「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

バッハとモーツァルトの両立は「可能or不可能」?

2024年07月31日 | 音楽談義

月一回のペースでの受診時に、医師が「コロナが猛烈に流行っていますので気を付けた方がいいですよ」、「そうですか・・、以前と違って症状は大したことないんでしょう?」「いえいえ、そうでもないですよ・・、〇〇さんは持病があるので特に用心してくださいね」

昨日(30日)には、家内の友人からメールが来たそうで「コロナに罹りました。ようやく熱が下がりました。どうも運動ジムでもらったみたいです」とのこと。

人混みにはなるべく行かない、マスク、手洗い、うがいを忘れないようにお互いに気を付けましょうね。

閑話休題


指揮者にしろ、演奏家にしろ音楽に携わる人物の著作は非常に参考になることが多いので、図書館で見かけたら必ず借りてくることにしている。

                   

そういう中でも女性ヴァイオリニスト「千住真理子」(せんじゅ まりこ)さんは雰囲気が好きな演奏家の一人なので本書を興味深く読ませてもらった。

父が慶応大学名誉教授、母が教育評論家、長兄が日本画家、次兄が作曲家、ご本人は慶応大学哲学科卒というまるで絵に描いたようなエリート一家である。

血筋がいい人はそれだけで説得力がありそうな気がする(笑)。

本書は音楽や音響を主な題材にしたエッセイ集だったが、207頁に「バッハは自分を消さないと弾けない」との小見出しのもとに次のような記事があった。

「バッハは私の人生そのものであり、私の心の中にある聖書、神でもある。バッハは一生追い続けていくと思うのですが、バッハを弾くときというのは<お坊さんがミソギをする心境ってこんなかなと思う>そこまでいかないとバッハが弾けないと思っています。

それはどういうことかというと、<自分を表現しよう>と思ったら弾けなくなるのがバッハなのですね。<こう弾こう>と思ったら弾けなくなるし、<こういう音を出そう>と思ったら弾けない。つまり自分というものをいっさい消し去らないと、バッハは入れてくれない。バッハの世界に入れません。

要するに<無になる>ということなのですが、これは大変難しい。これこそなにかお坊さんの修行というのが必要なのかなと思ったりします。<無になったぞ>と思った瞬間は、なったぞと思ったことがもう違います。ふっと無になっていて、するとまた邪念が出てくるのですね。

<あ、次は、二楽章はこう弾こう>と思った瞬間にまた自分に戻ってしまう。<どうやって自分を捨てるか>というのがバッハとの闘いで、たぶん私は生涯バッハを弾くたびに、そうやって修行をしていくのだなと思います。それでも好きな曲がバッハですね。」

以上のとおりだが、「どうやって自分を捨てるか=無になる」というのは、文豪「夏目漱石」が理想とした境地「則天去私」(天に則り、私心を去る)に通じるものがあると思うし、自分の拙い「人生経験」を振り返ってみてもたいへん厳しいテーマだった。

たとえば、様々な人間関係をはじめとして、いろいろ思い当たる節が多いし、このブログの主題になっている「音楽&オーディオ」だってソックリ当てはまると思う。

だって、王様は音楽でありオーディオは召使いに過ぎないので、(音楽の前では)オーディオは存在感を消して「無」になってもらわないといけない。

言い換えると「スピーカーの存在を意識させない音」これが、オーディオのあるべき究極の姿だといつも思っているが、これが油断するとつい「出しゃばって」きて、いつのまにか主役に祭り上げてしまうのが我が家の大きな課題だ(笑)。

さて、何度も書くようだがこれまでいろんな作曲家の音楽を手広く聴いてきたものの、しっくりこないのがバッハの音楽である。嫌いじゃないんだけど進んで聴こうとは思わない。

「平均律クラヴィーア曲集」をはじめバッハの残した作品は、後続の作曲家達にとって常に教科書であり御手本だったという意味から「音楽の父」とも称されるバッハ。

バッハが自分のレパートリーに入ると音楽人生がもっと豊かになるのは確実なので、これまで世評高き「マタイ受難曲」をはじめ、「ロ短調ミサ」などに挑戦してみたが、その都度「お前は縁なき衆生(しゅじょう)だ!」とばかりに軽く場外へはじき出されてしまう(笑)。

「いきなり高い山を目指すのでなくて、手頃な山から始めたらどう」という「ありがたいアドバイス」を読者からいただいたこともある。

そういう自分に最後のチャンスが巡ってきた。同じ千住さんが書かれた新聞記事にこういうのが載っていた。                       

          

バッハの「シャコンヌ」の素晴らしさに言及しつつ、「4分半を過ぎたあたり、小さい音で音階を揺らしながら奏でるアルペジオの部分。涙の音が現れます。~中略~。

巨匠といわれる演奏家のCDをひととおり聴きましたが1967年に録音されたシェリングの演奏が別格です。完璧で心が入っていて、宇宙規模でもあり・・・。すべて表現できている。<神様>ですね。」

う~む、ヘンリク・シェリング恐るべし!

幸いなことに、シェリングが弾いた「シャコンヌ」を持ってるんですよねえ(笑)。
                  

もういつ頃聴いたのかはるか忘却の彼方にあるCDだが、バッハの音楽に溶け込める最後のチャンスとばかり、この程じっくり耳を傾けてみた。

「涙の音」が聴こえてくればしめたもので、ひとつのきっかけになってくれればありがたい。

だが、しかし・・・。

真剣になって耳を澄ましたものの、この名演からでさえも「涙の音」どころか、そのかけらさえも感じ取れなかった、無念!

やっぱりバッハは鬼門で、そもそもバッハとモーツァルトの両立は難しいのかもしれない・・、に思い至った。

バッハを愛好する人でオペラ「魔笛」が死ぬほど好きという方はこれまでお目にかかったこともないし聞いたこともない・・、つまりこれは理屈以前の問題として秘かに自分の胸に収めておきましょうかね~(笑)。



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目の覚めるような快音に猛暑が吹き飛んでいく~

2024年07月30日 | オーディオ談義

28日(日)のこと、「そろそろこのスピーカーを移動してもらいたいんだけど・・」と、掃除中のカミさんが険しい顔をしながらキツイ申し入れをしてきた。

「ああ、わかった・・」、こういう時は徒に抵抗しない方がいい(笑)。

いつも遠路からお客さんが見えるたびに、それほど広くもないオーディオ・ルーム(6m×7m)から、あまり使わないスピーカーを隣の部屋(客間)に移動させているが、そのときの言い草は「お客さんが帰られたらすぐに元に戻すからな~」

それからおよそ2か月余り、これ幸いとばかり知らん顔していたら、とうとう堪忍袋の緒が切れたというわけ。

つい先日、SPユニットを前にして「これをどう討ち取るか・・」に関して「オーディオは闘争だ」と投稿したが、我が家の場合はオーディオは機器ばかりではなくて、カミさんとの闘争の歴史でもありますな(笑)。

忘れもしない「ウェストミンスター」を無断で購入した時は、1週間余り口を聞いてもらえなかった・・、もう30年ぐらいも前の話。

で、再度オーディオルームに戻したのがグッドマン「TRIAXIOM」(口径30cm:同軸3ウェイ)である。自作の箱(板厚1.5cm)に収めている。

せっかく復帰してきたのだから歓迎してやらねば・・、
もちろんフルレンジで聴くのが正統派のやり方だが、我が家は「何でもあり」なので、サブウーファー(100ヘルツ以下)として使ってみた。



茶色系のコーン紙はいかにも目方が軽そうで反応が早そう・・、これまで期待を裏切られたことはない。スピード感のある切れ味のいい低音が出てくれるはず~。

箱の上に載せているのは言わずと知れた「AXIOM80」(復刻版)で、木製の植木鉢に容れているが後ろ側の空いたスペースに「吸音材」として「羽毛」を詰め込んでいるせいか、あまり音色に違和感を感じない。

「AXIOM80」を ふっくら と鳴らすのが理想的だと思っているがかなり近付いているはずと、自画自賛。

他家のアラはすぐに気が付くんだけど、自宅の場合はどうしても甘くなる傾向があるのは自覚しているんだけどね~(笑)。

で、肝心の音の方だが・・、駆動するアンプにはメチャ苦労した。

箱に入ってない「AXIOM80」には、やはりゆったりとした大人(たいじん)の趣を持ったアンプが相応しい。

というわけで、やや神経質な「シングルアンプ」はすべてアウトで、「371Aプッシュプル」がベストだった。



一般的に「パワー感はあるけど繊細な再生は苦手」とされているのが「プッシュプル・アンプ」だが、〇〇と鋏は使いようかなあ~(笑)。

そして次の難題は「TRIAXIOM」(100ヘルツ以下)にどのアンプを充てるかだが、以外にも良かったのが「TRアンプ」だった!



