そういえば自然で流麗な文章のリズム感がモーツァルトの「天馬空を駆ける」ような音楽ととても似通っている。

モーツァルトの音楽を聴きながら「余命いくばくもなし」の感慨に浸れる人にはたいへんな親近感を覚えてしまう。

それ程遠くない将来に必ずやってくる「お迎え」に対して、どのように気持ちを寄り添わせていくか、自分にとっても大きなテーマだが、そういうときにモーツァルトの音楽が格好の媒体になるのは言うまでもない。

実は「通夜のときにモーツァルトの音楽を耳元で鳴らしてくれ。ラジカセでもいいからな」と家人に頼んでいる。

まずはオペラ「魔笛」であり、続いてピアノ・ソナタ群、ヴァイオリン・ソナタ群が続く。さらにモーツァルトが10代後半に作曲した「ケッヘル136」「ケッヘル165」も絶対忘れてはいけない。

ただし実際にはどうなることやら、確かめる術(すべ)がないのがつらい(笑)。

最後にモーツァルト(享年35歳)の「死生観」を紹介しておこう。これは、オペラ「ドン・ジョバンニ」を構想する前に父親に送った手紙の一節とのこと。(小林秀雄著「モーツァルト」から)

「(仔細に見れば)死は人生の真の最終目標ですが、数年このかた、ぼくはこの真実の最上の友にすっかり馴れてしまったので、もはや死の面影はいささかもおそろしくないばかりか、大いに心を静め、慰めてくれます!

そうして、われわれの真の至福への鍵として死を考える機会(父親の病気のこと)をあたえてくださったことを、神に感謝しています……。

ぼくは(まだこんなに若いのに)、おそらく明日はこの世にはいまいと考えずに床についたことはありません。しかしながら、ぼくを知っている者はひとりとして、ぼくがつき合いの上で陰気だとか悲しげだとか言える者はいないはずです。ぼくはこの幸福を毎日神に感謝し、だれしもがこのしあわせに恵まれるよう心から祈っています。」

沢山の人を楽しませてくれた内田康夫さん、モーツァルト同好の士としてどうか安らかにお眠りください。

合掌



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オークション情報~春の夜の夢~

2018年04月15日 | オークション情報

やっぱり見通しが甘かったか!

先日、名の変哲もないスピーカーがオークションに出品されていた。

       
タイトルは【AXIOM】ペア スピーカー GOODMANS グッドマンズ を出品致します。そして解説はこうある。

「音出し確認済み。音には問題ないと思います。中古品のため、小さな傷、サビ等ございます。
状態は画像にてご確認ください。譲り受けたもので当方全くの素人のためそれ以外のことはわかりかねます。何かございましたら質問していただけたら答えられる範囲内で答えさせていただきます。」

正直言って今どき「GOODMANS」といっても見向きもしない人たちの方が多い。ただし、自分にはかねがね狙っているユニットがあるので、念のため内蔵されているユニットの画像を覗いてみたところ何と「AXIOM80」が入っているではないか!

            

これには驚いたねえ。ズブの素人さんはこれだから怖い(笑)。

まともな「お値段」を付けるとしたら軽く15万円は超える代物だが、タイトルにも「AXIOM80」の文字はいっさい無いので誰も気づいていないようでずっと入札価格は2万円程度のままで推移している。

現在「AXIOM80」は最初期版を1ペア、復刻版を2ペア所持しているので自分には不要だが、うまく落札できれば「小遣い銭稼ぎ」ぐらいにはなるかもしれないなんてついほくそ笑んでしまった(笑)。

ところが・・・。そこで冒頭の「見通しが甘かった」に行き着く。

落札日の前日ぐらいから入札価格がぐんぐん上昇してアッという間に10万円を超えてしまった。どうやら気付かれた方が多いようで、やっぱりオークションは生き馬の目を抜く世界だなあ。

かくして落札価格は189,800円(14日)に落ち着いた。

結局「春の夜の夢」だったのか!(笑)

なお、これはお買い得だったと思いますよ。昨年3月のオーディオ・フェア(福岡)で聴かせてもらった1000万円近いスピーカーに対してAXIOM80は部分的にしろ上回るところがあったんですからねえ。

 


