「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

愛聴盤紹介コーナー~ピアノ・ソナタ32番追加試聴♯4~

2008年09月12日 | 愛聴盤紹介コーナー

たしか以前のブログで、クラシック音楽を本格的に鑑賞するには聴く側に”心のゆとりと静謐感”が必要だと書いたことがある。もちろん一般論としての話。

さて、これらがいったいどこからやって来るかといえば、人間の精神的な内面の話なのでなかなか難しいが、ひとつ言い切れるのはそのときどきにおかれた個人的な環境や体調によってもたらされるものと無関係ではないということ。

たとえば取り巻く環境ががうまくいっているときや前夜に十分睡眠をとって何となく体調が”いいな”と感じるときは、精神活動が活発になって音楽を聴く気にもなるし曲趣にも深く没頭できようというもの。

一方、なにか悩み事があったり前の晩に十分睡眠が取れなかったときなど気分・体調がいまいちのときは、なかなか音楽を聴く気にならないもの。

また、聴いたとしてもそういうときに限って音質にいろいろと不満を持ってしまい「こんなはずではない」とオーディオ装置のどこかをいじってしまう(クロスオーバーや線材など)のが落ちで、最後にはわけが分からなくなってしまうのがパターン。

というわけで、体調不良のときは聴覚の方も普通ではないのだからできるだけ音楽鑑賞を避ける、そして止む得ない場合でも「オーディオ装置は絶対にいじらない」というのを自分のささやかなモットーにしている。

さて、前置きが長くなってしまったが夏場はどうも音楽鑑賞には適さない環境。寝苦しさに伴う睡眠不調、それに日中の暑さも手伝ってなかなか本腰を入れて音楽を聴く気にならない。

先日、たまたま思い立って小泉純一郎氏激賞のイタリア歌劇「アンドレア・シェニエ」(DVD)を視聴してさっぱり良さが分からなかったのも体調不良のせいかもしれない(笑)。

しかし、不思議に最悪の体調のときでも聴ける曲目が在ってそれが
ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ32番(作品111)。

この32番はとにかく理屈抜きにメチャクチャに好きな曲目で自分にとって精神安定剤のような役割を果たしてくれるソナタ。第二楽章を聴くたびに「至福の時間~生きていてよかったなあ~」という気に(一時的にではあるが)させられる。

現在バックハウスを筆頭に8枚のCD盤を持っているが、つい最近これに新たに下記の4枚を加えてみた。いつまでもバックハウスばかりにこだわるのも進歩がないだろうとの殊勝な心がけ(?)。

1ヶ月ほど前に仕入れて、いよいよ寸暇を見つけて9月11日(木)午後にこの4枚の聴き比べをやってみた。

☆ 1 スティーブン・コヴァセヴィッチ(1940~ ) 1973年録音
   第一楽章:9分28秒   第二楽章:17分27秒

☆ 2 ユーラ・ギュラー(1895~1981) 1973年録音
   第一楽章:10分26秒  第二楽章:18分36秒 

☆ 3 ルドルフ・ゼルキン(1903~1991) 1987年録音(ライブ)
   第一楽章:9分18秒   第二楽章:19分1秒 

☆ 4 イェルク・デムス(不明) 1998年録音
   第一楽章:8分34秒   第二楽章:16分45秒

       
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ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタとなったこの32番はちょっと変わっていて二楽章しかない。第一楽章は「闘争と平和」第二楽章は「孤独な魂の歌」とも言うべきもので、重厚感から軽いスウィング風のノリ(リズム感)まで、極めて幅の広い表現力が求められるとあって、ピアニストにとっては弾きこなすのが難しく、幾多の名ピアニストがあえなく轟沈している超難曲だ。

早速4名の演奏について感想に移りたいがあくまでも私見であることを最初にお断りしておく。

誰にでも好き嫌いがあるので多様性を前提としつつ、これまでバックハウス、リヒテル、内田光子、アラウ、ケンプ、グールド、ミケランジェリ、ブレンデルをじっくりと聴き込んで比較した上での自分勝手な感想です。それに再生装置だってそれぞれに違うし・・・。

☆ 試聴後の感想

は全体的にスケール感に乏しく小粒でこじんまりとしている。リズム感に乏しい演奏で一音一音が間延びしていてそのあいだが空っぽになっている。途中から退屈感を覚えた。自分なら下位グループそれも末尾に分類する。

も1と大同小異。第一楽章の滑り出しはなかなかで「これはいい」とファースト・インプレッションが働いた。「直感は正しい、誤るのは判断だ」とはゲーテの言葉だが、残念なことに一転して後半から間延びしてしまって二楽章もこれの延長でリズムに乗り切れないまま終わってしまう印象。とにかく聴く側に退屈感を覚えさせてしまう演奏は失格だ。これも下位グループの末尾に分類。

は極上品。全体的に叙情味と包容感があり何といっても音楽に神々しさがある。一音一音を丁寧に紡いで磨かれた演奏の奥から音楽の神が語りかけているような印象を受けた。

さすがはゼルキン、やはり大家だなあ~。掛け値なしに久しぶりに深い感銘を受けた。もちろん上位グループに分類だがもしかするとバックハウスを上回っているかも。


は好演だが全体的にまとまりすぎた印象でイメージの広がりに乏しいと思った。中位グループに分類。ゼルキンの演奏を聴いた直後ではやはり物足りない。

最後にゼルキンと比較する意味でバックハウスのCD盤を引っ張り出して聴いてみたが、「剛毅で端正で堂々とした演奏」の一言に尽きる。
一方ゼルキンは「やさしさと包容力に満ち溢れた演奏」で第二楽章が前者と比べて6分も長いが散漫な印象を受けない。

録音はゼルキン盤のほうが明らかにいい。ライブなので大ホールに溶け込んでいくピアノの音の美しさが筆舌に尽くしがたいし、一発勝負という真剣さと音楽の自然な流れもプラス要素。

もし、ベートーヴェンが生きていたら、バックハウスとゼルキンのどちらに軍配を上げるんだろうかと想像するだけでも楽しい。

最後に小林利之氏の「ステレオ名曲に聴く」(東京創元社)にこの32番のソナタの名解説があるので紹介しておこう。(296頁)

「アリエッタと題し、深い心からの祈りにも通ずる美しい主題に始まる第二楽章の変奏が、第三変奏でリズミックに緊張する力強いクライマックスに盛り上がり、やがて潮の引くように静まって、主題の回想に入り、感銘深いエンディングに入っていくあたりの美しさは、いったい何にたとえればよいか。

ワルトシュタインやテンペストなどが素晴らしくて親しみ深いと言っても、まだこれだけの感銘深い静穏の美しさに比ぶべくもないことを知らされるのです。」

 


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愛聴盤紹介コーナー~ハ短調ソナタK・457の聴きくらべ~

2008年07月15日 | 愛聴盤紹介コーナー

今年の九州地方の梅雨は例年に比べて早く終わったようで7月初旬から真夏の太陽がガンガンと照りつけている。

こう暑いと、日中からクラシック音楽を聴く気にもなれずオーディオ装置のスイッチを入れるのも億劫になる。それにエアコンに頼りきって部屋に閉じこもるのも不健康だし、こういうときは風通しのいい木陰でミステリー小説や好きな本でも読むに限る。

というわけで我がオーディオ・ルームの片隅では最近購入したDVDやCDが聴くことなく、たまる一方だが、土曜日(12日)は朝から曇り空で珍しく涼しい気配が漂って、体感的に気持ちがいい日。

カミサンは用事があって朝から外出、91歳の母は週3回のデイケア施設(8時~16時)ということで家中ただ一人になったので久しぶりにのんびりと音楽を聴く気になった。

まずは最近購入したクラウディオ・アラウのモーツァルトのピアノ・ソナタ全集。その中から早速、お目当の第14番ハ短調K457の第二楽章をピックアップ。

わずか9分前後の小品だが、これまでにも書いてきたとおりここにはモーツァルトの虚心坦懐な独白(と思うが)が吐露されているところが気に入っている。

おそらく失意のときに作曲されたと思うが淡淡と音楽が紡がれていきながら終盤のクライマックスのところで胸がキュンと締め付けられるような
「切なさ」を感じるフレーズがある。このフレーズの処理が奏者によって違うのが聴きどころ。

アラウの演奏はきちんとした折り目正しさと情緒的な豊かさを織り込んだもので大家らしい風格が漂う。やっぱり購入して正解だったと自己満足の世界に浸る。こうなると本腰を入れて他のピアニストが弾いた同じハ短調(第二楽章)はどうだろうかと聴き比べたくなる。

早速、つかの間の競演会となった。

 クラウディオ・アラウ       録音:1974年   演奏時間:8分39秒

 ワルター・ギーゼキング     録音:1953年   演奏時間:7分37秒

 内田光子             録音:1983年   演奏時間:8分11秒

 マリア・ジョアン・ピリス      録音:1990年   演奏時間:7分25秒

 グレン・グールド         録音:1973年   演奏時間:12分12秒

                  

                      

いずれも、歴史に名を刻むといってもよい大ピアニストばかり。このうち今なお存命なのは内田さんとピリスの二人だけ。

本命はグールドでこれまで耳にタコができるほど聴いてきたが、いまだにあのハミング(弾くときのうなり声)が耳にこびりついて離れない。真打登場は一番後回し。

ギーゼキングは脚本家石堂淑朗氏の一押しの奏者で、確かに立派な演奏だがやや録音が古い(モノラル)。しかし、聴けば聴くほど味が出てくる演奏。

内田さんは世界をまたにかけて活躍している日本出身のピアニスト。外交官令嬢として小さい頃からの外国暮らしで完璧な国際人。日本人の感性と外国人の感性が調和した「内田節」はいつ聴いても魅力的。

自分は指揮者の小澤征爾が嫌いなので彼女の活躍がことのほかうれしい!他のピアニストに比べて少し格落ちかなとやや心配したが、こうやって並べて聴いてみても十分伍していけるのがわかった。それにフィリップス・レーベルの録音の秀逸さには改めて唸った。

ピリスの演奏は鋭いの一言。先鋭的な感性がほとばしって闇夜の中でひと筋の光がキラリと輝きながら奥の方まで切り裂いていくような印象を受けた。

最後に聴き慣れたグールドだが、こうやって4人の後に聴くとえらくスローテンポ。それもそうだろう、演奏時間が12分にも及び一番短いピリスと比べると約5分も違う。

たった9分前後の小品なのに5分も違えば間延びしている印象を受けるのも当たり前。ここではじめて、これまで
「至上の扱い」としてきたグールドの演奏に「これでいいのかしらん」と疑問符がついた。

たしかにロマンチック極まりない演奏なのだがこのテンポの遅さは他の演奏と並べて聴くといささか古さを感じさせるのである。

ひと通り聴いた後で最初に戻ってアラウを聴いてみて、この演奏が一番中庸をいっていると思った。残念なことにアナログ録音のため、演奏中かすかに<サーノイズ>が入るがこの豊かな芸術性に比べればほんの小さな瑕疵にすぎない。

なお、アラウのこの全集は曲目によってアナログ録音とデジタル録音が混在しているので始めから全集として企画されたものではなく、有り合わせでまとめられたものだろうが、デジタル録音に該当する曲目は、これもフィリップス・レーベルだけあって物凄く音質がいい。モーツァルトのピアノ・ソナタが好きな方は一度聴いておいてもハズレはないと思う。

結局、5人の演奏を聴いてみて簡単に誰が一番とは言えず、その日その日の気分によってという感じだったが、何といってもこれまで随分長かった(20年以上!)<グールドの呪縛>から解き放たれた(?)のは収穫だったかな。


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愛聴盤紹介コーナー~試聴盤あれこれ~

2008年05月10日 | 愛聴盤紹介コーナー

最近いろいろと気になるCD盤を手に入れたので試聴して感じたままを記載してみた。

☆ ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」

 演奏者      ヘンリク・シェリング
  指 揮      ハンス・シュミット=イッセルシュテット
  オーケストラ   ロンドン交響楽団
  録 音      1965年
  レーベル     PHILIPS

 演奏者      ヘンリク・シェリング
  指 揮      ベルナルト・ハイティンク
  オーケストラ   アムステルダム・コンセルトヘボウ
  録 音       1973年
  レーベル     PHILIPS 

                       
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ベートーヴェンの「V協奏曲」については先般のブログで、17種類の試聴を行い、2のシェリング演奏(ハイティンク指揮)がダントツという結果に終わった。(あくまでも自分の感想です)。

しかし、実はシェリングにはこのV協奏曲をもう一つ録音したものがあって、それが1のイッセルシュテット指揮のもの。これも定評ある名盤との噂があって、むしろ音楽専門誌などではこちらの盤の方がランキングの上位に位置している。

ハイティンク盤よりもいいかもしれないと思うと、是非購入してみなくてはと早速、HMVに注文してイッセルシュテット指揮の盤を手に入れ、両者を聴き比べてみた。

シェリング自体の演奏については録音時期に8年の差があるものの技巧の差はまず感じられない。また、さすがに両盤ともに定評ある指揮者で全体の演奏も実力伯仲といったところで甲乙つけがたし、あとは好みの差ということに。

ただし、オーケストラの響きの方は明らかにアムステルダム・コンセルトヘボウのほうが響きが豊かで好ましく、それに録音の方も同じPHILIPSレーベルなのに8年の差はいかんともしがたく、鮮明で冴えわたっていて一日の長があった。

結局のところ、ハイティンク盤だけで十分であえてイッセルシュテット盤を購入する必要はなかった。

☆ ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」

 演奏者      ヘンリク・シェリング 
  指 揮       ラファエル・クーベリック 
  オーケストラ   バイエルン放送交響楽団
  録 音       1967年
  レーベル     ORFEO

