おそらくこのブログをずっと続けて読んでおられる方ならお気づきのことと思うが「このところ、さっぱりAXIOM80の話が出てこないが、あれほど愛好していたはずなのにいったいどうして?」。
そうなんですよね~、いささか気にはなっているんですがけっしてオークションに放逐したわけではありませんからどうかご安心を(笑)。
理由は「あまりにいい音が出すぎて自分の色合いを盛り込む楽しみがないので休養させている」というのが真相。
これには「お前、いったい何のためにオーディオやってんだ」というツッコミが入りそうだし、何ともはや贅沢な悩みだがこればかりは心情的に如何ともしがたい。
「いい音を出したい、しかし、いい音が出てしまうと逆に面白くない。」このパラドックス、もしかして思い当たる方がいるのではあるまいか(笑)。
「出来が悪くて手のかかる子供ほど可愛い」とは巷間よく聞くところだが、その気持ちわかるような気もする。
ま、ありていに言えば「AXIOM80」は優等生過ぎて「可愛げのないスピーカー」ともいえるわけだが、この「可愛げ」という言葉は世の中を上手に渡っていくうえで仇やおろそかに出来ない言葉なのである。
6年前のブログに「可愛げのある人、ない人」と題して投稿したことがあるが、すでに忘却の彼方にある方が大半だろうからちょっと加工して以下、再掲させてもらおう。
「先日のブログでマリア・カラスの「歌に生き、恋に生き~歌劇”トスカ”より~」を登載したところ、これを見て懐かしい高校時代の同級の「K」君(千葉県)からメールが来て、「20世紀最高のソプラノ」を一つ聴かせてはくれまいかと所望があった。
もちろん、こちらも望むところ。
名曲に一人でも多くの人が接して心を動かしてくれれば無為徒食の音楽愛好家としてこの上ない喜び。
早速、日曜日の午前中に送付したところ、無事到着したとみえて水曜日の午前中に電話が掛かってきた。
「今、2周り目を聴いてるけどマリア・カラスってやっぱりすごいなあ。どうもありがとう。」
「やあ、無事着いたようで何より~。」
「ところで先日のブログに書いてたけど谷沢永一の”可愛気が一番”という話は実によく分かるんだよね。」
「へェー、どんな風に?」
「実は以前、自分が部長をしていたときに他所の部門から異動してきた部員がいてね、適齢期なのに課長になり損ねて回されてきたんだ。」
「ほぉ~」
「元の部門の部長とはざっくばらんの仲だったけど、『○○君を課長に出来なかったけど、お前のところで是非、課長にしてやってくれよな』なんて虫のいいことを言うから、思わず『そんなことを言うくらいなら、なぜお前のときに強力に推さなかったんだ?』と言ってやったんだ。」
「ウン、ウン、そのとおりだよ」
「すると、そのときの彼の弁がふるっていて『だって、彼、可愛くないもんな~』だって」
「その○○君、学歴もいいし、真面目で仕事もそこそこできるんだけどねえ。人間には可愛さが大切だって改めて思ったよ」
「なるほど!」
因みに、このブログに登載した谷沢永一氏の"可愛げ"云々をご参考のため次に再掲。
※「才能も知恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛げがあるという奴には叶わない。」~谷沢永一「人間通」(新潮選書)~
以上の話、組織に従属して働いた経験のある方なら体感的に納得されると思うが、どんなに”きれいごと”を言ってみたところで所詮、人間は感情の動物であることを物語っている。
さ~て、問題はこの「可愛げ」ってモノが先天的なものなのか、あるいは後天的に身に付けられるものかどうか、そこがポイントなのだが、谷沢氏の書きっぷりによるとどうも先天的な資質の方に比重を置いているようだ。
これを我が身に置き換えてみると、まず典型的な「可愛げのないタイプ」のようである(笑)。まず世渡りが下手だったし、それほど偉くもならなかったのでだいたい分かる。
とまあ、以上のような内容だったが「可愛げ」の根底には先天的、後天的な資質いずれにしろ相互の信頼感や好き嫌いなどの感情がいろいろ織り交じっているような気がする。ほら、口には直接出さなくても「以心伝心」という言葉がある・・。
我が身を振り返ってみて「可愛げのなさ」を客観的に分析してみると、第一に「何といっても気が利かない」こと、二番目にはどうも他人行儀というのか「遠慮し過ぎる」ようなところがあったようだ。
いい意味で、人にある程度の手間とか負担をかけさせる、ひいては「寄りかかる」ことも大切なことではなかったかと年甲斐もなく反省している今日この頃。
以上、愛用のスピーカーから人生の教訓を学んだ一幕だったが、つべこべ言ってみても、もう手遅れなのは言うまでもない(笑)。