前々回の「シンバルの響きが聴きたいばかりに」の続きです。
いつもイギリス系のSPユニットを聴いていると、お国柄を反映しているのか、いかにも思慮深い「紳士=ゼントルマン」という印象を受けるが、たまには「カリフォルニアの晴れ渡った青空」のように明るくて陽性なサウンドも聴きたくなる。
カリフォルニアには行ったことがないが「JBLサウンドの形容詞」としてよく使われているので、つい・・(笑)。
方向性としては二つある。
JBLとはいいながら「クラシックも聴ける和洋折衷したような音」が一つ、もう一つは「ジャズの方により比重がかかった音」
前者のケースはこれ。
1 「D123(フルレンジ)+075ツィーター」の組み合わせ
後者のケースはこれ。
2 「D123(~1000ヘルツ)+175ドライバー(2000ヘルツ~)の組み合わせ
まず、1から取り組んでみた。
グッドマン指定の「ARU」(背圧調整器)が付いた箱に内蔵する「D123」というだけでも興味が湧きませんか?(笑)
で、どの真空管アンプと組み合わせるかさっそくチャレンジ開始。
アンプとスピーカーのマッチングはオーディオ最大の課題であり、楽しみでもある。
この際はあえて日頃から出番の少ないアンプにチャンスを与えることにした。言い換えるとイギリス系のSPに一敗地にまみれた「敗者復活戦」ともいえる。
まあ、ジャズ系の音の再生は何でもありだし、もったいない精神も当然ある・・(笑)。
で、最終的に「D123」用のアンプは「6FQ7プッシュプル接続」で決まり。
ご覧のとおり中央の整流管「5V4G=GZ32」(RCA)を除いて「ミニチュア管」のオンパレードである。出力もせいぜい1ワットクラスだと思うがこんなアンプで大丈夫なの?
ところが力強い低音も含めて堂々たる音が出るんですよねえ。もう信じられないほど。イギリス系のユニットでは激しいアタック音のときにパワー不足でクリップしていたのに~。
一因として「D123」の能率が100db前後と高いこと、それにプッシュプルアンプなので「トルク」が強いこと、かなと推測している。
ちなみにミニチュア管の紹介をしておくと上段の「出力管」が「6FQ7」(クリアトップ:RCA)、下段の「前段管」が「13D9」(BRIMAR=STC」という構成。出力トランス(プッシュプル用)はアメリカの名門「TRIAD」である。
次にツィーターの「075」を駆動するアンプは「71Aシングル」。
このアンプを改造していただいたNさん(大分市)から「電源トランスの容量が小さいので、前段管(AC/HL)の能力を十分発揮できません」と、冷たい宣告をされたアンプだが、ツィーターの「075」の能率が「110db」とメチャ高いのでようやく出番がやってきた。
このコンビで聴いてみると、やはりイギリス系のサウンドとは違和感があって、最初は戸惑ったがそのうち慣れてきた。
「D123」のコーン紙のカーブが浅いのでタメがなくストレートに音が出てくる感じ。「原音再生」というポリシーを持つ方なら、こちらの方に軍配を上げるかもしれない。
いずれにしてもシンバルの響きは予想通りで、まったく見事としか言いようがない。
イギリス系の音が「湿り気のある情緒系のサウンド」としたら、JBLは「乾いた気質のサウンド」ともいえるが、やはりこれはこれなりの良さがありますね。
次に2へ行こう。道具立てはそろっている。
以下、続く。
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いつも早朝から楽しんでいるネットラジオ。
なにしろハイレゾ「32ビット/384KHz」だから、我が家では一番質の高い音楽ソースである。ちなみにCDは「16ビット/44.1KHz」である。
ひところは「モーツァルト専門チャンネル」を楽しんでいたが、このところ「オペラ専門チャンネル」を聴くことが多くなった。
有名なオペラのさわりの部分が次から次に切れ目なく登場するのだからもうたまらん(笑)。
琴線に触れてくるメロディが出てくるたびにパソコンににじり寄って作曲家と曲名を確認している。
当然のごとくモーツァルトのオペラが登場することも多く、大のお気に入りの「魔笛」なんかしょっちゅうで、いきなり「パパパ・・」が流れてきたりすると思わず胸が震えるが「あれっ、これは間違いなくモーツァルトの曲風だが初めて聴くメロディだなあ・・」というのもあったりで、確認してみると上部に「K384」とある。
何だったけ?と別のパソコンでググってみると比較的初期のオペラ「後宮からの誘拐」だった。
当時のこと、劇場でこのオペラを鑑賞した皇帝から「モーツァルト君、このオペラはちょっと音符が多すぎるんじゃないかね」
「いいえ、閣下、適切な音符に収まっております」と即答したという有名な逸話がある。
そのうちじっくりと鑑賞してみたくなったので、CD55枚組のモーツァルト全集を確認してみると「ありました!」
で、モーツァルト以外にも「これはいいなあ!」と(パソコンに)にじり寄る回数が多いのが「グルック」という作曲家。
とても叙情的で麗しくて好みのオペラである。
グルックといえば「精霊の踊り」が有名で、ヴァイオリン・ソロ(アッカルド)で時折り聴くがオペラとなると未知の領域である。
グルックは「1714~1787年」に活躍したオペラ作曲家で、ドイツ生まれとある。
モーツァルトの生涯が「1756~1791年」だから、ちょうど軌を一にしていることになるが、お互いに意識し合ったんだろうか・・。
グルックの代表的なオペラとなると「オルフェオとエウリディーチェ」という舌を噛みそうな長ったらしいタイトル。
本格的に腰をいれて聴いてみたいと、CD盤をググってみたがなかなか演奏者が多彩で決めきれない。
オペラ通の読者の方々のうち「お気に入りの盤」がありましたら、ご教示いただけたら幸いですが~。
自己紹介欄の「メルアド」あてよろしくお願いします。
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ようやく「山の頂に近づけたかな」と自惚れるほどの、(このところ)絶好調のオーディオ。
その立役者はこの「3本柱」。
左側は自作の薄板(1.5cm)の箱に容れた「TRIAXIOM」(グッドマン)で、口径30cmの極薄のコーン紙による同軸3ウェイユニットで「ハーモニー」を楽しむ。正しい「音像定位」は美しいハーモニーの源である。
また、これまで「茶色系のコーン紙」で失望したことが一度もないことも特記すべきこと。
右側はこれまた自作の薄板(1.2cm)の二つの箱に容れたグッドマンのコンビ「AXIOM80」(フルレンジ)と「AXIOM150マークⅡ」(低音専用)で「緻密で繊細な再生」を楽しむ。
そして奥にある「ウェストミンスター+ツィーター」(ユニットはともにワーフェデール)のコンビで深々とした低音域のもとにスケール感豊かな音楽再生を楽しむ。
