「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

音楽談義~「ドイツ国家演奏家資格」~

2010年04月28日 | 音楽談義

ドレスデン・シュターツカペレ(ドイツのオーケストラ)の第一ヴァイオリン奏者「島原早恵」女史のウェブサイト(SAE SHIMABARA)をちょくちょく覗いている。

第一線で活躍している演奏家、しかも活躍の舞台がレベルの高い外国での名門オーケストラともなればその生の情報はとても貴重だ。演奏者の視点からみた指揮者の品定め(2008・1・23付けNo.53)や最近ではプレートル(指揮者)への賛辞など通常では得がたい情報が手に入る。

とにかく世界最古の歴史を誇るドレスデン・シュターツカペレの日本人奏者は創立以来彼女が始めてとのことでその努力とチャレンジ精神に大いに拍手。

彼女の経歴を覗いてみよう。

桐朋学園大学卒業後、ドイツミュンヘン国立音楽大学大学院へ留学、同音楽院マイスターコース(最高課程)修了。2002年にドイツ国家演奏家資格
を取得とある。

さて、ここでクウェスチョン?

「ドイツ国家演奏家資格」
というのは一体何だろうか。いかにもドイツらしい四角四面の言葉だが、音楽を演奏するのに資格が要るなんて聞いたことがない!

検索してみると、「goo教えて」に次のような質疑応答があった。

質問
「国家演奏家資格っていうのは、どこの国で必要で、どんな風にすれば取れるんですか?」この質問に対して次の2つの回答があった。

回答1
「ドイツにそんな資格があるのを聞いたことがあります。相当難しいテスト(実際の演奏)のようです。聞いた話では東京芸大と桐朋のピアノ科の人ばかり6~7人が受けたところ1人しか合格しなかったそうです。」

回答2
「トロンボーン奏者堀江龍太郎さん(同資格取得者)のURLの記事にあった話として、大学院を卒業すると「ドイツ国家演奏家資格」が自動的に授与されるが、大学院の卒業試験が生半可なものではなく、成績が悪いと強制的に中退させられるという。ドイツでは、大学院を卒業した場合を除いて、「国家演奏家資格」試験を受けなければならないようです。」

以上で少しばかり分かってきた。

ドイツでは
国家的な見地から独自の制度にもとづき先人の遺した偉大な遺産(楽譜)を簡単に穢(けが)されないように、さらには音楽芸術の表現にあたってきちんと一定の水準以上に保持していく仕組みをちゃんとつくっているのだ!

文学や絵画ではどんな小説や絵を描こうと始めから個人独自の創造の世界なので自由勝手なのだが、楽譜の存在が前提となる(間接芸術としての)音楽に限って成り立つ話。

さすがにバッハ、ベートーヴェン、ブラームス(「ドイツの3B」)、ワーグナーといった大作曲家たちを輩出した国だけのことはある。音楽芸術に対する考え方、位置づけがまるっきり我が国とは違っているようだ。

ここで、ずっと以前のブログでも紹介したが、20世紀における名指揮者のひとりブルーノ・ワルターの警告を少々かた苦しくなるが引用しよう。

いまや芸術に対して社会生活の中で今までよりも低い平面が割り当てられるようになって、その平面では芸術と日常的な娯楽との水準の相違はほとんど存在しない。

本来芸術作品が持っている人の心を動かし魂を高揚させる働き
に代わり、単なる気晴らしとか暇つぶしのための娯楽が追い求められている。

これらは「文明」の発達によりテレビやラジオを通じて洪水のように流れ、いわゆる「時代の趣味」に迎合することに汲々としている。

こうなると文明は文化の僕(しもべ)ではなくて敵であり、しかもこの敵は味方の顔をして文化の陣営にいるだけに危険なのだ。

やや回りくどい表現だが、一言でいえば「もっと芸術に対する畏敬の念や位置づけ、支えをしっかりしてほしい」ということだろう。

さすがにドイツでは「
国家演奏家資格
を通じてこういう風潮を防止し、音楽芸術を大切にしていく姿勢を鮮明にしているところがやはり大したもの。

因みに前記の島原さんのドレスデン便りによると国家演奏家資格を持っているだけで芸術家として認められ、ビザの更新にあたっても特別室に案内されるなど下にもおかぬ待遇だという。

こういう姿勢は音楽家を尊敬されるべき職業として高い位置づけにしている、あるいはしていこうとする狙いをも明確に物語っている。

翻って、日本ではどうだろうか。

あえて似たような制度といえば、「日本芸術院」というのがあるが、第三部の「音楽・演劇・舞踊」部門でも音楽家は極々一部の存在で、過去では「岩城宏之」〔故人:指揮者)さんくらいのもので、名誉職としてはいいかもしれないが音楽の発展に寄与するという面ではとても実質的に機能しているとは言いがたい。

もともと、日本ではクラシックとかオーディオはたいへんマイナーな存在。音楽家を育てるよりもむしろ愛好者の裾野を広げることのほうが先決かもしれない。

五味康祐さん(故人:作家)のような先達がいてくれて、音楽とかオーディオ全般にわたって広く啓蒙してくれるとたいへんありがたいのだが現在ではとても望むべくもないこと。

本来の音楽好きで表現力に優れた音楽評論家とか”商売気”抜きのオーディオ評論家の出現が切に待たれるが、一つの対策としてこういう方々に自覚と権威を持たせる意味で「資格試験」を導入するというのはいかがだろうか(笑)。
                               


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音楽談義~「意味がなければスイングはない」~

2010年04月26日 | 音楽談義

大ベストセラー「ノルウェイの森」などで知られる村上春樹氏といえば、いまやノーベル文学賞候補にもちらほら名前が上がる大作家(2006年フランツ・カフカ賞受賞)に.。

最近作「1Q84」も.スゴイ人気で、おそらく文字で書かれた本では最後のベストセラーになるだろうなんて言われている。

その村上氏だが、実は知る人ぞ知るジャズ愛好家、オーディオ愛好家でもある。

なにしろ、作家になる前にはジャズ喫茶を経営していて、それこそ、朝から晩まで好きなジャズを聴いてじゅうぶん楽しんだとのこと。

オーディオにしてもJBLの愛好家で、お金はたんまりとある(想像だが)のに、費やす時間がもったいないという理由で旧型のユニットによる3ウェイシステムでアンプはたしかアキュフェーズだったと思う。