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オーディオ=精神物理学+感性

2018年04月14日 | 独り言

「ウヮ~ッ、汗臭い!」

午後のウォーキングから自宅に帰って家内とすれ違ったとき、つい外方(そっぽ)を向かれてしまった

たかが汗の匂いなんかで、ガタガタ言うな!」と一喝してやりたいところだが、どこで陰湿な「復讐劇」が待っているか分からないのでぐっと我慢(笑)。

さて、この「匂い」というもの、たとえば閉め切った部屋の中で「嫌な匂い」を消臭剤や空気清浄機で半分まで減らしたとしても、私たちは「あぁ、半分の匂いになった」とは感じない。

「ほとんど変わってない」あるいは「やっぱり匂う」と感じてしまう。実は「半分になった」と感じるためには、「匂い」の90%を除去しなければならない。

「音」だってそう。

私たちはかすかな「虫の音」と「コンサートの大音量」を同じように聞く〔感じる)ことができる。もし人間が音量の絶対値を感じとることができるとすれば、「虫の音」は小さい音量なので感じ方も小さく、コンサートの大音量であれば感じ方も大きいことになるが、実際にはそうではない。

音の大小にかかわらず感じ方〔感覚)は同じで、小さい音も大きい音も同じように感じることが出来る。

たとえば10のエネルギーを持つ音があるとき、何倍にすれば人間は音の大きさ(感覚)が倍になったと感じるだろうか。

普通に考えると「倍だから、エネルギー量は20では?」と考えるが、人間の耳はそれほど鋭くはない。「2倍になった」と感じさせるには、実際には10倍の音の大きさにしなければならない。「10」の音が「100」になって、ようやく「2倍」と感じることができる。

こうした「匂い」や「音」などの五感、つまり「視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚」の感じ方には独自の法則があって、それは「足し算」ではなくて「掛け算」の世界で感じることが分かっている。

これが1860年に発表された
「ウェーバー=フェヒナーの法則」である。

「感覚の強さR
は刺激の強さSの対数に比例する」

これが「精神物理学」といわれる学問の発端となった画期的な法則である。

※ 「対数」とは、たとえば「2の3乗=8」のとき8の常用対数は3と表される。そう、誰もが学生時代に習ったあのややこしい(?)「log」の概念である。

「精神物理学」は心理学者ウェーバーが「感覚の世界を定量化できないか?」と考えたことから始まった。人の感覚というものはとても主観的なものだが、なにもかも「これは主観だ」と言っていては学問にならない。

こうしてウェーバーが目に見えない「人の気持ち」や「感覚」を定量化するために行った様々な研究をもとに物理学者フェヒナーが1860年に数式化に成功したものがこの法則だ。

つまり何が言いたいのかといえば私たち人間の感覚は、けっしていい加減なものではなく定量化できるということである。

以上、「面白くて眠れなくなる数学」(2010年8月刊、PHP)からの引用でした。もちろん自説ではないのでどうか信用してくださいね(笑)。

               

というわけで「オーディオ」が「聴覚」の分野に所属するのはいうまでもないが、残念なことに上記の法則ですべてが説明できるわけでもない。

それは単なる入り口に過ぎず、問題は音を聴いて「心地よく感じる感覚」がどこに由来するのかということに尽きる。

そこで
「オーディオ=精神物理学+感性」の登場になるが、この感性というものが個人ごとに千差万別なので定量化できないところにオーディオの究極の魔訶不思議が秘められている。

したがって、自分では「いい音」と思っても、他人にとっては「それほどでもない」という「すれ違い」がしょっちゅう起こり、言葉や法則だけでは納得のいく説明ができないために世界中の至る所で悲喜劇が繰り返されることになる。

たとえばオーディオ仲間の離合集散が典型的な事例で、親密な交流が不幸にも次第に疎遠になる一番の原因は、お互いの「こんな音のどこがいいんだろう」という感覚が契機になっているように思うが、はたして皆様のご意見はいかがでしょうか(笑)。




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スポーツ界の頂点に位置する野球

2018年04月12日 | 独り言

いやあ、痛快ですねえ!