この3本柱でもう「鬼に金棒だね」と悦に入っていたところ、そのうち「何か忘れちゃいませんか」と脳裡の片隅で秘かにささやく奴がいる(笑)。
そうなんです、ときどき無性に「シンバル」の響きを堪能したくなるんですよねえ。
ジャズはめったに聴かないので、これら3本柱とは無縁の存在だが、一つぐらいは「ジャズ向き」のシステムも用意しておこうか・・。
というわけで、思い立ったが吉日とばかりグッドマン指定の4cmもある板厚のエンクロージャーにJBLのユニットを組み込んでみた。
力に任せて動かした方がいい傾向にあるアメリカ系のユニットはイギリス系と違って逆に「板厚」が厚い箱の方がいいみたい。
使ったユニットは「D123」(口径30cm)で、これをフルレンジで鳴らす、そして高音域(6000ヘルツ~)を補足するために「075」(ツィーター)の出番である。
超重量級の「ステンレス削り出しホーン」に組み込まれた「075」はシンバルの再生にうってつけで、生の音は別にしておそらく世界中でこれに勝るシンバルの音は聴けないのではないかと勝手に自惚れるほど。
下世話だがこのホーンのお値段は「AXIOM80」(オリジナル)並みだった・・。
で、実際に聴いてみるとシンバルはもちろんだがクラシックでもなかなか「いい線」を行っているじゃないか・・(笑)。
以下、続く。
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つい先日のブログで取り上げた芥川比呂志さんの「エッセイ」がきっかけで、このところいろんな作家のエッセイを借りてきては読みふけっている。
「エッセイ」というのは「自慢話」と紙一重なので、その辺の作家の処理具合も興味あるところ。
その一環として「阿刀田 高」氏の「ミステリー主義」はなかなかセンスがあって洒落ていたが、その中にこういう一節があった。
「私の親しい先輩Mさんから聞いた話である。Mさんは50年も昔、田舎の小学校を卒業して東京の名門中学へ入った。
Mさんの父親は「東京の学生に較べて学力が劣ったら困る」と考えて自ら家庭教師となり、試験の前にはレジュメを作りヤマをかけ、「これを覚えていけ」
あんまり熱心にやるものだから、そばで見ていた家族は、「お父さんの方が試験を受けるみたい」と、あきれるありさまだった。
が、そのわりにはMさんの成績はあがらない。父は投げ出してしまった。
ちょうどそんなときにMさんの従兄のAさんが東京の国立大学に入り、地方都市から上京して叔父(Mさんの父)のところに下宿することになった。
MさんはAさんと一つ部屋に机を並べて起居をともにするようになる。
後年、Mさんは述懐するのだ。
「Aさんは質問をすれば教えてくれたけれど、特に何かを習ったという覚えはないんだ。だけどそばで見ていて、勉強とはこういうふうにするものなのか、とわかったな」
つまり、勉強をしているときの集中力、たくさんのノートが発揮する迫力、試験の前の激しい苦悩、・・・Aさんが優れた学徒であっただけに、訴えるものは強烈であったにちがいない。大学生と中学生ではレベルが違う。
そのAさんをそばで見ているだけで何も教えられなかったけれど、Mさんの成績はみるみる上がったそうである。
~中略~
中国の故事には「謦咳(けいがい)に接する」という言葉がある。偉い人の咳を浴びるくらい近くにいて影響を受けることだ。
とまあ、以上のような内容だった。
ふと、これに関連して文豪「志賀直哉」氏のエッセイ「リズムとマンネリズム」を思い出した。
その一部を紹介してみよう。
1 偉れた人間のする事、いう事、書く事、何でもいいが、それに触れるのは実に愉快なものだ。
自分にも同じものが何処かにある、それを眼覚まされる。精神がひきしまる。こうしてはいられないと思う。仕事に対する意志を自身はっきり(あるいは漠然とでもいい)感ずる。
この快感は特別なものだ。いい言葉でも、いい絵でも、いい小説でも(いい音楽でも)本当にいいものは必ずそういう作用を人に起す。一体何が響いて来るのだろう。
2 芸術上で内容とか形式とかいう事がよく論ぜられるが、その響いて来るものはそんな悠長なものではない。そんなものを超絶したものだ。自分はリズムだと思う。響くという聯想でいうわけではないがリズムだと思う。
3 このリズムが弱いものはいくら「うまく」出来ていても、いくら偉らそうな内容を持ったものでも、本当のものでないから下らない。小説など読後の感じではっきり分る。作者の仕事をしている時の精神のリズムの強弱問題はそれだけだ。
4 マンネリズムが何故悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰返していれば段々「うまく」なるから、いいはずだが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。
精神のリズムがなくなってしまうからだ。「うまい」が「つまらない」という芸術品は皆それである。いくら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。
とまあ、以上のとおり。
このブログにも「リズム」があるといいんですけどねえ(笑)。
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前回のブログ「見かけなんかでほどほどでいい・・・」でグッドマンの「赤帯マグネットのユニット」を話題にしたところ、さっそく今朝(26日)の過去記事ランキングに「赤帯マグネットに駄作なし」が登場していた。
このブログの読者は油断できないし、少しの隙も見せられない、過去記事と矛盾したことを書くとバッシングを浴びせられそうだと頭の中で警戒警報が鳴り響いた(笑)。
で、一読してみたが「あれ~、こんなこと書いてたのか・・」とすっかり忘却の彼方だったが、取り立てて矛盾も無さそうだしほっとひと安心。
書いた本人が忘れているくらいだから読者にはなおさらのことだろう。
「鉄は熱いうちに打て」ということで「再掲」(改変済)させてもらおう。
オーディオの華といえば「姿かたち」といい、その機能からいって「スピーカーに尽きる」ことに誰も異論はあるまい。野球でいえばエースであり4番バッターである。
ここがしっかりしていないと組織的にガタガタになる(笑)。
たとえば「しょぼいアンプに豪華なスピーカー」 VS 「豪華なアンプにしょぼいスピーカー」のいったいどちらが絵になるのか、もう言わずもがなで前者に決まっている。
これまで、SPユニットに対してああでもない、こうでもないと長いこと彷徨ってきたが、事(こと)ここに至ってようやく一つに収斂してきた。
それは「古き良きブリティッシュサウンド」だ。
さて、ずっと愛でてきた口径30センチのユニットのうち「D123」(JBL)、「AXIOM150マークⅡ」(グッドマン)、そして「フィリップス」の花の3姉妹のうち、ご承知のようにフィリップスを嫁に出したので何だかポッカリと心に隙間ができてしまった。
