「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

ネズミはオペラを聴くと寿命が延びる

2025年03月05日 | 音楽談義

ご存知の方も多いと思いますが「イグノーベル賞」というのがあります。

人々を笑わせ、そして考えさせた研究に与えられる賞で、1991年創設。「ノーベル賞のパロディー版」とも言われており、授賞部門は開催年によって異なるが、なぜか日本人は授賞の常連になっています。



この本には、これまで受賞した40本の内容が紹介してありましたが、音楽関係を拾ってみると「ネズミはオペラを聞くと寿命が伸びる」があったので紹介してみましょう。

帝京大学チームによると心臓移植を受けたネズミにオペラ「椿姫」を聞かせたところ通常術後1週間の寿命が1か月まで延びたという。

「何も処置をしないと拒絶反応が起こり8日で心臓は止まります。ある時、10匹のネズミが入った箱2つを並べて置いておくことが出来ず、別々の場所で保管しました。

すると片方の箱では8日前後で止まるはずの移植後の心臓が止まりませんでした。そこで環境の変化があるのではないかと直感したのです。

そこでまずはヴェルディ作曲の「椿姫」を聞かせてみることにした。音楽がとても好きだというリーダーの新見院長、イギリスに留学していたころはよくオペラや楽団の演奏を聴きに行ったそうだ。

研究員によると「椿姫」を選んだ理由はボス(新見院長)が好きだからというのが理由。研究者たちは他にもモーツァルトやエンヤなどの音楽を聞かせたが結局一番効果があったのが椿姫であり、寿命が平均26日生き延びた。

次にモーツァルトで20日、エンヤは11日程度で微増。また石川さゆりの「津軽海峡冬景色」も試したが残念ながら効果はなかったそう。

さらに寿命が延びた理由がほんとうに音楽によるものなのかを検証するためにネズミに音が聞こえないようにして同様の実験を繰り返した。その結果、ネズミの寿命が伸びることはなく、術後の長生きが音楽の効果であったことが証明された。

新見院長は「この研究結果から言えることは音楽が脳を介して免疫系に良い影響を与えているということです。

病気には医学的対処はもちろん大切ですが脳に影響を及ぼすような環境、希望や気合、家族のサポートなどが大切であることに通じる結果です。”病は気から”とよく言いますが、あながちウソではないです」。


昨今、とりわけ欧米諸国で音楽は様々な病気の治療の一環としてじわじわと定着し始めている。音楽療法は精神病や中毒症の両方の一つであることに加え、身体的な病気の治療を手助けするものと認識されつつある。

効果の度合いや再現性については諸説あるが様々な症状において、音楽が痛みや吐き気そして不安感を和らげると報告されている。音楽を通常の治療と合わせることで安らぎを与え、症状をポジティブな方向に向かう手助けをしているようだ。

新型コロナ関連のウィルス肺炎が続く中、感染予防にも大脳の働きが大切です。ストレスを溜めないことが、がん予防、感染予防、そして長寿につながります」

以上のとおりですが、「音楽&オーディオ」に限らず趣味と名のつくものの効用は免疫系にとても良い作用を及ぼすのでけっして無駄な投資ではないことがわかります。

そして、ずっと以前にも「乳牛にモーツァルトを聞かせるとお乳の出が良くなる」という話を読んだことがありますが、これらのことを踏まえると、美しい芸術を人間が独り占めしてはいけないということでしょうかね(笑)。

最後に「チャットGPT」さんに「ネズミはオペラを聴くと寿命が延びますか?」と訊ねてみました。

「面白い質問ですね!ネズミがオペラを聴くと寿命が延びるという科学的な証拠はありませんが、音楽が動物に与える影響についてはいくつかの研究があります。

例えば、クラシック音楽を聴かせるとストレスが軽減されるという研究があり、ストレスが減ることで健康状態が改善され、間接的に寿命が延びる可能性は考えられます。また、特定の音楽(モーツァルトなど)が学習能力や神経の働きに良い影響を与えるという「モーツァルト効果」も研究されています。

ただし、音楽の効果は動物の種類や個体差によるので、ネズミにとってオペラが本当に寿命を延ばすかどうかは、さらなる研究が必要ですね!」



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音楽ジャンルの革命「モーツァルト独立国家論」

2025年03月01日 | 音楽談義

「読書のプロが薦める本でも実際に読んでみると 当たり の確率はかなり低い、ましてや「音楽&オーディオ」において「好みの音楽」や「好みの音質」が一致することは極めて珍しい」と、経験上から常々思っています。

つまり、本人の感性が大部分を占めるこの分野において同類を求めるのは無理な相談でしょう。

ところが・・、先日次のようなメールが届いたんですよねえ。

匿名ということで無断転載お許しくださいね。あえて「原文」のままにさせてもらいます。

「ブログは欠かさず拝見させていただいております。

さて、つい先日のブログにモーツァルトのピアノソナタについて記述されていましたが私もまったく同じ思いを持っていたのでメールいたします。

”オペラは別として交響曲やピアノ協奏曲は何度も聴くとやや飽きがくるが、このピアノソナタに限っては、何かこんこんと尽きせぬ泉のように楽想が湧いてくる趣があり、モーツァルトの音楽の魅力が凝縮された独自の世界がある”

まったく我が意を得たりです。私もピアノソナタが大好きで時間がなくて何かモーツァルトを聴きたいなと思ったときはピアノソナタを取り出してしまいます。全17曲、それぞれに魅力があって満遍なく聴いています。

全集としてはアラウ、グールド、バレンボイム、内田光子、ワルター・クリーン(LP)、ラローチャ、クラウス(新旧2種)、グルダ、ヘブラー(DENON)が手元にありますが、学生の頃(1971年)の最初に買った同曲の全集、吉田秀和さんの40数ページにわたる詳細な別冊解説が付いたワルター・クリーンのLPを、その解説書を読みながら聴き返しているところです。

なお、ほかにもモーツァルトではやはりオペラ(特にドンジョバンニと魔笛)、セレナードやディベルトメント等の音楽を好んで聴いてます。」

と、以上の通りでした。

やはり世間は広いですね!

自分と同等、あるいはおそらくそれ以上の「モーツァルト愛好家」がいらっしゃるなんて、うれしいやら、ガッカリするやら、複雑な心境になります~。

なぜなら、いつもモーツァルトの「天上の音楽」をこっそり独り占めにしておきたいと思っているからです(笑)。

「ピアノソナタ」は言うに及ばず、「ディヴェルトメントのK136」「セレナードのK250、ハフナー」、「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K364」、そしてオペラのジャンルにおいて「魔笛」と「ドン・ジョバンニ」は甲乙つけ難しで、これほどまでに「好み」が似通っている方は初めてで
す。

そもそも、ひとくちに「クラシック」といっても裾野が広いですが、モーツァルトは他の作曲家たちとは作風や曲風からしてまったくの別物で
「クラシック」の同じ枠内に留めておくのは「適当じゃない・・」と秘かに思っています。歳をとればとるほどそういう思いが強くなります。

ここで思い切ったことを書きます。バッハの音楽はやや線香臭い、言い換えると宗教色が強すぎるし、ベートーヴェンの音楽はちょっと押しつけがましいところがあるし、他の作曲家たちは所詮「群小音楽」に過ぎません。

そういうわけで「モーツァルト」という独立したジャンルがあってもちっとも不思議ではない・・、そして、あとは「十把ひとからげ」で「クラシック」の範疇に放り込んでおけばそれでいい。

いわば「モーツァルト独立国家論」ですね、音楽ジャンルの革命です(笑)。

こんな突拍子もないことを提唱するのは「古今東西」にわたってブログ主ぐらいのもんでしょう。

共感を寄せられたり、あるいは異論がある方のメールを歓迎します。

で、それほどの存在感があるモーツァルトなのに、どんな曲を聴いてもあまり親しめない、さらには「食わず嫌い」の方がいるとしたら実にもったいない話だと思います~。

「どんな曲でも 20回ほど聴けば口(くち)ずさむほどになる 」というのが通説ですが、ひとつ騙されたつもりで「ピアノソナタ」をカーステレオでもラジカセでも構わないので何回も聴いてみてはいかがでしょうか。

CDを買わずとも現代では何とも便利な「You Tube」がありまっせえ(笑)。

それで、もし好きになれたとしたら、あなたはお金には代えられない「人生の財産」を手に入れたことになります!