 演奏者      ヤッシャ・ハイフェッツ
  指 揮       フリッツ・ライナー
  オーケストラ   シカゴ交響楽団
  録 音       1955年
  レーベル     RCA(レッド・シール)

 演奏者      ジネット・ヌヴー
  指 揮       ハンス・シュミット=イッセルシュテット
  オーケストラ   北ドイツ放送交響楽団
  録 音       1948年
  レーベル     PHILIPS

4 演奏者      ダヴィド・オイストラフ
  指 揮       フランツ・コンヴィチュニー
  オーケストラ   シュターツカペレ ドレスデン
  録 音       1955年
  レーベル     ドイツ・グラモフォン

       
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世評ではヴァイオリン協奏曲と名がつく曲目の中でベートーヴェンのV協奏曲が王者とされているが、自分ではベートーヴェンよりもブラームスのそれのほうが上ではないかとひそかに思っている。

きわめて内省的でありながら、奥に秘めた感情がじわ~っと盛り上がってくるような独奏ヴァイオリンの展開を聴いていると、ブラームスの音楽ここに極まれりの感があり、コレに比べるとベートーヴェンのそれは、なんだか単なる外見的なきれいごとで終わっている印象でまるで感動の深さが違うといつも思う。

こういう大好きでたまらないブラームスのV協奏曲だが、ヘンリク・シェリングの出来具合がベートーヴェンのV協奏曲のときにあまりに良かったので、どうしてもブラームスのものも聴きたくなり新たに手に入れた。

同じ頃に、今度はハイフェッツのそれも湯布院のAさんからお借りすることができたので、シェリング、ハイフェッツと一流とされるヴァイオリニストが名を連ねるとなると当然のごとくヌヴー盤、オイストラフ盤を加えて比較試聴したくなる。

これまで、何回も書いてきたように昭和30年代に盤鬼と称された西条卓夫さん(故人)がヌヴー盤を数ある同盤の中から「トドメをさす」と絶賛されているが、自分もこれは神の域に達した名盤だと思っている。

これまで約40年にわたってクラシック音楽を聴いてきたが、この盤と同じくらい感動を覚えた盤は本当に少ない。
このヌヴー盤をシェリング、ハイフェッツが追い越せるかどうか興味が尽きないところ。

オイストラフ盤については6枚持っている中でコンヴィチュニー指揮をピックアップした。以前、ブログでヌヴー盤とこのオイストラフ盤を聴き比べて、圧倒的にヌヴー盤に軍配を上げたが、最近、オーディオ装置の一部を入れ替えたことだし再度チャレンジさせてみようと参加させてみた。

≪試聴結果≫

のシェリング盤はまるで期待ハズレだった。ヴァイオリンに力強さがなくひ弱な印象で、いろんな解釈があるのだろうが自分がイメージしているブラームスではない。ベートーヴェンのV協奏曲ではあれほどずば抜けた演奏を聴かせてくれたのにとがっかり。とうとう1楽章の途中で聴くのをやめた。これほどのヴァイオリニストでもやっぱり曲目との相性があるんだなあ~。

のハイフェッツ盤もいまいち。まずオーケストラがよくない。緊張感が足りず盛り上がりも感じられない平板な演奏。こうなるとハイフェッツのヴァイオリンの冴えも何だか虚しくなる。これも1楽章を完全に聞き終わるまでには至らなかった。

結局のところ、あれほど期待していたシェリング盤、ハイフェッツ盤はあえなく
討ち死にとなった。

のヌヴー盤はやはりいつもどおり期待を裏切らなかった。まず気合が違う。女流とは思えない音の太さ、音色の浸透力が出色。高らかな情感を波打たせて優美に表現される情緒の多彩さは他の追随を許さない。やや粗削りなところがあるが逆に、単なる美しさだけに留まらずブラームスの音楽の核心に迫っている印象を受ける。コレはやはり神盤だと再確認した。

のオイストラフ盤も思わずうならされた。最近、SPユニットをヴァイオリンを得意とする「アキシオム80」に替えたせいもあるのだろうか、以前よりもずっとずっとヴァイオリンの音色がいい。豊潤という言葉がピッタリ。オイストラフはやっぱりすごいなあ~。ヌヴー盤と遜色がないと思ったほどで認識を新たにした。

こうなると世評の高いクレンペラー指揮、セル指揮の同盤を引っ張り出して改めて聴き比べてみたが、好みの差はあろうがやはりコンヴィチュニー指揮の盤を断然かう


自分の場合、ブラームスのV協奏曲はヌヴー盤(イッセルシュテット指揮)とこのオイストラフ盤(コンヴィチュニー指揮)があれば完結する。あとの盤は要らない。


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愛聴盤紹介コーナー~ケーゲル指揮の「アルルの女」~

2008年05月01日 | 愛聴盤紹介コーナー

先日のブログ(4月24日)で、オッテルロー指揮の「アルルの女」をオークションで苦労して競り落としたことを披露させてもらったが、そのときに、ケーゲル指揮の「アルルの女」もスゴク評判がいいが既に廃盤で手に入り難いことを書いておいた。

厳密に言えば廃盤ではなくて供給が途絶えているため手に入らないのが実状。自分の場合HMVに注文したところ1ヶ月以上待たされた挙句、入手不可能とのことで予約を取り消されてしまった。(つい最近の4月の話)。

いずれにしても、そのケーゲル指揮の「アルルの女」がこれまた偶然にもオークションにかけられているのが分かった。教えてくれたのは仲間のMさん。

どれどれと、オークションの該当頁を開けてみた。

開始期日:4月19日、終了日時:4月26日、出品地域:三重県、開始価格:800円で現在の入札者1名、入札価格800円ということで何てことはない極めて平穏無事なスタートぶり。

「フッ、フッ、フ、これもいただき」と思わずにっこり。さっそく、終了日時の2日前の24日に問答無用とズバリ最高限度額5100円を設定していきなり勝負!しばらくして入札価格が840円と表示された。

翌日の25日も入札状況を見たところ入札者2人の840円のままで、どうやらこのまま推移しそうな雰囲気。

オークション終了日の26日(土)は、昼間運動しすぎてクタクタになり終了時刻の19時55分をまたず、すっかり安心しきって就寝。

翌日、午前4時ごろにゴソゴソと起きだしてさっそくメールを開いたところオークション落札の通知がきていた。さて、いくらで落ちたかしらんと見てみると何と価格が3130円にはね上がり、入札者は13名にも及んでいた。

みんな、この名盤の存在をよく知っていてひそかに狙っていたのだ!
落札当日までそ知らぬ顔をして「知らぬ顔の半兵衛」をきめこみ、終了直前にいっせいに勝負をかけてきたものとみえる。オークションにもいろんな駆け引きがあるもの。

まあ、とりあえず落札できてよかった。これで、オッテルローとケーゲルというほとんど入手不可能の名盤を相次いで手に入れることが出来た。
ラッキー!

とにかく、あまり有名ではない指揮者の名盤を手に入れるには、今のところこれ以外に方法がない。

さて、このケーゲル指揮の「アルルの女」がどのくらいスゴイ名盤なのか専門家のご意見を紹介してみよう。

「クラシックは死なない」~あなたの知らない名盤~(2003年刊、青弓社)

本書は著者がCD店の店主として非常な音楽好きで朝から晩まで聴く中で1ヶ月に1~2枚これはと思う盤があるそうで、これらの盤をまとめて紹介した本である。

ざっと、ひととおり目を通したが音楽評論家や音楽専門誌とちがって業界や演奏家としがらみのなさそうな評価なのでおおむね信頼してよさそうな内容。

ケーゲル指揮の「アルルの女」については非常に熱気ある筆致(25頁~26頁)のもとに次のように書いてある。

 このアルバムはCD店の店主となってから入手可能かどうかの問い合わせがもっとも多かったもの。

2 現在のケーゲル伝説をつくりあげた名演中の名演。聴くものを美と狂気の世界に引きずり込む恐るべき音楽

 「クラシック名盤&裏名盤ガイド」にはこうある。
「冷え冷えとした透明感が南フランスの太陽を奪い、追い詰められた精神的不安から狂乱に至る主人公フレデリの悲劇を心憎いほど暗示する。続くメヌエットとパストラールの弦のグリッサンドには怨念が渦巻き、アダージョはマーラーのように長い美しすぎる演奏で、怖い」

4 今日のケーゲル人気の土台を築いた許光俊氏は「名指揮者120人のコレを聴け!」でこう書いている。
「弦や木管の奏でる旋律はもはやこの世の音楽とは思えない淡々とした風情、舞曲はブルックナー9番のスケルツォみたいに抽象的であり、遅い部分はマーラーのようだ。私はこんなにゾッとするような音楽をほかに知らない」、「アルルがこんなにうつろに、こんなに透明に、こんなに感覚的な刺激抜きで、こんなに裸型の精神のように響いたことはなかった」、「大芸術家が死の前に達した恐るべき境地としかいいようがない」。
そして最後にひと言。「忠告めくが、ケーゲル晩年の音楽を決して気分が落ち込んだり、失恋したりしたときに聴いてはならない。命の保障は出来かねる」

筆者註:以前にも述べたとおり、ケーゲルは旧東ドイツの熱心な社会主義者だったが「ベルリンの壁」崩壊後、ピストル自殺を遂げた。

いやはや、ちょっとオーバー気味だがさまざまな伝説に彩られた名盤である。

さて、落札したCD盤(輸入盤)が自宅に到着したのは、30日(水)の午後。
このブログに間に合ってよかった。ぎりぎり滑り込みセーフ!

早速、試聴してみた。

☆ ビゼー作曲「アルルの女」第一組曲(19分)、第二組曲(18分)
  指揮:ヘルベルト・ケーゲル(1920~1990)演奏:ドレスデン・フィルハーモニー
  録音:1986年

やはり、これは聞きしにまさる名演だった。   

歯切れのよい弦合奏とサキソフォンなどの管楽器のゆったりとした調べが、悲劇性を帯びた物語の展開と南フランスの牧歌的な雰囲気をうまく対比させている。

オッテルロー指揮の演奏に比べると、良し悪しは別として情感の表現の起伏が激しい印象。それも第一組曲よりも第二組曲の方が顕著に現れる。
どうしようもなく暗く、しかもなんと切なくて淋しいこと・・・・。

この物語は主人公の飛び降り自殺でジ・エンドだが、このケーゲルの演奏では失恋自殺よりも世をはかなんでの厭世自殺みたいな感じで気が滅入ってくる。それほど演奏に感情がこもっている。

主人公フレデリの嫉妬に狂った情熱の熱気も欲しいところだが、この演奏は「アルルの女」の一つの解釈として十分成り立つというイヤでも納得させられる説得力を秘めている。

結局
「ケーゲルの演奏を聴かずして”アルルの女”を語ることなかれ!」というのが自分の至った結論。

                          
            ケーゲル(アルルの女)

 


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愛聴盤紹介コーナー~オッテルロー指揮の「アルルの女」~

2008年04月24日 | 愛聴盤紹介コーナー

昨年(2007年3月16日登載)のブログで、ビゼー作曲「アルルの女」を愛聴盤として紹介したが、そのときに学生時代にレコードで聴いていたオッテルロー(オランダ)指揮のCD盤がどんなに探しても見つからないので、やむなくマルケヴィッチ、クリュイタンス、オーマンディ、デュトワ(追加)指揮のものを購入してお茶を濁していると書いた。

これらの指揮者の中ではマルケヴィッチ盤を仕方なく「一押し」しておいたのだが、やはり若い自分に聴きなれたオッテルローの演奏がどうしても忘れられない。

再述するがこの「アルルの女」は、南フランス・アルル地方で展開される悲恋物語で、「好きになった邪な女性が別の男性と駆け落ちすると知り、嫉妬に狂った若者が許嫁を残して飛び降り自殺をする」という衝撃的なラストで終わるストーリー。

南フランスの平和で牧歌的な雰囲気と若者の自殺という形で終わる悲劇のコントラストが実に音楽的に鮮やかに描かれ、「カルメン」と並んで作曲家ビゼーの代表的な戯曲となっている。

オッテルローの演奏はこの牧歌的、情熱的、情緒性などが実にうまく織り込まれて演奏されているところに特徴があって、感性が瑞々しい若い時分にレコード盤のジャケットの解説文を読みながら何度となく聴いただけに
「恋愛のために死ねる程の情熱が人間にあるのか」というショックが当時の初心(うぶ)な自分の胸に沁みこんでロマンチックな思い出として今日まで記憶の片隅に残っている。

こういった思い出と音楽とが分かちがたく結び付いているため何度も繰り返すようだが結局このオッテルロー盤でなければ「アルルの女」はまるで聴いた気がしないという思いがずっと続いているというわけ。

もちろん、これは演奏の良否は別として最初に聴いた演奏ということで「まっさらの白紙に原画として描きこまれて簡単に消せない」という”刷り込み現象”というべきものかもしれない。

いずれにしても、もうCD盤は手に入らないものと諦めていたところ、つい最近何と
オッテルロー指揮の「アルルの女」オークションにかけられているのを発見した。

ケーゲル指揮の「アルルの女」(これも廃盤)の評判があまりにもいいために探していたところ偶然引っ掛かって網にかかったもの。

付属の説明文を読んでみると、フィリップス・レーベルがオランダ国内のみで発売するために制作した「Dutch Masters 」シリーズでのCDであり、既に廃盤のため現在では入手が絶望的とあった。もちろん
国内では販売されていない輸入盤である。

「やっと見つけたぞ!」と小躍りして喜び、「よし、絶対に手に入れる!」と決意を新たにしてさっそく入札に参加。

オークション開始日時は4月12日(土)16時6分、開始価格は1000円、出品地域は東京都、終了日時は4月19日(土)20時6分。

しめしめ、開始価格が1000円とは頂いたも同然と思い、まずは悠然と余裕を持って2100円で入札。もちろん自分が最初の入札者。

ところがである。翌日、メールを何気なく開いてみると高値更新とある。これはどこかの誰かさんが2200円以上で入札したということで
「自分以外にもこの盤を狙っている者がいる」とややショック。

「エイッ、負けるものか」とさっそくオークションの該当頁を開いて3100円で入札額をアップしたところ、依然として最高入札額に届かない。

やはり全国規模のオークションともなると、自分以外にもこの盤に
ものすごく執着している人が確実にいることが改めて分かった。やはり、世間は広い!