その空白を埋めるかのようにオークションで目に入ったのが「ワーフェデール」(イギリス)のユニット(口径30センチ)だった。
「ブリティッシュサウンド」ファンにとって「ワーフェデール」と聞いただけで胸がときめく。
先年亡くなられた音楽評論家の「宇野功芳」氏が3ウェイシステムのうちウーファーとツィーターにワーフェデールを、中音域にAXIOM80を使っておられたことを思い出す。
そのブリティッシュサウンドの代表格ともいえるワーフェデールだが、出品タイトルには「水彩画のような気品あるイングランド・トーン 英Wharfedale12インチ~希少なアルニコ赤バンのフルレンジタイプ~」とあった。
解説文にはこうある。ちょっと長いが引用させてもらおう。
イギリス Wharfedale社の12インチ ( 30cm )、フルレンジ (ウーハ-)、Super12系のユニット。前期の赤帯のアルニコ・マグネットを背負った希少なユニットです。pair での出品になります。
ただ、もともとの作りがフルレンジであるだけに、このサイズとしては、高域も比較的よく伸びています。(アメリカ系によく見受けられるワイドレンジ・ウーハ-といった感じです。)したがいまして、クロスもかなり広範囲で選ぶことができますので、2way構成も可能だと思います。
また、ツイーターについても、Super 3やSuper 5が一般的でしょうが、その他、広い範囲から選ぶことができると思います。(フルレンジに近い作りですので、一般的なフルレンジ+ツイーターといった使い方もできます。)
音質的には、水彩画的といいいますか、ウェットでありながらさらっとした音質が魅力的だといえます。自らをあまり主張し過ぎない、当時の、気品あるイングランド・トーンといえるかもしれません。
後期のフェライト・マグネットのユニット(Super12系)と比較すると、切れ味では及びませんが、アルニコ特有の中域の充実とともに、音の柔らかさ、しなやかさでは優れているように感じました。(ツイーターをSuper 3にすると、こちらは強い音質のツイーターですので、また印象が変わるかもしれませんが。)
以上のとおりだが、これだけ熱の入った解説文を記載されるほどだから出品者は相当の愛好家だとお見受けした。
何といってもAXIOM80に代表されるように「赤帯マグネットに駄作なし」で、とてもいい音がしそうですねえ。
実は1年半ほど前にワーフェデールのツィーター(口径10センチ)を手に入れて今でも愛用中である。これも赤帯マグネットだが、図体に似合わぬ大きなマグネットが付いている。
周知のとおり、音の切れ味はマグネット(磁束の量)で決まる。
通常のツィーター(金属のダイヤフラム)にはとうてい望めない弦の響きが大いに気に入って、わが家ではダントツの存在感を示しているが、今回のユニット(口径30センチ)を購入して2ウェイにすると「ワーフェデールの純正の組み合わせ」が期待できる。
そう思うと「矢も楯もたまらず」即決欄をポチッ(笑)。
「お父さん、もう少し部屋の中をゴージャスにした方がいいんじゃない。これではまるで実験室みたいね、クラシック音楽を鑑賞するムードには程遠いわ」と、時折り「ため息」交じりに家人が宣う。
わかっちゃいるけど止められない(笑)。
およそ、この世で完璧なオーディオシステムはあり得ない、言い換えると一つのシステムであらゆる音楽ソースをこなせるものは皆無だと思うので、ついいろいろ触手を伸ばして様々なサウンドを楽しみたくなる。
で、スピーカーが7系統、それに応じた「DAC」「プリアンプ」「パワーアンプ」を揃えるとなると「5m×6m」のオーディオルームは常に満杯状態。
で、ず~っと「見かけ」なんて「ほどほど」でいい、と割り切っているが、つい最近オークションで興味深い事例を見かけたので挙げてみよう。
一言でいえば、同じSPユニットがちょっと傷があるだけで大きくお値段が異なった話。
それは「GOODMANS レッドアルニコ 30cm フルレンジ 1個」というタイトルで出品されていた。
グッドマンの本格的な赤帯マグネット付きのユニット、それもバランスのいい口径30cmとくれば自分にとっては垂涎の的である。
当然、お値段が見合えば欲しいなあ~。ただし、コーン紙に補修がしてある。
とはいえ、経験上この程度の補修ならまったく音質に影響がないはず。
そして、同様にもう1個出品されていて、そちらの方は補修痕もなくまっさらのきれいな新品状態だった。
さあ「ペアで10万円以内なら買いだね」と意気込んではみたものの、同じ口径30cmの「AXIOM150マークⅡ」を持っているので、ひとまず様子見を決め込んだ。
そして、ためらう中、お値段がぐんぐん上がって入札結果といえば新品同様のユニットが「15万1千円」、そして補修有りの方が「43,499円」と10万円以上もの大きな差が出たのには驚いた。
普通、SPユニットは「サランネット」でカバーするので、補修痕なんか隠れて見えないのにこのありさま(笑)。
そんなに見栄えが大切なのかと、しばし考えさせられた。
「見かけ」なんか「ほどほど」でいいという自分がおかしいのかもしれない。
こと女性となると「美人」に拘るんだけどなあ(笑)。
さて、オークションに関して、この際なのでもうひとつ。
我が家で「骨の髄」までしゃぶり尽されているタンノイのウェストミンスターが出品されていた。
「部屋に置くには大きすぎる」というのが大半のオーディオ愛好家のご意見だろう。それに重さの方も100kg以上はゆうにあるのでいったん据え付けると簡単には動かせない。
しかし、この箱じゃないと出ない音があることもたしかである。独特の長大なバックロードホーンの深々とした低音を味わうと、やっぱり存在価値があるなあといつも自然にため息が出てくる。
ちなみに、同じ大型タイプの「オートグラフ」の低音は、あまりにも遅れ過ぎて嫌という方が多い。その点、ウェストミンスターの方が「ほどほど」かな。
肝心の落札価格は「744、700円」(税込)だった。
この程度のお値段なら、部屋の環境が許せばぜひチャレンジをお薦めします。
ただし、自分なら中のユニットは「口径30cm」に代えますけどね(笑)。
前述のグッドマンの赤帯マグネットなんか最適だと思いますよ~。
「いつまで続くぬかるみぞ」と嘆きたくなる「新型コロナ」。もう終わりだろうと思っていたら、しぶとく「第八波」が現実のものとなりつつある。
現在、5回目のワクチン接種をどうしようかと迷っているが、これについて興味ある対談が交わされていた。
ご両人とも医師(東大医学部卒)としての視点から「新型コロナのワクチン接種」について、腹蔵のない意見交換がなされているので、ちょっと長くなるが関係部分を紹介してみよう。(78頁~)
興味のある方は参考にされてください。
養老孟司氏(以下、「Y」)、宮崎徹氏「以下、「M」)
M「養老先生は、ワクチンの優先接種の対象となる医療従事者には当てはまらないのでしょうか。