そして、そういう「心の豊かさ」に、もしこのブログが貢献できたとしたら、このブログの存在価値も少しは出てこようというものです(笑)。


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微妙な差に拘ることで人生の「質」を高めよう

2025年02月28日 | 音楽談義

それほど好きな作家というわけでもないが、いつも気になるのが「村上春樹」さん。

なぜかと言えば、作家にも拘らずたいへんな「音楽通」だから。

ちなみに、村上さんのほかに作家と音楽通の二束の草鞋(わらじ)を履いた方といえば・・、筆者が知っている範囲で「五味康佑」氏、「小林秀雄」氏、「百田尚樹」氏、「大岡昇平」氏、「石田 依良」氏、「新井 満」氏。

何しろプロなので表現力が半端じゃないです。



本書の中に次のような一節があります。(72頁)

「文章の書き方みたいなものは誰にも教わらなかったし、特に勉強もしていない。で、何から書き方を学んだかというと音楽から学んだんです。それで、いちばん何が大事かっていうとリズムですよね。文章にリズムがないと、そんなもの誰も読まないんです」

村上さんの本がなぜ読者を惹きつけるのか、その秘密の一端に触れる思いがしました。

けっして表面に出てくることがない「リズム感」は人間同士の「以心伝心」を始めとして社会のあらゆる場面に潜在しており、理屈では説明できない「サムシング」(雰囲気など)の要となっているのではなかろうか、なんて思ってしまいます。

その村上さんの本に、「雑文集」というのがあります。


            

膨大な作品群があって、とても”ひと括り”には出来ない作家ですが、タイトルに「雑文集」とストレートに銘打つところがいかにも”偉ぶらない、もったいぶらない”村上さんらしい気がします。

周知のとおり、村上さんは作家デビュー前にジャズ喫茶を経営していたほどの音楽好きでその「音楽論」には心惹かれるものがあります。

たとえば、いつぞやのブログで「指揮者小澤征爾との対談集」を題材にしたことがありますが、ジャズのみならずクラシックにも造詣が深いことが伺えます。


ただし、オーディオマニアではないのが残念(笑)。

日常聴かれているのは「レコード」が主体で、それはそれで十分頷けるのだがシステムのほうがアキュフェーズのアンプとJBLの古い3ウェイのSPというずっと不動のラインアップ。

「この音が善くも悪くも自分のメルクマールになっている。そりゃあ、いい音で聴くのに越したことはないがオーディオに手間と時間をかける気にはなれない」とのことで、いっさいシステムを変えようとされない。

たしかに一理あるが、
第三者からすると実に惜しい!

作家だけあってものすごく筆は立つし、前述のように音楽への造詣は深いし、カリスマ性もあるし、もし村上さんがオーディオマニアだったら、前述の「五味康祐」(故人、作家)さんの後継になれたのにと思います。

もしそうなると読者の一部がオーディオに興味を持ったりして日本のオーディオ界も少しは潤い、元気が出たかもしれないですね。

往時の盛況と比べると転落の一途を辿る「オーディオ界」ですが、近年では「You Tube」の可能性に微かな光明を見る思いがしています。


さて、話は戻ってこの「雑文集」の中に「余白のある音楽は聴き飽きない」の標題のもと、以下のような文章がありました。

「僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさは何か?

それは、いいものと悪いものの差がはっきり分かる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。

もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の質みたいなのは大きく違ってきますよね。

価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。

それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったりするわけだけど、僕の場合は音楽です。

それだけに本当にいい音楽に巡り合ったときの喜びというのは、文句なく素晴らしいです。極端な話、生きてて良かったなあと思います。」

以上のとおりですが、以下、文中の音楽という言葉を勝手に「再生音」に変換させてもらうことにしましょう。

長いことオーディオに熱中し、常にいいの悪いのと価値判断を続けていると、時折り自虐的になることがあります。

いったい何をやってんだろう、こんなに手間と時間を費やしている割りには目立った効果がいきなり上がるわけでもないし、むしろ、一歩前進、二歩後退のときだってあります。

このブログの読者だって「少しばかりの音の差にこだわっていつも騒々しいが、どうもこの人の心理状態がよく分からん。」と、きっと眉を顰める向きがあることでしょう(笑)。

そういう多勢に無勢のときに、村上さんから「微妙な小さな差を識別できることで”人生の質”が違ってくるし、価値判断の絶え間ない堆積が人生を作っていく」なんて言葉を聞かされると、まるで「百万の味方」を得たようにうれしくなります。

ここで村上さんが言う「人生の質」とは人それぞれの受け止め方になるのでしょうが、少なくとも「お金持ち」になることや社会的に「成功する」ことで得られるものでないことはおよそ想像がつきますよね。

で、具体的にどう形容すればいいんでしょう・・、あえて言えば各自が持っている「アンテナ」(社会的受容体)の感度の違いに喩えるのはいかがでしょうか。

たとえば、アンテナの感度の違いによって、「気が付かない」まま過ぎる、あるいは「気が付いているけど知らないふり」をする、この違いは人生の質に大きく関わってくると思いませんか。


ほんのささやかな「音楽&オーディオ」というフィールドですが
、これからも「微妙な差」にこだわりながら「ボケ防止」も兼ねて「アンテナの感度」を高めていくとしましょうかね、ただし・・、ずっとビンボーだったし、偉くもなれなかったので、「はらいせ」や「負け惜しみ」と受けとられると心外です~(笑)。



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音楽が脳にもたらす驚異的な効果

2025年02月26日 | 音楽談義

その昔、キャンディーズという女の子3人のグループがいました。



「春一番」というヒット曲があり、歌詞の中で「もうすぐ春(は~る)ですね ちょっと気取ってみませんか」

今朝の起床時の室内は24℃、いつもは20℃前後です。今日から週末にかけて暖かくなるそうです。いよいよ待望の春がやってきました、ちょっと気取ってみましょうよ(笑)。

さて、人間はどうやら己(おのれ)にとって都合の良い情報だけ切り取る傾向にあるらしいです。もちろんブログ主もその例に漏れません(笑)。


            


東北大学の教授が書かれた「生涯健康脳」は、「生涯にわたって脳を健康に保つ」ためのノウハウを分かりやすく説いた本でした。

この種の書籍は巷に氾濫しているので、ワン オブ ゼムのつもりで読んでみましたが、さして目新しいことはなかったものの、それでも気になる事柄があったので列挙しておきましょう。


☆ 脳の最高の栄養素は知的好奇心


脳の健康維持のために欠かせないのが毎日の30分以上の有酸素運動とともに、知的好奇心が挙げられています。

たとえば探究心、冒険心、追求心などワクワク、ドキドキが脳の中の神経伝達物質であるドーパミンを活性化させて脳全体をとても元気にするそうです。

したがって知的好奇心を大いに刺激する趣味を持つことは脳にとって素晴らしい効果をもたらすというわけで、筆者なんか暇さえあればオーディオを弄りまくりながら冒険心に火を点けてワクワクしています。

しかし、オーディオが知的かどうかは論議を呼ぶところでしょうね、中には自分のような「お〇〇」さんもいるようだし~(笑)。


☆ 音楽は脳の報酬系を刺激する


以下、引用。

「音楽を聴くととても良い気持ちになります。ここでもまた脳の中では凄いことが起きているのです。脳はご褒美をもらったような状態になっているのです。音楽を聴くと脳の<報酬系>と呼ばれる領域が活発になることがカナダの大学の研究で分かっています。


報酬系というのは詳しくお話しすると、欲求が満たされたときに心地よいという感覚を与える神経伝達物質を放出する神経系のことです。

会社で給料が上がるなどの良いニュースを聞くととても良い気持ちになってヤル気が出たりしますが、欲求が満たされると予測することでも脳は活性化するのです。


報酬系の領域が活性化されると、灰白質の体積が増えるという報告もあります。よく褒めて伸ばすという事例がありますが、まさにそれに当たります。

つまり、音楽を聴くと欲求が満たされたり、褒められたりしたときと同じような心地よい気持ちに自然となるのです。

また音楽を聴くと一部の領域だけでなく多くの領域の働きが活発になることが分かっています。音楽を聴くだけでも脳にとっても良いのです。

したがって、脳にとって音楽は<百利あって一害なし>なのです。」


とまあ、そういうわけで日頃から音楽を聴くことは認知症予防のためにとってもいいことが分かりました。

したがって、これからも「音楽&オーディオ」をひときわ熱心に続けていこうと固く心に誓った次第です(笑)。

折りしも先日の「サイエンスZERO」(NHK Eテレ23:30~)では「音楽が脳にもたらすうれしい効果」を放映していました。

アメリカの上院議員(女性)が演説中に拳銃で脳を狙撃され幸い命はとりとめたものの失語症になってしまったが、音楽療法で発声方法を試みたところ劇的に回復した実例が紹介されていた。

音楽式の発声療法によって「右脳」(音楽などを司る脳)と「左脳」(論理的な脳)との連携がうまくいったからだそうだ。

またハードロック好き、クラシック好き、ジャズ好きの3人の治験者を例に5曲を聴かせてそのうち部分的に脳が好反応を示した小節をもとに「AI」で好きな音楽を創造して聴かせたところ「好きな音楽」が必ずしも「脳が心地よいと感じる音楽」と一致しないことが判明しました。

この興味深い事実から音楽愛好家は「好きな音楽」に限らずあらゆるジャンルに亘って幅広く聴くことが脳のためにいいことが導き出されます。

ブログ主はいつもクラシックを中心にジャズ、ポピュラー、歌謡曲などジャンルを問わない聴き方をしていますが非常に理に適っていたことになりますね。

たとえば、歌謡曲では「セシル」「な
ごり雪」「異邦人」「また君に恋してる」「白い色は恋人の色」ほかにも島田祐子さんが歌う「芭蕉布」「花の街」・・、いかにも古いですねえ(笑)。「You Tube」の恩恵をたっぷりと受け取っています!