仲間から4台ほど借りてきてテストを繰り返してようやく1台だけ残したのがこのアンプだが、TRアンプにしてはひときわ出来がいい気がする。

いくらコーン紙が軽いとは口径30cmのユニットを駆動するのにはかなりのパワーが要るんでしょう・・、屈託のない軽やかな低音が実に気持ちがいい。

目の覚めるような「快音」に、真夏の猛暑が吹き飛んでいく思いがしましたぞ‥(笑)。



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暑い、暑い・・、読書三昧

2024年07月29日 | 読書コーナー

今年の夏は近年にない猛暑が続いているような気がする・・、外に出かけるのも億劫なのであとはお決まりの「オーディオ弄り」か「読書」に落ち着く。



図書館の新刊コーナーで本書を見かけたときに、中学時代の同級生に「日下部」(クサカベ)君という野球のうまい子がいたことを思い出した。

そういえば「日下」をなぜ「クサカ」と呼ぶんだろう?

訓読みとか音読みとかは無縁の話で、どう考えても「日下=クサカ」とは読めない。

本書の著者によると、茨城県を中心としたエリアに「草」という地名が異常に多いことに気付く。現地に出かけて「道の駅」のトイレの通路の壁の掲示板に現地の方言として「コサ(日陰地」という言葉が紹介してあった。

「私はこれを目にした瞬間、数十年来の疑問が解けたと思った。コサとクサは音がごく近い。地名に付く草とはコサ(日陰地)のことにほかなるまいと直感した。」

そこを出発点にして「日は二日(ふつか)、三日(みっか)というときのカ、それがクに変わる。下はサガルそれがサカとなり、結局「日下=クサカ」となるのだ。」へ辿り着くという次第。

ほかにも

「鳥居のトリとは境のことである」、「卑弥呼のような女性のことを大市(おおいち)といった」、「国は山に囲まれた土地のことだった」、「山中と中山は同じか、違うか」、「ツマ(妻)の原義は「そば」「へり」である」、「アオ、イヤは葬地を指す言葉であった」、「賽(さい)の河原とはどんなところか」

と、興味のある地名の由来が満載だった。関心を持たれた方はご一読を~。



オーディオ愛好家の中で「寺島靖国」さんを知らない方は「もぐり」と言っていいかもしれないですね。

その寺島さんも御年「84歳」(2024年現在)になられたようで、「オーディオ愛好家は長生きする」の見本のような存在になって欲しい気がする~(笑)。

中身の方は相変わらずオーディオに熱心に勤しんでおられるご様子だが、やはり寄る年波には抗えず、不眠症など体の不調に対する健康対策がかなり盛り込まれている。

本書は、2023年の7月号で惜しくも休刊した「レコード芸術」に5年7か月にわたって連載された原稿を1冊にまとめたもので、その折のタイトルは「クラシックファンのための音のいいJAZZ CD」。

ちなみに、クラシック音楽の退潮は「レコード芸術」の休刊に象徴されると当時思っていたけど、もう歯止めがかからないのじゃないかな~。

「IT」などの「スピード重視」の時代に「悠長なクラシックなんて・・」と敬遠される一方だろう。時代に合わないといえばそれまでだが、実に惜しいこと・・、ただし「いい知恵」は浮かばないけどね(笑)。

本書の46頁に興味のある事柄が記載されていた。

「オーディオはケーブル選びに始まり、ケーブル選びに終わる。これ私の座右の銘です」。アハハ、そう来ましたか。

レベルが高いシステムほどケーブルによる音の変化が「わかりやすい」のも事実である。

おいらも一時ケーブル選びに嵌ったことがあるが、現在は勝手に自分宛てへの卒業証書を発行している。ほら、静岡県の「T」さんに作ってもらった「LANケーブル」・・、何といってもお値段がリーズナブルだし、性能にもまったく不満はない。

ときどきメールをいただく方々の中で「LANケーブルにして良かった!」という方がいらっしゃるぐらいだから、これからも同好の士の中で深く静かに浸透していくことだろう。「T」さん、お忙しくなるだろうけどゴメンね・・(笑)。

最後はこの本。



表紙の裏にこういうことが書かれてあった。

「コカ・コーラとコカイン、フォードとヒトラー、シャネルとナチス・・、あなたの身近にある、世界を代表する9つの有名ブランドの誕生と成長に隠されたその黒い歴史とは。創始者たちの偉大な業績の陰にあった知られざる物語が次々と明らかに」

ざっと、ひととおり目を通してみたが、会社の繫栄と個人の幸福とはあまり関係がないみたいで、いくら栄華を極めてみても、自由な時間に恵まれて好きな趣味に没頭できることに優るものはないという気がしてきましたぞ(笑)。

象徴的な物語が「ウィンチェスター~幽霊への発砲~」だった。

その昔「ウィンチェスター銃”73」(1950年製作)という映画があった。主演は大好きな俳優「ジェイムス・スチュアート」で、何万丁もの銃が製作される中でたまたま命中率が極めて高い銃が出来る、それが1873という番号が付けられたライフル銃。

その名銃が賞品となった大会で、スチュアートが見事に勝ち抜く。その選抜方法がふるっていて、空中に高くトスした硬貨を銃弾で打ち抜くというもの。スチュアートはその硬貨のど真ん中の部分に貼ってあった切手を見事に打ち抜くのだからまさに「神業」だった。

ブログ主が幼少の頃だったが、いまだに鮮明に記憶に残っているくらいだから、よほど強烈な印象だったのだろう。

それはさておき、本書の中のウィンチェスター銃にまつわる話も、巨万の富を築きながらも悲しくて哀れな結末で終わる。

本書には、全編を通して「人間の幸福っていったい何だろう・・」、という問いかけが通奏低音のように流れている気がする。



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オーディオは闘争だ

2024年07月28日 | オーディオ談義

幕末の英雄「坂本龍馬」は、初対面の人間と会ったときに「こ奴を討ち取るとしたらどういう方法がよかろうか」と、常に考えたという。

はじめから「闘争心」剥き出しですね・・、その気概や良し!

で、我が家のオーディオだって、はじめてSPユニットに向き合ったときに、「こ奴を上手く鳴らすとしたらどういう方法がよかろうか」・・(笑)。

一例を挙げてみよう。



数年前にオークションで落札したワーフェデール(英国)の口径25cmのユニット「スーパー10(インチ)」(フルレンジ)。

「赤帯マグネットに駄作無し」の「まことしやかな言い伝え」がある代物が格安で手に入ったのだから、胸が躍動したのは言うまでもない。

それから(数年間にわたる)紆余曲折があって、今ではこういう有様へ。



ほぼ完成形かな~。

で、討ち取るための工夫の数々を 得々 と述べてみよう(笑)。

 たまたま4か所のネジ位置がピッタリ合った木製の植木鉢に収めてみた。これをそのままSPボックスに容れると箱の容積が拡大して有効利用ができるし、ユニットの背圧への(箱の内部からの)影響も少なくなるはず・・、それに、前面のバッフルへの音の乱反射も防止できるので、いいことづくめ~。

 このユニットはフルレンジだけど少し高音域の透明感が足りない気がする・・、そこでデッカ(英国)の「リボン・ツィーター」(以下「リボン」)を加えてみた。

 「位相」を一致させるために両者の振動版の位置を合わせる必要がある。そこで、箱の上に板をネジ止めして庇(ひさし)を作り、その上に「リボン」を載せた。

 大切なネットワークだが「ス-パー10」を8000ヘルツでハイカットし、リボンの方は7000ヘルツでローカットした。

 強力なマグネットは低音が出にくい傾向があるので、サブウーファーとして「AXIOM150マークⅡ」(植木鉢入り)を使い、これを「100ヘルツ」でハイカット。

 音質の自由度を確保するために2台のDAコンバーター、2台のプリアンプ、3台のパワーアンプを駆使した。

という流れだが、最後の6が焦点ですぞ!