以前、オークション入札のノウハウ」を読んだことがある。どうしても手に入れたいときは気合で勝負するそうだ。誰かが自分よりも高値で入札したら、間髪をいれずすぐにそれ以上の高値を入れること。そうすると、相手方は戦意を喪失(?)して諦めるとあったのを憶いだした。

最終的には1万円以上でもしようがないと腹をくくって、たしか6500円だったと思うが入札したところ「貴方が最高額です」と表示されて、やっと6100円で登録された。「どこかの誰かさん」の入札額は6000円だったとみえる。

この気合が功を奏した(?)のだろう、その後、終了日時まで音沙汰なしで無事推移し、結局、
自分が手に入れる結果となった。(万歳!)

CDたった1枚が6100円!あとにも先にもこういう買い物は初めてだろうが、このオッテルロー盤だけはこういう機会でなければおそらく永久に手に入らないと思うので全然後悔なし。

出品者とすぐに連絡がつき、「代金振込み予定日は月曜日」とし、用心のため送付は「ゆうパック」を選定(通常は冊子小包)したところ、当方をアタマから信用してもらった様子でお目当てのCD盤が自宅に到着したのがなんと21日(月)の夕方。

本当にありがたいことで、通常では考えられない迅速な対応と、それからものすごく丁寧な梱包だった。出品者にとっては予想外の高値(?)により、落札者に対して親切心が起きたのかもしれない。

閑話休題。

オッテルローの「アルルの女」がこれでやっと聴けると、長年の思いがかなった喜びで胸を震わせながら期待と不安が交錯する中でさっそく試聴した。

 ビゼー(1838~1875)作曲 「アルルの女」
  指揮:ヴィレム・ヴァン・オッテルロー(オランダ、1907~1978)
      ※メルボルンで、自動車事故死
  演奏:ハーグ・レジディンティ管弦楽団
  録音:1959年前後

まず、約50年前の録音なのに
予想以上の鮮明なステレオ録音に驚いた。さすがにPHILIPSレーベルだけのことはある。

肝心の演奏の方も、非常に表現力が豊かというのが第一印象。

オッテルローは長いあいだ「ハーグ・・管弦楽団」の常任指揮者をつとめていたので固い信頼関係のもとに一糸乱れぬ演奏といってよいもので、ハープや弦のピチカートの伴奏でフルートやオーボエ、それにクラシックでは珍しいサキソフォンなどがこのうえなく牧歌的で魅惑的なメロディを歌っている。

そうそう、「こういう演奏だったなあ~」としばし往時の記憶が蘇って懐かしかった。何だか自分が学生時代に戻ったような感じ。

しかし、当時のチャチなレコード装置とSPで聴いていたときとは違って、今回は随分音質が全体的に引き締まった印象に思えた。

いずれにしても気を衒うことのない自然で音楽性豊かな演奏に再度惚れ直してしまった。やっぱり、購入してよかった!

カップリングされた「ペールギュント」も素晴らしい出来栄えで「ソルヴェイグの歌」のエルナ・スプレンベルクのソプラノは特上品。

とにかく、こういう若いときの思い出と分かちがたい演奏のCD盤との出会いはまるで
「初恋の人」に出会ったみたいで本当にうれしくてありがたい。

作家の村上春樹さんの言葉ではないが
「僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として世界を生きているのだ。」

まさにネット・オークションさまさまである。

  
 


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愛聴盤紹介コーナー~ベートーヴェン・後期弦楽四重奏曲~

2008年03月30日 | 愛聴盤紹介コーナー

前回の愛聴盤紹介コーナーでベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」を19種類聴いた結果、生意気にも完成度が物足りないと豪語した自分だが今度は「後期弦楽四重奏曲」(12番~16番)への挑戦。

ベートーヴェン(1770~1827)最晩年の1825年から26年にかけて作曲された後期の弦楽四重奏曲(5曲)については、「巨匠への畏敬の念とともに
正座して聴かねばならない」、「あまりの完成度の高さに手も足も出ない感じで、以降の作曲家たちに作曲する意欲を失わせた」など数々の伝説(?)に彩られている。

ベートーヴェンにとってこの時期はソナタ形式との格闘も既に遠い過去のものとなり、既成概念や因習というものから解き放たれて、
その精神を思うがままに飛翔させることのできる至高の境地に達していた。

しかし、少なくともこれらの曲は一般的な意味で親しめる音楽ではないことはたしかで、周囲のAさんもMさんも、口をそろえて「難しい曲」「楽しめる音楽ではない」と言われる。

一般的なクラシック愛好家にとっても「ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲」をレパートリーにしているのはおそらくほんの一握りの方だけではなかろうか。

自分もレコードとCDを両方持ってはいるが、好きで購入したわけでもなく
五味康祐さんの著作「西方の音~天の声~」の12節の同曲に関する記事に触発されてスメタナ四重奏団の「第14番」をレコードで購入したが、結局(良さが)分からずじまいで1~2回聴いてお蔵入り。

CD盤が発売されると、これまた性懲りもなく同楽団に加えて、ほかにもウィーン・アルバン・ベルク四重奏団の後期全集を手に入れたがこれもあまり手が伸びないまま今日に至っている。

これまでの体験で「どうもこの曲は馴染めないな~」というのが本音であり、したがって何も無理してこういう曲にあえて挑戦することもないのだが、クラシックの鬼といわれる方々は口をそろえてこれらを名曲だと言う。

特に五味さんはベートーヴェンからただ一曲を取るとすれば「第14番嬰ハ短調作品131」とまで極言する。~「西方の音」~

ということで、このまま後期弦楽四重奏曲をやり過ごして生涯を終えてしまうのも何だかシャクである。若い時分と今とでは鑑賞の傾向がどう変わっているかについても自分自身で興味があるところ。

あれからいろんな曲の鑑賞体験や人生経験も積み、それに黄昏どきの年齢にもなったことだし、とりわけオーディオ装置の音も当時とではまるっきり変わっているので好みの曲目の傾向も当然違ってこようというもの。

たとえば、つい最近の事例でいえば
女流ヴァイオリニストのジネット・ヌヴーの演奏にこの上なく魅せられるが、これはあえて言わせてもらえれば、ある程度の音楽鑑賞体験と人生経験、それにオーディオ装置の三位一体がそろってはじめて理解できる類の演奏だと思う。

※偶然目に入ったのだが「西方の音」(単行本)248頁に「ジネット・ヌヴーの急逝以来ぼくらは第一級のヴァイオリニストを持たない」とあったが、五味さんの考えが自分と同じだったのがうれしかった。

とにかく、こういう真面目でかた苦しくて聴いても楽しくない敬遠しがちな作品はこうやってブログを利用して自分にプレッシャーをかけながら鑑賞しなければ永遠に俎上には上らない可能性が高い。

さて、能書きはこの辺にして、さっそく試聴に入ろう。ここでは後期弦楽四重奏曲の5曲の中でも取りわけ名品とされる「第14番作品131」「第15番作品132」にしぼってみた。

この四重奏曲の編成は、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとなっている。

自分の現在の手持ちのCDは、

☆1 スメタナ四重奏団 「第14番」  録音:1970年

☆2 ウィーン・アルバン・ベルク四重奏団 「第14番」「第15番」 録音:1983年

Aさんからお借りしたものが

☆3 バリリ四重奏団 「第15番」 録音:1956年

☆4 ジュリアード弦楽四重奏団 「第14番」「第15番」 録音:1982年

       

     ☆1           ☆2           ☆3            ☆4

≪試聴結果≫

「第14番」について
この作品は途切れることなく続く7つの楽章から出来ていて、ある楽章の終わりが、ごく自然に次の楽章を促すように書かれている。

全体的に形式の自由、精神の自由が一体となった音楽で、以前聴いたときのあの深刻な印象は今回一切感じられず、むしろ
軽妙洒脱という表現がピッタリくると思った。やはり時の移ろいとともに作品への印象も変わっていくものでこれは実にうれしい傾向。

全編を通じて天上にいる仙人が思うがままに音符を操っているという至高の境地が感じとれたが、特に第三楽章(47秒)と第六楽章(1分51秒)のつなぎの役割を果たす楽章が極端に短いにもかかわらず、美しいメロディとともにキラリとひときわ輝く光彩を放っていてこれはもうたまらない躍動感!

しかも、いずれの楽章ともに俗世を突き抜けた不思議な明るさに彩られていながら、それでいてものごとを深く考えさせるものを持っている。

交響曲「第九番」とは違った意味で、この作品はベートーヴェンの「究極の音楽」と呼ぶにふさわしい内容を備えていると思った。

とはいっても、皆が言うようにたしかにしょっちゅう手もとにおいて聴く音楽ではない。俗な表現だが淫することを冷静に拒むある種の高潔さというか覚めたものが内在していて、節目節目に折り目正しく接する音楽といってよいと思う。

さて、そこでどういう状況のときに聴けばいい音楽だろうかと自分自身の場合に置き換えて自問自答してみた。

少なくとも癒し系の音楽ではないことはたしかで、救いを求めたり深刻に悩んでいるときに聴く音楽ではないと思う。

~「人生にゆとりができていろんな悩みから解放され、充実感や幸福感に包まれているときの自分を確認したいとき」~

こういう状態のときに聴くのが一番ピタリと波長が合う気がして、これは何だかベートーヴェンが作曲したときの心境そのままという感じがする。

演奏の方は、この範囲ではウィーン・アルバン・ベルクが一番いいと思った。

ベートーヴェン特有のあの緊張感を漂わせながら微妙なニュアンスと息遣い、第一ヴァイオリンのギュンター・ピヒラー(ウィーン・フィルのコンサートマスター経験者)を始めとして名手ぞろいの4人の呼吸がピッタリと合っている。

ただし、やや「真面目すぎて神経質」の趣もあるので、五味さんが推奨する「神韻ひょうびょうたる幽玄の境地」を奏でる
カペー四重奏団やほかの演奏も一度聴いてみたいもの。

「第15番」について

この作品は14番と違って、非常に暗いオープニングに象徴されるように一転して重々しくなる。全体は五楽章で構成されているが第一、第二楽章ともに難しくとっつきにくいが何回も聴くうちに味が出てくる音楽なのだろう。

救いは第三楽章。全体で41分ほどの内15分を占めている最大の楽章。

「モルト・アダージョ」(とてもゆっくりと)の指示のもとで、この楽章の冒頭には「病から治癒した者の神に対する聖なる感謝の歌」という言葉が記されている。

当時、ベートーヴェンは体調を崩し(腸カタル)、作曲を中断せざるを得ない状態だったが、やっと回復し、創作力を蘇らせたことをきっかけに当初予定のなかったこの楽章を挿入した。

「病の治癒を心から感謝して神に捧げた音楽」とは一体どういうものか、これはとても自分の筆が及ぶところではない敬虔な調べで、機会があれば一度聴いて欲しい音楽とだけいっておこう。

この楽章だけとってみれば癒し系で、身体の病、心の病から治癒したときはもちろんだが、悩みを抱えているときにも慰めてくれる音楽といえる。

ただし、この部分だけ取り出して聴くのはやはり安易の謗りを免れず、全体を通して聴く中で初めて存在価値が出てくる楽章だと思った。

演奏はアルバン・ベルクもバリリも良かった。前者はデジタル録音で音質が鮮明で思わず手を合わせて祈りたくなるような感動に満ちているし、後者はモノラル録音だが、闊達さと力強さがある。

一般向きにはアルバン・ベルクだろうが、バリリもなかなかいいので今度は14番も聴いてみたいと思い、HMVを覗いたところ、あった、あった、何と14番と16番のカップリング!躊躇なくクリックしてカートに入れた。

以上、第14番と第15番(実際の創作は14番が後)を聴き終えたが、自分は14番の方が明らかに全体の完成度が高いと感じた。それぞれの7つの楽章に意味があって、きちんとそれなりの順番の位置に納まっている印象を受ける。

しかし、いずれにしてもやっぱり「ヴァイオリン協奏曲」なんかと比べるとはっきりと峰の高さが違うというのが実感!作曲時期の約20年の差はそのまま作曲家としての成熟度の差になっていると思う。

今からすると約200年前の作品になるわけだが、どのような時代であれ「
人は1回限りの自分自身の人生を生きるしかない、前向きにならないと・・・・」といった哲学的(?)な心境に浸らせてくれる特上ともいえる音楽だった。

                     
           西方の音                 ~天の声~

 


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愛聴盤紹介コーナー~ベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲♯2~

2008年03月13日 | 愛聴盤紹介コーナー

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の後半については次のとおり。

(演奏者、指揮者、オーケストラの順)