以上ですが、まあ自分の都合のいい情報だけを切り取ったことは争えないので、あまり信用してもらえないかもしれないと危惧しています(笑)。



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ピアニスト「内田光子」さん

2025年02月22日 | 音楽談義

つい先日のブログ「音と音の間の沈黙を聴く」は近年にない大ヒット(アクセス)でした。匿名の方からも次のようなメールをいただきました。(抜粋)

「昨日まで家内と 東北方面(秋田、岩手)へ旅行でした。新潟岐阜地域は大雪でしたが 行ったところはそれほどの降雪は無く旅もスムーズに終わりました。

角館武家屋敷の大雪に囲まれた異次元の世界を楽しみにしていましたが 降雪の中、樹齢3-400年の樹々は雪化粧少なくすこし残念でしたが 途中の山々でみた全ての物を内に隠しての単調な樹々たちの モノクロの素朴な世界。

帰ってから読んだブロブ主のサティの世界と相通じるものを感じました。

曲では やはり ジムノペディア1番の世界が 私は好きです。夜 寝る前によく聞きます。」

メールありがとうございます。ほんとうのクラシック通によく見られる「音と音の間の沈黙を聴く」仲間がいらっしゃるのは心強いですね。

で、ブログの中で取り上げていたモーツァルトの「ピアノソナタ全集」。

      

ピリスの演奏にゾッコンでしたが、同じくらい素敵だと思ったのが「内田光子」さん(上段の右端)でした。

今や、日本が生んだ世界的なピアニストですね。

クラシックの場合、ピアノとヴァイオリンが楽器の双璧となりますが、
前者の場合表現力が多彩なのでたった1台でオーケストラの代役だって務まるのが凄いところです。

ちなみに、表現できる周波数の範囲はピアノがおよそ「40ヘルツ~6000ヘルツ」、ヴァイオリンがおよそ「170ヘルツ~1万ヘルツ以上」となっています。40ヘルツまで出るなんて、ちょっと驚きますがあの図体からすると さもありなんです(笑)。

さて、ハイライトは内田光子さんです。彼女の世界にちょっと分け入ってみましょう。


聞くところによると彼女が弾いている愛器「スタンウェイ」(一説によると4千万円で購入?)は特別につくりがよくて抜群の響きだそうだし、しかもフェリップス・レーベルでCDを輩出しているので録音もいいとなると、まさに芸術家としての資質と周辺のテクノロジーが両立した近年稀にみる演奏家だといえそうです。

何といっても彼女のCD盤はまずハズレが無い。あのとびっきり難しいベートーヴェンのピアノ・ソナタ32番だってバックハウスに迫る勢いだし、録音がいいだけにむしろ総合力では上かもしれませんね。

さらには、演奏家としての活動のほかにいろんな人たち、たとえば音楽評論家などとの対談が非常に多く、これらを通じて音楽への造詣がことのほか深いのに驚かされました。

それでは、まずネット情報から。

1948年静岡県生まれとあります。ということは当年とって77歳前後。ずっとロンドン住まいで2001年、英国エリザベス女王より「サー」に続くCBE勲章(大英帝国勲章)を授与されています。

また、音楽評論家濱田滋郎氏との対談「内田光子の指揮者論」によるといろんな音楽を相当深く聴きこんでおり特に指揮者フルトヴェングラーへの傾倒が目を引いた。これだけでも音楽への接し方におよそ見当がつこうというものです。

次に、文献として次の本から。

「ピアノとピアノ音楽」(2008年7月10日、音楽之友社刊) → 

著者の藤田晴子さんは1918年生まれ、昭和13年に日本音楽コンクールピアノ部門の第一位。昭和21年に東京大学法学部の女子第一期生として入学した才媛。

本書の268頁~275頁にかけて、内田光子さんに関する詳しい記述があったので箇条書き風に引用させてもらいました。

 ドイツやオーストリアの大使を務めた外交官「内田藤雄」氏のご息女であり、12歳で渡欧、ウィーン音大を最優秀で卒業し、1970年ショパン国際コンクールの第二位という今でも日本人としては最高位の入賞を果たした。

 佐々木喜久氏によると内田光子さんが一気に「世界的」となった契機は1982年6月のロンドンのウィグモア・ホールにおけるモーツァルト・ピアノ・ソナタ全曲演奏だった。このときはリサイタルを5回に分けて火曜日ごとに開き「ウチダの火曜日」(ファイナンシャル・タイムズ)という今や伝説的にさえなった名コピーが生まれたほどの鮮烈なデヴューを果たした。

このときの演奏がもとで、メジャー・レーベル、フィリップスによりモーツァルのソナタと協奏曲の全曲録音という大事業に結びついた。

内田さんも後日、対談で「いろんな試行錯誤を繰り返して、完全に抜け切れたのは、やはり、モーツァルトのソナタを全曲演奏で弾いたとき(’82年)。突然、自分の音楽の形がスパッと見えちゃったんです。」

 次にアメリカでの好評。同じく佐々木氏によるとモーツァルト没後200年に湧くアメリカでの「内田のニューヨーク初のモーツァルト・ソナタ・シリーズは注目の演奏会だった。高名な音楽評論家が、内田さんの初日演奏のあと「モーツァルトを愛する人は、是非ウチダの演奏を聴きに行くべきだ」と批評の中に思わず書かずにいられなかった。」という。

 「この40年はロンドンでひとり住まい」に対して「私がつくっている西洋音楽の世界というものは、私程度の才能では日本に住んだら死んでしまいます。私が勉強したウィーンには伝統の良さと悪さの両方があってモーツァルトはこういうものというような押しつけがましい規則にあふれていました。英国の方が自由な空気があるはずだと本能的に思ったんです。実際にそうでした。ロンドンが私の家。ああ、帰ったなとほっとします。」これで彼女のロンドン好きの謎が解ける。

 先年の来日記念会見で内田さんは「1000回生まれ変わったら998回はピアニストに」と言っておられる。あと2回はヴァイオリニストにというのも面白い。

 今後「20世紀のものをどんどん取り上げたいですね。シェーンベルクとヴェーベルンを中心に、これを広げて「ウィーン派と新ウィーン派とその友人たち」とするとモーツァルトもシューベルトも入ればベートーヴェンもブラームスもバッハも入る。面白いプログラムをつくってみたいな、と。

それと乗りかかった船でベートーヴェンの協奏曲集。シューベルトとシューマンとかドイツ語の世界にも気を引かれます。だから、もう人生短くて、短くて、アホなことやってられない」


※この「アホ」なことに因んで次のような言葉がある。「私は口紅1本持っていません。そんな時間が勿体ないから」 アハハ・・、(笑)。

最後になりますが、「少なくとも80歳まではピアノを弾き続ける」といわれる内田さん、今年も日本公演が行われるようですね。

日本と西洋の「文化と価値観」が合体しているといわれる独自の「内田節」が今後さらに完成度を高めて、歴史に名を刻むピアニストとして人々の記憶にきっと長く刻み込まれることでしょう。

 

冒頭の話に登場した角館の武家屋敷「つらら」の写真です(ご提供)。

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音と音の間の沈黙を聴く!

2025年02月19日 | 音楽談義

昨日(18日)のこと、オーディオ仲間のNさん(大分市)からお電話がありました。

「例のプリアンプの真空管「12AU7」を「CV4068」に代えた件だけど、プレート電圧は一緒だけど、電流値が違うので抵抗を変える必要があるよ。ついでのときに持ってきてくれないかな」

「えーっ、そうでしたか! 今でも十分上手く鳴ってますよ」

「いや、ちゃんとした規定値に納めておかないとどうも目覚めが悪くてね」

「ハイ、わかりました、今からお伺いします」

プリアンプはパワーアンプと違って小振りだし軽いので助かります。クルマを40分ほど走らせました。

抵抗値を決める細かな計算に想像以上の時間がかかって、作業に1時間半ほどかかりました。

無事終了して、その帰り道に久しぶりに「本屋さん」に立ち寄ったところ、
さりげなく店内に流れていたBGMがモーツァルトのピアノソナタでした。

「ああ、いいなあ!」と、思わずウットリして立ち尽くしてしまいました。

このところまったくご無沙汰だったピアノソナタ(全20曲)ですが

「一生の間、間断なく固執して作曲したジャンルに作曲家の本質が顕現している。モーツァルトのピアノソナタは湧き出る欲求の赴くままに、何らの報酬の当てもなく作られた故か不思議な光芒を放って深夜の空に浮かんでいる」(石堂淑朗氏)

のとおり、モーツァルトの作品の中では非常に地味な存在だが聴けば聴くほどにモーツァルトの素顔が顕わになる音楽であり、一度はまってしまうと病み付きになる音楽でもあります(笑)。


急いで自宅に戻ると関連のCDを引っ張り出しました。「プリアンプ」の改造のせいか、以前よりも何だか音が艶めいてきましたよ(笑)。

      

感受性が豊かだった30代の頃は聴きながらたびたび感涙に咽んだものだが、この年齢になるとスレッカラシになってしまい涙の一滴も出てこないが(笑)、それでもやはり相性がいいのだろうか、相変わらず琴線に触れるものがある。