今年(2018年)から海を渡ってメジャーリーグで大活躍の大谷選手。投げて良し、打って良しの二刀流で、4月12日時点で2勝を挙げ、ホームランは3本と素晴らしい成績で、すべて録画して音楽を聴く合間の折々に芸術的な「神スウィング」に見入っている。

野球界には「ホームラン・アーチスト」という言葉があって「アーチ」(上方向に凸な曲線形状)と「アーチスト」(芸術家)を懸けた言葉だが、まさに大谷選手にふさわしい言葉だろう。

   

身長193センチ、体重93kgと恵まれた体格で、体も柔らかいのでおそらくどんなスポーツをさせても大成しただろうが、野球が「投げる、打つ、走る、捕る」という総合スポーツだからこそ育んだ能力があるに違いないと思っていたところ、ズバリ先日の「日本経済新聞」(2018.4・6)に同様のことが書いてあった。

引用させていただこう。

「アスリートの中にはどんな競技をしても成功しただろうと感得させてくれるユニバーサルな選手がいる。米大リーグに投打の二刀流で挑戦中の大谷翔平選手はその象徴だろう。

大谷選手の活躍に拍手を送りながら「この子がうちの競技を選んでくれていたら」と歯ぎしりするスポーツ関係者は山ほどいるに違いない。

たとえば相撲なら白鳳を超える大横綱に、ボクシングなら世界ヘビー級チャンピオンに、サッカーならFWやGPの名選手になっていたかもしれない。

すべては妄想に過ぎない。が、次々に浮かぶそんな「もう一つの世界」で遊ばせてくれるところにも大谷選手の希少性がある。(だからこそこの逸材には投打ではなく他の競技との二刀流を見てみたかった気もするのだが)。

大谷選手には今、いろいろな賛辞が贈られている、その中で驚きだったのはアスレチックスの監督の「なんて足が速いんだ」というコメントだった。

スピードとパワーを兼備した大型選手の躍動は米プロスポーツの真骨頂であり、見慣れた光景かと思っていたからだ。それでも大谷選手の速さに言及したのは従来の日本選手像が覆されるような衝撃を感じたということなのだろう。

大谷選手の特大級の活躍を見るにつけ、日本スポーツ界の良質なタレントが野球にはかなり集まっていると改めて感じる。某大学サーッカー部の監督に聞いた話だが、体育の授業でサッカーをさせると、野球部の学生の運動能力とセンスに唸ること再々だとか。

もう一つ感じるのは野球という競技が開発する運動能力の部分。外周23センチほどのボールが時速160kmという単位で飛び交う中、投げて打って走って捕まえてを繰り返し、鍛えられる特別な能力があるのだろう。

大谷選手は何をしても大成したと思いつつ、野球によってここまで大きくなったとも思うのだ。」

とまあ、以上のような記事だったが総合的にみて野球選手の運動神経は他のスポーツ選手よりも明らかに抜きんでている。たとえばサッカー、ゴルフ、バスケットボールなどの選手が野球をやってもおそらく通用しないだろうが、逆に野球選手はこれらのスポーツでも通用しそうな気がする。

そういう意味で、
野球はあらゆるスポーツの頂点に位置するのかもしれないと思う今日この頃(笑)。

ただ、この総合スポーツたる野球がなぜヨーロッパで広がらないのか、誰しも不思議に思うことだろう。これは以前のブログ「ヨーロッパで野球が広がらない理由」(2012.3.21)に記しておいた。


今後、同胞として大谷選手の今後の活躍を祈るばかりだがアメリカ大リーグはそんなに甘くない。きっと壁にぶち当たると思うが、どうか楽しみながら乗り越えてほしい。

 


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「音の響き」について

2018年04月10日 | オーディオ談義

我が家のオーディオはどうも外的刺激に弱いようで、今回も先日お預かりした「50」アンプが変化のきっかけをもたらしてくれた。

3ウェイシステム(以下「3ウェイ」)でもそこそこ鳴ってくれたのだが、「AXIOM80」に換えたとたんに(3ウェイの)アラが目立ってあえなく「こりゃアカン」(笑)。

フルレンジ(AXIOM80)と3ウェイの差と言えばそれまでだが、その原因を素人なりにも明らかにしておかないとどうも気が納まらない。

まず一番の原因は振動板の違う3つのユニットを組み合わせてうまくハーモニーを醸し出す難しさが挙げられる。メーカー仕様の3ウェイのようにプロがきちんと測定しているわけでもないので自己流の3ウェイはちょっと無茶だったことを痛感した。

さらに、クロスオーバーを500ヘルツとやや低めに取ったために低音域のユニット(ワーフェデール)と中音域のユニット(イソフォン)の響きがうまく馴染まなかったのも一因。

クラシック向きとされるイギリス系のスピーカーはあのタンノイさんをはじめクロスオーヴァーを1000ヘルツ以上にしている例が多い。つい最近オークションに出品されていたグッドマンの純正3ウェイネットワークもクロスオーヴァーは950ヘルツだった。