☆11 ブロニスワフ・フーベルマン フルトヴェングラー ベルリンフィルハーモニー
     録音:1934年

☆12 ヤッシャ・ハイフェッツ トスカニーニ NBC交響楽団
     録音:1940年

☆13 エーリッヒ・レーン フルトヴェングラー ベルリンフィルハーモニー
     録音:1944年

☆14 イダ・ヘンデル クーベリック フィルハ-モニア管弦楽団
     録音:1948年

☆15 ヤッシャ・ハイフェッツ ミンシュ ボストン交響楽団
     録音:1955年

☆16 レオニード・コーガン シルヴェストリ パリ音楽院管弦楽団
     録音:1959年

☆17 ヨゼフ・シゲティ ドラティ ロンドン交響楽団
     録音:1961年

☆18 ジノ・フランチェスカッティ ワルター コロンビア交響楽団
     録音:1961年

☆19 アンネ・ゾフィー・ムター カラヤン ベルリンフィルハーモニー
     録音:1979年 

                 
           11                12                13 

                 
           14                15                16

                 
            17               18                19

≪私見による試聴結果≫ 

11 70年以上も前の録音なので、当然のごとく録音は良くない。高域はジャリつくし、低域はボンつく。しかし、演奏の方は間違いなく一級品。しっかりとした技巧に裏づけされた迷いのない演奏で、第一楽章ではやや淡淡とした演奏だが、第二楽章では一転して情緒たっぷりの歌い方で使い分けが見事。なお、カデンツァはシェリングと一緒だった。指揮者のセルは後年、クリーブランド管弦楽団を世界一流に仕上げるが、この時点から一流のウィーンフィルを率いるぐらいだから若いときから頭角を現していたのだろう。ただし、この盤も1,2と同様に一般向きではない。

12 オーケストラが一分のスキもない、まるで軍隊の行進のように正確無比に足並みをそろえて進んでいく。それも目標にめがけてまっしぐらに突き進み、ヴァイオリンがそれに合わせてついていく印象で演奏時間も全体で38分前後とこれまでで最も早い。
何だか
ヴァイオリン付き交響曲の感じで、ベートーヴェンが意図したのももしかするとこういう演奏かもと思わせるような説得力がある。
ハイフェッツは想像したよりも音色が細く繊細で確かに無類の技巧を発揮するが、自分にはいまひとつ、心に響いてくるものがなかった。

13 この盤のライナーノートによるとフルトヴェングラーの同曲ディスクは5種類あり(メニューインが3回、シュナイダーハンが1回)、この盤(ライブ)はやや激しい演奏の部類だという。ソリストのエーリッヒ・レーンは当時のベルリン・フィルのコンサートマスター。ヴァイオリンの音色がとても明るくて”行け行けどんどん”みたいで恐ろしく元気がいい。こういう開放的なベートーヴェンもたまには悪くない。それに1944年の録音にしては結構いける。しかし、もっと繊細な精神的な深みみたいなものも欲しい。

14 イダ・ヘンデルの名前も演奏も本格的に聴いたのはこれが始めてだが、非常にオーソドックスで破綻のない演奏。ライナーノートを見ると彼女が20代前半の録音とのことで、若い時期からしっかりした技巧を身につけている印象。しかし、第二楽章に入るとテンポや音程がやや不安定で若さがモロに出た演奏だと思った。第三楽章では元に戻ったのでヘンデルはアダージョが苦手なのだと思った。なお録音状態は雑音がほとんどしない割には不自然ではなく十分聴けた。

15 やはりハイフェッツの演奏は目くるめくように早い。トスカニーニ盤と同様、演奏時間が判で押したようにきっちりと38分前後と正確。通常よりは6分ほど早い。この盤のライナーノートにはこう書いてある。
「精巧無比なテクニックと一点の曇りもない透明で磨き抜かれた音色を駆使して綴りあげられたこの演奏は、恐ろしいまでの緊迫感とギリシャ彫刻を思わせる壮麗な造形的美観が光る驚異的な名演以外の何物でみない。」
どうやら大変な絶賛ぶりだが、技巧的にはともかく全体から受ける印象はそれほどでもなかった。どうも自分にはハイフェッツの演奏を縁遠く感じてしまってしようがない。もっと音楽に血を通わせて欲しいと思う。やはり
玄人受けのするヴァイオリニストなのだろう。なお、ミンシュ指揮のオーケストラはハイフェッツのスピードによく追従しておりさすがにスキがないと思った。

16 コーガンはロシア出身であの偉大なオイストラフの影に隠れがちなヴァイオリニストだが、負けず劣らずの実力の持ち主。1982年、公演旅行中の列車内で心臓発作のため58歳で惜しくも急死(怪死との説もある)した。さて、演奏のほうだが思わずトップレベルのシェリングと比べたくなるほどの好演。違うところは粘っこいのはいいのだがスマートさに欠けるというところ。造形のたくましさなどでやや及ばないと思った。しかし、全体的には格調が高く立派な演奏。オーケストラとの呼吸がよく合っていた。

17 シゲティは1892年生まれのハンガリーの大ヴァイオリニスト。この盤は69歳のときの録音となる。もともと深い精神性が売りものの奏者で、若いときからテクニックはさほどでもないとの評だが、この歳になると一層、音がかすれたり、ヴィブラートも粗くて音程がやや不安定でよほどのシゲティ・ファンでなければこの盤は敬遠したほうがよさそう。自分はいくら精神性といってもテクニックがしっかりした上での話だと思う。オーケストラの音の録音レベルが非常に高く、低域がボンつくので驚いた。

18 独奏ヴァイオリン付きの交響曲ともいうべきこの協奏曲にはソリスト、指揮者、オーケストラの三者の一体感がなければ名演とはならないが、その意味ではこの盤はワルター、フランチェスカッティともども円熟した境地が展開され、伸び伸びとよく歌っているとは思うものの、自分には、もっと緊張感、あるいは厳しさのようなものが欲しいと思った。一言でいえばロマンチックすぎてリアリティに欠けている。もっと若い時分に聴けば素晴らしいと思うのだろうが、歳をとって依怙地になり海千山千の人間ともなるとこの演奏では物足りない。

19 さすがにオーケスラ(ベルリンフィル)が実に分厚くて重厚だ。17歳のムターと72歳のカラヤンの組み合わせはなかなか好感が持てた。第一楽章は秀逸。録音もこれまた良くて、広い空間にヴァイオリンの音色が漂う様子に思わず背筋がゾクゾクした。ところが第二楽章のアダージョになってどうもムターが物足りなくなる。やはりベートーヴェンのアダージョはある程度の人生経験がないと弾けないと思った。これは14のヘンデルのときにも同様に感じた。とはいいながら、自分は若さとはつらつさに包まれたこの盤がとても好きだ。

≪最後に≫

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を19曲まとめて聴くなんて生涯のうちで最初で最後だと思うが、ほんとうにいい経験をさせてもらった。こんな名曲を沢山の一流の演奏家でまとめて聴ける幸運はそうない。合わせて17枚のCD盤を貸していただいたAさんとMさんには感謝あるのみ。

結局、1~19の寸評を個別にご覧になればお分かりのように、
自分にとっては5のヘンリック・シェリングが満点に近い出来具合で断トツだった。19枚も聴いたのだからもっとほかにライヴァルがあってもよさそうなものだが不思議なことに皆無だった。ただ、2のヌヴー盤が指揮者とオーケストラがもっとシャンとしていればと惜しまれる。19のムターとカラヤンのコンビも持っておきたい盤だった。

ところでこの協奏曲に対して聴く前と集中的に聴いた後では随分と印象が異なってしまった。仰ぎ見るような高い山だと思っていたのが、登ってみると意外と簡単に踏破できる普通の山だったという感じ。

言い換えれば、これはベートーヴェンにとってほんとうに満足のいく作品だったのかな~という疑問が自然に湧いてきてしまった。

前回のブログ♯1の冒頭でベートーヴェンはこの協奏曲に満足したので以後ヴァイオリン協奏曲を作曲しなかった旨記載したのだが、むしろ反対にこのヴァイオリン付き交響曲の中途半端な形式の表現力に限界を感じて作曲しなかったのが真相ではないだろうかと思えてきた。

逆説的になるが、この協奏曲を作曲したのが36歳のときで、以後58歳で亡くなるまで十分に二番目以降を作曲する余裕がありながら、全然見向きもせずに交響曲、弦楽四重奏曲に傾斜していったのがその辺の事情を物語っているような気がする。

結局のところ、たしかに傑作には違いないが、精神的な深みが足りずベートーヴェンを骨の髄までしゃぶり尽くすには少々物足りない作品というのが19枚のCDを聴いた自分の結論。


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愛聴盤紹介コーナー~ベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲♯1~

2008年03月09日 | 愛聴盤紹介コーナー

このコーナーでは、これまでヴァイオリン協奏曲としてモーツァルト、ブラームス、シベリウスを紹介してきたが、今回はベートーヴェン(1770~1827)のヴァイオリン協奏曲ということで、いよいよ真打の登場である。

とにかく幾多のヴァイオリン協奏曲がある中で誰もが認める「王者」とされ、”楽聖”の名に恥じないスケールの大きい傑作だといわれている。

作曲は1806年、ベートーヴェンが36歳のときで、これ以降ヴァイオリン協奏曲を作曲しておらずこのジャンルでは生涯に亘ってこの一曲だけだったところをみると、相当の自信作だったことが伺える。たとえば交響曲「第九番」をはじめピアノ三重奏曲「大公トリオ」、ピアノソナタ32番など、自信作の後には同じジャンルでの作曲はしないのがベートーヴェンのやり方。

曲は三楽章で構成されている。(演奏時間は奏者によってまちまちだが一応の目安)

第一楽章(25分前後)
最も長い楽章でティンパニーの独奏で木管の主題が導き出され、堂々とした管弦楽だけの提示部があり、やがてヴァイオリン独奏が即興的にぐいぐいと弾きはじめ、きらびやかに楽想を展開していく。

第二楽章(9分前後)
ゆっくりとした歌うような楽章で、独奏が弦楽合奏の柔らかな響きを縫って自在に動いていくところが渾然一体となって美しさの極みに達している。

第三楽章(10分前後)
第二楽章から休まずに続いて始まる。同じ主題が何度も繰り返して出てくる形式で作曲され、素晴らしい技巧を展開しつつきらびやかなクライマックスに上りつめて終わる。

人気曲なので、実に多くのヴァイオリニストが挑戦している。自分は長い間オイストラフ演奏のものが絶対だと信じて他の盤にあまり浮気しなかったのだが、それだけではあまりに淋しいので仲間のMさんと湯布院のAさんにお願いしたところ快く自ら所有のCD盤を貸していただいた。

それも二人合わせて何と17枚。それに自分のオイストラフとウィックスの2枚を加えて19枚にも及ぶ大掛かりな試聴となった。とても1回ではスペースが足りないので10枚と9枚に分けて試聴することにした。

とりあえず演奏者のメンバーを紹介しておくと次のとおり。

♯1(前半)

自己の所有  2枚 オイストラフ、ウィックス

Mさん所有   8枚 ヌヴー、メニューイン、キョンファ、クレーメル、カントロフ、シェ
              リング、テツラフ、パールマン

♯2(後半)

Aさん所有    9枚 ハイフェッツ2枚(トスカニーニ指揮とミンシュ指揮)、ムター、
              ヘンデル、シゲティ、フランチェスカッティ、コーガン、フーベル
              マン、レーン

古今東西の名ヴァオリニストたちがズラリと並んで壮観の極みである。自分には「ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲はこうあらねばならない」という信念も特にないし、単なる市井の一愛好家に過ぎないので、これから登る山を目前にして
道に迷ってしまうかもといささか心配している。

結局のところ、これまでのいくばくかの経験に裏打ちされた個人的な感性に基づく感想に留まってしまうわけだが、何しろオイストラフ以外は初めて聴く演奏者ばかりでヴァイオリニストによってどういう違いがあるのか、いまはそちらの興味の方が優っている。

録音時期の古い順から並べてみよう。(奏者、指揮者、オーケストラの順番)

☆1 ユーディ・メニューイン フルトヴェングラー ルツェルン音楽祭管弦楽団
    録音:1948年

☆2 ジネット・ヌヴー ハンス・ロスバウト 西ドイツ放送管弦楽団
    録音:1949年 

☆3 カミラ・ウィックス ブルーノ・ワルター フィルハーモニック・オーケストラ
    録音:1953年

☆4 ダヴィド・オイストラフ アンドレ・クリュイタンス フランス国立放送局管弦楽団
    録音:1958年

☆5 ヘンリック・シェリング ベルナルト・ハイティンク ロイヤル・コンセルトヘボウ
    録音:1973年

☆6 イツァーク・パールマン カルロ・マリア・ジュリーニ フィルハーモニア管弦楽団
    録音:1980年

☆7 ジャン・ジャック・カントロフ アントニ・ロス・マルバ オランダ室内管弦楽団
    録音:1984年

☆8 チョン・キョンファ クラウス・テンシュテット ロイヤル・コンセルトヘボウ
    録音:1989年

☆9 ギドン・クレーメル ニコラス・アーノンクール ヨーロッパ室内管弦楽団
    録音:1992年

☆10 クリスチャン・テツラフ デヴィド・ジンマン トンハーレ・チューリヒ
    録音:2005年

       
     1             2              3              4

             

           5                6             7

             
           8                9             10

≪私見による試聴結果≫

 60年前の録音で、当然モノラル、しかもジャリジャリと雑音がガサツク。とにかく演奏に集中するのみだが、第一楽章ではメニューインが大指揮者を前にしてやや遠慮気味のようでヴァイオリンよりもオーケストラの方が優っている印象を受けた。
しかし、第二楽章では一転して本領を発揮して背筋がゾクゾクしてくるような優美さを漂わせる。この楽章が一番の聴きどころだろう。しかし、この盤は一般向きではないと思う。