その村上氏が、音楽について書いた著作が
「意味がなければスイングはない」(2005年11月25日、(株)文芸春秋)。
これはオーディオ専門誌「ステレオサウンド」2003年春号~2005年夏号に連載していたものを、まとめたもの。

                       

タイトルの「意味がなければスイングはない」はもちろん、デューク・エリントンの名曲「スイングがなければ意味はない」のもじりである。しかし、ただの言葉遊びではなく、このフレーズはジャズの真髄を表わす名文句として巷間に流布している。

「スイング」とは、どんな音楽にも通じるうねり
のようなもので、クラシック、ジャズ、ロックなどを問わず、優れた本物の音楽として成り立たせている「何か」のことであり、その何かを自分なりの言葉を使って追いつめてみた結果が本書になった。

読んでみて、この本は実に分りやすくて面白かった。作家が書いた音楽評論はどうしてこんなに共感できるのだろうか。

たとえば五味康祐氏の「西方の音」を嚆矢(こうし)として、小林秀雄氏の「モーツァルト」、石田依良氏の「アイ・ラブ・モーツァルト」、そしてこの本である。

まず共通して感じることは、

1 語彙が豊富で表現力が的確

2 ストーリー並みの展開力がある

3 音楽体験の出発点と感じ方、語り口に同じ匂いを感じる

といったところだろうか。

しかも内容がジャズばかりと思ったら、10の項目のうちクラシックの評論が3項目あった。

Ⅰ シューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」 ソフトな今日の混沌性

Ⅱ 「ゼルキンとルービンシュタイン 二人のピアニスト」

Ⅲ 「日曜日の朝のフランシス・プーランク」

まず、Ⅰでは世評において目立たず、芳しくないシューベルトのピアノ・ソナタ群のうちでも最も地味なこのソナタがなぜか大好きとのことで、結局15名のピアニストのレコード盤、CD盤を収集したこと、そのうち、ユージン・イストミンというこれまたたいへんマイナーな名前のピアニストがお好きとのこと。

Ⅲの近代作曲家プーランクもお気に入りだそうだが、これもまたやはりマイナーと言わざるを得ない。

全体を通読して感じたことだが、村上氏はどうも既存の権威とか概念を否定しあるいはしばられない傾向がことさら強く、一方で目立たず、まったく評価されない、あるいは過小評価されている作曲家、演奏家、曲目に陽を当てるのが随分とお好み。

その流れで、著者独自のクラシック論が以下のとおり展開されている。(76頁~77頁)

「クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは、場合によっては世間の評価とは合致しないかもしれない。

でもそのような
「自分だけの引き出し」
を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりを持ち、深みを持つようになっていくはずだ。

シューベルトのニ長調ソナタは、その一例として、僕の大事な「個人的引き出し」になっており、おかげで超一流ではないイストミンのようなピアニストたちが紡ぎだす優れた音楽世界にめぐり会えることができた。それはほかの誰の体験でもない、
僕の個人的体験
なのだ。

僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として世界を生きている
のだ。」

40年近く「音楽とオーディオ」に親しんできたものの、いまだ道遠しで随分と峰が高くて奥行きのある世界だと実感しているが、権威に振り回されず主体性を持つという面で十分考えさせられる話である。

最後にⅡでピアニスト、ルービンシュタインの自伝からの逸話が記載されていたので紹介しよう。ルービンシュタインといえばコルトー、リパッティと並ぶショパンの弾き手として一世を風靡した往年の大ピアニストである。

結局、この逸話も、著者流のナチュラルの流れに位置し、赤裸々な人間像に共鳴したエピソードなのだろう。

ルービンシュタインがガイドに勧められるままに、スペインで訪れたとある高級娼家での話である。

「ドライすぎるシェリーと、夏の暑さと、もわっとした空気と、言葉がうまく通じないせいで私の性欲はどうしても盛り上がらなかった。

しかし、私の生来の虚栄心は、こんなに若いのにインポテントだと女たちに思われる(かもしれない)ことに耐えられなかった。

彼女たちを感心させるには、ここはひとつ音楽を持ち出すしかない。私はそこにあったピアノの蓋を開け、即席のコンサートを開いた。

スペインの音楽、「カルメン」の中の曲、ウィンナ・ワルツ、なんでもかんでも手あたり次第にばりばり弾きまくった。それは目ざましい成功を収めた。黙示録的な大勝利と呼んでもいいような気がするくらいだ。

女たちはいたく興奮し、群がって私を抱きしめ、熱烈にキスの雨を降らせた。宿の主人は、私の飲み代はただにする、好きな女と寝てよろしいといった。私はその申し出をもちろん丁重にお断りした。

しかし、ピアノにサインをしてくれという申し出は断れなかった。

私はいくらかの自負とともに、そこにサインを残した。心愉しい夏の午後の証人としてまだ同じ場所にそのピアノが置いてあればいいのだが」(同書149頁)。

このサイン入りピアノの実在を是非確認したいものだが、場所が場所だけに未来永劫にわたって何方(どなた)かの「拝見した」というメッセージはとても期待できそうにない!


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オーディオ談義~「使いこなし」あれこれ~

2010年04月23日 | オーディオ談義

オーディオ関連の記事をたびたび投稿していると、以前に投稿した内容と改めて投稿する記事との「辻褄あわせ」に苦しむことがままある。

投稿時点では正解だと思われたものがある程度の時間が経ってみると実はそうではなかったという事例がどうしても出てきてしまう。

それがケース・バイ・ケ-スで左右されるものなら仕方がないが、中には明らかに間違いだったと認められる事項もかなりあって、訂正しようにも、もはや過去の記事だし
”まあ、いいか”と良心の呵責にちょっと苦しみながらもそのまま放っておくことになる。

そして、これが新たな投稿をするときの”足かせ”になることがしばしば。

賢明な読者は
”あれっ、この記事は過去の言い分と違っている”なんて目ざとく気付かれるかもしれず、こういう積み重ねで次第に信用が失われていくのは哀しい。

そういう典型的な実例が、つい最近のブログに掲載した「アンプの雑音対策」。

中高域用のSPユニット「アキシオム80」の感度が物凄く高いので使っているパワーアンプのわずかな雑音でも見事にさらけ出す。

無音時に聴こえる”ジー"という〔ごくわずかな)ノイズが気になることを話題にし、特設の200ボルトの電源(トランスで100ボルトに降圧)に接続したところ見事に雑音が止んだと記載して終わりにしていたのだが、2日ほどして改めてスイッチを入れたところ、またまた”ジー"という雑音がしだした。