Y「当てはまりませんね。だって医療ってものをしたことがないもの(笑)。
M「日本で承認されて使われだしたファイザー製やモデルナ製などのmRNAワクチンは別として、アストラゼネカ製のウィルスベクターワクチンはアデノウィルスに新型コロナウィルスのスパイクタンパク質の遺伝物質を含んだものであり、健康に対するリスクは指摘されていますね。
Y「ファイザーやモデルナのワクチンにしたって、mRNAの「入れもの」になんの害もなければいいけれど。
M「入れものとはリボソームのことですね。日本人がリボソームをつくると均質な構造になるらしいですが、アメリカとかでつくるとかなり大雑把な構造になるとも聞きます。それで、結構接種後に痛みが出るとも聞きます。
新型コロナワクチンの有効性については、かなりあると海外の論文誌などでは報告されていますが、インドなどではワクチン接種後に感染爆発が起きたりもしていますし、有効性についてはよくわからないところがありますね。
Y「そう思います」
M「マウスなどで薬剤の感染防御に対する有効性を研究する場合、鼻から大量のウィルスを感染させて、薬剤投与無しで100%近い感染率の状況での薬剤有効性を示さないと、通常なら絶対論文は通らないと思います。
ところが今回の治験では未接種群で数%の感染率しかない状況でワクチンによる感染防御率が90何%ということですから、何をもって有効というべきか疑問ですね。もちろん人間での、しかも緊急性のある臨床試験ですから仕方ないことではありますが。とはいえ、いまのところはワクチンに頼るしかなさそうですね。
Y「心理的な面も大きい気がします」
M「たしかに、私でも一回接種すると部屋に閉じこもっていなくても大丈夫かな、などと思ってしまいます。心理的な安心があると感染しにくくなるというのもあるかもしれませんね。」
Y[神経免疫というものがいわれるようになって、神経系と免疫系が影響を与え合ってともいうくらいだから、感染しにくくなるんじゃないかな。」
M「今回のmRNAワクチンはかなり前から実験の場では研究者たちに使われていましたが、このコロナ禍であっという間に使われるようになったというのが私の印象です。
Y「ものすごく壮大な実験をしているようなものでしょう。億の単位の人々が新しい種類のワクチンを接種している。サンプル数はものすごく大きいから、安全性や有効性については、かなりはっきりしたことが確かめられるんじゃないかな。
M「こういった有事でもない限りはこれほどまでの実験はできませんね。今後、新型コロナウィルスはどうなっていくか、養老先生の見立てはいかがですか。」
Y「ほかの人も言ってるけれど、人と共生するような状況になっていくんじゃないかな。感染力はかなり強いので、どの道、相当な数の人類の体のなかにこのウィルスが入っていく。
若い人たちなんかは、感染したことに気付かずに過ごすこともあるでしょう。新型コロナによる死亡率も話題にはなるけれど、どの道、人は亡くなりますからね。なにで死ぬかの違いだけであって。いまでも年寄りの直接の死因は肺炎とかの呼吸器系が多い。」
以下~省略~。
以上のとおりだが、ワクチン接種の反対意見もよく見聞するが、接種効果として「心理的な安心感」にまで言及した意見は無かった。
いずれにしても、わたしたちは「壮大な実験」の対象になっているわけだが、個人的にはこれまで衆人の中でのマスク、頻繁な手指の消毒などを実行してきたせいか、幸いにも感染を免れてきた。
これからも同じように用心すれば、どうやらいけそうなので5回目は止めておく方向で考えようかな~。
皆さまはいかがですか。
ちなみに、養老先生にちなんで「養老の滝」の画像を配置しました(笑)。
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日本の女流ヴァイオリニスト「千住真理子(せんじゅ まりこ)」さんに次のような著書がある。
日本でも有数の現役ヴァイオリニストが書いた本ということで興味深く読ませてもらった。
幼少のころ「天才少女」とうたわれ、ヴァイオリンを肌身離さない生活がずっと続いていく中で、母をはじめとした家族との関係や学業との両立など生い立ちからのエピソードがこと細かに綴られている。
ヴァイオリニストとしての成長と人間的な成長とが一貫して調和しているところがいかにも千住さんらしいと思った。
さて、本書の59頁~66頁にかけて「謎のストラディヴァリ」という小節がある。
彼女は後年になってあのストラディヴァリの中でも名器とされる「デュランティ」を手に入れることになるのだが、この著作の時点ではまだ手に入れてないが名器に対する憧れを率直に語るとともにその音色の謎ともいえる特徴に言及している。
いまから約300年以上も昔、北イタリアの”ヴァイオリン作りの村”と呼ばれるクレモナにアントニオ・ストラディヴァリという男の子が生まれた。親族同様に物心つくころには自然と楽器を作るようになったが、猛烈な仕事ぶりで次から次へと楽器を作ったが楽器の出来のほうも他とはまるで違っていた。
93年の生涯で約3000台の弦楽器を製作したといわれているが、今日までに戦争や火事、交通事故、虫食いなどによって破壊され、いま世界に残っているのは300~400台といわれている。
当時の人々はみな「まずそのニスの美しさに心を奪われた」という。たしかに「ストラディヴァリの秘密は、そのニスにあり」という説があるほどだ。
(筆者註:かなり前に見たテレビ番組では、「ニスの中に混ぜた防腐剤の独特の成分が時間の経過とともに楽器の木目にしみこんで密度が程よいものとなりいい音が出る、これがストラディヴァリの秘密だ」と実験を積み重ねた科学者が登場して得々としゃべっていたのを憶いだす。ただし、いまだに通説にはなっていない)
ともあれ、不思議なことにストラディヴァリが考え出した板の厚み何ミリとか、ネックの長さ何センチ何ミリといった緻密な寸法は、そのままほとんどのヴァイオリン製作者のモデルとなって現代にも定着している。
それに見た目も美しいが何といっても魅惑的なのは音色だ。300年前には考えられなかったはずの現代の2000人にも及ぶ大コンサートホールに持って出ても「極めて小さな音を出しても客席の一番後ろまでピーンと美しく聞こえる」という現象には驚かされる。
ほかの楽器になると”そば鳴り”といって近くでは大きくきれいな音が聞こえるが、大ホールに持って出るととたんに音が貧弱に鳴り、後ろの座席まで音が通らない。ここに、両者の大きな違いがある。
これは、個人的な意見だが、この現象については楽器が出す音の波紋が正しいと、壁に当たって跳ね返る「間接音」と、楽器から直接出てくる「直接音」とが上手く「ハモる」からではないかと推測している。
もうひとつ特徴的なこととして、ストラディヴァリほどの名器はある程度長い年月をかけて弾き込まなければ音が出ないという点がある。ときどきギーといったり、かすれたり、大変苦労する期間が最低1~2年、場合によっては10年近くある。