以下、詳述しよう(笑)。

まずは、低能率の「リボン」を鳴らすために、初めに「TRアンプ」を使ってみたが、悪くはないんだけど音色がイマイチかなあ・・。そこで、真空管アンプ「LS7シングル」に入れ替えたところ、見事にバッチリ。

「PL100」(負荷インピーダンス=4Ω)のときは「TRアンプ」が功を奏したのだが、このリボンは負荷インピーダンスが「8オーム」なのでそれが大いにモノをいった。

ほら、オームの法則「電圧=電流×抵抗」によると、家庭の電圧は100Vと一定だから「4Ω」のときと「8Ω」では、アンプの負担(電流)が1/2になるんだからね~・・、ちょっと「くど過ぎる」かな(笑)。

したがって、アンプの構成は次の通りとなった。(後日のために記載しておこう)

 リボン → DAC「フェーズメーション」 → プリアンプ「E80CC」 → パワーアンプ「LS7シングル」



☆ 「スーパー10」 → DAC「D2R」 → プリアンプ「安井式」(改) → パワーアンプ「WE300Bシングル」

 「サブウーファー」 → DAC「D2R」 → プリアンプ「安井式」(改)→ パワーアンプ「TRアンプ」

自己採点だけど「90点」は付けてもいいかな・・、実に非のうちどころが無いサウンドである。

以上、自画自賛に終始したけど、まったく気分爽快・・、連日の猛暑の中で「役得」としてこれくらいの我儘は許してもらってもいいだろう~(笑)。



 
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音楽界における「いじめ」

2024年07月27日 | 独り言

「このハゲ~ェ~」    「違うだろーーーっ」。

7年前にテレビ音声から流れ出たこの罵声が日本列島を震撼させたのをご記憶だろうか。

当時の「T」衆院議員(女性)が車中で運転中の私設秘書を怒鳴りつけ、殴打する音までもが録音されていたのだから誰もが驚いた。いやしくも国民の代表である国会議員がこの有様だ。

しかも彼女の学歴が「桜蔭高校」(女子の名門高)~東京大学法学部~ハーバード大学院という華麗なものだったからいっそう拍車をかけた。

それ以降、選挙の候補者を推薦するために立派な学歴を紹介しても「その方は学歴はいいんでしょうけど、人格的に大丈夫なんですか?」という風潮が広まったのは間違いない。

個人的には、これは「学歴神話の崩壊」だと思っている。「学歴だけで人を判断する」ことへの社会的警鐘として、以降も語り継がれていくに違いない。

ただし、政治の世界に限らず「いじめ」は大なり小なりどんな世界にもあるようだ。

日本人として初めてウィーン・フィルハーモニーを指揮した
岩城宏之さん(1932~2006)の著作に「いじめの風景」(朝日新聞社刊)
というのがある。


一言でいえば「指揮者には音楽以外にも管理能力というものが要る
」という話だがまずは、
「叱り方の難しさ」。

一般的に中高年になって管理職になると部下の叱り方は誰もが当面する課題で、ことさらに意識しないで自然体に任せるのが一番いいのだがこれがまた結構難しい。

しょっちゅう叱ってもただの口やかましいオッサンになるし、それかといって逆に遠慮して叱らないでおくと”なめられて”しまう。

それに叱り方もいろいろあって、ある種の人間性が問われるところがあり、「叱り方=管理能力」という一面がたしかにあるのは間違いない。

ところが、音楽の世界でも「指揮者=管理職」、「オーケストラ楽員=部下」という構図の中で会社や役所とそっくり同じことが繰り返されているというのだから驚く。

☆ 指揮者の叱り方の実例

楽員のちょっとしたミスを指摘し、それを直し、あるいは自分の解釈に従って演奏者の演奏法を変えさせるのは指揮者の大切な役割で、練習ではいつもやっていることだが、これがときには「いじめ」と紙一重になる。

誰もが大人数の中で一人だけミスを指摘されて注意されるのは快くないが、あえてそれをするのが指揮者の仕事。問題はそのやり方で往年の名指揮者トスカニーニとカラヤンが実例として挙げられている。

トスカニーニの叱り方

全員の前でよく注意し、怒り、ときによっては出て行けと怒鳴ったそうで、クビにされた楽員がのちに演奏会の楽屋に爆弾を仕掛けたという話も伝わっている。

何回も注意をしたあとに、しまいには癇癪を爆発させて「アウト!」と叫ぶと、その途端にその楽員がクビになったという。

現在は世界中でオーケストラのユニオンが発達してそういうことはありえないが、指揮者にとって古きよき時代といえども、トスカニーニのワンマン、独裁力は抜きん出ていた。それでも、彼が指揮する音楽が素晴らしかったから許されていた。

カラヤンの叱り方

非常に民主的にその人を傷つけないやり方がカラヤンだった。たとえば、練習で第二ホルンの音程が悪いとすると、パッとオーケストラを止(と)めてヴァイオリンのほうに向かって自分の解釈を伝えてこうしてくれと注文する。そうしながら、ホルンの第一奏者に向かって目配せをするのだそうだ。

こうしてオーケストラの誰にでも個人的に皆の前で恥をかかせることはしなかったので、非常に働きやすく楽員から凄く人気があった。帝王として君臨したカラヤンの背景にはこうした楽員への心配りがあった。

☆ 若い指揮者へのいじめ

同じ人間同士に生まれていながら、片方は指揮者、片方は楽員で、楽員にとってどんなときでも指揮者の一挙一動に注目し従わなければならないというのは本来面白くないはず。

だから指揮者がちょっとした統率上の油断をしたり、音楽的に納得できないことが続くと当然反発する。

その反発は指揮者とオーケストラの力関係によって種類が変わってくるが指揮者が大変若くて新人の場合は集団での”いじめ”になることが多い。

職業上のいびりは学校のいじめと違って可愛げがなく、指揮者という職業をあきらめる新人が後を絶たないという。

いじめの実例 1

ある若い指揮者が日本のあるオーケストラを指揮したところ、練習中いろいろと難癖をつけられた。約百人対一人だし、若い指揮者の欠点というのは無数にある。

どんなことでもケチがつけられる。しまいには練習中にその指揮者はボロボロ涙を流して泣きながら最後を終えたそうである。

後日、岩城さんはその指揮者を呼び出してこう注意した。

「オーケストラの前で涙を流すヤツがあるか。どんなに悔しくても、悔しい顔を見せるな。泣き顔を見せたら、オーケストラは面白がって、ますます君の言うことを聞かなくなる。尊敬しなくなる、軽蔑する。それだけだ。泣きたいなら練習が終わって、一人で部屋で泣けばいい」

いじめの実例 2

今度は別のオーケストラの話で、例によってある若い指揮者をさんざんいびったところ、その指揮者は気が強くて、しまいには腹を立て、棒を叩き折って投げつけて出てきてしまい、音楽会をキャンセルした。

逆にいびったほうのオーケストラは非常に感心した。見所のあるやつだ、おもしろい。この指揮者はそのオーケストラにその後もよく指揮を依頼されたということだった。

以上のとおりだが、オーケストラといえば「芸術の創造」という高邁な理念のもとに
俗世間を超越した存在かと思っていたが所詮は人間の集まりで、「いじめ」や「管理能力」なんて陳腐なものが横行しているとはちょっとガッカリ

しかし、政治家なんかよりはまだマシかな~(笑)。


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色男 金と力は なかりけり

2024年07月26日 | 読書コーナー

「経済学的思考のセンス」(中公新書刊)いう本がある。

                  

著者は大竹文雄氏(大阪大学社会経済研究所教授)だが、序文の終わりに「身近に
ある”さまざまな格差”を経済学で考えてみることで、経済学的思考のセンスを体得していただければ幸い」だとある。 

さて、その身近にある格差にもいろんなものがあるが、日常で一番意識に上るのは「所得の格差」、つまり「お金持ちか、貧乏人か」という区別だろう。

ただ、これは運、不運もたしかにあるが個人の「才能」や「心がけ」、「努力」などもまったく無視するわけにもいかず、多分に因果応報の面もあって
「まあ、しょうがないか」と思うこと無しとしない。

ところが、人間の努力とは一切関係がない単なる生まれついての
「容姿」
による格差がどの程度人生に得失を生じさせるかというのは不条理な面があってなかなか興味深いテーマである。

ということで、本書の14頁に次の小節があった。

☆ 美男美女は本当に得か?」

これの正確な解答を得るためには、昔「美男美女」だった該当者に人生の終末になって、「あなたは美男美女だったおかげで人生を得したと思いますか?」と沢山のアンケートをとって、集計するのがいちばんだろうが、本書では経済学的な視点から
労働市場において「いい就職機会を得るのか」、「より高い賃金を受け取るのか」、「昇進が早いのか」といったことに焦点を絞って考察している。

以下、要約してみると、

残念なことに「美男美女は得か」の
実証研究は日本ではまだなされていないが、
アメリカではこのテーマでの事例がある。(テキサス大学ハマメシュ教授)

それによると「美男美女」は「不器量」な人よりも高い賃金を得ていることが明らかになっており、さらに重役の美男美女度が高いほど企業の実績がいいとあって、むしろ業績がいいからその会社に美男美女の重役がいるという逆の因果関係も確認されている。