”あ~あ”、と思わず天を仰いだ。200ボルトの電源を利用してもダメだったか。それも日によって雑音がしたり、しなかったりでタチが悪い。どうしても原因が分からない。

外部の電源から、それも我が家ではなくて、ご近所で旧式のコタツみたいな電熱器を利用していてそのノイズが混入している可能性も十分考えられる。

仕方なくグーグルで「ノイズカットフィルター」で検索してみたところ、格好の商品を見つけた。

                       

安かったのでまあ、試しに使ってみるかと広島のオーディオ専門店にネットで注文したところ早くも翌日〔21日〕の午前中に到着した。上記の写真がそれで、電源コードを通すだけでいいシンプルな製品。

早速、使用して一日経過したが今のところ”ジー"ノイズがしないが、これまで散々裏切られてきたのでマダマダ油断は禁物と注意深く見守っているところ。

次に、別の話題に移って低域に4発のウーファーを導入してからおよそ1ヶ月経ったが、その「使いこなしのノウハウ」について。

                    

結論から言うと、満足のいく質感、量感を得るために悪戦苦闘で、まったく「紆余曲折」という言葉が適切。そしていまだに進行形である。


○ 設置場所

一貫してタンノイ・ウェストミンスターの横に設置しているのは変わらないが、置く場所によって随分と音が変わる。

手前のほうに置くと、ややウルサク感じるし、奥に引っ込めるとボヮ~ンとなって量感が増えすぎる。結局、試行錯誤の結果、ようやく今の位置に。

○ スピーカー・ベースの選択

                

スピーカー・ボックスの下に敷くものの材質によっても音がコロコロ変わる。はじめに薄い金属性メタル〔写真左)を敷いてみたところ悪くはなかったが、響きが足りないように思い、楓(かえで:写真中)を2週間ほど使ってみたがこれは逆にボックスが共振しすぎるみたいで音に締りが無くなる。

”ほどほど”のさじ加減が実に難しい。最後は、鋭角に削ったスパイク風のねじ〔写真右)を使用することに。どうやらこれでうまくいきそうだが、しばらく様子をみることに。

○ 吸音材の使用

後面開放型のボックスなので吸音材の使用は必須だが、当初は毛布〔木綿〕を使用していたが、途中から大量の「羽毛」を使用したところバッチリで、音の質感が一変した。これはもう決定済み。〔SPの裏の写真)

                             


○ ボックスの共振防止対策

口径20cmでも4発のウーファーを並べると、40cmウーファーに匹敵するのでその威力は大したもの。適度に共振を抑えて締まった低音を出すためにボックスの上に「重し」を乗っけて重量を稼ぐことにした。

当初は庭木用の石を置いてみて、どうも足りないようなのでステンレス製の重量級のツィーターを加えたところ、心なしか落ち着いてきた。

とまあ、以上の4つの項目をああでもない、こうでもないと日ごとに繰り返しているわけだが、音質の変化が「いい方向」に変わったのかどうかの判断は結構難しく、1週間ほどいろんな曲目を聴いてみて「耳が疲れるかどうか」という要素も入れて微妙な判定になるので結構、時間がかかる。

しかし、別にお金がかかるわけでもなし、時間はたっぷりとあるので楽しみながらもハラハラ、ドキドキで取り組んでいるのが実状。


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独り言~「”のほほん”天国日本」~

2010年04月21日 | 独り言

「丹羽 宇一郎」(にわ ういちろう)さん(伊藤忠商事相談役)といえば、昨今の財界人の中で一番尊敬に値する方だと思っている。

自分の一方的な見方だろうが大会社の社長、会長を歴任されながらも、ちっとも偉ぶらないし、言われることがすべて
”ごもっとも”といつも共感している。

先日の19日〔月〕の朝刊〔地元紙)に
「”のほほん”天国日本」と題して次のような寄稿をされていた。

このほど訪問したワシントンで学者と政治家に会って次のような話をした。ナマコとカニをめぐる次のような日本の言い伝え。

ナマコは弱りやすく漁師が沖合いで捕っても港へ着くまでにほとんど死んでしまうが、そのナマコの群れの中にカニを1匹入れておくと、生きたまま持ち帰れるという。

なぜか?

カニはナマコの天敵に当たり、緊張するため死なないといわれている。「何事も新鮮であり続けるためには天敵が必要」とのたとえ話として彼らに紹介した。

グローバリゼーションの中でソ連が自壊してほぼ20年。この間、資本主義の独走態勢が続いてきた。ソ連共産党という天敵がいなくなったことで西側の資本主義は無人の広野を行くがごとく独走できたといえる。

だが、このことが資本主義の暴走を生んだのではないか。資本主義へのチェック機能が働かなくなったことがリーマン・ショックをはじめとする金融危機や社会的な格差の拡大を生み出したのではないだろうか。

ソ連は資本主義にとってのカニだったわけで、カニ無しではわれわれの社会が衰退していきかねない。

と、いった趣旨のもと、日本の若者はもっと海外に出て、国内のナマコ集団から脱却して危機感と緊張感をもってまた戻ってきてもらうことが必要だと結んであった。

おそらく4月は、公務員、民間を問わず新しく社会人の仲間入りをする若者たちが多いのでそういう人たち向けに投稿されたのだろう。

社会の荒波は実際に体験してみないと分からないが、想像以上に厳しいことはたしか。


こういう次元の高い話からすると、随分と視野が狭くて近視眼的な話になるが、現役時代の終盤に人材育成の研修部門を担当していた折、新規採用職員に配っていた資料を思い出した。

古い書類入れを漁ってみたら、あった、あった。
「執務原則」と銘打った1枚のペーパー。

これから40年近い公務員生活の始めにあたって
「仕事の心構え」としてある先輩から引き継いだもの。

「お~、懐かしい」。しかし、何とも
”味も素っ気”もない題名。

「釈迦に説法」かもしれないし、ブログに登載するには異質、また、あまりにも”かた苦しい”内容なので、ちょっと”ためらった”がもしかして10人のうち1人でも興味を持つ方があればと掲載することにした。

≪執務原則≫


1 主動的地位の確保~戦略的主体性の確立~

 
○ 「原則」の樹立、「要求水準」の適切な設定、「最終の姿」のイメージの明確化

 ○ 情報の積極的収集、先手必勝

 ○ 押されて動く「貨車」ではいけない、一両でも動く「電車」たるべし

2 変化への対応~状況に応じた適切な戦術の採用~

 ○ 惰性の排除、自分の回りを世の中が動くと思っている「天動説」はダメ

 ○ 前例は参考にすれどとらわれず、前例を唯一の論拠としてはならない

 ○ 「反射神経」を磨くべし〔新規発生事態への対応の迅速化)