グールドに始まって、ピリス、内田光子、アラウ、ギーゼキング、シフと聴いてみたがこの年齢になると自然体の演奏が一番ピッタリくるので、その点グールドはあまりに個性が際立っていてちょっと押しつけがましい気がしてきた。

当時はグールドでなければ夜も昼も明けなかったのに、年代によって好みが変わってくる典型的な例ですね。


その一方、ピリスはまことに中庸を得ていて、普段着のままの気取ったところが無いし何よりも「音楽心」があってたいへん好ましい。

「音楽は普段の生活の中で味わうものです。何も着飾ってコンサートに行く必要はありません。」が、彼女のモットーだが、この演奏も等身大そのままの音楽を聴かせてくれる。

このソナタを久しぶりに堪能させてもらったおかげで、このところオーディオに傾いていたマインドが振り子のように音楽に戻っていくのはメデタシ、メデタシ。

これが「音楽とオーディオ」の本来あるべき姿なんだから(笑)。


そして、ふとこの「音楽の押しつけがましさ」で連想したのが「生きている。ただそれだけでありがたい。」(新井 満著:1988年芥川賞)
の中の一節。

                     

この中でなかなか興味深いことが書いてありました。(61頁)

著者が娘に対して「自分のお葬式の時にはサティのグノシェンヌ第5番をBGMでかけてくれ」と依頼しながらこう続く。

「それにしても、何故私はサティなんかを好きになってしまったのか。サティの作品はどれも似たような曲調だし、盛り上がりにも欠けている。淡々と始まり、淡々と終わり、魂を震わすような感動がない。バッハやマーラーを聴く時とは大違いだ。

だが、心地よい。限りなく心地よい。その心地よさの原因はサティが声高に聴け!と叫ばない音楽表現をしているせいだろう。サティの作品には驚くほど音符が少ない。スカスカだ。音を聴くというよりはむしろ、音と音の間に横たわる沈黙を聴かされているようでもある。

沈黙とは譜面上、空白として表される。つまり白い音楽だ。サティを聴くということは、白い静寂と沈黙の音楽に身をまかせて、時空の海をゆらりゆらりと漂い流れてゆくということ。

毎晩疲れ果てて帰宅し、ステレオの再生ボタンを押す。サティが流れてくる。昼間の喧騒を消しゴムで拭き消すように。静寂の空気があたりに満ちる。この白い壁の中には誰も侵入することができない。白い壁の中でたゆたう白い音楽。」

以上、これこそプロの作家が音楽について語る、まるでお手本のような筆致の文章だとは思いませんか! 自分のような素人がとても及ぶところではありません(涙)。

サティの押しつけがましさのない音楽の素晴らしさが充分に伝わってきますが、実は、文中にある「音と音の間に横たわる沈黙」については思い当たる節があります。

以前、クラシック音楽の大先達だった五味康祐さんが生涯に亘って愛好された曲目をベスト10として掲げてあるのをネットで拝見したが、第1位の「魔笛」に続いて第2位にランクされていたのがオペラ「ペレアスとメリザンド」(ドビュッシー)。

五味さんほどの方が愛好される音楽だからさっそく聴いてみようと指揮者の違うCDを2セット(ハイティンクとアンセルメ)を購入して聴いたところ、これがあまりピンときませんでした。
           

気の遠くなるような長い静寂の中を登場人物がぼそぼそと囁くようにつぶやく、まことに冴えないオペラで、メロディらしいものもなく盛り上がりにももちろん欠ける。五味さんほどの方がこんな曲の何処が気に入ったんだろうと正直言ってガッカリしました。

しかし、今となってみるとこれはサティの音楽とそっくりで、五味さんはもしかすると「音と音の間の沈黙」を聴かれていたのかもしれないと思えてきました。

この沈黙を聴きとるためには、聴く側にも心の準備として自己の内面と秘かに向き合う「静謐感」が必要であることは、クラシック音楽ファンならきっと思い当たるに違いありません。

とはいえ、「音楽は音と音の間に横たわる沈黙を聴きとることで昇華できる」なんてことを偉そうに書くと、すぐに馬脚が現れそうなのでこの辺でお終いにしておくのが無難でしょうよ(笑)。

 

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まだ忘れ去られていなかった「ジネット・ヌヴー」

2025年02月13日 | 音楽談義

前々回のブログ「シベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴く」で、触れた女流ヴァイオリニスト「ジネット・ヌヴー」・・、さっそく読者から肯定的な反応がありました。



まだすっかり忘れ去られてなかったんですね・・、まずは驚き、そして彼女の一ファンとして素直に嬉しくなりました。

ヌヴーの演奏に のめり込める 方は心の底からクラシック音楽を愛している何よりの証拠だと思いますのでね~、ブログ主と同様に(笑)。

それでは、読者の「T」さんからのお便りを紹介させていただきます。匿名ということで無断転載お許しください。

「私はごく最近貴方様のブログを知り、その興味深い内容を楽しく読ませていただいている者です。
私は多分貴方様とほぼ同じ世代ではないかと思っています。

長年、オーディオに関心を持って来ましたが、最近ようやく小型スピーカー1本で再生する良さが分かるようになりました。
それは新忠篤さんの「ねこ缶+マークオーディオのスピーカ」を聴いた体験によるものでした。

最近の小型スピーカーの性能向上は素晴らしいですね。
早速、私も同じ装置を作って中華製の安価なアンプで聴いておりますが、
これが長年やってきた私のオーディオの結論かと心底驚いている始末です。
一人で音楽を楽しむには、これで十分ではないかと思っています。
 
そういうことがあって、AXIOM80という個性的なスピーカーユニットにも興味が湧き、いろいろとネット上で調べていて、AXIOM80 を使いこなしておられる貴方様のブログにたどり着いた次第です。
 
ところで本日お便りしましたのは、ヌヴーの演奏したシベリウスのCDについてお尋ねしたかったからです。

お手持ちのCDは一般的に流布されているものでしょうか。
それとも新さんがダイレクト・トランスファーと称して出されている「レコードからSACD(DSD?)にされたもの」でしょうか。

恐らく両者は音が違うのではないかと推測致します。
SACDの方が若干低域、高域ともに音域が広いのではないかと私は推測しているのですが、、、
と言いますのは、新さんは使用レコードから拾った音を何等処理することなくSACD化されているからです。
 
シベリウスのヴァイオリン協奏曲は私も好きな曲ですので、
本日のブログを読ませていただいて、SACD版を入手しようかと思いました。
 
突然お便りを差し上げて大変恐縮しております。」

さっそく返信しました。

「お説のとおり、家庭でクラシック音楽を聴くのなら小型スピーカーで十分だと思いますよ。というか、むしろ3ウェイなどの大型システムよりもハーモニーの面でメリットの方が大きいのじゃないでしょうか。

「ネコ缶スピーカー+マークオーディオのスピーカー」は大いに興味があります。

偉そうに言う資格はありませんが、オーディオの要諦は ”シンプル イズ ベスト” ですから、とても良い方向に向かわれていると思います。

それから、CDのジャケットを6枚まとめて撮りましたので、ブログの本文の方に追加して張り付けておきました。これでお訊ねの内容はご理解していただけるのではないかと思います。最初から懸念していたのですが、ま、いっかと つい手を抜いてしまいました(笑)。」

その追加画像とは次の通りです。



上段 → 左から「ジネット・ヌヴー」「カミラ・ウィックス」「ハイフェッツ」

下段 → 左から「オイストラフ1」「オイストラフ2」「サルバトーレ・アッカルド」

返信は以上です。

そして、肝心の大物を忘れていました(笑)。



ヒラリー・ハーンです。技巧的には初めからトップ・クラスでしたが、円熟味を増してきて、今や押しも押されもせぬ世界的なヴァイオリニストに成長しましたね。

「You Tube」で聴けるブルッフのヴァイオリン協奏曲(ライブ)は期待を裏切りません。絶対のお薦めです!