その間、「もしかするとこの楽器はニセモノなのではないか?」という不信が生まれるが、あきらめずに楽器を弾き続けると、あるときを境にカーンと鳴りはじめる。
これはある科学者によると、「一定の振動を与え続けることによって木の細胞がみな一定方向に向きを変え、ある種の振動に対して極めて敏感な反応をするようになるため」ということらしい。
さて、長々とストラディヴァリにかこつけて話を引っ張ってきたが、今回のテーマのねらいはこの箇所にある。
すなわち、「一定の振動を与え・・・・」云々はオーディオ機器の生命線ともいえるスピーカー(SP)の箱やバッフル(木製の場合)にも通じる話ではないだろうか。
スピーカーはユニットと同じくらい箱(エンクロージャー)やバッフルが大切とはよく聞くが、時間が経てばたつほど音が程よくこなれてくるのを実感している。
オーディオ仲間での間では”木が枯れてくる”という表現をよくするが、今回「木の細胞が一定方向を向くので音が良くなる」という科学的な見解を知ったのは新発見。
スピーカーをヴァイオリンやピアノにたとえると弦や鍵盤の部分がユニット(振動箇所)に該当し、胴体と響板の部分が箱やバッフルに該当するといえる、どちらも木製なのはいうまでもない。さらに人の声ともなると声帯がユニット、肺がボックスみたいなものだ。
結局オーディオも単純化すればSPという「楽器」をいかに「響かせる」かということに尽きるわけで、改めて「音響に果たす木の役割」に関心が向くわけだが、ピアノの音だってあの大きな響板の形状や材質が生命線だから、結局ヴァイオリンとピアノというクラシックにおいて双璧ともいえる二つの楽器が木の共鳴によって性能を左右されているところがなかなか興味深い。
我が家ではここ10年ほど板厚が薄いSPボックスの自作や改造に明け暮れているのも少しはお分かりいただけただろうか(笑)。
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★ 「紫いも」の補給
「商談が成立しそうなので、もう一度「宇目町」(うめまち)まで運転してくれない・・」と、家人。「ああ、わかった」
19日(土)のことだった。
去る3日(木)に、現地の「道の駅」で購入した「紫いも」が丁度途切れる寸前だったので渡りに船。
ご当地の「紫いも」は、今やもう「病み付き」になっているほどに欠かせない存在になっている。
目的地までは高速を使って1時間半程度だが今回はあいにくの雨だったので、余裕をもって10時30分に出発。40分ほどでおなじみの「道の駅」に到着。前回と違って雨のせいか店内は閑散としていた。
ところが、この写真を撮って気が付いたのだが二袋のうち一袋は普通の「シルクスイート=さつまいも」だった。シマッタ、そそっかしいのでまたドジを踏んでしまった(笑)。
また、カボスを二袋購入した。今年は裏年に当たるそうで収穫がイマイチ、別府市内では手に入りにくくなっている。我が家の猫の額ほどの庭にも2本植えているが、同様に淋しいままだった。
肝心の商談の方はどうやらうまく成立したみたいで、運転手としての報酬を前回と同様に「1万円」もらった。どうせオーディオ経費に化けるのだが(笑)。
★ 新図書館の建設計画
「住んでいる地元の悪口を言いたくはないが・・」と、いつも口を極めて罵っている「貧弱な市立図書館」だが、さすがに恥ずかしくなったのかようやく「新図書館」の建設構想が明らかになった。
市報「11月号」にこうある。
建設場所「別府公園周辺」、開館予定「令和7年度」、蔵書数「現在の2倍」ほか。
「あと3年待て」というわけだが、それまで何とか身を持たせなくちゃあ(笑)。
★ ネットオークションの代金の受け取り
「終活」とは、人生の最期に向けて行う活動、事前準備のことだそうだが、我がオーディオ人生もそろそろという時期にさしかかっている。
で、もう使う見込みのない機器やスペアとして保有していたものを大先輩のNさん(大分市)に委託してオークションで処理してもらっている。
ツィーター、真空管、コードなどの小物類だが、〆て「6万円」ほどになったので昨日(21日)、わざわざ持参してくれた。
ついでに最近のオークション事情を伺ってみると、中国以外の東南アジア系が活躍しているそうで、日本で基地を築きオークションで買いそろえた機器を本国でまとめて販売しているケースが多くなったとのこと。
たとえば、このほど知人から頼まれたスピーカー(JBL)を落札したのが同類業者で大阪に基地を構え、直接大分までトラックで取りに来たそうで、そのトラックにはスピーカーが満載だったそう。
オーディオで一番図体が大きいのがスピーカーなのでトラックに積んだままにしてあるのだろう。
それにしても、東南アジア諸国も音楽を楽しめるほどに余裕が出来つつあるのだろうか。
ひところは中国系が買いあさっていたようだが、コロナ禍で勢いが鈍ったような印象を受けている。
いずれにしても日本ではオーディオ人口が減少するばかりだから、外国人の手を借りてでも市場が活況を呈するのはいいことには違いない。
なお、せっかくお見えになったので現在のお気に入りのシステムを聴いていただいたところ、「まったく不自然なところがありません。あなたの実行力にはいつも感心します。いくら歳をとっても熱中できる趣味があることは素晴らしいことですよ」と褒めていただいた。
「暇を持て余すほどつらいことはありませんからね、オーディオのおかげで大いに助かってます!」
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読書でも音楽でも、そしてオーディオでもおよそ趣味と名がつく世界では微細な点まで他人と「好み」が一致することはまず”ない”というのが自分の見立て。
したがって、他人の意見は「参考にすれどもとらわれず」を堅持しているつもりだが、プロの音楽家が推奨する曲目ばかりは一度聴いてみたいという誘惑にかられてしまう。
「鶴我裕子」(つるが ひろこ)さんが書かれたエッセイ集「バイオリニストは目が赤い」を読んだときもそうだった。
鶴我さんは福岡県生まれで、東京芸大卒。1975年(昭和35年)にNHK交響楽団に入団され、第一バイオリン奏者を32年間務められた。
この本(新潮文庫)の50頁に、(鶴我さんは)「腹心のレコード」を2枚持っていて、愛聴し始めて20年、雨の日も風の日もこの2枚で心の支えを得ているという行(くだり)があった。
その2枚の内訳とはフィッシャー=ディースカウの「シュトラウス歌曲集」と、もう一枚は「フリッツ・クライスラーの小品集」。
ディースカウは確実に後世に名前が残る大歌手(バリトン)だし、クライスラーは1930年代頃を中心に活躍した名バイオリニスト。
とりあえず、クライスラーをネットで購入しようと検索したところ該当盤なし、仕方なくオークションを覗いたところありました!