3 認識の厳密化~総合判断に至る因子の正確な積み上げ~

 ○ 資料、情報は極力原典に

 ○ 疑問点は直ちに晴らせ

 ○ 推測にも推測の根拠が必要

4 連絡の徹底 ~組織の神経系統の正常な作動~

 ○ 「一日一善」(肝要なところには、最低一日一回顔を出せ)

 ○ 必要なところのリストの明確化、「新聞を通じての報告」は不可

 ○ 主観を混じえずに、起承転結を明確に〔特に語尾) 「何が何して何と
         やら」

5 役割の明確化~組織全体の力の発揮~

 ○ 課題と対応方向の常なる確認、配役の適正化

 ○ 「見物人」は不可(それぞれの「場」における自らの役割の確認と準備)

 ○ 「印刷屋」「郵便屋」は不可(明白な誤りも正せないようではダメ)

とまあ、いかにもお役人の発想の典型みたいな項目がズラリと目白押しで「民間」にお勤めの方にはちょっと違和感があるかもしれない。

しかし、「押されて動く貨車ではいけない、一両でも動く電車になれ」なんて言葉はあらゆるケースに活用できると思う。

「初心忘るべからず」、小さな意識の積み重ねが10年、20年と続けば大きな差となっていき、自分のため、組織のため、ひいては社会のためにもなると思うのだが。


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オーディオ談義~「アキシオム80」の使いこなし術~

2010年04月16日 | オーディオ談義

先日のブログ「オーディオ訪問記2010.3.31」で登場していただいた福岡市にお住まいのS木さんからメールが入った。

来る29日(木)に別府と湯布院をご訪問したいとのことで、もちろん当方は異存なしで大歓迎。

ゴールデンウィークの”はしり”なので渋滞を回避しようと福岡を早朝8時に出発され、奥さんと娘さんは湯布院で途中下車されてS木さんだけ10時頃に我が家に到着、2時間ほど試聴されて折り返し湯布院に戻り、「夢想園」で昼食後A永さんのお宅に直行されるという日程。

我が家で「アキシオム80」をどのように鳴らしているか、またA永さんのウェスタンの「555+15Aホーン」を聴くのが楽しみですとある。

まず、ちょっと話が逸れるがご家族が湯布院で観光ということにヤッパリそうか!名実ともに日本を代表する温泉観光地、我が地元の別府も随分と墜ちたもの。

昔は「別府の奥座敷」とされてきた湯布院だがここ20年ほどの人気はすさまじい。特に若い人や女性から高い支持を受けているようだ。

観光業者が群雄割拠して、まとまりがつかず恵まれた観光資源を生かしきれない別府に比べて湯布院はきちんとした司令塔が存在し、見事に魅力ある観光地づくりに成功した。

これは個々の旅館の名前〔利益)よりも「ゆふいん」というトータルの地名を優先して広く浸透させてきた関係者の努力の成果。

ともあれ今後、別府観光と湯布院観光がうまく「共生」へと願う者の一人。

さて、話が戻ってS木さんと自分との関係のように愛用しているSPを他人がどのように料理しているかについては実に興味が尽きない。

何といってもオーディオ機器の花形はスピーカー(SP)。どういうSPを使うかで音質はおおかた決まってしまう程の最重要機器。

これにスピリットを吹き込むのがアンプであり、外見を飾るのがリスニングルームの音響空間とその他機器と理解すれば分かりやすい。

つまり、SPは人間の容姿にあたり、精神的な内面性がアンプ、部屋の音響空間などが髪型や洋服の着こなしみたいなもの。

「フ~ム、同じSPでもこういう鳴らし方をするとこういう音になるのか」と実に参考になるが、先日のS木さん宅の試聴では「アキシオム80」の高域のものすごく澄んだ響きがいまだに耳に残っている。

低域は別として、高域に関しては一つの目標になる音だと正直に思った。

老練な英国人が作ったとされる世界で4セットしかないアンプ、出力管がPX25の中でもピカ一とされる「PP5/400」の組み合わせしか出せない音というのは分かっているが、少しでも我が家の音も近づけたいもの。

何とかS木さんのご訪問の前にと13日(火)、手元に持ち合わせの機器の範囲内でとりあえずチャレンジしてみた。ちょっと専門的な話になるが、コイルでアキシオム80の高域の上限をわずかカットしてツィーター(JBL075)の出番を作ってみた。

「075」の方は、0.5μFの東一のコンデンサーで下限をカットして気持ちだけ鳴らす程度だったが、レンジは広がるもののやっぱり木と竹をつないだような不自然さは否めない気がした。

もっと大幅にアキシオム80の上限をカットして「075」を本格的に使ってやるといいような気もするが、両者の能率が違うのでアッテネーターや別のアンプを用意するとか大掛かりな別の手立てが必要となる。

今回は075の介入はこの辺で止めて深入りはしないとアッサリ撤退。

次のチャレンジはご存知のとおり「羽毛」の活用。

ウェストミンスターに取り付けているアキシオム80の音がどうもあの前面のショートホーンのせいで拡散傾向にあるとかねてから睨んでいたのだが思い切って、前面4箇所に羽毛の袋を貼り付けてみた。

     (画像の上をクリックで拡大可能)     

これでヒラリー・ハーンの「プレイズ・バッハ」を聴いてみるとバッチリで音象定位がピタリと中央にフォーカスするようになった。心なしか音も以前より澄んだ気がする。やはりこれが変な響きの原因だったかと大喜び。おまけに、今回は1円の出費もなしでこの成果。

記憶に鮮明に残っている「いい音」を目指してあれこれトライしてみるのはワクワクして実に楽しく勉強にもなる。

「音質にはそれほどこだわらない」と、あまりオーディオに興味を持たない人というのは、よそのお宅で音楽を聴いたことがない人ではなかろうか。

やはり音楽好きの方なら「好きな音楽を自分好みの音で聴く」に越したことはないと思う。

自分の場合、他家の音を聴いてどんなに感動しても、ドラスティックに機器類を入れ替えるような、まるっきり方向転換するエネルギーはもう残されていないが、せめて「アキシオム80」を使っている方がどういう鳴らし方をされているかは是非知りたいとつくづく思う。

まだまだ改良の余地があると分かるだけで大いに励みになるし、オーディオ・マインドにも改めて火が点く。

そういうわけで、最近「使いこなしのノウハウ」について情報交換を促進するため「アキシオム80の同好会」を作ってみたいと思いだした。全国は無理としても、せめて九州管内で愛好者の名簿の整理ぐらいしたいもの。

今や高速道路網の発達により、長崎、鹿児島は無理としてもほかの県なら我が家から完全に日帰り圏内なのですぐに馳せ参じて試聴できる。

そもそも、福岡、大分県内だけでこのSPをどのくらいの人が愛用してるんだろう?