ジャズを聴くのならともかくクラシックを主体に聴くのであれば少なくとも一つのユニットで1000ヘルツくらいまでをカバーした方が良さそうだとは現時点での所感。

「そんなことはとっくの昔に知ってるよ。」という方も多いだろうが(笑)。

そういうわけで、我が家では3ウェイシステムを従来の2ウェイ方式(クロス4000ヘルツ)に戻すことにした。ついでに、4000ヘルツ以上はワーフェデールのツィーター「スーパー3」にして、低音域も高音域もワーフェデール(両者とも赤帯マグネット)に統一した。その結果がこれ。

    

どうやらこれにて一件落着、しばらくこれで聴いてみよう(笑)。

今回の件でハーモニーと音の響きの大切さを痛感したわけだが、丁度ネットで参考になる記事を見かけたので紹介させてもらおう。

「真空管アンプは、真空管の差し替えで音が変わります。最近私は真空管アンプに注目していますが、それは音源がPC/ネットワークオーディオになると、ますます潤いや音を作る楽しみが小さくなってしまうからです。

たしかに、PC/ネットワークオーディオでもケーブルを変えたり、再生ソフトを変えると音が変わるのですが、カートリッジの交換だけで1枚のレコードがまるで違う歌のように雰囲気までがらりと変わってしまったアナログ時代の音の変化とは、何かが根本的に何か違うように感じています。

デジタル時代の音の変化は、音の細やかさや透明感、立体感など「音質」に関わる部分で、音楽の雰囲気つまり「情緒」に関わる部分での変化が少ないように思います。

また、アナログ時代には「再生時の音作り」で生演奏よりも素晴らしい雰囲気で音楽を楽しめたのに対し、デジタル時代ではどう頑張っても生演奏を超えられないように思うのです。このアナログとデジタルの根本的な違いは、「響きの差」から生まれていると考えています。
 

音楽は響きの芸術です。音楽は、音の響きが多いか少ないかで情報量が変化します。良い例が「クラシック・コンサート」で、響きの美しいホールでなければ情緒深く美しい演奏が奏でられません。

演奏をより美しくするためには、楽器そのものの響きをさらに「響かせる」ことが必要です。音源がアナログオーディオの場合、再生プロセスではレコード盤そのものの響き、カンチレバーの振動など録音されていない「響き」が盛大に発生します。それを「味方」に付けることで音楽的な情報量を増やしたり、演奏の味わいを深められるのだと私は考えています。
 

ところが音源がデジタルになると、この「響き」が生み出されなくなります。アップサンプリングやビット伸長を行うことで音の細かさは向上しますが、響きが増えることはありません。

これが再生プロセスの芸術性でデジタルがアナログを超えられないと考える理由です。デジタルの音はアナログよりもあっさりしている、アナログのような暖かさや情緒深さが感じられない、立体感に乏しい、これらはすべて「響きが足りない」からだと考えられます。

このデジタルで不足する「響き」を補えるのが、真空管アンプです。今回のテストから明らかなように、真空管が音楽信号に呼応して響き、音楽の味わいを深めます。プレーヤー(音源)で響きを作るすべを封じられた今こそ、真空管アンプに注目すべきだと私は考えています。」

以上のとおりだが、CDにしろSACDにしろさほどの変化を感じられなかった原因は「音の響き」がプアなせいだったのか、と思い当たった。

我が家の場合は、いまさらレコードに戻るのも億劫だしデジタルの音を「真空管アンプ+昔の高能率のユニット」で鳴らす方が「音の響き」にとって丁度いい塩梅だと勝手に思っている。

デジタルもアナログもそれぞれ長所もあれば弱点もあるので、長所をいかに伸ばし、弱点をいかにカバーするかが、ありふれたことだがオーディオの王道なのだろう。

そういえばオーディオ誌などを見ているとシステムや機器の「弱点」に触れている記事はまず見かけないのでうかつに信用しない方がいい。

たとえば「響きが足りないデジタルの音をTRアンプで鳴らす」風潮などがそうで、オーディオが衰退の一途をたどっている一因もその辺りにあると推察している。

一昔前のオーディオ全盛期を知っている人間にとってオーディオ文化の衰退は淋しい限りだが、それかといって有効な手段もないしね~(笑)。



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6台の真空管アンプによる競演会

2018年04月07日 | オーディオ談義

前回からの続きです。

オーディオ仲間のYさんから預かった「50」アンプだが、我が家のシステムにも思わぬ波紋が広がった。

それは3日(火)の午後のこと。「50アンプを預かっているそうですが、聴かせてください。」と、一騎当千の「うるさ型」のメンバー2名(大分市)が我が家に集結した。気候が良くなると人の動きが活発になるようだ(笑)。