どんなに当時の録音が悪くてもクライスラーの演奏だけは「別格」と聞かされているので迷うことなく入札に参加し、スンナリ落札。
「フリッツ・クライスラーの芸術10CD」
で、クライスラーは首尾よくいったが、問題はディースカウの「(リヒャルト)シュトラウス」歌曲集。ピアノ伴奏がムーアのものはよほどのことがない限り、もう手に入りそうにない予感がする。
仕方なく間に合わせのつもりで、手元にある「冬の旅」(シューベルト)を引っ張り出して聴いてみた。ピアノ伴奏はイェルク・デムス。
ディースカウは生涯に亘ってこの歌曲集を7回録音しているが、巷間ではムーアの伴奏によるものが一番評価が高いようだ。
この曲には少しばかりの想い出がある。
たしか40歳代の頃だったが、当時、あるきっかけで大分市にお住まいのK先生(医師)宅にしょっちゅう出入りしていた。
当該地区の御三家と称された大病院の院長さんで、今はもう亡くなられたが、広くて天井の高い専用のオーディオルームでタンノイのオートグラフを「TVA1」(M&オースティン)という真空管アンプ(KT88のプッシュプル)で駆動されていた。
今となってはオートグラフの音質は自分の求める方向とは違うと分かっているものの、当時は深々とした音色に大いに感動し憧れたものだった。
そのK先生が愛聴されていたのが「冬の旅」だった。
「疎ましい冬の季節に旅をするなんて誰もが嫌がるものだが、あえてそういう時期を選んで旅をする。
人間はそういう困難な環境を厭わずに身をさらす気概が必要なんだ。医学生の頃に友だちと一緒にこの曲をよく聴いたものだよ」ということだった。
「冬の旅」というタイトルのほんとうの意味は決してそうではなかったようだが、当時は知る由もなかった。
短い生涯に600曲にものぼる歌曲を書いてドイツ・リート(芸術歌曲)の花を咲かせたシューベルトの集大成となるのがこの「冬の旅」。
亡くなる前の年に作曲されたもので、暗い幻想に満ちた24曲があまねく網羅されている。あの有名な「菩提樹」は5曲目。
11月の中旬ともなるとかなり冷えてきてヒンヤリとした午後の鑑賞だったが暗い気持ちに包まれた70分あまりの時間だった。
試聴後の印象は、シューベルトの薄幸の生涯を全体的に象徴しているかのようだったが、こういう曲目を愛好する人っていったいどういう心境の持ち主なんだろうとつい考えてしまった。
少なくとも叙情的な接し方をはるかに超越した、根っからのクラシックファンには違いない。
最晩年は宗教曲ばかり聴かれていたK先生のイメージが折り重なるようにふつふつと湧き上がってきた。
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寝ても覚めてもオーディオというわけでもないのだが、常に脳裡の片隅に存在していることはたしかである。
その背景としてシステムの中身が多岐にわたっている、たとえば前段系(CD,ブルーレイ、DACなど)、増幅系(真空管のプリとパワーアンプ)、変換系(SPユニットと箱)など、付け入る箇所がとても多いことが挙げられる。
したがって、ふとしたときにアイデアが閃くことがあり、たとえばウォーキング、お風呂、運動ジム、クルマの運転中などだが、もちろんアイデアといっても玉石混交で実験してみると没になるものが大半である。
ところが、そういう中でも目覚めの寝床の中で閃くアイデアがとても当たりの確率が高いことを経験上熟知しており、まさに宝庫的な存在になっている(笑)。
朝起きてすぐの「頭」はリフレッシュしてスッキリ爽やかなせいだろうか。
実は今回もそうだった!
昨日(19日)のこと、目覚めたときにふと「低音用のスピーカー(以下「SP」)とフルレンジ用のSPの上下の位置をひっくり返したらいったいどういう音になるんだろう・・」とのアイデアが閃いた。
これまでの常識というかセオリーでは、「音はピラミッド型」が定説で、下側から、低音、中音、高音の順番になっており、低音用のSPが上になっているシステムなんか見たことも聞いたこともない。
そもそも「指向性」の観点から「中高音用のユニットが耳の位置の高さにくるように」というのがSP設置の鉄則である。
しかし、「先入観は罪、固定観念は悪」という言葉もある。
簡単に実験できるので、いっちょうやってみっか!
