いつものように過去のブログのアクセス・リストをみていたら「夢を持ち続ける」(2017・7・29)がランクインしていた。
ほんの2年前の記事なのに「はて、どういう内容だったかな?」と、我ながら情けない記憶力にガッカリしてしまう(笑)。
さっそく中身の方を確認してみると、日経新聞の「交友抄」という記事の紹介を皮切りに以下のような内容だった。
「久しぶりにごく親しい友人たちと会った際にこれからの生き方ということで次の3つの申し合わせをした。1 健康管理に気をつけること 2 奥さんを大切にすること 3 夢を持ち続けること。」
1と2はよく分かるが3となるとちょっと難しい。はてさて、この歳になって夢ねえ・・・。
オーディオで理想的な音を出すことも一つの夢だが、いかにもスケールが小さすぎるようで(笑)。
皆さまは夢を持ち続けていますか?
夢といえば、作曲家「グスタフ・マーラー」(1860~1911)が在世時に「やがて私の時代がやってくる!」と実にカッコイイ言葉を遺したことを思いだした。
その夢が後世になってほんとうに実現するのだからお見事としか言いようがない。
マーラーの曲の中で一番胸を打たれるのは「大地の歌」(クレンペラー指揮)の第六楽章で、旋律もさることながら歌詞がいい。
中国の「孟浩然と王維」の漢詩をもとに「この世への大いなる惜別の情と諦観」がメゾ・ソプラノ(ルートヴィッヒ)で朗々と歌われていく。
晩年に聴くのにはとてもふさわしい曲目だが、さてマーラーさんは現代では作曲家として非常に有名だが、実は生存中は音楽家としての時間の大半(5/6)をオペラ指揮者として過ごしていた。
音楽家マーラーの一つの不幸は、その死後、作曲した作品が高く評価されたため、指揮者としての業績が隠れてしまったことだという。
もちろん、当時は録音技術なんか存在しなかったので、現在では彼の指揮した曲目をまったく聴く機会がないのもその理由の一つ。
というわけで、珍しいことに指揮者としてのマーラーにスポットを当てたのが次の本。
本書では意識的にマーラーの創作とその過程については最低限のことしか触れず、指揮者としてのマーラーが当時の音楽界でどのようなポジションにあり、そのポストをめぐり、どのようなドラマがあったのかに焦点を絞り、なおかつ彼がいつどの演奏会場でどういう曲目を指揮したかを詳らかにしている。
興味を引かれた点をピックアップしてみよう。
☆ ヨーロッパでの音楽鑑賞といえば歌劇場における「オペラの上演」が圧倒的な割合を占めている。マーラーは極論すれば、ワーグナーとモーツァルトのオペラの指揮ばかりしていたが(2025回も!)、とりわけ「魔笛」を振った回数は歴代指揮者の中でN0.1ではなかろうかと、思うほどその多さに驚く。
なお、当時ワーグナーのオペラを指揮する事は指揮者にとって憧れの的であり、そのために指揮者同士がその権威とポストをかけて血まなぐさい(?)争いを展開している。その点でマーラーはニキシュ(ベルリンフィル常任指揮者)とも正面きって争うなど実に好戦的だった。
とまあ、だいたい以上のような内容だった。
何が言いたいかといえば、当時(1900年前後)、「ワーグナー」のオペラは別格だったんですね~。しかるに現在では・・・。
これでもブロガーの端くれなので、他人様のブログをちょくちょく拝見させてもらっているが、ワーグナーのオペラを鑑賞されている記事は皆無といってもいいくらい見当たらない。
いったいなぜ?
およそ想像がつく方が多いと思うが、このところずっとご無沙汰だったワーグナーを改めて聴いてみた。
ショルティ指揮の「ワルキューレ」(4枚組)
システムはこういうときこそ「ウェストミンスター」(改)の出番だろう。
やっぱり、ワーグナーはファンダメンタルな帯域での弦のユニゾンをスケール感豊かに再生できるシステムじゃないと聴けないことを改めて確認した。
昨今のマンションオーディオの波及によってスピーカーの小型化が進む状況ではますますワーグナーさんが遠ざかるばかり。
ただし、我が家ではアンプとの相性がもろに出た。
はじめに「300Bアンプ」で鳴らしたところ低音域の重量感がやや物足りない。小編成の室内楽やボーカルでは無類の強さを発揮するのにやっぱり万能とはいかないようだ。
そこでPX25アンプに代えたところ、今度は中低音域の重量感ある再生が理想的といっていいくらいに見事に応えてくれた。
日頃から脚光を浴びている「300Bアンプ」の陰に隠れた地味な存在だが、ワーグナーの音楽となると水を得た魚のようになる頼もしい存在だ。
結局、オーディオの要諦とは「アンプ ⇔ スピーカー ⇔ 音楽ソース」の三つ巴の空中戦みたいなところがありますね(笑)。
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