ここで一つの疑問が出される
「美人」の定義
である。

「たで食う虫も好き好き」という言葉にもあるように、人によって美の尺度はさまざまなのでそのような主観的なものが、厳密な実証分析に耐えられるものだろうかということと、さらに、そもそも
「美人の経済学的研究」意味があることなのだろうか、ということなのだが、実際には、

 美人が労働市場で得をしているかどうか


〇 得をしているとしたらどういう理由なのか

この2点を明らかにすることは「労働経済学的」にきわめて重要なことだという。

なぜなら、公平かつ機会均等の観点から、生まれつきの容姿の差による所得格差を解消するとしたら、ハーバード大学のバロー教授が提案する「美男美女に税金を課す」「不器量な人間に補助金を交付する」が経済学的に正しい政策となるからだ。

つまり、美男美女は努力なしに生まれつき得をしているので税金を納める必要があるし、不器量な人はもらった補助金で「リクルート整形」をするのも自由だし、うっぷん晴らしに娯楽に使うのも自由となることで社会的な調和が保てるというわけ。

ただし、これは具体的な手段が難しい。たとえば自己申告制にした場合
「美男美女税」「不器量補助金」の申請者数がどの程度になるのか皆目分からないのが難点。「美男美女税負担者証明書」を発行することにすれば大幅税収アップを見込めるかもしれない

かいつまむと以上のような内容で、バロー教授が提案する「美男美女税」には思わず笑ってしまったが、結局「美男美女はほんとうに得なのか?」
正しい考察には経済学的視点以外にも遺伝学、社会学、哲学、心理学、芸術などいろんな分野を総動員することが必要ではないかという気がする。

たとえば、ベートーヴェンは醜男だったそうで生涯にわたって女性にまったくモテずずっと独身を通して子供もいなかったが、それが逆にエネルギーとなって内面的に深~い進化を遂げ、跡継ぎになる子供の存在なんかとは比較にならない程の偉大な作品を次々に後世に遺していった。

現代のクラシック音楽界は彼の作品抜きには考えられないので、ベートーヴェンがもし美男だったとしたら私たちは音楽芸術を今のようには享受できなかったかもしれず、音楽産業にしても随分と縮小したことだろう。これは人類にとって大きな損失ではなかろうか。

また、鎌倉時代の古典「徒然草」(兼好法師)では「素性とか容貌は生まれついてのものだからしようがないけれど、それ以上に大切なのは賢いことであって、学才がないとかえって素性の劣った憎々しい顔の人にやり込められる」という「段」がある。

というわけで、このテーマは大上段に振りかぶってはみたものの「外見よりも内面が大切」という「ありきたりの結論」で終わりにするのが無難のようだ。

アッ、いちばん最後になって「色男 金と力は なかりけり」いう言葉を思い出した! これでまずは ひと安心(笑)。



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禁断の封じ手

2024年07月25日 | オーディオ談義

昨日(24日)起きたときの温度は28℃。日中はともかく夜はエアコンを使わない主義なので、海(別府湾)側からの微風を期待して窓全開(2階)の結果だが、ときどき30℃を超えたりすることがあったりしてちょっと寝苦しさを感じるときがある~。

で、肝心の「睡眠」の方だが7時間ほどぐっすり眠ったりするときがあるかと思えば、5時間程度で目が覚めて、後はうつらうつらのときがあったりして日によってバラバラでどうもうまくコントロールできない。

睡眠不足のときは、身体中のあらゆるセンサーが鈍くなっているので「オーデイオ機器を弄らない」が、我が家のモットーだが、昨日は珍しく8時間睡眠だったので気分爽快~(笑)。

そこで懸案だった事項にようやく取り組む気になった。

これまで何回も題材にしているように大型スピーカーを聴いているうちに、次第に小型スピーカーへの回帰(郷愁)が起こるという循環が(我が家では)起きている。

で、その小型スピーカーだが2年半ほど前に購入したものの、どうもうまく鳴らせない状態が続いており、あれこれやってみるのだが当座はよくても次第に違和感を感じてくる。

10日前のブログ(7月16日付)でもこう記していたのをご記憶だろうか。

「この小型スピーカー+サブウーファーを3台の真空管アンプで鳴らしながら1週間ほど聴いてみたのだが、そのうち悪くはないんだけどうも食い足りなくなる・・、何だか無理して音を出している印象を受けてしまう。もっと自然な響きが出せないものか~。」

というわけで、どうも気になって「枕を高くして寝れない」なあ~(笑)。

その小型スピーカーというのがこれ。



「PL100」(英国モニター・オーディオ)だけど、「負荷インピーダンス4Ω」「能率88db」という代物で、完全に高出力の「TRアンプ」向きなので真空管アンプには不向き・・、それは当初からわかっていたんだけどね~。

なぜ購入したかといえば・・、当時、知人のお宅で聴かせてもらった「小型スピーカー」の魅力(シャープな音像など)にすっかり嵌ってしまい、真空管アンプでも鳴らせるだろうと取り急ぎ購入したもの。

しかし、見通しが甘かった・・、真空管式のシングル・アンプで無理なら高出力のプッシュプル・アンプならいいだろうと鳴らしてみたところ、音の粒子が粗くなる印象を受けてこれもアウト。

で、とうとう思いあまって「禁断の封じ手」を講じることにした。

「封じ手」とは「使うことを禁止されているわざ」(広辞苑)

つまり、我が家ではご法度とされている「TRアンプ」の登場である。

低音域部分の使用は大目に見るとしても、中高音域の豊かな倍音成分には「絶対に真空管アンプを使う」のは、我が家のレーゾン・デートルなんだから~。

しかし「パワー」の前には背に腹は代えられない・・、幸い、半年ほど前に仲間から借りて来て低音専用にちょくちょく使っている「TRアンプ」がある。



最初に、口径10cmほどのユニット(~2800ヘルツ)に使ってみたが、あまり変わり映えがしない・・、そこで「リボン・ツィーター」(2800ヘルツ~)に使ってみたところ、何とアッと驚くほどの変わり様・・。

これは素晴らしい・・、音の鮮度が一気に向上して華やかさが音響空間を包み込んだ! リボン・ツィーターの魅力全開である。

とりわけ「管楽器」が素敵で、「You Tube」の「アッカー・ビルク」(英国)の「クラリネット」なんか最高!

とても渋くて人生の深い憂愁を感じさせるクラリネットの豊かな響きにウットリ~、管楽器はやはり肺活量の豊かな外国人向きのような気がする。是非ご一聴を、と自信を持ってお薦めしたい奏者である。

それはさておき「TRアンプ」の意外な活躍に、これは参ったなあ・・、複雑な心境である(笑)。

スピーカーにとっていちばん必要なのはアンプの「パワー」なのかもしれないなあ・・、「今さら気付いたか!もう遅いぞ」という声が外野席から聞こえてきそう、アハハ~(笑)。

あっ、そうそう「リボン・ツィーター」ならたしか「デッカ」も持ってたよなあ~、急いで倉庫から引っ張り出してきた。これも能率が低くて真空管アンプには向かない。



このリボン・ツィーターをTRアンプで鳴らしたらどうなんだろう・・。

なんだか真夏の暑さなんか吹き飛びそうな気がしてきましたぞ~(笑)。



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タフな人間に向いた作品

2024年07月24日 | 音楽談義

ずっと昔に投稿したブログ「五味康祐」さんのクラシックベスト20」だが、現在でも記事へのアクセスがちらほら垣間見える。

この稀代の音楽愛好家に対していまだに関心があることが興味深いが、このベスト20にはバッハの作品がやたらに多いことにお気づきだろうか。


たとえば「平均率クラヴィーア曲集」をはじめ「無伴奏チェロソナタ」「3つのピアノのためのコンツェルト」「パルティータ」などがそうで、しかも大半が上位に食い込んでいる。(ちなみに第1位はオペラ「魔笛」である! 五味さんの耳を信用する第一の理由である)

実を言うと、クラシック歴およそ60年以上になろうかというのにバッハの音楽にはいまだに馴染めないままでいる。モーツァルトやベートーヴェンの音楽はスッと胸に入ってくるのに、バッハだけは手こずっているというか、もう縁がないととうの昔に諦めの境地に入っている。

自分だけかもしれないがバッハの音楽には同じクラシックの中でも孤高というのか、ひときわ高い山を感じる。したがって「バッハが好きです」という音楽愛好家には「この人は本物だ!」と始めから一目も二目も置いてしまう(笑)。