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シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」を聴く

2025年02月11日 | 音楽談義

理想的なオーディオ・システムも完成したことだし、これからは意欲的に音楽中心の生活に切り替えていかねば・・、出来るかな?(笑)。

さて、「AXIOM80」がもっとも再生を得意とするヴァイオリンは筆者のとても好きな楽器の一つだが、ジャンルとしては大きく分けてヴァイオリン・ソナタとヴァイオリン協奏曲の二つがある。

芸術的には「ヴァイオリン・ソナタ」の方が一枚上で、密度が濃いような気がするが、何しろ真冬のせいもあってやけに肌寒い感じがしてくるので、腰をすえて聴くとなるとやや温かみのある協奏曲のほうに食指がそそられる。

ヴァイオリン協奏曲(以下、「V協奏曲」)といえば名曲群が目白押し。

バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルッフといった大物達が勢ぞろいだが、彼らに引けを取らないフィンランドの国民的な大作曲家シベリウス(1865~1957)の名品を外すわけにはいきませんね~。

(このV協奏曲は)1903年、シベリウスが37歳のときの作品で、

第一楽章 アレグロ・モデラート(約16分)
第二楽章 アダージョ・ディ・モルト(約8分)
第三楽章 アレグロ・マ・ノン・タント(約8分)計約32分で構成されている。

第一楽章に最大の重点が置かれ、独奏ヴァイオリンの登場のしかたが非常に繊細、かつ魅力的で女流ヴァイリニストのレパートリーに必ず入っているといっていいほどの人気作品。

シベリウスの音楽については五味康祐氏の名著「西方の音」(118~127頁)に詳しい記述がある。

「フィンランドの民話と伝説と、心象風景への愛をうたいあげ、シベリウスといえばフィンランド、それほど強烈な個性を彼の音楽に育ませたのは母国への愛そのものだった。しかし、後半期の作品に楽想の枯渇が見られることからその音楽的生命と才能は三十台の後半で咲ききるものだった」

例によって五味さん独自の辛らつな考察が展開されているが、その意味ではこのV協奏曲はシベリウスの創作の絶頂期に位置する作品ともいえる。

シベリウス自身も若いときにヴァイオリニストを志し、挫折して作曲家に転じたのでヴァイオリンに格別の愛着を持っていたことから、北欧の憂愁さが全編を覆い、超絶技巧と独特の透明感が絶妙に絡み合って、極めてレベルの高い作品となり北欧音楽最高傑作の一つといわれている。


最初に聴いたのは当時交流のあったAさん宅でアッカルド盤だった。たいへんな感銘を受けてすぐに、同じアッカルド盤を購入したが当然それだけではあきたらず以後、例によってコツコツと同曲異種の盤を集めてとうとう6セットになってしまった。



今では「You Tube」で簡単に聴けるので6セット集めたといってもあまり自慢にはなりませんがね(笑)。

一演奏あたり約30分、全体をとおして聴いてもときどき休憩を挟んでおよそ4時間もあれば十分・・、まだ集中力に耐えうる時間なので、比較する意味で年代順に一気に聴いてみました。

1 ジネット・ヌヴー ジュスキント指揮 フィルハーモニア交響楽団  
  録音1946年
 

2 カミラ・ウィックス  エールリンク指揮 ストックホルム放送交響楽団 録音1951年

3 ヤッシャ・ハイフェッツ ヘンドル指揮 シカゴ交響楽団
  録音1959年

4 ダヴィド・オイストラフ オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団  録音1959年

5 ダヴィド・オイストラフ  ロジストヴェンスキー指揮 ソヴィエト国立放送交響楽団  録音1965年(ライブ)

6 サルヴァトーレ・アッカルド  コリン・デービス指揮 ロンドン交響楽団   録音1979年

【試聴結果】

例によって言いたい放題ですけど、あくまでも私見ですからそのつもりでね(笑)。

1 フランスの女流ヴァイオリニスト・ヌヴーは1949年に航空事故のため30歳で亡くなったがいまだにその才能を惜しむ声が多い。若年のときのヴァイオリン国際コンクールでヌヴーが第一位、二位がなんとあのオイストラフだったのは有名な話で同世代の中では才能が抜きん出ていたという。

この盤については、たしかな技巧、高貴な気品、底流にある情熱、第二楽章の瞑想的な演奏にはほんとうに胸を打たれる。女流にしては実に線が太い。しかし、何せ当時のことなので録音がいまいち。もちろんモノラルで周波数の最低域と最高域をスパッとカットしていて、ノイズはまったくないがオーケストラの音が人工的で物足りない。はじめから独奏ヴァイオリンとして聴く心積もりが必要かな。

2 シベリウスは92歳の天寿をまっとうしたが、生存中の晩年アメリカの女流カミラ・ウィックスの演奏を聴いて「理想の名演」と賛辞を贈り自宅に招いて歓談のときを過ごしたという。

いわばこの盤は作曲家お墨付きの演奏ということだが、何といってもおおもとの作曲家の後押しがあるのは強力で、音楽市場での売れ行きもよいようだ。

それはそうだろう。この協奏曲を愛好するものであれば作曲家自身が推薦する演奏を絶対に素通りするわけにはいきませんよね。

この盤を購入した自分も間違いなくその一人で、この際じっくりと聴いてみたが、ヴァイオリンもオーケストラも少し軽量級の印象を受けた。

盛り上がりに欠けているような気がして、湧き上がってくるものもない。ヌヴー盤には、「及ばず」というのが正直な印象。失礼な言い方だが、「老いては駄馬」となったシベリウスだから「ウィックス=ベスト」論も説得力がないというのがブログ主の大胆な意見になるがどうなんだろう。

3 専門誌の評価が高くいわば本命の登場である。さすがにハイフェッツ。冷ややかな抒情、鋭い音感、壮麗明快な技巧において非の打ちどころがない演奏。

怜悧な精密機械ぶりが北欧の雰囲気とマッチしている感があるが、はっきりいってこれは自分の好みではない。また指揮も含めてオーケストラがタメのきいていない演奏で盛り上げ方が希薄。総合的に満たされない思いがする。

4 オイストラフが51歳という全盛時代の終盤に位置する演奏。アメリカ演奏旅行中に収録されたもので、ヴァイオリンの冴えは相変わらずだが、オーケストラがやや目立ちすぎで両者の息がいまひとつ合っていない印象。それにアメリカのオーケストラでは森と湖の国、冷たい空気に満たされた北欧フィンランドの雰囲気は無理だというのが率直な感想。

5 オーケストラが控えめで、きちんとヴァイオリンの引き立て役に回っており好ましい印象。オイストラフも4に比べてエネルギッシュで元気がある。これはライブ盤だがやはり地元の利なのだろうか。全編を北欧の寒々とした自然を思わせる抒情味が貫いている印象で、こちらの演奏の方が4よりずっといい。

第二楽章のアダージョではオイストラフの思うがままの独壇場で北欧風の憧れと郷愁がそこはかとなく漂っていて実に気持ちがいい。

6 さすがにシベリウスを得意とするコリン・デービス(指揮)で、盛り上げ方も充分かつ独奏ヴァイオリンの引き立て方を知っている。オーケストラに限ってはこれがベストだと思う。

アッカルドはこれといって不満はないのだが、やや小粒で線が細い印象がする。ヴァイオリンの音色にもっと厚みと太さが欲しい。しかし、第二楽章のアダージョはなかなか聴かせる。アレグロよりもアダージョの方が得意のようだ。

こうして、ひととおり6セットを試聴した後に、どうも気になって再度1のヌヴー盤だけを聴き直してみました。

改めて、これは凄い演奏!

言葉では表現しにくいがここにはハイフェッツもオイストラフからさえも伺えなかった音楽の生命力のようなものがある。

”人を心から感動させる神聖な炎が燃えている、こういう演奏が聴きたかったんだ!” そう思ったとたんに年甲斐もなく目がしらが熱くなりましたぞ。

この空前絶後の演奏の前には、録音の悪さも、オーケストラの貧弱さもまったく帳消しでこの盤をNo.1にすることにまったく「ためらい」を覚えません。彼女が弾いたブラームスの「V協奏曲」(ライブ盤)と同等の存在ですね!

それにしても、こうやって他の演奏者をひととおり聴いた後(あと)でなければヌヴーの真髄に触れることが出来なかったのはいったいどういうわけなんだろう?

ヌヴーは今回の試聴で大収穫だったが、今更ながら有り余る才能を残しての早世はほんとうに惜しまれる・・・・。

彼女に「人の2倍明るく輝き、人の半分しか燃えなかった炎」というある墓碑銘をそっくり捧げるとしよう。



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大谷選手は「モーツァルト」の現代版?

2025年02月01日 | 音楽談義

先日のこと、テレビ番組が「学校で教えてくれない音楽の知られざる秘密」というタイトルで特集を組んでいた。

一般の人にはちょっと敷居が高いとされるクラシック音楽を身近に分かりやすく解説してもっと親しんでもらおうという目論みで、解説はヴァイオリニストの「葉加瀬太郎」氏。

冒頭に「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」(イギリスの文学者)という言葉が紹介された。

その意味は、たとえば同じ芸術の範疇にある文学の場合はどうしてもその時代の道徳とか社会のルールに制約を受けてしまう、一例をあげると一夫多妻制の国と一夫一妻制の国とでは、複数の女性を愛したときの文章表現がどうしても変わってしまう。

その点、音楽は音符の組み合わせによって調べを作るだけなので、言語の違いなどを含めて何ら制約を受けることなくあらゆる国境を乗り越えて人の心に沁みこみ親しまれるという趣旨だった。

「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である」と言ったのはベートーヴェンだが、芸術はスポーツなどと違って順番を付けるのはまったく意味が無いなので「音楽はあらゆる芸術の中で最高だ」なんて野暮な話は抜きにしましょうね(笑)。

さて、本題に戻って、この番組の中で葉加瀬氏が「モーツァルトは天才です。次から次に楽想が浮かんで音符を書くのが追いつかないほどで彼の楽譜に接するたびに天才と対面している思いがします。」と言っていた。

これまで「モーツァルト天才説」は耳にタコができるほど聞かされてきたが、はたしてほんとうの意味で天才だったのだろうか?