                        

アキシオム80はたいへんデリケートなつくりで低域をガンガン入れるとすぐに故障してガサコソ雑音がしだすクセのあるSPなので修理履歴を多く持っている岡山の専門店に連絡すると”事〔こと)”は一挙に解決するが、多分「個人情報」ということで”にべ”もなく拒絶されることだろう。

残る方策は同好会づくりの趣旨に賛同してくれたS木さんと自分によるクチコミと、このブログを読んで共感していただいた方に尽きると、いっていい。

「アキシオム80」を使っている方、あるいはご存知の方は差し支えなければ自己紹介の欄にあるメールあてご連絡をお願いします~。


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読書コーナー~「ベストな結婚相手の選び方」ほか~

2010年04月14日 | 読書コーナー

 「確率に強くなる」(2010.1、Newton別冊)

                    

ブログのネタ探しに「何か面白い記事はないものか」と、上記の本にザット目を通していたらちょっと目を引いたのが確率論からみた「ベストな結婚相手の選び方」。

「どういう職業に就くか」と並んで「結婚相手の選択」は人生を大きく左右する一大事と言ってもいいくらい大切な事柄。

「一生の不作」という言葉もあるくらいで、決めるときはどんなに慎重であっても構わないと思うが、やはり結婚してみなくては相手のことがよく分からない部分が必ずあるのが厳しい現実。

つまりミステリアスな領域を残しての一種の「賭け」というわけだが、もちろん反論もあって、熱烈な恋愛の末に結ばれたカップルなどからは神聖な結婚を「”賭け”呼ばわりするなんて不謹慎な」と怒られそうだが、まあ一般論として聞いてほしい。

「賭け」と「確率論」は切っても切れない仲だが、「ベストな結婚相手の選び方」についてユニークな一つの指針を紹介してみよう。

今、交際している人と結婚すべきかどうか迷っている人、あるいはそういった経験をしたことがある人は多いのではないだろうか?もしかすると今の交際相手よりももっとよい人が現れるかもしれない、逆に現われないかもしれない・・・。

貴方はたいへん魅力的なので一生のうちに10人もの人と交際するチャンスがあるとしよう。ただし、一度別れた人とは二度と会うことはできないとする。

そして10人の中に最良の結婚相手Aさんがいるとする。しかし、Aさんが何番目に現れるかはわからない。

仮に1人目の交際相手と結婚した場合、それがAさんである確率は1/10ととても低い。だからといって10番目まで待って結婚したとしてもAさんと結婚できる確率は同じく1/10。

では、どうすればAさんと結婚できる可能性が最も高くなるだろうか?

確率論で計算すると、この場合3.7人と交際して別れたあとにこれまでの3.7人よりも誰よりも魅力的な人が現われた時点で結婚するのが最良の戦略とされる。

この戦略にしたがえばAさんと結婚できる確率は最大となり、その値は37%。当然、人間相手なので3.7人ということはありえず3人~4人目以降となる。

確率の計算結果は次のとおり。

別れる人:確率

0人:10% 1人:28.3% 2人:36.6% 3人:39.9% 4人:39.8%

5人:37.3% 6人:32.7% 7人:26.5% 8人:18.9% 9人:10%

つまり、2人と別れたあとにAさんと結婚できる確率は37%、3人と別れたあとだと40%、4人でも微差で40%、5人だと37%、以下段々と下がっていく。

と、まあ、以上が理想の結婚相手を確率論で選択するやり方なのだが、どう考えてもこれは現実論からするとちょっと無理。

たとえば女性の場合は交際の数が増えるほど不利な側面があって成談の可能性は低くなる!

また、10人の交際相手を仮に5人とした場合も、理想の相手と結ばれる確率は最初と最後〔結果的に)が一番悪いが、実際には最初の機会で結婚を決めるケースが意外と多いように思う。
確率としては一番悪いのに~。

と、いうわけでやっぱり結婚は確率論で片付く問題ではなく「この人とどうしても一緒になりたい、ミスったとしても後悔しない!」と覚悟を決めてするのが一番常識的な線のような気がするが、どうだろうか。 

なお、ほかにも「ギャンブルと確率」の項目があり、競馬や競艇の期待値〔還元金)は宝くじやロトの45%~50%に比べて75%なので有利だそう。

取り分け、期待値が100%を超える可能性のあるのが競輪の「チャリロト」。配当金の上限額が12億円に設定されているのでキャリーオーバーが溜まっていくとたいへんなことに。

 「眠れる森の惨劇」(H12,ルース・レンデル)

                       

イギリスにはどうしてこうも優れた女性推理作家が多いのだろうか。あの「ミステリーの女王」アガサ・クリスティ以来の伝統だろうが、ミネット・ウォルターズ、P.D.ジェイムス、そしてこのルース・レンデル。いずれも粘っこい文章を書く。

以前、パトリシア・コーンウェル(アメリカ)の検死官シリーズの1冊を読んでサッパリだったので一層この感がする。

この「眠れる森の惨劇」は銀行強盗による殺人事件と、うっそうと茂った森の奥の一家惨殺事件とのつながりと真犯人を追い詰める優秀な主任警部の物語。「ウェクスフォード警部シリーズの1冊」。

手放しでというわけにはいかないが、秀作という表現がピッタリで読み始めてみると本が手離せなくて、2日がかりで読み上げた。

本書の特徴は、長い物語、深い人間観察、情景描写が実に細かい、登場人物の造形が優れて独創的といったところにあるが、展開中、いたるところに人生の警句めいたものがシェイクスピアなどの古典からの引用とともに散りばめられ、作者の深い教養がしのばれる。

これはミネット・ウォルターズをはじめイギリス女流作家の常套手段みたいなものでいつも感心させられる。このことによって謎解きとは関係なしにストーリーにたいへん深みが出てくる。やはりミステリーといっても文学的な香りがしないと~。