もちろんお断りする理由は何もないので、「ハイ、どうぞ~」。

はじめに、イギリス、ドイツ、アメリカの混成旅団による「3ウェイシステム」で聴いていただいたところ、総じて「とてもきれいな音ですが一本調子のところがあるようですね。」と、自分と同じようなご意見だった。

そこで、もっとシビアな「AXIOM80」に取り換えたところ、アッと驚くほどの変わりよう。この「50」アンプから内面的な表現力が見事に醸し出されてきたのにはビックリした。

     

な~んだ、原因はアンプ側ではなくスピーカーにあったのか!

途端に「3ウェイシステム」が胡散臭いものに思えてきたから不思議(笑)。(即座に「お客さんがお戻りになったら2ウェイに戻そう」と決意した。)

さすがに「一家言」の持ち主のお二人さんも「AXIOM80」を前にすると口数が少なくなる(笑)。

こうして「50」が見事に息を吹き返したので、「せっかくの機会ですから持ち主のYさんにも来ていただきましょうか。」と、提案すると一同賛成~。

一つ返事で要請に応じてくれたYさんが15分後にはお見えになって、それからはとうとう6台ものアンプによる一大競演会となった。

言い出しっぺはYさんだった。「50アンプと比べてみたいので、ぜひWE300Bシングルを聴かせていただけませんか。」

新興勢力(近代管)から既存勢力(古典管)への大胆なる挑戦である。

よし、「降りかかる火の粉は払わねばいけない」ので、受けて立ちましょう(笑)。アンプとスピーカーの接続は
バナナプラグなので切り替えは簡単だ。

改めて試聴用のシステムを紹介しておくとCDトラポとDACは「dCS」のコンビ、プリアンプは「クリスキットのマークⅥ」、スピーカーは「AXIOM80」(最初期版)、試聴盤は大好きなモーツァルトの「ディヴェルトメント K136」(トン・コープマン指揮)。

    

それからは、20分おきくらいで次から次にアンプを切り替えていった。順番でいくと、

「WE300Bシングル」(出力管は1951年もの) → 「2A3シングル」(出力管はフランスのVISSEUX:刻印) → 「PX25シングル」(ナス管) → 「71Aプッシュプル」 → 「中国製300Bシングル」(モノ×2台) → そして最後に確認の意味で「50シングル」

     

スピーカーが何といっても繊細極まりない「AXIOM80」だから、アンプの個性の差を見事に白日の下にさらしてくれた。

どのアンプがいいとか悪いとか個別の話は抜きにして、個人的な意見としてはこの中でイギリス系の出力管を使ったアンプは「PX25」だけだったが、さすがにお国柄を発揮して明らかに音の傾向が違っており「クラシック音楽」を品良く聴かせてくれるという点では一頭地を抜いている印象を受けた。

その一方「オーディオ的な音」という言い方を許してもらえれば「WE300B」(1951年)が「トランスドライブの威力を存分に発揮してますね。」との評価があって好評だった。

ハイライトの「50」もけっして劣ることなく大健闘で、もし古典管に換えるとしたらどんな音になるか一同興味津々。

こうして6台のアンプを一気に聴き比べたのは初めてのことだったが、AXIOM80が見事に羅針盤の役割を果たしてくれて、繰り返すようだがそれぞれのアンプの個性の差をつまびらかにしてくれた。

もしクラシックファンが複数のスピーカーを持つのであれば一家に1ペアの「AXIOM80」は必須だが、うまく鳴らすのに少なくとも5年以上はかかるでしょう(笑)。

なお、こういう実験は一人だけでやっても面白くも何ともないが、4人だと何かしら多角的な視点からの意見もあったりでオーディオの醍醐味の一つが「交流」にあることを改めて思い知らされた。

 


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先入観は罪、固定観念は悪だ!