こう書いてきて何の脈絡もなしにふっと思ったのが、「バッハ」と「ドストエフスキー」は似たような存在ではなかろうか。

片や音楽界の雄、片や文学界の雄である。


ドストエフスキーの文学も容易に人を寄せ付けない。「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」「悪霊」などやたらに長編だし、とっかかるだけでも億劫さが先に立つ。

両者ともにその分野で絶対的な存在感を誇り、何回もの試聴、精読に耐えうる内容とともに、後世に与えた影響も測り知れない。

バッハは周知のとおり「音楽の父」と称されているし、ドストエフスキーに至っては「20世紀以降の文学はすべてドストエフスキーの肩に乗っている」(「加賀乙彦」氏)と称されているほどだし、「世の中には二種類の人間がいます。カラマーゾフの兄弟を読んだことのある人と読んだことのない人です。」と、宣うたのは「村上春樹」さんだ。

ただし、ドストエフスキーはその気になれば何とか付いていけそうな気もするが、バッハだけはどうも苦手意識が先に立つ。つまり理屈を抜きにして「線香臭い」のがそもそも嫌っ!(笑)。


こういう ”ややっこしい” バッハの音楽についてモーツァルトの音楽と比較することで分かりやすく解説してくれた本がある。

                

著者の磯山雅氏(1946~)はバッハ研究を第一とし、モーツァルトの音楽を愛される学識経験者。

本書の第9章
「モーツァルトとバッハ」で、イメージ的な私見とわざわざことわった上で両者の音楽の本質的な違いについて、独自の考察が展開されている。

以下、要約。

 モーツァルトのダンディズム

バッハは真面目かつ常に正攻法で誠実に問題に対処する。一方、モーツァルトは深刻さが嫌いで茶化すのが大好き。

いわば問題をシリアスに捉えてはいるのだがそう見られるのを好まないダンディズムがある。

※ 私見だが、モーツァルトの音楽にはひとしきり悲しげでシリアスな旋律が続いたと思ったら突然転調して軽快な音楽に変化することが度々あって、たしかピアニストの「青柳いずみ子」さんだったか「な~んちゃって音楽」と言ってたのを思い出す。ただしオペラは例外~。

 神と対峙するバッハ

バッハの音楽には厳然たる存在の神が確立されており、音楽を通じて問いかけ、呼びかけ、懺悔し、帰依している。「マタイ受難曲」には神の慈愛が流れ出てくるような錯覚を抱く。

モーツァルトにはこうした形での神の観念が確立していない。その音楽の本質は飛翔であり、疾走である。神的というより霊的と呼んだ方がよく、善の霊、悪の霊が倫理的規範を超えて戯れ迅速に入れ替わるのがモーツァルトの世界。

以上、「ごもっとも!」という以外の言葉を持ち合わせないほどの的確なご指摘だと思うが、バッハの音楽はどちらかといえば精神的に ”タフ” な人向きといえそうで、これはドストエフスキーの文学にしてもしかり。

道理で、両者ともに自分のような ”ヤワ” な人間を簡単に受け付けてくれないはずだとイヤでも納得させられてしまいました(笑)。



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日常生活の「恐怖の的」

2024年07月23日 | 独り言

音楽&オーディオ愛好家にとって耳の機能が衰えるというのはもう言わずもがなだが ”恐怖の的” である。とにかく「音がいいとか悪い」とか以前の問題として、音が聴こえてこなければ音楽の楽しみようがない。 

したがって経年劣化は仕方なく受け入れるとしても、努力のしがいがあってせめて耳の機能を今のまま維持できればというのが現時点での最上の願いである。

先日のNHKテレビによると、難聴になる一番の原因は「耳は臓器の一部であり血流による栄養補給が疎外されること」だとされていた。

その要旨を再現してみると・・、
 

☆ 音が聞える仕組み

人間の耳の奥にある蝸牛(かぎゅう)という器官に有毛細胞が並んでおり、入り口に近い有毛細胞が高音を感じ、奥の方にある有毛細胞が低音を感知して振動し脳に伝えて音として認識される。

加齢とともに高音が聞きづらくなるのは入り口に近い有毛細胞が高音も低音も感知して振動するので傷みやすいというのが定説。

☆ 先入観による「音韻修復」
 

男女10人による混声合唱団に対して実験が行われる。いずれも日頃音楽に親しみ耳に自信のある方ばかり。実験の内容はノイズをずっと聞かせて、その中に「さくら、さくら」のメロディが隠されておりそれを聞き分けることが出来た人が何人いるかというもの。

その結果、10人中8人がメロディが聞えたと手を挙げたがこれが大間違い。実はメロディは何ら含まれておらずタダの雑音ばかりで結局、聞えた8人というのは「気のせい」だった。

これはオーディオでもよくある話。

たとえば他家で、お値段が一桁違う高級なオーディオ装置の前に座らされ、見た目の豪華さも手伝っていかにも「いい音」を聴いた感じになるのだが、実は左右スピーカーのプラス・マイナスの結線が間違っていたり、ツィーターの片方が鳴っていなかったりすることはままある話で、いかに先入観が人間の聴覚を誤魔化すかという好例だ(笑)。

☆ 難聴のリスク要因とは?

1 加  齢 → 1.6倍  2 高脂血症 →  1.9倍  3 糖尿病 → 3.7倍  4 腎臓病 → 5.9倍

科学的な根拠として有毛細胞の根元に並んでいる「ダンス」細胞に正常な血液によってきちんと栄養補給がなされていないことが難聴につながる大きなリスク要因であるという。

結局、
難聴予防の王道とは日頃の生活習慣において極めて地道な「腹八分」「継続的な有酸素運動」に優る対策はないという次第。

以上の「年寄じみた話」は若い人には縁のない話だが、どのみちいずれは遭遇するわけだから今からでも予防するに越したことはありませんからね~(笑)。



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買い物は他人の好みで

2024年07月22日 | 独り言

お読みになった方も多いと思うが、先日の読売新聞の紙面に次のような記事があった。

      

「ジョン・メイナード・ケインズ」(英国:1883~1946)といえば「ケインズ学派」を成したほどのマクロ経済学を象徴する「巨人」だが、株式投資に当たって当時「美人投票」という説を唱えていた。

「自分が最も優れていると考える企業の株ではなく、他人から最も人気を集めそうな企業の株を推し量り、勝馬に乗るのが有効だとする考え方。当時、英国の新聞紙面上で行われていた美人コンテストにたとえた。」

これには次のように分かりやすい実例があげられている。

小見出しは「買い物 他人の好みで」

「良いブランドだから、他の人も欲しいと思うはず。東京・銀座で都内に住む女性が価格を気にするそぶりを見せずに約2万円のパンツを買った。

何度か着て飽きたらフリーマーケットアプリでの転売を考えているという。自分がほんとうに欲しい服より、後で売ることを見越して中古市場で売れやすい服を買う人が増えている~三菱総合研究所~」

とのこと。

そういえば、クルマを購入するときだってそうですね。たとえば「色」だが、「ホワイトやブラック以外のクルマだと、下取りするときの価格が落ちますよ」と販売員さんからアドバイスを受けたことが何度もある。そういうわけでもないが、これまで乗り継いできた車はいずれもホワイト一色(笑)。

さて、これを前置きにしていつものようにオーディオの話に移ろう。

我が家のケースだが、オークションで大いに惹かれた機器を落札するときに、万一ハズれた場合でも中古市場で高値がつきそうかどうかをまったく考慮しないと言ったら嘘になりますな~。

以前のブログ「オークションの不思議な法則」でも述べたとおり、転売したときは不思議にほぼ手取りが4割落ちの価格になるので、結局「楽しみ賃が4割だった」との話をご記憶だろうか。

たとえば、10万円で落札した機器をしばらく楽しんでから飽きがきて再度オークションに出すと6万円で落札されるので、差額の4万円が楽しみ賃というわけ。


つまり、冒頭の話のような例が実際に自分にもあるわけだが、もちろん基本的には「ほんとうに欲しい」が先行し、それに付随して市場価値が高ければ「言うことなし」というわけで、現実としておそらく皆様もそうだと思う。

そこで、ふと思ったのが「はたしてオーディオ機器の実力がきちんとオークション(中古市場)の相場に反映されているのかどうか」、これは実に興味深いテーマだと思いませんか?(笑)

結論から言えば、オークション市場は流石に「生き馬の目を抜く世界」とみえて、ほぼ正確に機器の実力と相場が拮抗しているように思える。

たとえば、先日の事例としてタンノイの「モニター・シルバー」(口径30センチ)がオークションに出品されていた。

  