 やはりヌヴーのヴァイオリンは違う。一言でいって「志」が高い。優れた芸術作品だけが持つ「人の心を動かし精神を高揚させる」ものがある。音楽にすべてを捧げた演奏家の情熱と殉教的精神みたいなものが感じとれるのが不思議。
とはいながら、マイナス材料もある。オーケストラがところどころ粗いし、録音の方もメニューイン盤よりはましぐらいの程度。
また、二楽章以降なんとなく音楽全体の求心力が薄くなっていく印象を受けた。これはヌヴーの責任ではなく指揮者とオーケストラに大きな原因があると自分はにらんでいる。
とにかく、この盤も1と同様に一般向きではない。
なお、これは現在廃盤となっており
入手不可能。自分にとって、好きを通り越して崇拝の域に達しているヌヴーなので、Mさんに無断で4倍速でていねいに時間をかけて○○○させてもらった。おそらく寛容なMさんのことだから許してくれるだろうと思う。

 シベリウスのV協奏曲のときと同様にヌヴーのすぐあとに聴くウィックスは直接比較の対象になるので可哀想。まるで芸格が違う。独奏ヴァイオリンの冒頭の部分を一聴しただけで「ヴァイオリンの音色が浮ついている」と思った。ワルター指揮のオーケストラに随分助けられている印象。その延長で第二楽章は抒情味豊かな演奏を聴かせてくれたが、ヌヴーとワルター指揮のコンビだったらどんなにか素晴らしい演奏になっただろうとの連想に思わず走った。結局ウィックスはその程度の存在感だった。

ところで、三人目の試聴が済んで、ようやくこの協奏曲の試聴の勘所が分かってきた。演奏者の差がつくのは何といっても第一楽章、それも冒頭の導入部の部分で、ここでヴァイオリニストの才能と技量が決まるようで、第二楽章以降はどんな奏者でもそこそこ弾けるみたいな気がしてきた。

関連して、女流ヴァイオリニスト高嶋ちさ子(俳優:高島忠夫の姪)さんの著書「ヴァイオリニストの音楽案内」(2005.10.31、PHP新書)にも同じようなくだりがある。以下引用してみる。

オープニングのティンパニーが音を四つ叩き、それがちょっとでも狂っていると、その次の木管が出てきたときに 「ん?音程おかしくない?」とみんな頭をかしげ、その後3分30秒間ソリストはただひたすら音程が落ち着くのを待つ。「って、こんなに待たせんなよ!」というのがソリストの言い分。待ってる間に指は冷え切って、そのあとにこのオクターブをひょこひょこ上がっていく。これが0.1ミリでも押さえるところが違った日には「死にたい・・・」となる。なんといっても鬼門はこの出だし。

 昔から聴きなれた盤なのでどういう演奏かは百も承知。オイストラフのたっぷりとヴァイオリンを歌わせる弾き方は絶妙の域に達している。しかし、ヌヴーを知った今ではやや受け止め方が違う。20世紀最高のヴァイオりニストに対してとんでもない言い掛かりになるが「美しすぎる」というとおかしな表現になるが、どうも「美しさと音楽の核心へのアプローチが両立していない」といえば意味が分かってもらえるだろうか?これはおそらく自分だけの完全に孤立した感想だろうが、そう思えるのだから仕方がない。

 「端正で気品あふれる演奏」最初から最後までこの言葉に尽きる。しかも冷たいようでいてそれなりの熱もある。第一楽章の流れるような美しさは比類がない。シェリングはもちろん、指揮者のハイティンクもコンセルトヘボウもいい。しかもデジタル録音ではないのに音質がいい。いいこと尽くしでは面白くないので、ケチをつけようと思うが何ら見当たらない。とにかくシェリングはミスタッチがないし、その技巧の確かさには感心した!素人目にも造形のたくましさが分かる。別にイッセルシュテット指揮(1965年)の盤もあるようでこれも是非聴いてみたいという欲を起こさせる。

 シェリングも決して線が太いヴァイオリニストとは思わないが、それをやや小粒にしたような印象。きれいで繊細、静かな演奏、大きな波乱が起こらないのが分かっているので安心感があるが、逆にスリリングな刺激感に乏しい。決して悪い演奏ではないが、この盤でなければ得がたい魅力には乏しいと思った。これはパールマンというヴァイオリニストに対する自分のイメージとスッポリ重なる。

 オーケストラの導入部が終わって、独奏ヴァイオリンの最初の一音が出たときに誤魔化しようのないまことに頼りない音がして、即座に「ひ弱だな~」と思った。この第一印象は不幸なことに最終楽章まで持続した。彼は1945年生まれだから現在63歳、この演奏の時点では39歳だった勘定になるが、この時点でこの程度なら将来性云々の段階ではなさそう。ばっさり、切り捨てさせてもらって先に進もう。

 それなりのレベルの高い演奏との印象を受けたし、指揮者、オーケストラもまったく他と遜色ない。しかし、何か違和感が終始つきまとった。これまでの試聴で範となるシェリングの第一楽章の演奏時間25分58秒、キョンファは24分53秒で約1分の違いにすぎないのでテンポの問題ではなさそうで、よく考えてみるとたっぷりと(ヴァイオリンが)歌って欲しいところで歌っていないのが原因だと気がついた。もうひとつ、国籍の違いを言うとどうしようもないが、アジア人が弾いたヨーロッパの曲という違和感も自分には拭えなかった。結局、国籍を問題にしないほどの高い芸術性の域に達した演奏ではないといえば言いすぎになるのかなあ~。

 近年、この協奏曲の名盤、決定盤として定評(音楽評論家による選出)があるが、自分の鑑賞力不足のせいかいまひとつ良さが理解できなかった。独特のカデンツァなど工夫を凝らした斬新な挑戦が自分には音楽の本質とかけ離れたスタンドプレイに映ってしまうのだからどうしようもない。最近発刊されたクレーメルの自伝「クレーメル青春譜」(2007.12.31、株アルファベータ)の「自己中心的な思考と言動」(他人を謗る資格がない自分だが・・)の持ち主との印象を受けた読後感とつい重なり合ってしまう。どうも、このヴァイオリニストとは波長が合いそうにない。ただし、この盤は録音はいい。

10 現代的な爽やかさを感じさせる演奏で好感を持った。正面から攻めていく潔さに一陣の涼風が吹き抜ける印象。テツラフというヴァイオリニストは初めて名前を聞くし、演奏を聴いたのも初めてだがなかなかいい線いってるじゃん。技巧も冴えているしヴァイオリンの透徹な音色の中に簡単には折れそうにない芯がある。さっそく、ウィキペディアを覗いてみると1966年生まれのドイツ出身とある。現時点で42歳だから芸術家としてはまだ若い。バッハからシェーンベルクまでレパートリーも広い。これは将来が非常に楽しみで極めて有望株の印象あり。
なお、この盤はオーケストラもいいし、音質も良かった。しかも全体時間が40分ほどで通常の演奏よりも5分ほど短く、スイスイと弾ききった印象。

以上、前半戦10枚の試聴が終わったが、自分の一押しはいまのところ
シェリング。(もちろん、ヌヴーは例外的な存在)。

後半戦はハイフェッツ(2枚)、シゲティ、フランチェスカッティなど大物たちが続々と控えているが果たしてこれを超える盤が出てくるんだろうか。

以下♯2(11~19)の試聴へと続く。    

   

 


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愛聴盤紹介コーナー~モーツァルトのピアノ・ソナタ~

2008年03月01日 | 愛聴盤紹介コーナー

モーツァルトのピアノ・ソナタはオペラ「魔笛」に次いで大好きな曲目。昔から常に手もとにおいて途切れることなく聴いてきたのですっかり耳に馴染んでいる。

ソナタは全部で17曲あり、それらは第1番K(ケッフェル)279から第17番K.576までということで彼の短い生涯(35歳)の中でも年齢的にかなり幅広い時期に亘って作曲されている。

このソナタがモーツァルトの600曲以上にものぼる作品の中でどういう位置づけを占めているかといえばあまりいい話を聞かない。

まず、このソナタ群の作曲の契機や具体的な時期などの資料が非常に少ない点が挙げられる。
理由のひとつとして、モーツァルト自身がこのジャンルの作品をあまり重要なものと見なさなかったからという説がある。彼の関心は時期にもよるが、ほぼ一貫してオペラにあった。そして、ピアノ協奏曲、交響曲がこれに次いでいるという。

たしかに自分もそう思うが、作品の価値は作曲者自身の意欲や位置づけとは関係ないのが面白いところ。たしかにオペラが一番とは思うが、その次に来る大事な作品は個人的にはピアノ・ソナタだと思っている。

というのは、ピアノはモーツァルトが3歳ごろから親しみ演奏家として、そして作曲家としての生涯を終始担った極めて重要な楽器であり、このピアノ単独のシンプルな響きの中に若年から晩年に至るまでのモーツァルトのそのときどきのありのままの心情がごく自然に表現されていると思っているから。

さらにオペラは別として交響曲やピアノ協奏曲は何度も聴くとやや飽きがくるが、このピアノ・ソナタに限っては、何かこんこんと尽きせぬ泉のように楽想が湧いてくる趣があり、モーツァルトの音楽の魅力が凝縮された独自の世界がある。この魅力に一旦はまってしまうと
”病み付きになる”こと請け合いである。

なお、実際に演奏する第一線のピアニストによるこのソナタの評価を記しておこう。

「モーツァルトの音楽は素晴らしいが弾くことはとても恐ろしい。リストやラフマニノフの超難曲で鮮やかなテクニックを披露できるピアニストが、モーツァルトの小品ひとつを弾いたばかりに馬脚をあらわし、なんだ、下手だったんだ、となることがときどきある。粗さ、無骨さ、不自然さ、バランスの悪さ~そのような欠点が少しでも出れば、音楽全体が台無しになってしまう恐ろしい音楽である!」
(「モーツァルトはどう弾いたか」よりH12 久元祐子著、丸善(株)刊)

さて、モーツァルト・ワールドに入り込むために欠かせないこのソナタのCDはものすごく沢山のピアニストが録音しており枚挙にいとまがないが、いまのところ次の5名のピアニストのものを所有している。

☆1 グレン・グールド「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」(4枚セット)
    録音:1967年~1974年

☆2 マリア・ジョアオ・ピリス「同 上」(6枚セット)
    録音:1989年~1990年

☆3 内田光子「同 上」(5枚セット)
    録音:1983年~1987年

☆4 ワルター・ギーゼキング「ソナタ10番~17番」(2枚セット)
    録音:1953年

☆5 クラウディオ・アラウ「ソナタ4番、5番、15番」(1枚)
    録音:1985年

                
         1                 2                 3

                     
                 4                    5

世評の高いイングリット・ヘブラー、リリー・クラウスの両女史のCDを持っていないが今更購入する気はない。この二人が束になってかかってもおそらくピリスには及ぶまいと思うから。とにかく5名ともいずれ劣らぬレベルの高い奏者ばかり。それぞれ部分的ではあるが、この5名を一気に聴いてみた。

以下、自分勝手な感想を記してみる。

1 グールドについては、これまで耳にたこができるほど聴いてきた。「ピアノ・ソナタといえばグールド」の時代が長く続いた。あの独特のテンポにすっかりはまってしまったのが原因。音楽の世界に句読点を意識したのは彼の演奏が初めてである。盤のライナーノートに、このアルバムは世界中のグールド・ファンの愛聴盤と記載されていたがさもありなんと思う。
一番好きなのは第14番(K457)の二楽章。しかし、さすがに15番以降は逆にテンポが早すぎてついていけない。
なお、グールド自身は作曲家モーツァルトをまるで評価しておらず、このソナタについての感想も何も洩らしていない。
(「グレン・グールド書簡集」で確認)

2 近年、グールドに替わって聴く機会の多いのがピリス。とにかく抜群の芸術的センスの持ち主である。一言で言えば”歌心(ごころ)”が感じとれる。澄んだ美しさと微妙なニュアンスがとてもいい。ずっと以前に有料のPCM放送のクラシック専門チャンネルで聴いて心を奪われ、ピリスの演奏であることを確認してすぐに全集を購入した。第1番から17番まですべてが名演で当たり外れがない。なお、ピリスには旧録音と新録音があって、これは新録音の方である。

3 日本を代表する世界的な音楽家といえば小澤征爾と内田光子さん。しかし、内田さんは活動拠点を徹底的にヨーロッパにおいているところが特徴。外交官の令嬢としてウィーンに学び第8回(1970年)ショパン・コンクールで2位入賞し一躍世界のひのき舞台に躍り出た。このソナタではヘブラー以来というフィリップス・レーベルの期待を担っての録音。グールドにもピリスにもないピアノの響きと香りが内田さん独自の解釈とともに展開されていく。これが日本と西欧の知性と感性が合体した「内田節」なのだろう。

4 ずっと昔に名演として誉れ高かったので購入したのだが、当時グールド一辺倒だったのでほとんど聴かずじまいのCD。何せ当時の録音なのでモノラルであり、オーディオ装置も今ほどは凝ってなかったので音が悪くて聴く気がしなかったわけ。
今回改めて引っ張り出して聴き直したが、ハッキリいってやっぱり良くなかった。というよりは自分には良さが分からなかったというべきだろう。改めて、まず録音が良くない。ヴァイオリンの場合はジネット・ヌヴーの熱演があの録音の悪さでも十分伝わってくるのだが、ピアノの場合の録音の悪さはどうしようもない。まあ、リパッティの例もあるので断言は出来ないが・・・。演奏の方は気負いも衒いもなく淡淡としたオーソドックスなもので、範とするに足るものだと思った。

 購入したいきさつを忘れてしまったほどのアラウ盤だが、ほんとうに久し振りに聴いた。ところがウーン・・・豊かな深い音色で弾かれる骨格の太いソナタにすっかり参った!
とても美しい音色で、その美しさが表面に留まっていない。武骨だがしみじみとした音が胸の中に温かいものとなってジワーッと広がり、そこからにじみ出てくるような美しさなのである。
この何ともいえない美しさはグールドにもピリスにも内田さんにも感じられなかったもので、とても新鮮に感じた。ゆったりしているテンポも味わいがあっていい。
音質の方も1985年のスイスでのデジタル録音なのでこれで十分。途中で止めるのが惜しくなって、最初から最後まで聴いたのはアラウだけだった。しかし、残念なことに彼はソナタ全曲を録音するに至っていない。