ただし、登場人物が多くてそれぞれ覚えるのがたいへん。しょっちゅう、巻頭に戻って「主な登場人物」の紹介に戻らなければならないし、真犯人の見当も途中から段々ついてくる。

結局、最初の殺人現場の状況に大きなヒントが隠されていたわけだがミステリーの約束事にしたがって紹介はここまでに~。


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オーディオ談義~アンプの雑音対策~

2010年04月12日 | オーディオ談義

2ヶ月ほど前にオークションで購入した「パワーアンプ」は、結果的に”アタリ”だったか”ハズレ"だったか、いまだによく分からないところがある。

                      

このアンプは出力菅に古典菅「PX25」〔英国製)を使ったもので出力トランスは、あの(レコードの)カートリッジの世界で一世を風靡したオルトフォンの昇圧トランスを作っていたJS社(デンマーク)が作ったもの(型番は「JS-2218」)。

音質はたしかに以前、使っていた同じPX25アンプに比べて高域もすっきりと伸びて上質の印象を受けるが、感度のよさとは裏腹に唯一の欠点がSN比(シグナル/雑音比率)が良くないこと。

常に「ジー」という、かすかな雑音がする。気にしないで済むか、しないか程のわずかな雑音だが、やはりちょっと・・・。

「朗々と鳴っていた音楽がふと止んで、一瞬の静寂に包まれ、その中からスッと楽器の音色が静かに立ち上がってくる」、これはまさに音楽鑑賞のクライマックスで感動的な瞬間でもある。

その静寂の中に、「ジー」という雑音が微(かす)かにでも聞えればやはり「興ざめ」というものだろう。少なくとも自分は大いに気になる。

低域用のSPユニット4発にしたこともさることながら、この雑音対策がこの2ヶ月間ほど気になりっぱなし。

もちろん、これは使っている相手方のSPユニット「アキシオム80」の極めて感度の高い設計にも起因している。とにかくこのユニットはアンプのあらゆる欠点を完璧に白日の下にさらけ出す。

まず「何とかしてください」と、自分の主治医みたいな存在のオーディオ仲間のM崎さんに頼み込んだ。

そういうことなら、まずアンプのゲイン〔音声入力レベル)を落としてあげようと、アンプの裏側の初段菅付近の増幅回路の2箇所をカットしてくれた。

次に、高域が発振している可能性があるし、通常PX25を使っているアンプでは、この部分に抵抗が入っているのに、このアンプは入っていないということで挿入してもらった。

これで、たしかに気にならないほどの雑音になり「一件落着」かに見えたがそうは簡単に問屋がおろさなかった。

現在のシステムの接続はワディアのDAコンバーター(27ixVer3.0)がボリューム付きなので、プリアンプ代わりに使っている。

ここから2系統に分けて一つは、アッテネーター(音量調節機)を介して低域用のパワーアンプ(ケンウッドのL01-A)につなぎ、もう一つは、前述した中高域用のPX25アンプへ。

ここでオーディオ・マニアなら誰もが気付くと思うが、「アッテネーター」というのは一種の抵抗みたいなものだし、システムの中で余計な接点となるので出来れば外してやりたいもの。

そこで、PX25アンプのゲインを少し上げてやれば、2系統の音量レベルが一緒になって「アッテネーター」が不要になる。

8日(木)、思い切ってじっくりとPXアンプの裏を覗いてみて、M崎さんが切断してくれた2箇所のコンデンサーへの接続回路のうち、試しに一箇所〔左右チャンネルで計2箇所)をハンダで復元(接続)してみた。

それで、鳴らしてやると「Good」、たしかにゲインが適度に上がって丁度低域とのバランスがバッチリ。

しかし、悲しいことに「ジー」という雑音も以前ほどではないが見事に復活。

「ウ~ン」これには参った。

あちら立てればこちら立たず。オーディオは常にプラス面とマイナス面との凌ぎ合いだあ~!

「何とかならないものでしょうか?」と再度、泣きをM崎さんに入れてみた。一旦「アッテネータ」を外した音を聴くと、もう二度と入れる気にはならない。

「アースの問題でしょうか、そもそも、シャーシ(アンプの土台)が鉄製なのが悪いんですかね~」

「うん、シャーシが鉄製じゃなくて銅製のもあるが、ものすごく少ないよね。銅は粘っこくて穴が空けにくい欠点があるので皆さん、まず鉄を使うよ。
どうも”ジー”という音は鉄とかの誘導電流のせいではなくて、どこか他の機器からの高周波の雑音が混入しているんじゃないの。
考えられるのは、パソコン、冷蔵庫、コタツなどの電気製品。一つ一つプラグを外して確認してみる手はあるが・・。」

「へえ~、そういうこともあるんですか」とPX25アンプの電源コンセントを引っこ抜いて、一般の電源とは別系統にしている特設の200ボルト電源(100ボルトに減圧済み)に接続してみたところ、見事に「ジー」音がしなくなった。

バンザ~イ。

まったく、苦労させられた一幕。

結局、家庭内の他の機器からの雑音混入だった。電源はやはり怖い。まだ安心は禁物だろうが、ひとまずこれで様子をみてみようと就寝。

翌日のこと、このところすっかり”はまって”いる
グールドの「イギリス組曲」(バッハ)を恐る恐る聴いてみたところバッチリで見事なSN比に。これでやっと音楽に専念できるとひと安心。

それにしてもこれは「空前絶後の名演」。グールドのバッハは間合いの取り方が絶妙で、句読点とリズムが一体になった漱石の名文を読んでいる気がしてくる。

そういえば、グールドの一番の愛読書は「草枕」だった。

さて、それとは別にもう一つの故障が。

ワディアのDAコンバーターは購入するときに「清水の舞台から飛び降りる」ほどの思いで購入したが、途中のヴァージョンアップを含めてもう12年ぐらい使っている勘定になろうか。いまだに現役として販売されているのがうれしくなる。

                      


随分と高価だったが、これだけ使うと元が取れたようにも思う。1年に換算すると13万円程度で1ヶ月にするとおよそ1万円、1日にすると300円で、これは1時間の有料駐車代程度・・・。これからも使えば使うほどコストが下がっていく。

我が家のオーディオシステムの司令塔的な存在で、前述したようにボリューム付きなのでプリアンプも兼ねて使っており、これが故障するとまったくニッチもサッチもいかなくなる。