タンノイのユニットは周知のとおりマグネットの部分の色によって「ブラック」→「シルヴァー」→「レッド」→ 「ゴールド」 →「HPD」・・と変遷していくが、巷の噂によると音質もこの順番に沿っているとされている。

実際に福岡市のSさん宅でコーナーヨークに入った「シルヴァー」(口径38センチ)を以前聴かせていただいたが、透明感が際立っていて他のタンノイとはまったく一線を画すものだった記憶がある。



横にあるのは「AXIOM80」である。

というわけで、「このタンノイ・シルバーを値段次第では手に入れてもいいかな、ハズレてもそれほど損はしないだろう」との皮算用で注意深く入札価格の推移を見守った。

落札当日まで3万円前後だったので、あわよくばと乗り気になっていたら、何と直前からみるみる上がって最後は33万円へ~。SPユニットとしてはかなりの高値で、もっと若ければ参戦したけどね~(笑)。

やっぱり皆さんはよくご存じで、実力というか評判が市場価値ときちんと見合っていることに感心した。

ただし、そういうシビヤ~な世界でも穴場というか「お買い得」もあるように思える。

一言でいえば、それは「機器の図体」に尽きる。

どういうことかといえば、市場価値の観点から我が家のオーディオ機器を見回すと、いずれもドングリの背比べでそれほど自慢できるものは無い。

この20日(土)にお見えになった「Y」さんですら、我が家のオーディオルームを見回しながら、「いざ売るとなると二束三文でしょう!」と辛口を宣うたが唯一ユニークと思えるのがウェストミンスターの大型の箱である。


重さが100kgを越えるうえ、大きさからいっても現在の住宅事情にはまったくそぐわないし、中身の方もオリジナルからすっかり改造しているのでオークションでの価値はほとんど無いに等しい。

ところが、実際に使ってみるとこのくらい強力な武器も無い。

どんなにいろんな手立てを講じたとしても、大規模編成のオーケストラを聴くとなると、結局大きな箱の威力の前には無力感を感じてしまうことが再々である。

少なくとも我が家ではワーグナーの音楽はこの箱じゃないと聴けない・・。

したがって、オークションで大きな箱を見つけたらお値段もさほど伸びないことだろうから、事情が許す限り真剣に検討するに値すると思いますよ~。

もちろん、最後はあなたの熱意次第ですけどね~(笑)。



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「お客さん優先」のサウンドの功罪

2024年07月21日 | オーディオ談義

ようやく梅雨が終わって本格的な猛暑の到来です。

我が家のオーディオルームでは陽当たりの良くなる午後だけエアコンを使うようにしているが「そんなことをしていたら熱中症になりますよ、歳をとると体感センサーが鈍ってきますからね。たとえば喉の渇きに気付かずに水を飲もうとしないとか・・」と仲間からご親切なアドバイス。

「ハイ、その通りです。大いに気を付けます・・。ただ体感センサーどころか、耳の方のセンサーも確実に衰えてきているのですが、過去の音が耳に焼き付いていますので、その音を基準にして脳の方が勝手に補正してくれているようです」

というわけで、このところ我が家のオーディオは第一に「サウンドに違和感を感じるかどうか」に尺度が移っている。

こうなるともう執念に近いですな・・、まあ「ボケ防止」にでもなればそれに越したことはないでしょう(笑)。

閑話休題

昨日(20日)のこと、久しぶりにオーディオ仲間のYさんがお見えになった。我が家のサウンドに対し舌鋒鋭く指摘される貴重なアドバイザーである。

このところ日程の折り合いがつかず、およそ1か月ぶりぐらいのご来訪。

「毎回来るたびに音が変わっているので楽しいですよ」と仰るのだが、内心はきっと呆れられているに違いない・・、「ほんとに腰の落ち着かない男だなあ」と(笑)。

今回聴いてもらう主な目的は友人から借りている「コーラル」のドライバーとウッドホーンの組み合わせだが、まずはYさんが大のお気入りの「AXIOM80」(以下「80」)から聴いていただくことにした。

何といっても「お客さん優先」が我が家のモットーだからね(笑)。

で、植木鉢入りの「80」の楽しみ方は、低音域を簡単に手早く変更できることにある。



これまで、「口径20cm入りの小型の箱」と「AXIO150マークⅡ(口径30cm)などを試してきたが、Yさん向けにはサブウーファーとして「150ヘルツ以下」を「ウェストミンスター」(改)に持たせることにした。



これで大概の音楽ソースが守備範囲に入るはず・・、とりわけオーケストラがそう。

珍しく「CD」を持参されてなかったので、「You Tube」ばかり聴いてもらったが、例によって鳴らし方については ひと工夫 あり~。以下、ちょっと専門的になるが後日のために記録しておこう。

<80>用

DAコンバーター「HD7A 192」(フェーズメーション) → 「E80CCプリアンプ」→ 「PP5/400パワーアンプ」

このDACは光ケーブルの音はすべてハイレゾ「192KHz」に変換するという優れもので重宝している!

<ウェストミンスター>用(150ヘルツ以下)

DAコンバーター「D2R」 → 「安井式プリアンプ 12AU7」(改) → 「TR式パワーアンプ」

いわば2系統の流れで、2台のDAコンバーター、2台のプリアンプを駆使した変則的なシステムだが「Yさんのご意見はいかが?」と、注意深く見守ったが特段の意見は無し・・、可もなし、不可もなしといったところかな~(笑)。

2時間ほどクラシックを中心に聴き耽ったが、「80」なだけに得意とする「ヴァイオリン」が中心、となると「ヒラリー・ハーン」の「ブルッフのヴァイオリン協奏曲」「バッハ」など、そしてソプラノは「レグラ・ミューレマン」が舞台の主役~。

ハーンは技巧もさることながらヴァイオリンを弾く「立ち姿」がメチャ素敵! そういう意味では画像付きの「You Tube」向きといえる。

ハーンはアメリカ人だが「アメリカは所詮ジャズの国です。活躍の舞台を早くヨーロッパに移した方がいいです。(もう移しているかな?)クラシックを本格的にやるのなら、ヨーロッパの深い文化と伝統に染まる必要があると思いますけどね・・」と、会話したことだった。

2時間ほど聴いてから、いよいよ本命の新たなドライバーとウッドホーンの組み合わせへ変更~。



ドライバーを「600ヘルツ」あたりでローカットし、ウェストミンスターは700ヘルツあたりでハイカットして聴いてもらった。

通常は「TRアンプ」はせいぜい「200ヘルツ」あたりまでしか使わないのだが、プリアンプを「安井式」(12AU7使用)にしたせいか、違和感を感じなかった。

マランツ式のプリアンプ(12AX7使用)が「TRアンプ」に合わないことがわかったのは大きな収穫。

もちろんケースバイケースだが真空管の「μ(ミュー=増幅率)」の高低による音の変化のクセがようやくわかってきた気がする。

端的に言えば、ミューが高い真空管は高音は華やかだけど低音がやや淋しい、逆にミューが低い真空管は低音が豊かだけど高音はやや淋しい・・、間違ってたらゴメンね~、「それはお前の家だけの現象だ」と言われそう(笑)。

で、Yさんに「どうですか・・」と、促してみたが「ウ~ン・・」と明確な意見なし~。

本日はいつもの「歯に衣着せぬ」Yさん独特の鋭い舌鋒がとうとう聞かれず仕舞いだった。

「お客さん優先」のサウンドを意識したとはいえ、
ちょっと淋しかったなあ・・(笑)。



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ありがたいメル友さんたち

2024年07月20日 | 独り言

つい先日のブログ「もったいない精神の追放」について、オーディオ機器の始末に絡んでメル友の「K」さん(横浜)からメールをいただいた。

私も「オーディオ機器高価買いとります」のTV広告を観ましたが「これだけの」ことができるのは「安く買って高く売る」すなわち価値がわからない遺族を言いくるめて「たたき買い」するみたいです。

聞いた話ですが(自身で調査してません)今国産のオーディオ製品は海外で高く売れるらしいですよ。

私は信頼しているオーディオ屋さんの責任者に「死んだら一式引き取り次の方に」とお願いしてます。」

「ほう、いいこと聞いた!」とダボハゼみたいに飛び付いた(笑)。

「なるほどですね・・、海外向けのブローカーが暗躍してますか。その、オーディオ屋さんにわたしも依頼しておこうかな・・。よろしかったら、ご紹介ください。」と依頼。

すると、すぐに返信が届いた。

それはK市で事業されている「O取締役」です。

私は真空管に目覚めるのが遅く、Oさんとは2011年ころからのお付き合いですが、(
Oさんが)東京出張時に拙宅に寄っていただいたのですが、たまたま「Thorenseプレーヤを譲り受けたが調子が悪い」と話したところ「できるかわからないけど持って帰ってチェックしてみましょう」と。

その後「以前プレーヤ開発時に世話になった技術者に集まっていただき問題点は抽出できました」、そして戻ってきた製品は「完璧」で安心して音楽を楽しめてます。費用は4万円弱!(交換部品程度)

誠実さはピカ一、信頼できる方です。ご検討いただければ「つなぎ」ます。(真空管にも明るい方です)。」

さっそく返信。

「とてもありがたい話です! まとめて面倒見てもらいたく繋いでいただきたいと思います。ところで、O様はいくつぐらいの方ですか? 私よりも確実に〈死への)順番が後の方なんでしょうね?(笑)」

以下、当事者のOさんからのメールも絡んできて話が進展していったが、内容の紹介まではOさんのご了解を得ていないので非公開とさせていただきます。

実にありがたいことで、ご親切なKさん・・どうもお手数をおかけしました!