2018年04月05日 | オーディオ談義

センセーショナルなタイトルだが、何かの雑誌から引用した言葉なので「罪と悪の違いって何?」とかの野暮な詮索は止めましょうね~(笑)。

いずれにしても、今回は従来持っていた先入観とか固定観念がもろくも崩れ去った一件をご報告しよう。

オーディオ仲間のYさんから「先日手に入れた「50」真空管アンプですが、ようやく別荘での試聴が終わりましたので持っていきたいと思います。何時頃がよろしいでしょうか?」とご連絡があったのは3月29日(木)のことだった。

急遽、道端に止めたクルマの中で「ハイ、丁度今クルマの中です。新しい運転免許証をもらいに警察署に行っているところです。そうですね、午前11時ごろにお願いできますか。」

それからおよそ10分後に警察署の中のデジタルカメラで撮影した顔を張り付けた新免許証を受け取ったが、まるで「凶悪犯の指名手配写真」のようだ!。この歳になると見かけもへちまもないが、それでもちと淋しい(笑)。

きっかり11時にYさんが「50アンプ」を持参された。

      

特注の木製シャーシがとても洒落ている。製作者は木工の傍ら、真空管アンプも熟練の腕を発揮されるというとても奇特な二刀流(静岡県)の持ち主
とのこと。

このアンプはご自宅用ではなく別荘用で、組み合わせるスピーカーはボーズだそうだ。

しかし、このアンプを見たとたんに正直言って「音」の方にはあまり期待できそうになかった(笑)。

その理由を挙げてみよう。

 真空管アンプにとって大切な整流管が見当たらない。おそらくダイオード整流なのだろう。これまでダイオード整流の音を幾度となく他家で聴かせてもらったが一度も気に入った音が出た試しがなかった。「音が固い」という印象をずっと受けてきた。

 真空管の選別が見るからにチャチである。前段管はミニチュア管(中国製:12AU7)の1本だけだし、出力管はこれまた中国製の「50」で前述のように近代管だ。これまで聴いてきた近代管は総じて音が高音域寄りのキャンつき気味でうるさく感じてしまう。

 古典管を使用したアンプの設計回路はそれなりの独特のノウハウがあると聞く。その中でも「50」はグリッド電流が多く流れるタイプなので一筋縄ではいかない。「よほどの作り慣れたベテランじゃないと、いい音は出せませんよ。」とは、ある筋からの情報だ。

というわけで、古典管オンリーの人間にとって聴く前から拒絶反応を起こし気味なのも当たり前でしょう(笑)。

ただし、回路が「全段直結」でコンデンサーを1個も使っていないとのことで、これには大いに興味を持たせてくれた。もちろん、必要悪であるコンデンサーを使う理由もちゃんとあると思うが、それはこの際、脇に置いておこう。

フルートの名手であるYさんは日ごろから生の楽器に触れられているだけあって「Pure」な音が大好きな方である。

始めに比較する意味で我が家のPX25シングルアンプで鳴らしてみた。

システムの概要はCDトラポとDAコンバーターが「dCS」のコンビで、スピーカーは「イギリス、ドイツ、アメリカ」の混成旅団の3ウェイシステムだ。

内訳は「~500ヘルツ」はワーフェデールの赤帯マグネット(口径30センチ)、「500~4000ヘルツ」は、ドイツ製の「イソフォン」(楕円形)、「4000ヘルツ~」はJBLの075ツィーター。

さあ、PX25アンプを入れ替えていよいよ「50」アンプの試聴である。

音が出た瞬間に、「アッ、意外にも素直な音が出る!」というのが第一印象だった。

しかも、聴き込んでいくにつれ低音域がやや薄い印象を受けるものの音の瑞々しさ、奥行き感などとても近代管のイメージではない。

PX25系統の音とはちょっと違うが、目隠しをすると「高級なシングルアンプの音ですよ。」と言っても信じられそうだ。

いずれにしても前述したハンディが微塵も感じられないのには驚いた。近代管だってうまく鳴らすと、こんな音も出せる!

まったくの予想外だったので、「先入観は罪、固定観念は悪だ!」という言葉が浮かんできたというわけ(笑)。


「クセが無く落ち着いた音で聴きやすいですね。なかなかいい音だと思いますよ。ぶしつけですがお値段はどのくらいしましたか?」

「ハイ、〇円でした。」

「エ~ッ、それは安い!自分も同じものを作ってもらおうかなあ。」という言葉が、つい出てしまった(笑)。

二人ともおよそ1時間ほど満足感に浸った後にYさんが、「この次に別荘に行くまで2週間ほどあります。その間このアンプを置いていきますのでエージングして鍛えてやってください。」「ハイ、いいですよ」。

預かってから1週間ほど経ってこのブログを書いているわけだが、日ごとの体調の変化やわざと日を置いたりで様々な状況の中で試してみたところ、このアンプなりの至らぬところも少し見えてきた。