ところが9日(金)に、それこそ突然ボリュームの左右のバランスがおかしくなった。

たとえば左チャンネルがボリューム60〔100が最大値)とすると、右が72程度に上げてやらないと左右が音量的にバランスしない。

まあ、これで聴けないないこともないが、やはり気になる。どうして自分のシステムはこうも
”トラブル続き”なのかと泣きたくなるほど。

早速、購入先のオーディオ・ショップにメールを入れて相談してみたところ、メーカー取り扱い会社に修理を依頼するので送付してくださいと返事が戻ってきた。

しかも、マークレヴィンソンやゴールドムンドなど代替機のDAコンバーターを選択できるようたっぷり準備するとのこと。それではと倉庫に入って元箱を見つけて送る準備をしたが、まあ”念のため”と一旦電源を切って5分ほど待って再度電源を入れたところ見事にバランスが正常になった。

まるでコンピューターと同じ。オーディオ・ショップにその旨連絡すると、ワディアだけではなく、いろんなメーカーのものがときどきそういう症状を起こすとのことだった。

とりあえず一件落着。それにしてもオーディオは肉体的にも精神的にもホントに疲れる~。


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オーディオ談義~「欲の深いオーディオ愛好家」~

2010年04月08日 | オーディオ談義

つい最近のブログでも取り上げた「オームの法則」は、今更言及するのはおかしな話だが実によく出来ている。

「電圧=電流×抵抗」

たとえば、オーディオにとって不可欠な存在の(音声信号を増幅する)パワー・アンプの場合。

一定の電圧(各家庭では100ボルト)のもとで、抵抗値(スピーカーのインピーダンス)が低くなると大きな電流が必要となりアンプの能力(出力)が耐え切れず悲鳴を上げる。

一方、抵抗値が増えて少ない電流で済むとアンプにとっては随分と楽になるが、音にすっかり元気〔力感)が失くなってしまう。

結局、どちらに偏っても何かしら弊害が現れてくるというわけで、電流と抵抗の関係に象徴されるように万事が微妙なバランスの上に成り立っているのが「オーディオ」


すべてに亘って「適値」というものがあって、
「やり過ぎても、やり足りなくてもアウト」という何とも複雑で難しい世界

その辺が「オームの法則」という単純かつ不変の真理に凝縮されているように思うのだ。

ちょっと話が逸れるが、現代のSPユニットは大半がインピーダンスが8オームだがずっと昔のユニットは16オームが当たり前だった。

これは当時の真空管アンプの性能に合わせて作られていた時代の産物。因みに自分が愛用している50年前の「アキシオム80」は当然のごとく15オームなので小電力・小出力で済む真空管アンプ向き。

さて、片チャンネルの低音を4発のユニットで鳴らし始めてからおよそ10日あまり。

しっかりした量感とドスンという後を引き摺らない締まった低音を堪能しているが、「もっと良くなるかもしれない」と欲は果てしない。

やり過ぎても悪いし、やり足りなくても悪いし、いろいろと工夫しているところだが、楽しみながらも「悪戦苦闘中」という表現がピッタリ。

まず、吸音材。

4発のユニットを容れたボックスが後面開放型なので絶対に吸音材が必要だが当初応急的に木綿の毛布を被せていたのだが、ずっと以前にホームセンターで安物の「羽毛布団」を購入して1枚余っていたのを思い出した。

吸音材としてはグラス・ウールなどいろんな素材があるようだが「羽毛」が最高だそう。

気の遠くなるような時間をかけての進化の過程で、鳥の羽根は「強度と軽さ」を満たした最高の素材であり、羽根には目に見えない無数の穴が空いていてそれが”ほどよく”音を吸収し、空気抵抗を軽減してコーン紙の前後の振幅を助けるという。

「学問」と同じで、オーディオも「仮説〔理論)と実証」だあ~。

4月2日〔金)のこと、そっと押入れの中を探すとカミさんがちゃんと布団カバーを被せて保管していた。

胃の検査で無事と分かって俄然、強気に転じた自分。

その日の夕方、「おい、羽毛布団が要るようになったので俺にくれ、吸音材にするんだ」

「もお~、折角カバーをつけていたのに、勝手にしよ!」とご機嫌斜め。

何と言われても音を良くするためには「忍の一字」でただひたすら耐えるのみ。

翌日、早速羽毛布団を大きな裁ちバサミでジョッキン、ジョッキン。今回は随分と要領が良くなって、羽毛がこぼれないように「ホッチキス」でパチン、パチンとトメテいったので簡単。

左右のSPボックス用に1枚ずつ作ってそれぞれ上部に釘を打ち付けて被せてみた。「楽屋裏」はあまり見せたくないのだが、「百聞は一見にしかず」でやむなく写真をパチリ。

                          
              チャンネル裏          左チャンネル裏

いやあ、これで随分と音が良くなりました!

ドカンという低音のときに室内のビビリ音が一切しなくなったし、随分と軽くて歯切れが良くなったのがうれしい。

そしてもう一つの課題。

                    

写真でご覧のように、タンノイ・ウェストミンスターの中に入れている「アキシオム80」が横にある4発のウーファーたちの音圧の影響を受けて何だか元気が足りないように感じるのがちょっと気になる。

そこで、スペアで持っていたもう1セットの「アキシオム80」を引っ張り出して、ウェストミンスターの上に置いてみた。

フッ、フッ、フッ、これで二通りの鳴らせ方が出来る。

 ウェストミンスター内臓のアキシオム80と4発のウーファー

 ウェストミンスターの上に載せた「アキシオム80」と4発のウーファー

このを同じアンプで聴き比べてみるとまったく甲乙つけがたし。1は音像定位に優れて音楽的な印象だが2は解像度に優れていていわばオーディオ的な音になる。

はてさて、どちらを選択しようか。今のところ日替わりのように両方をつなぎ替えて聴き比べているがホントに悩ましい毎日。


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オーディオ談義~「オーディオ訪問記」2010・3・31~

2010年04月03日 | オーディオ談義

去る2月中旬のこと、1通の興味あるメールが飛び込んできた。

福岡市在住の「S木」さんという方で「突然のメールをお許しください」の書き出しで、大要次のとおり。

AXIOM80(アキシオム80)で検索していたところ偶然に貴兄のブログを発見しました。現在、AXIOM80の音色に惚れ込み愛聴している一人であります。

稼働させるアンプには苦労しながらも、現在は、英国MAZDA製のPP5/400を出力管に、同じく英国PARTRIDGE製のトランスを使用した、シングルアンプで何とか落ち着いています。

ドーム型のPX25にも差し替えてたりしておりますが、やはりナス管の方が、暗さの中にも渋く艶のある英国らしい音がして、AXIOM80には相性が良いように感じております。