そして、次は前回のブログ「裁判の現実と闇の底」について、南スコットランド在住の「ウマさん」からのメールを紹介させていただこう。

かつて司法試験を目指した人間の想いとして、三点ほど挙げたい。

1  僕の周りにいた人間の中で、人間的魅力のある人物が司法試験に合格したケースもあるが、こんな奴が合格するのかと憤然とした経験も少なくない。つまり、ひたすら勉強勉強で、社会の喜怒哀楽など知らない人間が、難関の試験を経て法曹界に入り、そして、人を裁く…

2  冤罪の発生は、警察や検事の面子や思い込みが、その背景にあるケースが少なくない。

僕自身、冤罪の経験があります…
昔むかし、大阪は阿倍野で、買ったばかりのホンダのナナハンで走ってた時、前を走ってたホンダカブが、女の子が乗る自転車に追突して逃げよった。

僕はひっくり返って泣いている女の子を起こし110番に通報した。ところが、その女の子は警官に、僕が追突したと証言した。頭が混乱してたのはわかるけど、そりゃあんまりや。

阿倍野署に連れていかれ、取り調べの警官は、てっきり僕が追突したものと思い込んでる。そこで…

女の子が乗ってた自転車を起こした時、リムに絡まったカブのカウルの破片を拾ってポケットに入れてたのを警官に見せた。

そして、ラッキーだったのは、高校のラグビーの先輩が阿倍野署に勤務していたので彼を呼んでもらった。

彼が「事故を起こして知らぬ存ぜぬを言う人間ではない」と強く言ってくれたことと、女の子も「そう言えば中年の男やった」と証言するにおよび、めでたく冤罪が晴れたんです。

冤罪は「思い込み」によるものとつくづく思いました。

3  ある精神科医のコメント…凶悪犯罪を起こす人間は、人間的情操や情緒の形成があまりなされていない。それらを育むのが、音楽であり、読書であり、美術や映画などである。

したがって「音楽とオーディオ」の小部屋の主どのや僕などは、凶悪犯罪をしでかすことはないと言えますね。よかったよかった。ホッ。」

さっそく返信。

「貴重なアドバイスありがとうございます。当時者にならないとわからない冤罪の危険・・、実際にそういうことが起こりうるんですね! 今さらながら 疑わしきは罰せず の真意がわかりました。いちばん悪いのは無罪の人間が有罪になることなんですね~」

以上、メル友さんたちにご教示いただき感謝の至りです!



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裁判の現実と闇の底

2024年07月19日 | 読書コーナー

図書館に行って手当たり次第に本を借りてくるものの、読んでみて面白いという「当たり」の確率はおよそ「1/4」くらい。

また、作家などのプロが薦める本にしても当たりの確率はせいぜい「1/3」ぐらいで百発百中は望むべくもないと はな からあきらめている。

音楽やオーディオにしても「好きな曲目」や「好きな音質」が他人となかなか一致しないのと同じことですね、これは~(笑)。

人間は生まれも育ちも感性だってそれぞれ違う・・そもそも貌だって同じものは無いんだから~。

そういう中、このほど珍しく「当たり!」の本があったので紹介してみよう。

☆ 「無罪を見抜く」~裁判官・木谷 明の生き方~(岩波書店)

                         

「裁判官・木谷 明」氏と言っても大半の方が「Who?」だろうが、囲碁界の名門で知られる「木谷一門」を率いた「木谷 實」氏のご次男と言えば「ほう!」という方もいるかもしれない。

長兄が東大医学部卒、ご本人は東大法学部卒という秀才兄弟である。

「碁は別智」という言葉も聞くが、父親譲りの智能なのだろうか(笑)。


本書の表紙の裏に次のような解説文がある。

「30件に及ぶ無罪判決をすべて確定させたことで知られる元裁判官が自らの人生をふり返る。囲碁棋士の父親の下で育った少年期から、札幌地裁に遭遇した平賀書簡問題、白鳥事件の思い出、最高裁調査官として憲法判例にかかわった日々、裁判官に求められるものは何かまで、すべてを語り尽くした決定版。」

世の中にはいろんな職業が無数にある。「職業に貴賤なし」の戦後教育を受けて育ってきた人間だが、ある程度人生経験を積むとどういうレベルの人たちがどういう仕事をやっているかはおおかた想像がつく。

たとえば世間では政治家、大学教授、医師、高級官僚などの一応“権威ある”とされている職業にしても、一皮めくってみると意外にもそれほど“粒ぞろい”でもなく、人間性も含めて玉石混交の状態にあるといえばちょっと言い過ぎかな~(笑)。

しかし、「裁判官」という職業ばかりは犯罪の当事者にでもならない限り一般人にとっては縁遠い存在であり仕事の内情だってとても窺い知れないし、いわば「孤高の存在」だといえるのではあるまいか。

間違いなく言えることは、「人を裁く」という崇高な使命のもとで最難関の「司法試験」に合格した秀才たちが携わっている職業であり間違っても「過ち」を起こす確率の少ない人たちの集まりだと、ずっと思ってきたわけだが本書によって見事にその幻想が打ち砕かれた。

ありていに言わせてもらうと、

「よくぞ、ここまで裁判所の内情を思う存分に語ってくれたものです。裁判官だって所詮は人の子、法曹の世界も意外と一般の社会的組織と似たようなもんですねえ!」

これが本書を読んでの正直な感想である。


本書は著者が質問に答える形式で構成されている。印象に残った“めぼしい点”を列挙してみよう。

☆ 裁判官のタイプの色分けはどうなっているのですか(289頁:要旨)

これまで多くの裁判官と付き合ってきましたが、私は3分類しています。

一つは「迷信型」です。「捜査官はウソをつかない」「被告人はウソをつく」という考えに凝り固まっているタイプ。これが3割ぐらいいます。

二つ目はその対極で「熟慮断行型」です。「疑わしきは罰せず」の原則に忠実なタイプで大目に見積もって1割いるかいないかです。

三つ目は中間層の「優柔不断・右顧左眄(うこさべん)型」です。「判決」に対する周囲の評価ばかりを気にして決断できないタイプで最後は検事のいうとおりにしてしまう。これが6割くらいです。

☆ 無罪判決についての意義について(290頁)

「無実の人を処罰してはいけない」に尽きます。そのためにはグレーゾーンに当たる人たちを出来るだけ無罪に持っていく方向にしないといけません。また、裁判所は捜査官の増長を防止するために捜査を厳しく批判するべきだと思います。そうしないと捜査自体が良くなりません。

☆ グレーゾーンに該当する被告がたまたま審理に当たる裁判官次第で主張を聞きいれてもらったり、そうでなかったり、不公平だと思いますがその辺はどうお考えですか(291頁)

だからその点が問題なのです。困った問題ですが「熟慮断行型」の裁判官を増やすように努力するしかありません。私は、冤罪は本当に数限りなくある、と思います。私は弁護士として事件を扱うようになってますます痛感しますが「なぜ、こんな証拠で有罪になるのだ」と怒りたくなる判決が沢山あります。本当に驚いています。「後輩たちよ、君たちはこんな判決をしているのか」と一喝したくなります。刑務所の中には冤罪者が一杯いると思わないといけません。

☆ 死刑制度について先生のお考えを聞かせてください(179頁)

私は今、完全に「死刑廃止論」を言っています。最大の論拠は団藤重光先生(故人:刑法の権威)と同じで、間違ったときに取り返しがつかないということです。「誤審の可能性」はどんな事件にもあります。ほかにも、死刑と無期刑とを区別する絶対的な基準を見つけることは不可能です。被告人にとって、当たった裁判官次第で死刑になったりならなかったりする、それでいいのでしょうか。