「どんなアンプだって完全無欠ではない、欠点はどこかしらある。」ということを前提にして述べてみよう。

けっして偉そうに言うわけではないが、どんな物事にも表と裏の顔があるように、音だってそうで、単に表面的な美しさだけではなくて、裏というか翳りの部分も欲しいところだ。

「翳りってなんだ?」と問われても、返答に窮するがあえて言わせてもらうと「人生は思い通りにいかないことが多いけれど、根気よくめげずに頑張っていこうなあ。」という、励ましとも慰めともとれるような雰囲気を醸し出す音。

こういうときに音を言葉で表現する難しさをつくづく感じる(笑)。

そういう点で、このアンプは一本調子のところがあり、表面的な美しさに終始する印象を受ける。もちろん贅沢な悩みではあるが・・・。

しかし、このお値段でこの音ならもう十分である。何しろ近代管だから、スペアの確保は簡単だし、エージングがもっと進めば音の深みが出てくる可能性だって十分秘めている。

メチャ高価なことで知られる古典管の「50」だが、希少なブランドのペアともなると軽くこのアンプのお値段をオーバーしてしまうので、そういう方々がこの音を聴いたらいったいどういうご感想を述べられるだろうかと思うと実に興味深い(笑)。

と、ここまで書いてきたところ、「50」アンプの噂を聞きつけたオーディオ仲間(2名:大分市)が試聴にお見えになった(3日の午後)。さらに急遽アンプの持ち主のYさんも加わっての一大饗宴となった。

スピーカーを「AXIOM80」に絞って真空管アンプ6台により「どれがベスト1か」の争いとなり、「群雄割拠の血を血で洗う戦国時代」の様相に全員が「いやあ、今日は最高に面白かった!」(笑)。

詳細については次回へ~。


 

 


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なんてたって「AXIOM80」

2018年04月03日 | オーディオ談義

つい最近のブログに搭載したように我が家の「黄金の組み合わせ」が完成したことに伴い近くのオーディオ仲間のYさんに来ていただいて試聴してもらうことになった。

Yさんはこのほど新たな「50」真空管アンプを購入されてルンルンの毎日である。次回は我が家に持ってきてもらって試聴させてもらうことになっているが、「50」といえば周知のとおり戦前の古典管が通り相場だが、Yさんは近代管を使ってある。

「良質の古典管を手に入れるのなら、当てがあるので紹介しますよ。」と、わざわざアドバイスしていたのに聞いてもらえなかったのが残念。どうやら我が家でいつもお聴きになっている「古典管」の印象がお気に召さないらしい(笑)。

まあ、それはともかく試聴日はようやく春爛漫の気配が漂い、近くのウォーキングコースに佇む大好きな「紫木蓮」が満開気味の3月某日のことだった。

    

はじめにハイライトの「黄金の組み合わせ」(JBL/D130+175)を聴いていただいたのだが、どうも反応がイマイチだった(笑)。

そのうち、とうとうたまりかねたように「AXIOM80にしていただけませんか・・・」と注文が付いた。

そう、Yさんは「AXIOM80」で聴かないと絶対に満足しない方だったのだ!

なんてたって「AXIOM80」。

丁度持参されたCDが「ヴァイオリン協奏曲」(モーツァルト)だったので、それを試聴盤にして組み合わせるアンプの方は「WE300B(1951年製)」シングルで聴いていただいた。

「これこれ!水も滴るようなヴァイオリンの音色とはこういうことを言うんでしょうねえ。やっぱりこのコンビがベストですよ。」

悲しいことに金属のダイヤフラムではどうしても濡れたようなヴァイオリンの音色を出すのは無理であることを認めざるを得ない。その代わり「金管楽器の咆哮」は持ってこいなので、どんなユニットでも得手不得手があることに改めて気付かされる。

したがって「いいシステムならジャズもクラシックも両方いける」なんて通説は、まるっきりの嘘っぱちだと思うけどなあ(笑)。

それはともかくこう述べた。

「たしかに、このコンビが音がいいのは認めますがアンプの方がちょっと気になってます。実は随分古い1951年製のWE300Bですから、ややヘタリ気味のような気がするし、いつオシャカになっても不思議ではないのでちょっと不安なんですよねえ。

WE300Bは北国の真空管博士によるとプレート電圧を300V以上にすると歪みが増すそうですが、このアンプは250Vにしてあります。したがって負担は少ないはずですが、何しろ67年前の球ですからねえ・・・。」