以上、こうして5人を聴き比べてベスト盤をと思ったのだが、このピアノ単独演奏にはそれぞれの大ピアニストの個性と芸術性が凝縮されていて、その日の体調次第で印象が左右されそうな感じで簡単に優劣をつけられないと思った。強いて言えば現在のオーディオ装置の音色と相性がいいということでアラウ盤ということになる。

これまでアラウを少しばかり見くびりすぎていたのかもしれないと思い、あわてて、ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ32番を取り出して聴いてみた。

もしかすると、あのバックハウスの神盤を越えているかもと思ったのだが、大丈夫(?)だった。彼にはベートーヴェンのシリアスな曲調は苦手のようで、やはりモーツァルトのような自然な流れの音楽が似合っていると再確認した。

  

 


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愛聴盤紹介コーナー~交響曲第6番「田園」~

2008年02月12日 | 愛聴盤紹介コーナー

自分の音楽史(大げさ!)を振り返ってみると、20代の頃はベートーヴェン、30代~50代にかけてはモーツァルトだったが、最近になって再びベートーヴェンが身近に感じだした。

彼の作品を読み解くカギはもちろん「苦悩を通じての歓喜」にあるが、ややもすると時折わざとらしさ、説教臭さが鼻につくことがあったのだが、最近ではそういうものが気にならなくなり、何かしら「敬虔な祈り」のようなものがより一層感じられるようになった。

急にオーディオの話になるがサブウーファーを追加して低域の伸びが良くなり音楽の印象が変わったせいかもしれない。

とりわけ今回取り上げる第6番「田園」はフィナーレが神々しいほどの啓示に満たされる。自然をこよなく愛したベートーヴェン自らが表題を田園(「パストラル・シンフォニー」)と名づけ
「音で描かれた風景画」をイメージとして作曲、とはいいながらもやはり底流には人間の苦悩と精神の回帰がテーマになっているのはいうまでもない。

ベートーヴェンの代表作の一つであることから愛好家も多く、愛聴盤として紹介するのは今更という感じだがやはりこの曲を避けていては自分の音楽史は語れない。
在職中によくスランプに陥ったときにこの曲を聴いて随分開放的な気分に導かれ、癒し効果もあっていわば精神安定剤的な役割を果たしてくれた想い出深い曲。

ベートーヴェンの交響曲の中でやや毛色が変わったこの曲はこれまでの伝統を破って五つの楽章で作られ、各楽章にはそれぞれ内容を暗示する表題がついている。

第一楽章   「田舎に着いたときの晴れやかな気分のめざめ」

第二楽章   「小川のほとりの情景」

第三楽章   「田舎の人たちの楽しいつどい」

第四楽章   「雷雨、嵐」

第五楽章   「牧人の歌~嵐のあとの喜びと感謝の気持ち」

このうち、特に印象的なのは第五楽章。

嵐が去ったあとの美しい田園風景の描写と嵐を切り抜けた感謝と喜びの讃歌が高らかに歌われていく。

いろんな聴き方があるのだろうがこの自然への讃歌の部分がこの曲のクライマックス。
「音楽は哲学よりもさらに高い啓示と言ったベートーヴェンの面目躍如たるものがある。人間とか人生についての大きなテーマが常に作曲者に内在していないと、まずこういう音楽は創造できない。

現在の自分の手持ちの盤は次の4セット。

ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮 ベルリン・フィルハーモニー
  録音1953年
オットー・クレンペラー指揮 フィルハーモニア管弦楽団
  録音1957年
ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団
  録音1958年
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 ドレスデン・シュタツカペレ
  録音1977年

       
    ①             ②             ③            ④ 

次にMさんからお借りした盤が次のとおり7セット!

ハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮 ウィーン・フィルハーモニー
  録音1968年頃
ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルト・ヘボー
  録音1985年
ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団
  録音1985年
ヘルベルト・ケーゲル指揮 ドレスデン・フィルハーモニー
  録音1989年
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ベルリン・フィルハーモニー
  録音1990年頃
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 ミラノ・スカラ座・フィルハーモニー
  録音1991年
デビッド・ジンマン指揮 チューリヒ・トンハーレ・オーケストラ
  録音1997年頃 

       
       ⑤           ⑥            ⑦            ⑧

            
          ⑨              ⑩             ⑪ 

以上、計11セットの大掛かりな試聴となってしまったが、名曲「田園」にはこれくらいの選択肢がふさわしい。

名だたる指揮者が録音しているわけだがこれほどの名曲で、それもシンフォニーにともなると弦の厚みとスケール感によって少々の演奏のまずさはカバーしてしまうのでそれほどの差は出にくい。聴きどころの第二楽章と第五楽章にしぼって聴いてみた。

【試聴結果】

①芒洋として盛り上がりに乏しい印象
テンポが遅くて重々しい印象で田園のテーマにそぐわない気がする。フルトヴェングラーのベートーヴェンは定評があるが、こと6番に限ってはそうでもない。やはり風景画的雰囲気とは相性が悪そうで、もっと人間臭いドラマが合っている気がした。


②明るい色彩、濃淡のはっきりした油彩画の趣
なかなかの好演で聴かせるものがある。弦楽器をはじめあらゆる楽器が咆哮し、エンジン全開のイメージで進行する。切なさと力強さが程よく交錯しており演奏が終わったあと「なかなかいいねえ!」と言葉が出た。ただし、5楽章ではもっと神々しさが欲しい。

③自然への感謝を素直に表現した名演
ずっと昔からレコードで聴いてきた盤で、気に入っていたのでCD盤が出ると早速買い直した。滋味あふれ心温まる演奏で音楽の喜びに満ち溢れ、こうやって沢山の指揮者に囲まれても少しも遜色のない光を放っている。

④淡い色彩による水彩画の趣
すべてにわたって中庸という言葉がピッタリ。とりたてて魅力も感じないかわりにアクも強くなく無難な演奏。当たり外れなしというところ。

⑤盛り上がりに欠け長く聴いていると飽きがくる印象
全盛期のウィーン・フィルの弦はやはりいい。オーソドックスだが華麗、きらびやかで音楽に色彩感がある。ただし5楽章が通り一遍で物足りない。もっと神々しさが欲しい。長く聴いているとややマンネリ現象に陥る。

⑥中間色を多用した印象の薄い絵画の趣
ドレスデン・シュターツカペレの第一ヴァイオリン奏者島原早恵女史のウェブサイト「ダイアリー」を見ていたらハイティンクの指揮ぶりを褒めていた。練習で言葉をほとんど発することなく指揮棒だけで団員を納得させるのだという。たしかにこの指揮者の「魔笛」は一級品だった。しかし、この田園になると穏やかすぎて盛り上がりに欠けている印象で、5楽章には少なからず不満が出てくる。

⑦正統派で感動に満ちた田園
襟を正して聴く思いがした。5楽章では自然への讃歌が高らかに歌い上げられ、天上から後光がさしてくるようなイメージ。楽団も絶好調で管楽器のうまさが光る。整然とした演奏ながら情緒もあり神々しさも十分。これは一押しの名盤。マリナー会心の出来で演奏が終わった途端に思わず拍手をしてしまった
⑧人生を真剣に、そして深刻に考えたい人向き
日本公演(サントリーホール)の記念すべきライブ盤。指揮者ケーゲルは東ドイツの熱心な社会主義者だったが、この最後になる公演のときはベルリンの壁が崩壊する1ヶ月前のことで既にこのことを予知していたとみえてものすごく暗いイメージの田園に仕上がっている。しかし、この演奏には人間の真摯な苦悩が内在していて簡単に捨てがたい味がある。5楽章は秀逸。録音もホールトーンが豊かで気持ちいい。公演当日の聴衆は一生の思い出になったことだろう。うらやましい。ケーゲルはこれから1年後にピストル自殺を遂げたが、イデオロギーの違いで自殺できる人は人間として純粋でホンモノだと思う。

⑨可もなし不可もなし
オーケストラの地を這うような弦の響きにはうっとりとするが取り立てて求心力のある演奏ではない。良くも悪くもないという表現になってしまう。

⑩田園の情景が浮かんでこない演奏
テンポを遅めにしてコクのある演奏だが、田園の情景が浮かんでくるようなイメージに乏しい。何だか曇り空の田園のようで気分が晴れてこない。そういえばイタリアと田園とのイメージがどうも結びつかない。

⑪演奏レベルに問題あり
ときどき管楽器の不発があるのがご愛嬌。聞き流すにはいいが、正面から向き合って聴く田園とは思えない。たどたどしいという印象を受けた。

以上11セットの試聴を終えて、結局のところ、
マリナー盤ワルター盤が双璧として印象に残った。ケーゲル盤も捨てがたい味がある。しかし、オーケストラ、音質などを加味するとワルター盤はやや古すぎるのでマリナー盤が自分にとってはベストとなる。

仲間のMさんにこの結果を伝えると、自分もマリナー盤だとのことで意見が見事に一致した。「感性が一緒ですね」と言ったら「血液型は何?」と聞かれたから「O型です」と答えたら「自分もO型だ」といわれた。感性と血液型との関連?ウーン!

 


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愛聴盤紹介コーナー~シベリウスのヴァイオリン協奏曲~

2008年01月27日 | 愛聴盤紹介コーナー

オーディオ環境も随分良くなってきたようだし、これからは意欲的に音楽を聴いて愛聴盤を紹介していきたい。

さて、ヴァイオリンはとても好きな楽器の一つだが、ヴァイオリン・ソナタとなると真冬のせいもあって何だか肌寒い感じがしてきてあまり聴く気になれず、腰をすえて聴くとなるとやはり協奏曲に尽きる。

この
「愛聴盤紹介コーナー」ではこれまで、モーツァルト、ブラームスといった大物達のヴァイオリン協奏曲を相次いで取り上げたが、フィンランドの国民的な大作曲家シベリウス(1865~1957)の名品とされる「ヴァイオリン協奏曲」も外すわけにはいかない。

現在の手持ちの盤は次のとおり。(番号の横が演奏者:録音時期順)

ジネット・ヌヴー  ジュスキント指揮  フィルハーモニア交響楽団
  録音1946年
 

カミラ・ウィックス  エールリンク指揮 ストックホルム放送交響楽団
  録音1951年

ヤッシャ・ハイフェッツ ヘンドル指揮 シカゴ交響楽団
  録音1959年

ダヴィド・オイストラフ オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団
  録音1959年

ダヴィド・オイストラフ  ロジストヴェンスキー指揮 ソヴィエト国立放送交響楽団
  録音1965年(ライブ)

サルヴァトーレ・アッカルド  コリン・デービス指揮 ロンドン交響楽団
  録音1979年

この「ヴァイオリン協奏曲作品47」は1903年、シベリウスが37歳のときの作品で、
第一楽章 アレグロ・モデラート(約16分)
第二楽章 アダージョ・ディ・モルト(約8分)
第三楽章 アレグロ・マ・ノン・タント(約8分)計約32分で構成されている。

第一楽章に最大の重点が置かれ、独奏ヴァイオリンの登場のしかたが非常に魅力的で女流ヴァイリニストのレパートリーに必ず入っているといっていいほどの人気作品。

シベリウスの音楽については五味康祐氏の名著
「西方の音」(118~127頁)に詳しい記述がある。

「フィンランドの民話と伝説と、心象風景への愛をうたいあげ、シベリウスといえばフィンランド、それほど強烈な個性を彼の音楽に育ませたのは母国への愛そのものだった。しかし、後半期の作品に楽想の枯渇が見られることからその音楽的生命と才能は三十台の後半で咲ききるものだった」(要約)と例によって五味さん独自の辛らつな考察が展開されている。

その意味では、このヴァイオリン協奏曲はシベリウスの創作の絶頂期に位置する作品ともいえる。

シベリウス自身も若いときにヴァイオリニストを志し、挫折して作曲家に転じたのでヴァイオリンに格別の愛着を持っていたことから、北欧の憂愁が全編を覆い、超絶技巧と独特の透明感が絶妙に絡み合って、極めてレベルの高い作品となり北欧音楽最高傑作の一つといわれている。

この作品を自分がはじめて聴いたのは湯布院のAさん宅でアッカルド盤だったが独奏ヴァイオリンの息の長い旋律、冷たく暗い音感が実に印象的で、聴き終わったときに深い感銘を覚えた。

早速、同じアッカルド盤を購入したが当然それだけではあきたらず以後、例によってコツコツと同曲異種の盤を集めて上記のように6セットとなってしまった。

一演奏あたり約30分、全体をとおして聴いても約3時間前後と充分集中力に耐えうる時間なので、比較する意味で6セットを年代順に一気に聴いてみた。

【試聴結果】

フランスの女流ヴァイオリニスト・ヌヴーは1949年に航空事故のため30歳で亡くなったがいまだにその才能を惜しむ声が多い。若年のときの国際コンクールでヌヴーが第一位、二位がなんとあのオイストラフだったのは有名な話で同世代の中では才能が抜きん出ていたという。

この盤については、たしかな技巧、高貴な気品、底流にある情熱、第二楽章の瞑想的な演奏にはほんとうに胸を打たれる。女流にしては実に線が太い。しかし、何せ当時のことなので録音がいまいち。もちろんモノラルで周波数の最低域と最高域をスパッとカットしていて、ノイズはまったくないがオーケストラの音が人工的で物足りない。はじめから独奏ヴァイオリンとして聴く心積もりが必要。