熱烈なモーツァルトファンのひとりとして大いに興味があるので「検証」にチャレンジ
してみましょう。

実は、それには格好の「道しるべ」となる本があるんです。ちょっと長くなるが要約してみます。



ご存知のとおり、人間一人ひとりは生まれながらにして風貌も違えば五感すべての感受性も違うし、運動能力にも天地の違いがある。 

そして、その差が遺伝子の相違に起因することは疑いがない。さらに人間はこの遺伝子に加えて生まれ育った環境と経験によっても変容を遂げていく。そうすると、一人の人間の人生行路に占める遺伝子の働きの割合は”どのくらい”と考えたらいいのだろうか。 

自然科学の実験結果のようにスパッとした解答が出ないのはもちろんだが、脳科学専攻の大学教授の間でも説は分かれる。「知能指数IQの60%くらいは遺伝に依存する」との説。「脳の神経細胞同士をつなげる神経線維の増やし方にかかっているので、脳の使い方、育て方によって決まる」との説などいろいろある。

集約すると「およそ60%の高い比率で遺伝子の影響を受けるとしても残り40%の活かし方で人生は千変万化する」とのこと。モーツァルト級の楽才の遺伝子は極めて稀だが、人類史上数百人に宿っていたと考えられ、これらの人たちが第二のモーツァルトになれなかったのは、生まれた時代、受けた教育も含めて育った環境の違いによるとのこと。

この育った環境に注目して
「臨界期」という興味深い言葉が本書の52頁に登場する。

これは、一定の年齢以下で経験させなければ以後いかなる努力をなそうとも身に付かない能力、技術というものがあり、物事を超一流のレベルで修得していく過程に、「年齢」という厳しい制限が大きく立ちはだかっていることを指している。

顕著な一例として、ヨーロッパ言語の修得の際、日本人には難解とされるLとRの発音、および聴き取りの技術は生後八~九ヶ月が最適期であり、マルチリンガルの時期は八歳前後というのが定説で、0歳から八歳までの時期が才能開発のための「臨界期」というわけである。

もちろん、音楽の才能もその例に漏れない。

ここでモーツァルトの登場である。幼児期から作曲の才能に秀で、5歳のときにピアノのための小曲を、八歳のときに最初の交響曲を、十一歳のときにオペラを書いたという音楽史上稀に見る早熟の天才である。

モーツァルトは産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、三歳のときから名教師である父親から音楽理論と実技の双方を徹底的に叩き込まれている。

この父親(レオポルド)は当時としては画期的な「ヴァイオリン基本教程試論」を書いたほどの名教育者であり、「作曲するときはできるだけ音符の数を少なく」と(モーツァルトを)鍛え上げたのは有名な話。

こうしてモーツァルトは「臨界期」の条件を完璧に満たしたモデルのような存在であり、この父親の教育をはじめとした周囲の環境があってこそはじめて出来上がった天才といえる。

したがって、モーツァルトは高度の作曲能力を「身につけた」のであって、「持って生まれてきた」わけでは決してない。群百の音楽家に比して百倍も千倍も努力し、その努力を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかっただけの話。

そこで結局、モーツァルトに当てはまる「天才の秘密」とは、育った環境に恵まれていたことに加えて、「好きでたまらない」ためにどんなに困難な努力が伴ってもそれを苦労と感じない「類稀なる学習能力」という生まれつきの遺伝子を持っていた。

というのが本書の結論でした。キーワードは「苦労と感じない類まれなる学習能力」ですかね。「天才とは努力し得る才である」(ゲーテ)。


「好きでたまらない」ことに伴う苦労を楽しみに換える能力が天才の条件のひとつとすれば、かなりの人が臨界期の環境に恵まれてさえいれば天才となる可能性を秘めているような気がします。

天才とは凡人にとって意外と身近な存在であり、もしかすると紙一重の存在なのかもしれないですね。

と、ここでついMLBの大谷選手を連想してしまいました。

父親と母親が両方ともスポーツマンで、遺伝的に体格や運動神経に恵まれていたこと、父親が野球の模範的な指導者だったこと、幼少の頃から野球漬けの環境だったこと、好きでたまらない野球に対してたゆまない努力を苦痛と思わない勤勉性・・、音楽とスポーツの違いがあるとはいえ、彼は
まさに「モーツァルト」の現代版ではないでしょうかねえ・・、そうは思いませんか(笑)。



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脳を麻痺させて音楽を受け入れやすくする工夫

2025年01月21日 | 音楽談義

いまだに「過去記事ランキング」にときどき登場するのが「バッハとウィスキー」。

もう2年ほど前の記事になるのに・・、、大半の記事が はかなくて もろい「打ち上げ花火」のようなものだからこういう事例は極めて珍しい(笑)。

よほど読者の共感を得るものがあるのだろうか。

念のため記事の内容を振り返っておくと、(要約)

「フランス発のミステリー番組(「アストリッドとラファエル」)の中でバッハの名曲「フーガの技法」の一部が登場していた。自分はモーツァルト一辺倒の人間だが、やはり音楽の母バッハには一目置かざるを得ない。

そこで、該当のCDを購入して聴いたところサッパリ馴染めず山の頂きに登る道筋さえも分からない。そこで、自棄(やけ)になって空きっ腹にウィスキーを流し込んで聴くと少し馴染みやすくなった」

という内容でした。

ちょっと話が逸れるが、実は夕食後にアルコールを嗜みながらゆったりクラシックを聴くのが一般的なのだろうが、ブログ主はなにしろ日頃から「血糖値が高目」なものだから、やむなく夕食前の「空きっ腹」のタイミングとならざるを得ないのが残念、無念(笑)。

そして、現在はウィスキーではなく、空きっ腹に「銀座のすずめ琥珀(麦焼酎)」を流し込んでいる。



で、本題に戻って、(読者の)興味の要因を推察してみよう。

 バッハ晩年の名曲「フーガの技法」の曲自体に興味を持った

 「バッハの音楽は難しいよね」と共感を覚えた

 いささか線香臭いバッハの音楽に馴染めずウィスキーまで持ち込むなんて・・、脳を麻痺させて音楽を受け入れやくする工夫に共感を覚えた

以上の3つぐらいかな~。もし、ほかにもあると思われる方はためらうことなくメールをくださいね。

ちなみに、「チャットGPT」に「バッハとウィスキー」と打ち込んでみたところ、つぎのような文章がスラスラと出てきた。

「バッハとウィスキーには直接的な関連はありませんが、それぞれは音楽と飲み物という異なる分野で重要な役割を果たしています。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、18世紀のドイツの作曲家であり、西洋音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされています。

バッハは多くの教会音楽やオルガン曲を作曲し、その作品は技巧的で複雑な構造や美しい旋律で知られています。彼の作品は音楽愛好家や音楽家にとって、永遠の名作となっています。

一方、ウィスキーはスコットランドやアイルランドなどで生産される蒸留酒の一種です。ウィスキーは大麦やトウモロコシ、ライ麦などの穀物を発酵させて蒸留し、熟成させることで作られます。

さまざまな種類のウィスキーがあり、それぞれ特有の風味とキャラクターを持っています。ウィスキーは世界中で愛され、飲み物として楽しまれるだけでなく、一部の人々にとっては芸術のようなものとも考えられています。

バッハとウィスキーは、異なる形態の芸術としての楽しみ方を提供しています。バッハの音楽は聴く人々に感情や美を与え、ウィスキーは飲む人々にリラックスや楽しみをもたらします。それぞれの領域で、深い探求や研究が行われ、人々の生活に豊かさをもたらしています。

ただし、バッハの音楽を聴きながらウィスキーを楽しむことは、音楽や飲み物それぞれの個別の鑑賞に集中するために、お互いの楽しみを最大限に引き出す方法とは言えません。それぞれを個別に楽しむことをおすすめします。」

そうかな・・、「チャットGPT」の限界を知る思いがしました!

ウィスキーは脳をある程度麻痺させて「馴染めそうにない音楽」を受け入れる素地をつくってくれる大切な役割を担っている、とくれば満点を上げたのにね~(笑)。

さらには、若いころの瑞々しい感性が失われつつある高齢者になればなるほど「音楽」に対してますます夢中にさせる麻薬的な効果もある・・、つまり「音楽とアルコール」の相乗効果も期待できる!

というわけですが、周知のとおりアルコールは「もろ刃の剣」ですよね。

成功談と失敗談・・、読者の方々のうち「音楽とアルコール」に関するエピソードがもしありましたらお聞かせくださいな~。



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優れた芸術とは奥深い疑問を我々に付きつけるテキストのことだ

2025年01月13日 | 音楽談義

つい先日、家人がドキリとするようなことを言った。

「昔は、お父さんはモーツァルトの音楽を聴いて ”涙が出るほどいいなあ~” とよく感激していたのに、この頃はなんだかオーディオのことばかり熱中してちっとも音楽を話題にしなくなったね~」。

ウーム、言われてみるとそうかもしれない。このところ、どうも音楽にのめり込む気がしないのも事実でいったいどうして?