そこでYさんと阿吽の呼吸で、手元のロシア製と中国製の300Bで代替できるかどうか、実験に入った。

システムはCDトラポとDACは「dCS」のコンビで、プリアンプはクリスキットの「マークⅥ」、スピーカーは「AXIOM80」(最初期版)というメンバーだ。

すると両者とも、音がパサパサしていてまったく聴けたものではなくアウト(笑)~。

「AXIOM80で聴くと極端にその差を出しますね。ほかのスピーカーならそこそこ聴けるのでしょうが」と、Yさんがあきれ返っていたほどだった。

「これまでオリジナル以外の300Bをいろいろ聴かせてもらいましたが、STCを除くと所詮五十歩百歩ですよ。」と、返しておいた。

それでもまだ収穫があって、格落ちの両者の間でも差があり中国製の方がロシア製よりも低音域に厚みがあってまだマシだった。

さあ、ここからアンプの玉突き衝突の始まり~。

これまで300Bシングル(モノ×2台)に差し込んでいたロシア製を抜いて中国製に交換しJBLシステムの低音域担当の「D130」に当て込むことにした。すると、弾き出された「2A3」アンプは「175」担当へと急遽年度末の小異動と相成った。

これでしばらく様子を見ることにしよう。2ウェイマルチ方式は使用するアンプが2台になるので「音遊び」にはもってこいだなあ(笑)。

 

 


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書く力は、読む力~続編~

2018年04月01日 | 独り言

先日、搭載した「書く力は、読む力~いい文章とは~」(2018.3.24)は、自分としてはなかなか気に入った記事だったが、いつものとおりオーディオ以外の記事は不人気なのでアクセス数の伸び悩みが顕著だった。

まあ、そんなところだろうと別に気にも留めなかったが、メル友の「I」さん(東海地方)からまことにありがたいご連絡があった。

少し前の記事ですが、「書く力は、読む力~いい文章とは~」・・・大好きです・・・こういうことを考えたりすること、ほんとに面白い。  

ところで、3月29日の読売朝刊の編集手帳を、ご覧になられましたでしょうか。自然史学者の筑波常治さん(私はもちろん存じ上げませんが)の随筆から、あるエピソードが紹介されていました。〇〇様の記事とそのエピソードのシンクロぶりに、内心ニンマリしてしまいました。」

こういうご意見をいただくと、ほんとうに励まされる。「I」さんとは感性が似通っていることに改めて気づかされた。

ちなみに、このメールの文中にある読売新聞「朝刊」の「編集手帳」を掲載しておこう。

  

噛み砕くとこうである。

以前の「書く力は、読む力」の中で、いったん発表された文章は作者の手を離れて勝手に「独り歩き」しているので、読み手が自由に解釈し主導して差し支えないという趣旨のことを述べていた。

しかるに、この「編集手帳」では、自分が作った文章が入試問題として出題され、「筆者が主張するのはどれか」の問いに対して筆者自身からして満足な解答が出来なかったという、まるで漫画のような話である(笑)。

これに関して、ふと似たような話を思い出した。

ずっと昔のことだが「評論の神様」と称されていた「小林秀雄」さんはとても難解な文章で知られており、当時は大学入試問題の宝庫として盛んに出題されていた。

あるとき、ご自宅で受験期を迎えた娘さんが国語の問題を前にしてしきりに頭をひねっている。

小林さんも加勢してあげるつもりで読んでみたが、とても文章が分かりにくい。とうとう「誰だ、こんなわけのわからない文章を書く奴は・・」と確認してみたところそれは何と小林さんが書いた文章だったという、笑うに笑えないお話だった。

これらは典型的な「発表された文章の独り歩き」の実例で、書いた本人でさえも理解がおぼつかないのだから始末に負えない。

最後に「I」さんに次のようなメールを送った。

「こういうご意見をいただけると大いに励みになります。ほんとうに感謝です。私事ですが、
実は本年1月の国語の共通一次試験問題にチャレンジしたのですが「現代文の読解力」の正解率が50%以下でした。

歯が立たないほどではないのですが、やはりとても難しく感じました。解答は5つの選択肢の中から一つを選ぶようになっていましたが、5つとも一つ一つ読んで消去法でいかないと解けない気がしました。少し要領がつかめましたので、来年もチャレンジの予定です。

ただし、作者でさえも正答が難しい問題を、はたして問題作成者が正しい読みをしているのかどうか、その辺の保証は何もありませんのでちょっと虚しい気もしますが(笑)」

 


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