シベリウスは92歳の天寿をまっとうしたが、生存中の晩年アメリカの女流カミラ・ウィックスの演奏を聴いて「理想の名演」と賛辞を贈り自宅に招いて歓談のときを過ごしたという。
いわばこの盤は作曲家お墨付きの演奏ということだが、何といってもおおもとの楽譜作成者の後押しがあるのは強力で、音楽市場での売れ行きもよいようだ。
それはそうだろう。この協奏曲を愛好するものであれば作曲家自身が推薦する演奏を絶対に素通りするわけにはいかない。

結局この盤を購入した自分も間違いなくその一人で、この際じっくりと聴いてみたが、ヴァイオリンもオーケストラも軽量級の一言。盛り上がりに欠けており、胸が震えてくるような湧き上がる感動を何ら覚えなかった。ヌヴー盤には、「はるかに及ばず」というのが正直な印象。失礼な言い方だが壮年期のシベリウスなら「ウィックス=ベスト」論も説得力があるのだろうがというのが大胆な意見。

専門誌の評価が高くいわば本命の登場である。さすがにハイフェッツ。冷ややかな抒情、鋭い音感、壮麗明快な技巧において非の打ちどころがない演奏。怜悧な精密機械ぶりが北欧の雰囲気とマッチしている感があるがはっきりいってこれは自分の好みではない。また指揮も含めてオーケストラがタメのきいていない感じの演奏で盛り上げ方が希薄。総合的にみて満たされない思いがする。

オイストラフが51歳という全盛時代の終盤に位置する演奏。アメリカ演奏旅行中に収録されたもので、ヴァイオリンの冴えは相変わらずだが、オーケストラがやや目立ちすぎで両者の息がいまひとつ合っていない印象。それにアメリカのオーケストラでは森と湖の国、冷たい空気に満たされた北欧フィンランドの雰囲気は無理だというのが感想。

オーケストラが控えめで、きちんとヴァイオリンの引き立て役に回っており好ましい印象。オイストラフも④に比べてエネルギッシュで元気がある。これはライブ盤だがやはり地元の利なのだろうか。全編を北欧の寒々とした自然を思わせる抒情味が貫いている印象で、こちらの演奏の方が④よりずっと好き。
第二楽章のアダージョではオイストラフの思うがままの独壇場で北欧風の憧れと郷愁がそこはかとなく漂っていて実に気持ちがいい。

さすがにコリン・デービス(指揮)、盛り上げ方も充分で独奏ヴァイオリンの引き立て方を知っている。オーケストラに限ってはこれがベストだと思う。アッカルドはこれといって不満はないのだが、やや小粒で線が細い印象がする。ヴァイオリンの音色にもっと厚みと太さが欲しい。しかし、第二楽章のアダージョはなかなか聴かせる。アレグロよりもアダージョの方が得意のようだ。

ひととおり6セットを試聴した後に、どうも気になって再度①のヌヴー盤だけを聴き直してみた。

ウーン、これは凄い演奏、もうまるで次元が違う!言葉では表現しにくいがここにはハイフェッツもオイストラフからさえも伺えなかった音楽の生命力のようなものがある。”人を心から感動させる神聖な炎が燃えている、こういう演奏が聴きたかったんだ!”そう思ったとたんに年甲斐もなく目がしらが熱くなった。

この空前絶後の演奏の前には、録音の悪さも、オーケストラの貧弱さもまったく帳消しでこの盤をNo.1にすることにまったく「ためらい」を覚えない。

ヌヴーのこの録音はシベリウス存命中のときなので作曲家は当然この演奏を知っていたはず、その上でウィックスを「理想の名演」としたわけだが、なーに、作曲家であっても一時的な意見なんて知ったこっちゃない、自分の感性を信じ、自分なりの引き出しを持つのみである。

それにしても、こうやって他の演奏者をひととおり聴いた後(あと)でなければ
ヌヴーの真髄に触れることが出来なかったのは一体どういうわけだろう?

とにかく、ヌヴーは今回の試聴で大収穫だったが、今更ながら有り余る才能を残しての早世はほんとうに惜しまれる・・・・。

彼女に
人の2倍明るく輝き、人の半分しか燃えなかった炎というある墓碑銘をそっくり捧げよう。

なお、この協奏曲はどうも女流との相性がいい気がする。ほかにもムターやチョン・キョンファが評判がいいようなのでいずれ取り寄せて聴いてみたいもの。

                 
     ①ヌヴー盤         ②ウィックス盤           ③ハイフェッツ盤     

                 
     ④オイストラフ盤       ⑤オイストラフ盤        ⑥アッカルド盤


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愛聴盤紹介コーナー~ブラームスのヴァイオリン協奏曲~

2007年11月18日 | 愛聴盤紹介コーナー

芸術の秋にぴったりの楽器ヴァイオリン、その奥ゆかしい優雅な音色にこだわって今回はブラームスのヴァイオリン協奏曲を紹介。

まず作曲家ブラームス(1833~1897)について

クラシック音楽鑑賞のバイブルともいうべき「西方の音~天の声~」(五味康祐氏著)225頁以降に実に懇切丁寧な記述がある。

ブラームスは極めて内省的かつ誠実な人物で、ベートーヴェンを超え得ない己(おの)が才能をよく自覚しており、生涯にわたって結婚もせず、人のために尽くした無類のお人好しだったという。

このヴァイオリン協奏曲は演奏者にとって技巧的に至難とも難渋ともいえる曲で、凡百のソリストでは退屈な曲に堕してしまう。
指の大きな者でないと弾きにくいことが指摘され、古来名ヴァイオリニストたち(ティボー、クライスラー、イザイなど)が好んで挑戦しクライスラーの場合などは代表的な名演となっている。

以上のとおりだが、ブラームスは人によってかなり好き嫌いがあるようで、フランスの女流作家フランソワーズ・サガンの小説に「ブラームスはお好き」(未読)という題名があるが、わざわざ改めて問わねばならないところにクラシック音楽の中に占めるブラームスの微妙な位置づけが象徴されているように思う。

次に、演奏者のオイストラフについて

既にこのブログで何回も登場しているオイストラフだが完全無欠と思える名ヴァイオリニストでも、さすがに得手、不得手があってバッハなどはどうも苦手の様子。一方、円満、誠実な人柄がピッタリ合致して最高のレパートリーになっているのがこのブラームスのヴァイオリン協奏曲。

「21世紀の名曲・名盤」(2002年、音楽の友社刊)によると、音楽評論家の投票による選出でオイストラフ演奏の盤が最高とされており、それもジョージ・セル指揮の盤とオットー・クレンペラー指揮の盤が節目ごとに交互に1位に選出されている。

いわばこのブラームスのヴァイオリン協奏曲に関する限り
”オイストラフの演奏がベスト”という専門家のお墨付きを得ているところが決して個人的な贔屓目(ひいきめ)ではない客観的な事実。オイストラフの資質はブラームスによって最大限に開花されている。

そこで、オイストラフが演奏したブラームスのこの協奏曲を全て集めて聴いてみようと思い立った。

ということで、ネット・オークションを通じて急遽取り揃えたのが次のとおり。(録音年代順)

ドイツ・グラモフォン 指揮:フランツ・コンヴィチュニー ドレスデン・シュタツ・カプレ
  録音:1955年

EMI HS-2088  指揮:オットー・クレンペラー フランス国立放送局管弦楽団
  録音:1960年

ERMITAGE    指揮:オトマール・ヌッシオ スヴィッツェラ・イタリア・交響楽団
  録音:1961年(ライブ)

BVCC 37082   指揮:キリル・コンドラシン モスクワ・フィル・交響楽団
  録音:1963年(ライブ)

accord DICA20002 指揮:ヴィトルド・ロヴィツキ ワルシャワ・国立・フィル
  録音:1969年(ライブ)

これに既に持っていた
EMI TOCE-59049 指揮:ジョージ・セル クリーブランド管弦楽団
  録音:1969年

を加えて全部で6セットとなる。

因みにオイストラフ演奏の盤が何故これほど多いのか。
それは当時のソ連政府が
外貨獲得のため世界的ヴァイオリニストだったオイストラフを見境なく各国に派遣して容赦なく酷使したからである。

それでも、恨むことなく最後まで政府に感謝し忠誠を誓って世界中を東奔西走したオイストラフはとうとう最後にはヨーロッパ公演旅行中に疲れ果てて66歳で客死してしまう。彼以後に彼を超える偉大なヴァイオリニストを知らない。

ああ、可哀想なオイストラフ!

しかし、そのお陰で優れた芸術作品を後世に残してくれた。

さて、以上の6セットについて、第一楽章から第三楽章まで全曲40分を数日間かけてじっくりと聴いてみた。全てが素晴らしい演奏で、自分ごときが評価するのはとてもおこがましいが、それでもやはり好みの差は如実に感じとれた。

試聴のポイントは全てオイストラフなので演奏の良し悪しではなくて、年代によって演奏の足跡をたどるところに意味がある。それに加えて、指揮者との相性、オーケストラの技量、音質(録音)の良し悪しが問題。

あるヴァイオリン解説書によると、オイストラフの技巧の全盛期は1940年代、少なくとも50年代までとの説もあるが果たしてどうだろうか。

あくまでも個人的感想だが試聴結果は次のとおり。

1955年盤
ヴァイオリンの音色の厚み、浸透力が一番強かった。弦を押さえる指、弓を弾く腕にしっかりとした力がみなぎり、気力、体力ともに充実して情緒さよりも力強さ、若々しさが優る印象。特に第一楽章の熱演には心から感激した。録音はモノラルに近いもので、褒められたものではないがその欠点を補って余りある盤。

1960年盤
「勿体ぶり屋」の異名をとる指揮者クレンペラーのゆったりとしたペースとオイストラフの演奏との相性と振幅がぴったり。オーケストラとの一体感も感じられる。気力、技巧、情緒性のバランスがよく、第二楽章にみられる抒情性はなかなか聴かせる。録音も悪くない。

1961年盤(ライブ盤)
指揮者もオーケストラもはじめて聞く名前だがライブ盤の中では最も気に入った盤。ごく自然体の演奏で、ブラームスの悲哀が伝わってくる趣。1960年盤と似通った印象がある。録音が玉に瑕でオーケストラがモコモコしていてやや不満が残る。

1963年盤(ライブ盤)
全編、緊張感がみなぎった熱演の印象だが、やや気負いすぎのような感がある。しかし、ライブ録音にもかかわらず、相変わらず音が綺麗で何ら破綻のない演奏には感心する。録音は途中でたまにザーっと雑音が入るのがやや気になる。

1969年盤(ライブ盤:ロヴィツキ指揮)
全編に亘ってゆとりが感じられる演奏で、それなりにいいのだが、少し緩みすぎの印象あり。録音も今ひとつで、中高域がやや持ち上げすぎで、ときどきキンキンして聴きずらいときがある。

1969年(セル指揮)
スケール感に優れ堂々とした立派な演奏。指揮者もオーケストラも上出来でブラームスの悲哀を大きく包み込む豊かな包容力が印象的だが、ロヴィツキ指揮の盤と同様にやや緩みすぎの感がある。もっと厳しさのようなものが欲しい気がした。しかし、録音はこの盤が一番良い。

以上のとおりだが、後半になればなるほどヴァイオリンの音色に”はつらつさ、力強さ”が失われる印象があり、一方でそれをカバーするように”ゆとり、情緒性”が前面に押し出されてきている。

どちらの傾向をとるかはそれぞれの好みの差になるが、1955年盤(コンヴィチュニー指揮)に見られるように正確な技巧に裏打ちされた"熱気”は何よりも捨てがたいと思う。オイストラフの全盛時代は1950年代という説が素直にうなづける。

スケール感、清々しさ、全楽章を貫く緊張感いずれをとっても図抜けていて、何度聴いても素晴らしい。これ1枚あればほぼ満足できる。

                
       
1955年盤          1960年盤          1961年盤 

                
       1963年盤           1969年盤    1969年盤(セル指揮)  


 


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愛聴盤紹介コーナー~モーツァルト・ヴァイオリン協奏曲~

2007年11月06日 | 愛聴盤紹介コーナー

最近、オーディオ装置をいろいろいじっていると目を見張るほどヴァイオリンが良く鳴り出した。欲を言えばもう少し濡れたような感じがあるといいのだが、ジャズのシンバルをきちんと再生してくれるJBLのユニットなのであまり文句は言えない。この辺が限界だろう。

とにかく、あのむせび泣くような音を聴いていると、しんみりとなってしまい秋の時季にふさわしくなんとなく感傷的になってしまう。とともに、いまさらながらヴァイオリンという楽器に果てしなく魅了され、上品さとメランコリックの点ではまさに楽器の王者との感を深くする。

さて、ヴァイオリンの曲もいろいろあって、独奏ももちろんいいが腰を据えて本格的にじっくり聴くとなるとやはりオーケストラとの協演により一段とスケール感に秀でた協奏曲も捨て難い。豊かな盛り上がりの方も十分期待できるというもの。

クラシック史上、数あるヴァイオリン協奏曲の中で、特に好きなのはベートーヴェン、モーツァルト、ブラームスである。これらは、巷間では三大ヴァイオリン協奏曲といわれている。

いずれも甲乙つけがたい存在だが、ベートーヴェン、ブラームスはそれぞれ1曲しか作曲していないが、モーツァルトは5曲も作曲しており、それぞれ聴き応えがあって楽しめる。

1番から5番までケッヘル番号ではK207、K211、K216、K218、K219となっており、作曲されたのは1775年だから、19歳の時の作品となる。

35歳で亡くなったモーツァルトだが、それにしても比較的若い時期の作品であり、しかも9か月のうちに次々と集中して作曲されていることから、5曲とも一貫して流麗で耳あたりの良い曲調を持っている。

