前回の「独り言~スロー・リーディング~」の中で小説の冒頭の一文は主題に直結することが多いので極めて重要ということを紹介したが、(同様に作家は書き出しの一文にものすごく神経を使うとのこと)タイミングを合わせたように、過去の芥川賞、直木賞を受賞した作品の書き出しの一行目だけを紹介した本が出版された。
本の題名は「小説の一行目」(’6.10.10、(株)しょういん、編者「小説の一行目研究会」)である。出版の趣旨は読者が小説を選ぶ基準のひとつとして「一行目」を提案すること。また、想像力だけで楽しんでもらうために、作品の並び順はコンピューターによるランダム並列とのこと。
ここでは、304作品の中から自然描写に関する一行目にしぼっていくつか紹介しよう。なお、原本では受賞区分や題名、著者名は別記になっていたが、題名との関連でイマジネーションがより豊かになるように同時記載した。
星ひとつ見えぬ冬の夜の闇もこれほど黒くはあるまい
→昭和11年上半期直木賞「天正女合戦}海音寺潮五郎
陸奥国霊山(りょうせん)の山巓(さんてん)をかすめて、白いちぎれ雲が東の方に飛んで行った
→昭和13年下半期直木賞「兜首」大池唯雄
ーーー明治四十二年十月○日ーーー曇
→昭和15年上半期直木賞「軍事郵便」河内仙介
冬の曇り空の下に巨大な水面が、にぶい光沢を放ちながら、茫漠たる感じで拡がっている
→昭和57年上半期直木賞「炎熱商人」深田祐介
なまあたたかい夜だった
→昭和58年下半期直木賞「私生活」神吉拓郎
十月の川風が八ツ口から胸もとにしのびこむ
→昭和61年上半期直木賞「恋紅」皆川博子
その日は夕暮れ頃から、急に北寄りの風が強くなった
→平成8年上半期直木賞「凍える牙」乃南アサ
吹き降りが屋根を激しく叩き、中空をくぐもった陰気な音が走っている
→平成13年上半期直木賞「愛の領分」藤田宣水
どこかでは既に雨が降っているのか、白く光って見上げるようにむくむくともりあがった入道雲の方向で、かすかな遠雷のとどろきがして居る
→昭和12年下半期芥川賞「糞尿譚」火野葦平
きょうも、きのうもずっとこの頃は朝から風立っていた
→昭和13年下半期芥川賞「乗合馬車」中里恒子
雨は霙(みぞれ)となり、いつの間にか雪に変わった
→昭和14年下半期芥川賞「密猟者」寒川光太郎
どんよりした曇空でまだ明けきらないような朝あけに、風が立ちはじめた
→昭和16年下半期芥川賞「青果の市」芝木好子
海は乳色の霧の中でまだ静かな寝息を立てていた
→昭和43年上半期芥川賞「三匹の蟹」大庭みな子
青白い夜が波のように寄せてはかえしている。
→昭和54年上半期芥川賞「愚者の夜」青野聡
屋根すれすれに飛んできた黒い小さな鳥が、見えない空気のかたまりをひょいと乗り越え、校舎の向こう側に落ち込んだ
→昭和58年下半期芥川賞「光抱く友よ」高樹のぶ子
雪どけの水がいく筋もの細い濁流をつくって流れる日々が過ぎても、路は黒っぽく湿って乾かない
→昭和63年下半期芥川賞「ダイヤモンドダスト」南木佳士
以上、直木賞(大衆文芸作品)、芥川賞(純文学短編作品)それぞれ8作品を時系列に並べてみた。省略したものもいくつかあるが、両賞ともに近年は自然描写からの入りは少なくなってきている。
それでは、最後に平成18年の上半期の両賞を紹介しよう
直木賞
「あんたはきっと、来年は忙しくなる」→「まほろ駅前多田便利軒」三浦しをん
「ビニールシートが風に舞う」→「風に舞い上がるビニールシート」森絵都
芥川賞
「黙々と仕事を続ける水城さんに見入っていた」→「八月の路上に捨てる」伊藤たかみ