やはり集中力と根気(持続性)が少なくなったことは否めないようで、たとえば長時間のオペラをずっと聴きとおすことはほぼ無くなっていることに気付かされる。肝心の感受性が鈍くなったとは思っていないけどね~(笑)。

このブログでもこのところ、好きな曲目の紹介など音楽関係の記事とはほぼ無縁の状態で「スピーカーをどうしたこうした、いい音とは・・」とかのオーディオ関係の記事が氾濫しているのはご承知の通り。

で、丁度いい機会だからここで改めて「音楽&とオーディオ」の関係について考えてみよう。

今さら述べるほどのことでもないが、これはいわば「主従の関係」であり「目的と手段」の関係でもある。

もちろん王様が音楽、オーディオが召使いである。音楽を聴くためにオーデイオが存在するのだから当然至極。

そして、音楽がおろそかになってオーディオが主になっている人は俗にいう「音キチ」とされ、これは道を踏み間違えて倒錯している人に対する蔑称となる。

で、当然のごとく「音キチでいいじゃないか!」と開き直る方がいてもちっとも不思議ではない。

あまり大きな声では言えないが、実は自分もその心境に近づいているのだ(笑)。

若干言い訳めくが「好きな音楽をいい音で聴きたい」と、一心不乱にシステムの一部を代えたり、ちょっとした工夫で「いい音」になったときの快感が忘れられず、それは名曲に親しむときに覚える快感に勝るとも劣らないといえる。

とはいえ、「キリがない」のも事実で、いくら「いい音」を手に入れたとしても何回も聴いているうちに何かしら不満が出てきてどこかをいじりたくなる、その繰り返しが延々と続いていく。いわばずっとトンネルの中にいて出口の明かりが見えないし、むしろ見ようともしないのかもしれない。

対比するとしたら、音楽は完結の世界になるが、オーディオは永遠に彷徨を続ける未完のような世界となる。

で、どちらが飽きがこないかといえばそれは後者でしょう(笑)。どんなに気に入った音楽でも何回も聴いていると飽きてくる経験をどなたでもお持ちのはずだから。

と、ここで堂々巡りの混迷の中、何らかの指針を得る意味で「村上春樹」さんの言葉を引用しよう。

「 僕は思うのだが、優れた芸術とは多くの奥深い疑問を我々に突き付けるテキストのことだ。そしてたいていの場合、そこには解答は用意されていない。解答は我々一人ひとりが自分の力で見つけていくしかない。

おまけにそのテキストは~もしそれが優れたテキストであればだが~休みなく動き続け、形を変え続ける。そこには無限の可能性がある。時には間違った解答も出てくることもあるかもしれない。そこにはそんな危険性もある、しかし可能性とは危険性の同義語でもあるのだ。」(バイロイト日記:文芸春秋)

音楽作品に対する奥深い疑問を自分なりに持ち続けてコツコツとその解答を見つけていく・・、まさに「頂門の一針」(ちょうもんのいっしん)で平和ボケした頭をガツンと殴られたような衝撃を受けましたよ(笑)。

で、その「奥深い疑問」とは、たとえば「神の存在」「信仰」あるいは「死」・・、「一流の芸術はその底流に死を内在させている」(河合隼雄氏)といったことになるんでしょうか。

音楽自体は芸術に昇華できるけどオーディオはどんなにいい音を出そうと不可能だという冷徹な事実を前に、チマチマした「音楽&オーディオ」論議なんか軽く吹き飛んでしまいますね~。

しかし、その一方では「面倒くさい話は抜きにして音楽もオーディオもそれなりに楽しめばいいんじゃない」という声が囁いてくる~、アハハ(笑)。



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人間の情念の深さを物語る名曲

2025年01月07日 | 音楽談義

ずっと昔の学生時代の話だが、長兄が持っていたレコードの中にオッテルロー指揮の「アルルの女」(ビゼー作曲:フランス)があった。

当時のことなのでまことにチャチなステレオ装置だったが、音の良し悪しなんかにはいっさい興味がなく、ひたすら音楽だけで十分満足していた頃で、レコードのライナーノートを繰り返し読みながらこの曲を聴き耽ったものだった。

そして「三つ子の魂百までも」で、どうしてももう一度聴いてみたいと、すでに「廃盤」となっていたが、やっとの思いでオークションでオッテルロー指揮のCD盤(外盤)を見つけて競り落としたのはまだ記憶に新しい頃だった。

急いで長兄に連絡してそのライナーノートをコピーして送ってもらったのは言うまでもない。


           

余談だが、このオッテルローさんはジャケットにあるとおりの自動車狂で、スピードを出し過ぎて交通事故で亡くなってしまった。当時からすでにオランダ最高の指揮者として君臨し、さらに将来を嘱望されていたのに惜しいことをしたものだ。

さて、このライナーノートから、かいつまんで要点を記してみよう。

≪アルルの女≫はドーデが書いた「風車小屋だより」(短編集)の第六番目に出てくる物語で、自ら脚色して三幕物の芝居として仕立てあげた。これに作曲したのがビゼーだったが、初演は大失敗。ドーデはこう嘆く。

「ああ!もうだめだ。半年の骨折りと、夢と、疲労と、希望、これらいっさいが、たった一夜のガス燈の焔に、焼けて、消えて、飛び去ってしまったのだ。」

しかし、本当に価値のある作品はいつまでも埋もれているはずがなく、初演から13年後に再演され、今度は大当たりをとって今日までフランス演劇の重要なレパートリーとなっている。

芝居の「あらすじ」は、ご存知の方も多いと思うが次のとおりである。

「アルル近郊の町の旧家の長男”フレデリ”は20歳の青年。父はすでに亡く、母と白痴の弟、それに老僕の4人暮らし。

あるとき闘牛場で知り合った妖艶な”アルルの女”に心を奪われてしまう。しかし、その女は牧場の番人の愛人だった。

フレデリは家族の猛反対にあって、仕方なく諦めて幼馴染の農家の娘との結婚話を進めるが、アルルの女が牧場の番人と駆け落ちすると知り、嫉妬と絶望のあまり塔の頂上から身を躍らせて自殺する。

その亡骸を見ながら老僕がつぶやく。”ごらんよ。恋で死ぬ男があるか、ないか・・・・”」


もちろん音楽も良かったが、当時まだ未成年のスレていない初心(うぶ)なハートにはストーリーの方がショックで、いまだ知らぬ大人の世界への憧れも手伝って「人間は恋のために死ねるのか!」と、その狂おしいまでの情熱に大いに心が揺り動かされたものだった。

こういう思い出があるから、長じても「アルルの女」にはひときわ”こだわり”があり、小林利之氏(音楽評論家)が推薦する名盤をコツコツと収集した。

オッテルロー盤以外にも、トスカニーニ盤、クリュイタンス盤、マルケヴィッチ盤、オーマンディ盤、デュトワ盤。
            

いずれ劣らぬ名演だと思うが、真打となると前述の「オッテルロー」盤と並んでケーゲル盤となる。「許 光俊」氏の評論を読んで共感を覚えた勢いでオークションで外盤を手に入れた。

オッテルロー盤を購入したときと同様に、当時このケーゲル盤は「廃盤」になっていて、それは、それは高値で取引されていた。
           

この曲はクラシックには珍しくサキソフォンが使われており、それが実に牧歌的な”いい味”を出しているが、賑やかさの中に悲しい結末に収束していく物悲しさが全編に漂っている。

共産党の体制側の幹部だったケーゲル(東ドイツ)はソ連邦の崩壊とともに拳銃自殺を遂げた指揮者だが、まるでそれを予感させるかのように全体に哀愁を帯びて心の中に染み入ってくる味わい深い演奏。

たとえ架空の物語にしろ「恋のために死ぬ人間がいる」かと思えば、実際に「イデオロギーの違いで死ぬ人間」もいる。「死は僕の最良の友達です」と言ったのはモーツァルトだが、とかく人間の死は操りがたい。

そして、これら幾多の名演の中で一番好きなのはやはりオッテルロー盤だ。


感受性豊かな若い頃にひとたび脳裡に深く刷り込まれた演奏は、その後どんな名演が出てこようと、覆るのは難しい。

どうやら個人的な「記憶」と「音楽」とは「情念」という深い部分で分かち難く結びついているものらしい。 



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楽器の王様「ストラディヴァリ」

2024年12月31日 | 音楽談義

この1年を締めくくるのに相応しい話題として選んだのは「楽器の王様」です。

クラシック音楽を奏でる楽器の内で「どれが一番好きか?」と、問われたとしたら大いに迷うけどやっぱりヴァイオリンでしょうか・・。どこか物悲し気で愁いを含んだ音色がはるか過ぎ去った昔の郷愁を呼び起こしてくれる。

クラシック音楽に絶対欠かせない楽器として、我が家のオーディオシステムで少なくともヴァイオリンが上手く鳴ってくれないと即アウトである。

言い換えると、常にヴァイオリンひいては弦楽器が上手く鳴ってくれることを念頭において調整に励んでいる。

然るに、ジャズ音楽には滅多なことではヴァイオリンが登場しない・・、いわば音楽再生の形態がまったく違うともいえるが、このことはクラシック愛好家とジャズ愛好家との基本的に相容れない溝を物語っているような気がしてならない(笑)。

改めてヴァイオリンの特徴を羅列してみよう。「チャットGPT」の出番です。

〇 豊かな音色
非常に表現力豊かな楽器なので、さまざまな音色を作り出すことができる。深く響く音から、明るく軽やかな音まで、演奏者の感情を込めて表現できる。

〇 幅広い音域
ヴァイオリンは、低音から高音まで広い音域をカバーでき、メロディやハーモニーを自由に演奏することができる。特に高音域でのピッチの正確さが求められるが、これができると非常に魅力的な音を出せる。