ただし、難を言えば、晩年の作品たとえばオペラ魔笛に見られるような音楽の深みがやや足りないともいえるが、これも一長一短でモーツァルトらしい天馬空を翔るような若さの発露といった点では大いに評価される作品だと思う。

さて、この5曲の中で白眉(はくび:~広辞苑~古代中国の蜀の馬氏5人兄弟はみな才名があったが、特に眉の中に白毛があった馬良が最も優れていたという故事から、同類の中でもっとも傑出している人や物をいう)とされているのは第5番

あの天才物理学者でヴァイオリン愛好家だったアインシュタインは「死ぬということはモーツァルトを聴けなくなることだ」と語ったが、この5番については次のように言っている。
「イ長調のコンチェルトの光輝、情の細やかさ、機知はいかなる曲目も凌駕することができない」

なお、5番に続く6番K268、7番K271aもモーツァルトの作品だという説もあるが、これは広く贋作説が流布されている。実際にカントロフが演奏した6番と7番を購入して聴いてみたが、1番から5番までの作品の延長線上にある曲ではないと明らかに断定できる代物だった。モーツァルトらしさも感じられず、個人的には贋作説に組みしている。

さて、現在所有しているモーツァルトのCD盤およびDVD盤は次のとおり。

レーベル EMI  HS-2088(1971年録音) 1番~5番

ダヴィド・オイストラフ(指揮&演奏)、ベルリン・フィルハーモニー交響楽団 

レーベル不明  AM-016(録音時期不明) 5番

ダヴィド・オイストラフ(演奏)、ベルナルト・ハイティンク指揮 ラムルー交響楽団

レーベル EMI  輸入盤(1962年録音) 1番~5番

ユーディ・メニューイン(演奏)、バース音楽祭交響楽団

レーベル フィリップス  輸入盤(1962年録音) 1番~5番

アルトゥール・グリュミオー(演奏)、コリン・デービス指揮 ロンドン交響楽団

DVD録画(NHKBSハイより) 1番~5番

アンネ・ゾフィー・ムター(演奏)

レーベル RCA(1963年録音)  5番

ヤッシャ・ハイフェッツ(演奏)、室内管弦楽団

この5人の聴き比べについて個人的な感想を記してみた

まず、オイストラフ(1908~1974)
ベルリン・フィル盤は、最晩年(63歳)の録音で、功なり名を遂げた大家の風格十分、相変わらず野太いヴァイオリンの音とともに悠揚迫らざる堂々とした演奏ぶりである。正統派の音楽を髣髴とさせるイメージで人生の甘さも酸いも知り尽くした大人が味わい深く鑑賞して楽しむ印象。

次のハイティンク指揮の盤は、オイストラフがもっと若い時期の演奏とすぐに察しがつく。とにかく艶やかな音で瑞々しくて抒情性もある。モーツァルトらしさという点ではこの盤の方がぴったり。

次に、メニューイン(1916~1999)
幼少時から天才の誉れ高いメニューインだが、期待していたほどではなかった。「20世紀の名ヴァイオリニスト」では彼が10代の頃に弾いたものが激賞されていたが、この盤は彼が30代の時のものでどうも分別臭すぎてあまりよろしくない。音楽の流れに乗っていないし、若い時期のモーツァルトにふさわしい伸び伸びとした自由奔放のイメージも感じられなかった。

次に、グリュミオー(1921~1986)
名盤としてほとんどの音楽誌でトップの評価(評論家の投票)に位置づけられている作品。愛器ストラディヴァリ”エックス・ゲラン・デュポン”を駆使した美音はモーツァルトにぴったりで、繊細かつ音色の流麗さは他の追随を許さない。抒情性もたっぷり。フランコ・ベルギー楽派の名手として知られる。大好きな指揮者コリン・デービスの堅実なバックアップも光る。

次に、ムター(1963~ )
成熟したヴァイオリニストを感じさせる立派な演奏。もっと豊かな音量、力強さ、自由闊達さが欲しい気もするが、それらを叙情性が補って余りある。特に4番の2楽章は特筆すべき出来具合でうっとりと聴き惚れてしまった。

最後に、ハイフェッツ(1901~1987)
気負いがなく端正かつ淡々として語り継いでいく表現は滋味あふれる絶品というべきか。しかし、やはりモーツァルトには正直言って合わない。オーケストラも良くないし、録音もいまひとつ。

総括
こうやって5人を聴き比べてみると、まずメニューインとハイフェッツが除外。残る3人の中ではムターがわずかに1歩及ばず。
最後は、オイストラフ、グリミュオーの一騎打ちとなるがこれはもう好き好きの領域。
音楽性を優先するのであればオイストラフ、叙情性と繊細な美しさ、美音を優先するのであればグリミュオーといったところ。

個人的には相も変わらずオイストラフ盤に軍配を上げたい。

                 
    オイストラフ盤         同(ハイティンク指揮)      メニューイン盤    

                 
      グリュミオー盤          ハイフェッツ盤       ムター(DVD)
             


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愛聴盤紹介コーナー~ブルー・ベルベット~

2007年08月14日 | 愛聴盤紹介コーナー

アメリカン・ポップスのジャンルに入るが、ボビー・ヴィントンという歌手が歌った「ブルー・ベルベット」という曲がある。

「She was blue velvet」とさりげない出だしで始まるこの曲は最近、クルマのCMのバック音楽に使われているのでご存知の向きがあるかもしれない。随分昔の学生時代の頃にアメリカで流行った曲だが、しっとりとした唄い方でいい曲である。ブルーという言葉が入っているのでおそらく感傷的な、それも追憶の歌だろう。

過去のビルボード誌で調べてみると1963年9月21日から10月5日まで第1位を3週間続けており、年間チャートでは第6位というビッグ・ヒット曲である。

自分は当時、黒人のリズム&ブルースにはまっていたのでさほど気に入るほどでもなかったが、先日テレビで流れているのを聴いて実にいい曲だと見直した。やはり年齢とともに嗜好も変わるものらしい。

早速手に入れたいと思い、オークションで調べたところ何とこの曲が入ったCD盤(輸入盤)が8月7日23:17の期限で1枚だけ入札にかけられていた。今のところ入札者は誰もなく、開始価格は1000円。しめしめと思って少し幅を取って1300円で入札。ところが翌8日の朝になって残念なことに誰かが1400円以上で落札していた。

手に入らないと益々欲しくなるのが人間の常で仕方なく、「HMV」のホームページに入り込んで、ボビー・ヴィントンで検索したところずらりと並ぶ外国盤の提示。それが何とオークションに出品されていた同じCD盤がずっと安い1000円以下で販売されていたのには驚いた。送料を含めても「HMV」の方がずっと安上がり。

おそらく落札者も自分が落とした価格よりもネットで新品が安く販売されているとはつゆほども知らなかったに違いない。オークションの場合相手に負けたくないという競争心理が働いてつい妥当な価格を上回るケースがままあるようだ。

オークションの利点は「手に入りにくいものが購入できる」「価格が安い」ことに尽きるがこの場合は価格が安い上に見も知らぬ人間から購入するよりもHMVから購入した方がはるかに安心できるし、新品の方がいいに決まっている。早速、もっといい盤を見つけて購入手続きを取ったがつくづく「オークション=安い」の先入観は落とし穴であると思った。

これから、CD盤の入札に参加する時は「HMV」での販売情報を必ず下調べすることにしたが、とにかく手に入りにくいCD盤が手軽にネットで購入できる便利のいい世の中になったものだ。何といっても輸入盤が国内盤と同じように簡単に手に入るところがいい。

そういえば隣接の大分市で一番大きなCD販売店が最近とうとう店をたたんでしまった。自分のようなネットによる購入者が多くなったせいだろうか。これまで随分利用してきたので何だか申し訳ない気がするが、ネットは最初から割引価格で販売するので市場原理が働くのはやむを得ないところだろう。

おそらく、大分市に限らず地方ではCD販売店(専門店)が廃業もしくは縮小するところが多いのではあるまいか。生き残るためにはネット販売に負けない魅力づくりが必要だろう。

それで思い出したが、大分市の廃業したCD販売店のクラシック販売担当の女性はなかなか魅力的だった。ペルゴレージの
「スターバト・マーテル」(宗教音楽)はありますかと尋ねたところスッと迷いもなく棚からCD盤を取り出してきた凄腕で、細身のすこぶる美人だったが、彼女は今どこでどんな仕事をしているのだろう?

思わず、ブルー・ベルベットの曲のイメージと重なり合ってしまった。なお、注文したCD盤は予想以上に早く8月10日(金)には到着した。

P.S:2007.8.25

「ビルボードナンバー1・ヒット」(1990.9.20音楽の友社)によると、ボビー・ヴィントン本人はこの曲がヒットするとはまったく思わなかったらしい。「たった10分で録ったんだぜ。それに、甘すぎて可愛すぎる。ロック志向のヤングには受けないよ」「悪い結果が出ても知ったこっちゃないよと思っていたよ」


     

 

 



 


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愛聴盤紹介コーナー~ルービンシュタインが弾くショパン~

2007年07月31日 | 愛聴盤紹介コーナー

先日の音楽談義”意味がなければスイングはない”の末尾で取り上げた逸話の持主、ピアニスト「ルービンシュタイン」に改めて興味が湧いた。

あのスペインの高級娼家で即席コンサートを開いたルービンシュタイン。その飾らない(?)人となりと芸術に対する資質との関連を何だか確認してみたくなったというのがその理由。

ルービンシュタインの紹介記事についてはWikipediaにこうある。

アルトゥール・ルービンシュタイン(1887~1982) ポーランド出身(ショパンと同郷)

前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカで活躍した。ショパンの専門家として有名だがブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。20世紀の代表的なピアニストの一人。(中略)

引退後、自伝「華麗なる旋律」を執筆。結婚中に数多くの女性と浮名を流し最晩年になっても愛人と同棲していた。バイセクシャルであることを隠そうともしなかった。

以上のとおりだが、こうした「へその下には人格なし」のような大ピアニストが、果たしてあの上品で優雅の極みともいえるショパンをどのように弾きこなしているのだろうか、大いに興味があるところ。

たしか彼の弾いたショパンを持っていたはずと、手持ちのCD盤の中からルービンシュタイン演奏のものを探してみたところ意外にも次の6枚が見つかった。

ルービンシュタインの弾くショパンは定評があるので、いつかは聴こうと思ってずっと以前に購入しておいて、どうやらそのままお蔵入りになっていたようだ。

ショパン    夜想曲(ノクターン)Vol.1(第1番~10番) 1965年RCAスタジオ録音
 〃      夜想曲Vol.2(第11番~19番)、同上
 〃      マズルカ(第2番~47番)、1965年、ニューヨークで録音
 〃      バラード(第1番~4番)、スケルツォ(第1番~4番)、同上
 〃      ワルツ(第1番~14番)、1963年、RCAスタジオ録音
ベートーベン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」、同4番「ト長調」、ボストン交響楽団

この中でワルツは例外的にときどき聴いており、録音状態は昔のレコードをCD盤に焼き直したものであまり良くないが、オーディオのテスト盤として、この盤のピアノがうまく鳴らないときはどこかで調整がうまくいってない判定の証として重宝している盤。

したがって、今回はこの盤を除いて残る5枚を全て試聴してみた。

久しぶりに耳をそば立てて集中して聴いたが全てが実に良かった。特に感銘を受けたのは
夜想曲(ノクターン)。甘美で感傷的な旋律を歌わせる夢想的な小品集だが
優雅の極みを通り越して幻想的でショパン独特の世界に誘われる気がした。

これらをずっと聴かないでそのまま放置しておいた時間を取り戻したいほどの名演で、比較するために今度はアルフレッド・コルトーのCD盤(全集盤)を引っ張り出して試聴してみた。

コルトー(1877~1962)はフランスの名ピアニストで1907年、パリ国立音楽院ピアノ科教授に就任しショパンの極め付きの模範的な奏者として知られている。

試聴結果だがやはりコルトーは、学者の趣を感じさせるタッチで「ショパンはこのように弾きなさい」とまるで生徒に言い聞かせるような立派な演奏。ただし、録音の悪いのが玉に瑕。

それに比べて、ルービンシュタインの方は抑制と情緒性のバランスがよくとれた演奏でそれも透き通ったピアノの音の響きが驚くほどきれい。総合的にみてルービンシュタインの方に軍配を上げたいほど。ライナーノートには意外にも録音時の真摯かつシビアな様子とともに他人に細やかな心遣いをするやさしい人柄が記載されている。

やはり、人間が持つ多面性と個有の芸術性とはひとくくりにはできないものであるとつくづく思った。実は、こういう例は音楽の世界ではルービンシュタインだけに限らない。

例えば作曲家では、あのモーツァルトは一種のふざけ屋さんで
”なーんちゃって音楽”(青柳いずみ子氏)の趣を強く持っているし、決して聖人君子でもなく、映画「アマデウス」で描かれた人間像はウソではないと思う。

また、ベートーベンの晩年は随分ケチでわからずやだったし(耳が遠くなったので無理もないが)、ドビュッシーはお金のために一緒に苦労した妻を捨てて金持ちの未亡人に走った。楽劇で知られるワグナーは友人でもある指揮者の奥さんを平気で寝取って自分の妻にした。ほかにも自分が知らないだけでおそらく一癖も二癖もある連中が実に多い。

指揮者にしても、一流として知られるべーム、クレンペラー、フルトヴェングラーなども人間的にはあまりいい評判を聞かない。

こうした実例に接すると結局のところ、芸術家といっても一人の人間に過ぎない。

作品のイメージと重ね合わせてあまねく高潔な人格を持った人物として偶像視するのはどうやらやめておいたほうがよさそうで、
むしろ、そうした血の通った人間味が作品と私たちを結び付けてくれる要素の一つかもしれないなどと思っている。   

                      

 


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