大分にお住まいの様ですが、我が家も福岡にございます。後にも先にもAXIOM80の音は我が家のものしか聴いた事が無く、本来の音色で鳴っているのかどうかも良く判らない状態であります。

もし福岡にお出でになられる事などがございましたら、ぜひ我が家の音色もお聴きいただいて、ご評価などいただければ幸いでございます。

まったく「涎(よだれ)」が出てきそうな話である。

アキシオム80はたいへんデリケートなSPユニットなので物凄くアンプを択ぶ。出力菅や出力トランスの良否などいっぺんに照らし出すが、この方は使っている部品がすごい。

まず、出力菅の英国製「マツダPP5/400」は数あるPX25類似管の中でも「最高峰」と言われている真空管。PX25の愛好家にとっていわば垂涎の的の「幻の真空管」でオークションにもまず出ないし、出たとしても無茶苦茶に高価になることだろう。

自分もこれまで噂には聞いているが、もちろん試聴したことはない。

それに、出力トランスも英国の定評ある「パートリッジ」。アンプとスピーカーが英国製の部品で統一されているというのもポリシーが感じられる。

早速、メールでやりとりしたところ、現在は他県に単身赴任されているそうで滅多に福岡の自宅には戻られないとのこと。

そして数回のやりとりをするうち、3月末頃に福岡の自宅に戻られるのでそのときによかったら「ご訪問を」という話になり、結局訪問日を「3月31日〔水)」に決定。

3週間ほど前だったが湯布院のA永氏をお誘いするとご快諾で「一緒に行きましょう」という話になって、いよいよ待ちに待った当日に。

天気が下り坂の「曇り」のなか、別府を12時20分に出発。途中でA永氏と合流。

教えていただいた住所を番地まで打ち込んでカーナビを頼りに進んだところ、ピッタリ1時間50分後にご自宅から100mの範囲内に行き着いた。「S木」さんと携帯で連絡を取り合って見事に合流。

福岡市内中心部の閑静な住宅地に大きくて瀟洒な鉄筋コンクリートづくりの建物で見るからに音楽鑑賞に最適で「SN比」が良さそう~。

S木さんは落ち着いて穏やか、実に気さくな方で初対面のかた苦しさは毛頭感じられない。

早速、リビングルームに設置されている装置の前までご案内される。部屋は明らかに「ライブ」といった環境でスピーカーとの距離はそれほどでもないが天井が高いので狭苦しい感じがしない。

まずは音出しの前に装置の概要をお聞きしたが、当然「アキシオム80」への”こだわり”が中心。                             

学生時代に「オーディオセンター」でアルバイトをした経験からタンノイやJBLなど沢山のSPを試聴する機会があったが「こんな音のどこがいいのだろう」と、まったく心を惹かれず、たまたま知人宅で聴かれた「アキシオム80」の音色にほれ込み譲ってもらったとのこと。

「このSPを聴くと、もうほかのでは満足できません」とおっしゃるが、自分もその魔力に魅いられた同類項な
のでよくわかる。

感性が同じような方と話すとキャッチボールがしやすいので実に心地よいが、アキシオム80の使い方には二通りあって、単独で鳴らすやり方と、自分のように低域を別のSPユニットに任せて中高域だけ使うやり方がある。

S木さんの場合は前者の使い方で、容れてあるボックスのほうはオリジナルのグッドマンのもの。

                      

単独で使う場合は、低域の音声信号を沢山入れるわけにはいかないので聴く対象も室内楽やボーカルが中心となる。

さて、早速「女性ボーカル」を聴かせてもらったが何という抜けのよさ。やはりアキシオムに共通する音だが透明感がことのほか抜群で、中高域の澄み具合は我が家よりも明らかにクオリティが上ではないかと正直思った。

ヒラリー・ハーンのヴァイオリン・ソロ「プレイズ・バッハ」では、「低域の出具合が気になりますがこの程度ですか」と気にされるので、このCDは低域の音声信号が入ってないので「我が家でもこの程度ですよ」と返答。

S木さんのご友人が試聴されるときは「聴取ポイントに座り込むともう動かなくなってなかなか帰ろうとしない」とのことで「さもありなん」。

やはり「PP5/400」は期待どおりで凄かったが、総合的には出力トランスも含めたアンプの品質の成果だろう。このアンプ(モノ×2台)は英国人の専門家の手になるもので世界で4セット作られたうちの1セットで、1997年の世界のアンプ部門でグランプリを獲得されたそう。

                  

シンプルで見るからに「いい音」が出そうなアンプだが1台の重さが30数キロで納得。初段の真空管はオスラムの「MHL4」で、初段菅はやっぱりミニ管よりも大きな管のほうがしっかりした音が出るみたい。オークションでいくら探してもないのが悩みの種だそう。

しばらく聴かせてもらってから、かねての予定どおり持参したPX25の類似管「テスラのRD25A」と軍用の「VER40」を差し替えてもらって比較試聴させてもらうことに。

やはりガクンと差が出るようで、高域の抜けとか透明感が随分と違う。まるでアンプを取り替えたみたい。自分としては”がっかり”の一幕だが、ただし、我が家の場合は低域と一緒に鳴らしているので中低域の厚みとかの面でクロスオーバー部分の”つながり”はいいかもしれないなんて思ったりした。

それにしても「PP5/400」にはまったく脱帽。自分も欲しくてたまらないが入手はまず無理なので、どこか高齢の持ち主を捜し出して、亡くなって家人が哀しんでいる隙に”かっぱらってくる”ほかはない!

不謹慎で物騒な話だが、この話は五味康祐さんの名著「西方の音」に出てくるが、それほどに「いい品物」とは個人の執念によって次代へ引き継がれていくという”たとえ”。

オーディオ談義に話が咲くうちに時間があっという間に経っていく。大都会のラッシュ時のクルマの洪水は田舎の人間にとって「恐怖の的」以外の何物でもないので、名残惜しかったが「別府と湯布院の方にも是非出て来ていただくよう」お願いしながら17時前に帰途についた。

帰りの車中でA永さんともども「今日は大きな収穫だった。ああいう音なら一日中聴いても、疲れないし本当に魅力的。

しかし、さらに低域に目がいきだすといよいよ本格的になる。S木さんはまさに
"オーディオの迷路”の入り口に佇んでおられる状態。

ここで、踏みとどまるのもいいし、思い切って前進するのも自由だし・・・」と語り合ったものだった。


 


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