さっそく階下のオーディオルームに入って上下の位置を逆にした。
このところ重たいアンプの持ち上げ過ぎで右上腕部を痛めているがこのくらいの軽い箱(板厚:1.2cm)なら大丈夫、というか興味津々の熱意の前には痛みも引っ込む(笑)。
というわけで、このとおり。
フルレンジの「AXIOM80」を下側へ移動させ、上側にはサブウーファーの「AXIOM150マークⅡ」を載せた。
100ヘルツ以下を受け持たせるための「ゼロ抵抗コイル」(ムンドルフ:ドイツ)を重石代わりに最上部に載せてみた。
駆動するアンプは「AXIOM80」用に「WE300Bシングル」を、「AXIOM150マークⅡ」用に「71Aシングル」(SRPP回路)を充てた。
ワクワクドキドキしながら耳を澄ましてみると、これが予想以上にいいんですよねえ(笑)。
まず、低音域の量感と質感(分解能)とのマッチングがしっかり取れているのが第一印象、次に「AXIOM80」の高音域の神経質さが上手くマスキングされてアンプのボリュームを上げても気にならないほどの品の良さが醸し出されてきた、全般的にサウンドがまろやかになって完成度が上がり長時間聴いても疲れない音、といった具合。
どうせ、「(年齢のせいで)1万ヘルツ以上の音は聴こえない耳になっているんだし、もうこれで十分だなあ」、というのが偽らざる実感である。
しかも、この位置だと「AXIOM150マークⅡ+ツィーター」のときにもユニット同士の距離の間隔というハンディが失くなる。
まったく、いいことづくめ。
ときにはセオリーを無視して逆転の発想をするのも大いにありですね。何といってもケースバイケースなんだから~。
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前々回のブログ「オーディオにおける三本の矢」で紹介したスピーカー(以下、「SP」)。
フルレンジの「AXIOM80」にサブウーファー(100ヘルツ以下)として「AXIOM150マークⅡ」を加えた同じグッドマン同士の組み合わせ。
思い付きで編成したSPだが、なかなかどうして・・。
たいがい2~3日すると「ほかのSPに代えてみようか」となるのだが、しぶとい粘りを見せて今でも活躍中。
いかにもイギリスらしい、それなりの「品」があって、すっかり虜にされている。
そのうち、このSPにツィーターを載せたら3系統の音が楽しめることに気が付いた。
載せたツィーターはお馴染のワーフェデール「スーパー3」(口径10cm:およそ7000ヘルツ以上の補強)。
で、3系統の音とは次のとおり。
1 AXIOM80+サブウーファー(AXIOM150マークⅡ)
2 AXIOM80単独
3 「AXIOM150マークⅡ(フルレンジ)+ツィーター」
というわけで、「1」が本命で「2」と「3」はそれから派生した付録のようなもの。
ところが今や「3」が「1」に肉薄する勢いを醸し出してきた。
というのも「3」の組み合わせは、以前から好みの音で捨て難く思っていたのでまさに「渡りに船」の登場だったというわけ。
ただし、ご覧のとおり位置的にAXIOM80を挟んでお互いのユニット同士が離れているのが少し難点。
そこで「出来るだけ一体化しているように聴こえる」ことをポイントにしてアンプ選びを行った。
まずツィーターを駆動するアンプは高域用として我が家でベストの「71Aシングル」(SRPP回路)で決まり。
問題は「AXIOM150マークⅡ」を鳴らすアンプで、「6AR6シングル」(三極管接続)、「71Aプッシュプル」「2A3シングル」といろいろ試した挙句、最後に「WE300Bシングル」で聴いたところ、これがベストだった。
一連の「こじんまり」とした音から一気に情報量が多くなって雄大なスケール感に包まれた・・、幸せ~(笑)。
やはり口径30cmのSPをフルレンジで鳴らすとなると、このクラスじゃないと無理なのかな~。
しかも大きな箱ならいざ知らず、小さな箱に容れているとなるとなおさらで、この辺の事情は「ウェストミンスター」で嫌というほど経験済み~。
いずれにしても、前述したように今のところ3系統のうち「1」と「3」を交互に半日づつ聴いている状態。
ちなみに、SPを切り替える手間が面倒そうだと思われるかもしれないがSPコードの先端がバナナプラグなので2分もあれば十分。
なお「WE300B・・」とライバル関係にある「PP5/400シングル」でもぜひ試してみたいところだが、気が逸るままいきなり重たいアンプを持ち上げたり降ろしたりしたせいか右上腕部が肉離れを起こしたみたいで曲げると痛みが走って、もはや使い物にならない。回復の時間が必要で後日に持ち越そう。
「優雅」とは程遠いことをしたので「罰」が当ったのかな~(笑)。
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日本経済新聞の「土曜・日曜」版は、日頃のお堅い「経済記事」のほかに読書や音楽などの誌面が充実していてなかなか楽しい。
去る12日(土)付けの記事にこういうのがあった。
文豪「芥川龍之介」のご子息「芥川比呂志」さんのエッセイは話題に滋味があるだけでなく、上質なユーモアとウィットに富んでおり、そして文章に魅力があるとくれば、放っておくわけにはいかない。
さっそく2冊のエッセイを借りてきてここ2日ばかり読みふけった。
タイトルは「憶えきれないせりふ」と「肩の凝らないせりふ」
読後感想としては、期待したほどではなかったが「流石!」と頷けるもので、まずは及第かな~。
どういうエッセイか試しに小編をご紹介するので気が向いた方はご一読を。
タイトルは「優雅散録」。(「憶えきれないせりふ」255頁)
「優雅についてあれこれと論じるのは、どうもあまり優雅なことではないような気がする。
やさしく気品があって、しとやかで、美しいだけでは優雅とはいえない。
言葉づかい、立ち居振る舞い、生活のあらゆる面にわたって世俗の気を帯びず、前代の良い慣習や遺風をごく自然に身をつけている人でなくては、優雅な人とはいえない。すなわち優雅は、風流や伝統と切り離せない。
したがって、優雅は、人間ばなれや時代ばなれを起こし易い。優雅は薄気味悪さや滑稽と紙一重であり、鼻持ちならぬ嫌味とぴったり背中を合わせている。
イギリス人にとって優雅な狩猟とはたとえば次のようなものだ。
友人としかるべき話題(政治や宗教、とりわけ狩猟を除く)について、楽しいおしゃべりをしながら、ゆっくり歩いていく。
「今度のオリヴィエのシャイロックは少し悲劇的すぎやしないかい?」
「そう。しかし思い切って現代風にしたところがなかなか面白かったじゃないか」と、茂みから鳥が飛び立つ。それを横目で見ながら、平然と会話を続ける。(ここが大切)
「まあ、悪くはないがね」
それから素早く銃を構え、射程距離に逃れようとする寸前の鳥に向けて、引き金を引く。(この行動は一瞬のうちに行われなければならぬ。ここも大切)、再び会話をつづけながら、またゆっくりと歩き出す。
ある成果を上げるために費やした努力を、できるだけ隠し、人に感じさせぬこと。優雅はいつも涼しい顔をしていなければならぬ。
~以下、省略。
が~んと頭を殴られた感じがした。
そういうイギリス人がつくったスピーカー・・、たしかに「優雅の極み」ともいうべき音を出してくれるのだが、溺愛している自分はといえば「優雅」とは程遠く、あまりに落差が激しい・・。
涼しい顔どころか、厚顔無恥ともいえる一連の「オーディオ闘争録」に穴があったら入りたくなる(笑)。
とはいえ、あからさまに書かないと、とうてい読者にはわかってもらえそうもないし~。
どういう取り組みと表現が適切でベターなのか、これは永遠のテーマですね。このエッセイを読んで大いに考えさせられました。
※ 芥川比呂志さんは1981年に61歳で死亡(肺結核)。「劇団四季」の創設者で演出家兼俳優。「ハムレット」の名演技は今でも語り草になっているとのこと。
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「青い鳥症候群」という言葉をご存知だろうか?