また、刑罰の目的というのは、応報と、最終的にはその人を更生させて元の社会に戻す、それで一緒にやっていく、というためにあるのではないでしょうか。死刑の場合は後の方の目的を完全に捨ててしまっています。

本書にはほかにも、裁判官の人事異動の内情などについても記載されており、上役の心証次第であちこちの地方に飛ばされたりして、まるで官僚組織とそっくりなのには驚いた。

最後に、まことに身勝手な個人的意見を言わせてもらおう。

本書の中で印象に残った言葉が「グレーゾーンにある被告人を出来るだけ白の方向で考える」

基本的に「疑わしきは罰せず」になるのだろうが、そもそもグレーゾーンに至ったこと自体が本人の不徳のいたす所であり、はたしてそんな甘っちょろい考えでいいのかという気がする。

証拠がいくら薄弱でも、捜査官の長年によるカンで「こいつはクロだ!」という心証もあながち無視できないのではあるまいか。


したがって「本当は有罪の人間が証拠薄弱のおかげで無罪になる」ことだって十分あり得るわけで、被害者側の心情を考え合わせるとはたして許されることだろうか。

つまり、犯人の罪歴や情況判断次第で「疑わしきは罰せよ」も有りだと思うわけ、そして(実際には)有罪の人間が無罪になるのがいちばん悪い・・、
こんなことを書くと「お前はまったく分かってない!」と、お叱りを受けそうだけど・・(笑)。

さて、皆様のお考えはいかがでしょう・・、この際はっきりと白黒つけましょうや!



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「もったいない精神」の追放

2024年07月18日 | オーディオ談義

一昨日(16日)のこと、テレビを観ていたら「オーディオ機器を高価買取ます」の派手な宣伝が目についた。

ゴールデンタイムの宣伝費用もバカになるまいと思うが、当然のごとく需要と供給の原理から成り立っているのだろう。

つまり、(オーディオマニアの)遺された家族が時間が経つにつれ処分に困り果てる姿が自ずからみえてくる。

身につまされますな~、鎌倉時代の随筆「徒然草」(兼好法師)にあるように、「死は前からは来ない、静かに後ろから忍び寄ってくる」・・、いつも覚悟はしているものの、こうやって直接刺激を受けると「今のうちに希少な真空管を使い果たしてしまおう」という気にさせられた(笑)。

つまり、「もったいない精神の追放」である。

そして真っ先にその対象となるのは消耗品の「真空管」となる・・、すぐにこのアンプを引っ張り出した。



音がいいとされる「直熱三極管」選手権で、西の横綱「PX25真空管」、東の横綱「WE300B」と並び称される両雄だが、その「PX25」族の中でもとりわけ希少な真空管が「PP5/400」(英国マツダ)である。

しかも、この球は珍しい初期版ときている。その証拠はトップのマイカが細い長方形をしていることからわかる。



我が家ではもったいなくて出番は「お盆と正月」と決めているのだが、もはや遺された時間は少ない・・、まなじりを決して(笑)、このアンプでさっそく植木鉢入りの「AXIOM80」を聴いてみたところ、過不足をまったく感じさせない自然な響きにうっとり~。

少なくとも我が家では「WE300B」アンプを凌駕しているんじゃないかな~。

すると、いつものようについ欲が出てきた。

もっと「いいサウンド」を・・、
ウーファーを代えてみようかな~、というわけで次のとおり。



JBLの「D123」をサブウーファーにして「100ヘルツ以下」を受け持たせようという算段である。その狙いは箱に入ってない、言い換えると音が籠らないストレートなサウンドにある。

するとこれはあきまへん・・、たったの100ヘルツ以下でも全体のサウンドを一変させるほどの力を持っているが、いかんせん「グッドマン」と「JBL」では音色が合いませぬ~。

このサウンドを聴いていると、何だかイギリス人がアメリカ人を内心で軽蔑しているのが分かるような気がしてきた(笑)。

ほら、あのトランプみたいな人物を大統領にしようというお国柄だからね~、モラルも法の秩序もお構いなしなんだから。

余談はさておいて、そこで「D123」の代わりに引っ張り出したのが、同じ口径30cmの「AXIOM150マークⅡ」である。

ものの20分ほどで作業が完了した。



これは素晴らしい・・、というかまったく違和感がない!

さすがはグッドマンのコンビというわけで、このスタイルでしばらく聴くとしよう。

「もったいない精神の追放」から出発して、梅雨時(どき)にいい暇つぶしが出来ましたぞ(笑)。



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「コネ社会」の現実と功罪

2024年07月17日 | 独り言

もう10年以上も前の話だが、「みの もんた」というテレビの司会者がいたことをご記憶だろうか。

で、彼の次男が窃盗容疑で逮捕され、あっさり自供したことで責任を取る形で当時の人気番組「朝ズバッ」などを降ろさせられたのが大きな話題となった。


30歳を越えた社会人の子どもが不始末をしでかしたからといって、はたして親が責任をとらねばならないのか・・、しかし「みの」に対する世間のバッシングは相当なものだった。

庶民にはとても考えられないような高給取りなので一部「やっかみ」も混じっていたようだが、日頃から高飛車で威張ってたとの風評もあって“日頃往生”の面もあったのかもしれない。


それはさておき、このニュースに関連して明らかにされたのがこの次男が親のコネで「日本テレビ」に就職していた(現在は退職)こと。これにはちょっと考えさせられた。

ちなみに「みの」の長男も某テレビ局に勤めているそうだ。周知のとおりテレビ局は就職試験の最難関とされているのに、政治家や芸能人の子供たちがウヨウヨしているそうだから驚く。


人生は始めから最後までそれこそ、大なり小なり「選択の連続」だと言っても過言ではないが、振り返ってみるととりわけ大きな分岐点になるのが「学校(専門コース)」「就職」「伴侶」だと思う。

その重要な「就職」の選択にあたって個人の才覚と努力には何ら関係のない「コネ」がおおっぴらに通用するというのは、社会の活力を維持していくうえで非常に好ましくない! とは思いませんかね。

「機会均等は民主主義の基本だ」と、声高に叫びたくなるほど(笑)。

しかし、世の中の「コネ」に対する考え方や現実にどのくらいまかり通っているのかという実態を知っておきたい気もするところ。

そういうときに目に留まったのが新聞の下段によく掲載されている週刊誌の見出し。

当時の「週刊ポスト」に「こんなにコネがまかり通っている日本というシステム」~持っている者だけが得をする~。

                 

週刊誌は滅多なことでは購入しないのだが、発売初日にわざわざ書店に出かけて行って手に入れてきた。

結構、物見高いのである(笑)。さっそく特集記事の部分を(32~37頁)を 話半分 の気持ちで読んでみたところ、「コネ」に対する認識がチョッピリ改まった。


「政界、官界、財界のトップ人事からこれから本格化する学生の就職活動戦線まで、日本社会ではあらゆる場面に“コネ”という見えざる力が働いている。それはこの国の絶対悪なのか、あるいは必要悪なのか。建前と本音が複雑に絡み合う“コネがまかり通る社会”の功罪を徹底的に解明する。」

相変わらず週刊誌独特のトーンが冒頭から炸裂~(笑)。

そして「不思議なことにそれほどコネに対する嫌悪感や批判が国民に共通しているのとは裏腹に、大真面目にコネをなくそうと言い出す人は少ない」

オヤオヤ、どちらかといえば「コネ肯定論かな?」と、読み進むうちにとうとう次の箇所へ。

「実は“コネ採用”は企業にとっていいことづくめ。むしろ海外の方が濃密なコネ社会という現実がある。」

テレビ局、広告代理店などはコネ採用の最たるもののようで、「スポンサー関係からの縁故採用によって、安定した広告料が見込める」というから、もう “何をか言いわんや” 。

出版界の老舗「岩波書店」の採用基準は「岩波書店発行の著者の紹介状あるいは書店社員の紹介があること」だそうで、「コネくらい自分で作ってこい」というわけ。

結局、「コネによる採用や出世は不公平だとする意見が正論であることは間違いない。だがコネがまかり通る社会が脈々と続いている理由は、コネによって築かれる “都合のいい仕組み” を、多くの日本人が認めているからで、その矛盾した2つの考え方に折り合いをつけることこそコネ社会を生きる重要な知恵なのかもしれない」

に集約されるようです。

したがって、コネとはまったく無縁の「音楽&オーディオ」の自由平等のもとで額に汗する努力が確実に報われる世界はやはり素敵だとは思いませんか・・、ただし「財力」がかなり 幅を利かせている のがちょっとシャクだけどね~(笑)。



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