ネットによると、
「メーテルリンク作の童話「青い鳥」の中で「主人公のチルチルとミチルが幸せの象徴である青い鳥を探しに行くが、意外と幸せの青い鳥は身近にあることに気付かされる」ことから、「今よりもっといい人が現れる」「今よりもっといい仕事が見つかる」など現実を直視せず根拠の無い「青い鳥」を探し続ける人たちを指す通俗的な呼称である。 」とある。
実は我が家のオーディオもどうやらその類ではなかろうかという気が最近してきた。
現実を直視せずに永遠に「好きな音」を求めてさまよい歩く放浪者。
「今ごろわかったか!」と言われそうだが50年以上も悪戦苦闘してきたのになかなか山の頂上に辿り着けない。ようやく辿り着いたかと思えば、1~2週間もすると何かしら不満が出てくるのが関の山(笑)。
そういうわけで「どんなに気に入ったシステムでもどうせそのうち・・」というあきらめの気持ちがいつのまにか脳裡の片隅に棲みついてしまった。
なぜ、いきなりこんな話を持ち出したかというと前回のブログでメル友さんとの交流を通じて「もしかして究極のシステムが出現したらオーディオの楽しみが無くなりますから」と何気なしに書いたのがきっかけ。
つまり、オーディオは未完成の内が一番楽しいということになりますかなあ(笑)。
さて、「わかっちゃいるけど止められない」というわけで現実論に入ろう。
我が家の7系統のスピーカー(以下「SP」)のうち、ようやく曲がりなりにも中核といえる存在が露わになってきた。
野球でもエースと4番バッターが必須なのと同じで、すべて物事には核心というか「求心力」が必要だと思う。
で、今のところ二つあって「ウェストミンスター+ツィーター」、そして自作の箱に容れた「TRIAXIOM」(グッドマン)。
我が家の両雄というわけだが、もちろん前述したように完璧ではなく、所詮はあらゆる音楽ソースに対応できるというわけにはいかない。所詮は「青い鳥症候群」の一環みたいなもの。
そこで、戦国時代の話(毛利家)にあるように「3本の矢を束ねると折れない」のと同じで3つのSPでそれぞれの足りない領域をカバーしようという気になった。
ウェストミンスターはオーケストラの「ファンダメンタルな響き」で力を存分に発揮してもらう、同軸3ウェイの「TRIAXIOM」は「まとまりとハーモニー」で大いに持ち味を発揮してもらう、そして「AXIOM80」でまるで顕微鏡みたいな緻密な再生を狙ってみよう。
というわけで3本目の矢として「AXIOM80」が登場。
以前のブログで低音域を補うために「ゴールデン8」(口径20cm)をサブウーファーに使ったのだが、これはこれで良かったのだがもっとスケール感が欲しくなった。
そこで、次のとおり。
つい最近登場した「AXIOM150マークⅡ」を補助ウーファー(100ヘルツ以下)として活用しようという算段。
駆動するアンプは次のとおり。
上段左側の「6AR6(6098)シングル」アンプ(三極管接続)で「AXIOM80」を、右側の「71Aシングル」(SRPP回路)で「AXIOM150マークⅡ」を。
もちろん、いろいろ試行錯誤したがこの組みわせがベストだった。
ちなみに「6AR6」アンプの前段管(6SL7)だが、STCの「CV569」をムラードの「ECC35」に取り換えたところ、こちらの方がAXIOM80と相性が良かった。
神経質そうな青白いご令嬢が穏やかな微笑みを湛えた貴婦人に変身~。
音質についてはSPが同じグッドマン同士の組みわせだから悪かろうはずがない。
「しまった、先日の試聴会(11月1日)で聴いてもらえば良かったのに」と、臍(ほぞ)を噛んだのは言うまでもない。
これら「3本の矢」で当分は凌げそうな気がしてきた、かな・・(笑)。
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このブログの1週間分を会社(第二の就職先)で「まとめ読み」されているメル友のKさん(横浜)。
いつも読後の率直な感想をいただけるのでたいへん重宝している。もちろん日頃のアクセス状況も参考にはなるが、やはり生の声には及ばない。
で、このほど次のようなメールをいただいた。(要旨)
3点のテーマに分類させてもらおう。
★ 13日付の「TRIAXIOM」について「この箱のままでもいいかな・・」、いやぜひ(ウェストミンスターへの)入れ替え試聴記を切にお願いいたします。ここまで引っ張って「止め」はむごすぎます。」
<回答>
ハハハ、そこまで仰るのならやってみましょう! しかし、しばらく時間をください。もしかして究極のシステムが出現したりするとオーディオの楽しみが無くなりますからね(笑)。
★ 「暴走老人」の中の「待つこと」について、ふと青春時代を想いだしました。
(待ち合わせ場所で)待つ時間の不安と期待、「どんな装いで?」「こんなに遅刻、まさか・・」、こんな感覚を近年忘れていましたがおかげであの時代の甘酸っぱい感覚が蘇ってきました。「待つ」楽しさをもう一度味わいたいな。
<回答>
同感です(笑)
★ ところで、ご自身のブログですから「好み」は思った通り、感じたそのままを書いて欲しい。読者の思惑に忖度する必要はまったくありません。(もちろんご存じのはずですが)。
あなたのブログの存在意義はここにあります。唯我独尊とまでは申しませんが外圧を恐れず(まったく恐れているとは思いませんが)続けてください。
<回答>
ありがたいお言葉ですが、これはなかなか微妙なテーマですね。なるべく読者から「上から目線の内容になっている」と思われないように心掛けていますが、その一方では委縮し過ぎると八方美人的になって迫力が無くなるし、その辺の兼ね合いが正直言って難しいです。
「敵百万といえども我行かん」が理想ですが、まあ、全体のトーンとか表現には工夫するところでもあって「ボケ防止」にはいいかもですね~(笑)。
いずれにしても、仰せのとおり「ありのまま」の表現に腐心したいと思ってます。
以下、独り言だがこういうコメントの背景には、つい先日のブログの中で「タンノイを改造するなんて冒涜する気か!」と一読者から詰め寄られたことを紹介したことにあるのだろうと推測している。
しかし、よほど特殊な事例だったようでこういう読者は極めて稀でしたね。
あっ、そういえば「お前は、はしゃぎ過ぎだっ!」というのもありましたっけ(笑)。
それから「忖度」の具体的な事例としては一つあります。前々回のブログでこういうことを書いてました。
「お前はやたらに口径30cmのユニットが好きだな」と思われる方が多いかもしれない。
その理由は「低音域の質感と量感のバランスが丁度いいから」に尽きる。もちろん好き好きなので「俺は口径38cmが好きだ」という方がいても少しも不思議ではない。各自の感性も含めてオーディオ環境もそれぞれですからね。」
これについて、いっさい忖度しない表現となると実はこうなる。
「口径38cm以上のユニットを使っている人の耳はおかしいと思います!」
(ただし、ジャズ愛好家とタンノイのコーン紙が薄くて軽い旧型ユニットの持ち主は例外ですぞ) ハハハ・・。