〇 表現力
弓の使い方、指の圧力、ヴィブラートなど、演奏者の技術や感性が大きく反映される楽器です。音の強弱やテンポ、リズムの変化を細かく表現することができ、音楽に感情を込めやすいです。

〇 ソロとアンサンブル両方で活躍
ヴァイオリンはソロ楽器としてもアンサンブル(オーケストラや室内楽)での演奏にも非常に重要な役割を果たす。ソロ演奏では個々の才能を表現する場があり、アンサンブルでは他の楽器と調和し、音楽全体を支える役割を果たす。

〇 多様な音楽ジャンルで使用
クラシック音楽だけでなく、ポップスなど、さまざまなジャンルで使われており、ヴァイオリンは非常に多才な楽器です。そのため、さまざまな音楽スタイルを楽しめることが魅力の一つです。

〇 
見た目の美しさ
ヴァイオリンのデザインや構造も美しく、演奏する際の姿勢や動きも優雅に見えます。この視覚的な美しさも多くの人々に愛されています。

これらの特徴が、ヴァイオリンを魅力的な楽器としている理由です。

というわけだが、もう一つ付け加えることがある。

それは途方もないお値段がすること。まあ、ヴァイオリンといってもピンからキリだろうが、1714年に製作された「ストラディヴァリ」なんかは20億円以上もするのだから度肝を抜かれる。まさに楽器の王様に相応しいですね。

関連して、先日のネット記事をちょっと長くなるが引用しよう。



アントニオ・ストラディバリが「黄金時代」に製作した「ヨアヒム・マ・ストラディバリウス」がサザビーズに出品される。最後の所有者である名ヴァイオリニスト、シホン・マの遺志により、売上は全て母校ニューイングランド音楽院の奨学金に充てられる予定だ。

かつて19世紀を代表するハンガリーのヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムが所有し、その後、アメリカで活躍した著名ヴァイオリニストで教育者でもあったシホン・マが受け継いだストラディバリウス「ヨアヒム・マ・ストラディバリウス」が2025年2月、ニューイングランド音楽院(NEC)から委託を受け、サザビーズに出品されることがわかった。

予想落札価格は1200万ドルから1800万ドル(約18億円〜約27億円)で、売上は全てNECの奨学金に充てられる予定。

このヴァイオリンは、アントニオ・ストラディバリが「黄金時代」にあたる1714年に製作したもので、マが2009年に亡くなるまで演奏し続けた。その後2016年に故人の意思を継ぎ、将来、母校NECの奨学金のために売却できるという条件で同校に寄贈された。NECへの寄贈後は、同院の上級学生数人によって演奏されてきた。今回の売却にあたり、NEC院長のアンドレア・カリンは、こう喜びを語る。

「私たちはこれにより、さらに多くの学生に投資し、彼らにチャンスを与える機会を得ることができます。NECに新たな才能を迎え入れ、次世代の音楽を支援し続けることができるのです。この楽器がこれまで、その音色を聞いた人、演奏した人すべてに影響を与えてきたように、今後もこの奨学金制度を通じて、その遺産をさらに多くの人々に広げることができることを嬉しく思います」

またサザビーズ会長兼アメリカ社長でグローバルビジネス開発責任者のマリ=クラウディア・ジメネスは、今回の出品について、「われわれが初めてこの楽器を目にしたとき、その存在感に圧倒されました」と語っている。卓越した芸術家や著名人が所有してきた美術品を数多く見てきたジメネスでさえ、これまで、ストラディバリウスを実際に見たり触ったことはなかったという。

「このヴァイオリンは300年以上前に作られたものですが、所有してきた伝説的な演奏家の影響で、クラシック音楽史に燦然と輝く楽器です。その長い歴史と世界に与えた影響について考えると、身震いする思いです」

サザビーズのプレスリリースによると、ヨアヒムは1879年、ブラームス本人による指揮のもと、ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調:作品77をこの楽器で初演したと言われている。

サザビーズの専門家は、確認されているストラディバリウス(約500本)の価格と、過去のオークション実績に基づき、並外れた品質と状態の「ヨアヒム・マ・ストラディバリウス」の推定価格を決定したという。ストラディバリウスの大半は、アントニオ・ストラディバリが生まれたイタリアの都市クレモナを中心に、博物館や文化施設に所蔵されている。

ジメネスは、「ヨアヒム・マは演奏可能な完璧な状態であると同時に、ストラディバリの黄金時代を象徴するもの。Lutier(弦楽器職人)としての頂点に君臨する楽器です。したがって、今回のオークションではストラディバリウスの新記録を樹立する可能性が十分にあると考えています」

オークションで落札されたヴァイオリンの現在の最高額は、かつてバイロン卿の孫娘が所有し、2011年にタリシオ・オークションハウスが落札したストラディバリウス「レディ・ブラント」の1590万ドル(現在の為替レートで23億8000万円)。

サザビーズは、幅広いコレクター、特に「恐竜や合衆国憲法、あるいは十戒の石版を落札するような」顧客層が入札に関心を示すと予想している。ジメネスは、「一生に一度あるかないかの逸品であり、楽器という枠を超越した存在。特別なヴァイオリンという以上の存在です」と興奮を隠さない。

「ヨアヒム・マ・ストラディバリウス」は、ロンドンと香港のサザビーズのオフィスで展示されたあと、2025年2月の「マスターズ・ウィーク」で競売にかけられる。」

以上のとおりで、来年(2025年)2月の落札価格が楽しみ~、しかるべき音楽関係者の手に落ちるといいのだが、当然のごとく「投資」ということも考えられる。

東南アジアの某国やアラブのお金持ちが暗躍する可能性大いにありだと睨んでいるがはたして・・(笑)。



最後に、どうか皆様「良いお年」をお迎えください。来年もよろしくお願いします。

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名演はオーディオを駆逐する

2024年12月27日 | 音楽談義

ずっと以前のブログで「演奏をとるか、録音をとるか」をテーマにしたことがある。

つまり、「あなたは音楽愛好家ですか or オーディオ愛好家ですか」の「二択」のリトマス試験紙のような問いかけである(笑)。

この中でフルトヴェングラー指揮のオペラ「ドン・ジョバンニ」(モーツァルト)を例に挙げて、「録音よりも演奏優位」とコメントしたところ、すぐにジャズファンの方からメールが来て「ジャズの場合も演奏優先ですよ。」とあったのはちょっと意外だった。

ジャズファンといえば圧倒的にオーディオ愛好家が多くて、おそらく「音キチ」だろうから録音の方により一層こだわるはずと思っていたので・・・。どうやら勘違いしていたようでたいへん失礼しました(笑)。

それにしても、いくらCD盤といったって録音状態は周知のとおり千差万別だが、オーディオシステムの再生能力との関係はいったいどうなってるんだろう。

つまり、悪い録音ほど高級システムが必要なのかどうか・・、有識者の見解を一度訊いてみたい気がする。

ところで、このほど娘に貸していたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲がようやく手元に戻ってきた。近々帰省予定の正月用の荷物と一緒に送ってきたもので、音楽評論家によるランキングで最も評判のいい「グリュミオー」盤である。

久しぶりに「3番と5番」を聴いてみたが何だかやたらに甘美(技巧)に走り過ぎた演奏のような気がして、昔とは悪い方向に印象が変わってしまった。

このところオーディオシステムが様変わりしたせいかもしれないし、耳(脳)が成長したのかそれとも退化したのか・・(笑)。

ちなみにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の最後となる5番は作品番号(KV:ケッヘル)219だからわずか19歳のときの作品となる。一方、ピアノ協奏曲の最後となる27番はKV.595だから亡くなる年の35歳のときの作品だ。

「作曲家の本質は生涯に亘って間断なく取り組んだジャンルに顕われる」(石堂淑朗氏)とすれば、比較的若いときにモーツァルトはこの「ヴァイオリン協奏曲」のジャンルを放棄したことが分かる。

あのベートーヴェンだってヴァイオリン協奏曲の表現力に限界を感じて1曲だけの作曲にとどまっているので、このジャンルの作品はそもそも「大作曲家」にとっては「画家の若描き」(未熟だけどシンプルな良さ)の類に属するのかもしれない。

それはともかく、グリュミオー以外にもっとマシな演奏はないものかと手持ちのCDを眺めてみた。

フランチェスカッティ、レーピン、オイストラフ、ハイフェッツ、オークレール、シュタインバッハー、そしてフリッツ・クライスラー。

フルトヴェングラーのこともあって、この中から一番期待した演奏はクライスラー(1875~1962)だった。往年の名ヴァイオリニストとしてつとに有名だが、何せ活躍した時代が時代だから現代に遺されたものはすべて78回転のSP時代の復刻版ばかり。

近代のデジタル録音からすると想像もできないような貧弱な音質に違いないとは聴く前から分かるが、あとは演奏がどうカバーするかだろう。
            

このクライスラーさんは自分が作曲した作品を大家の作品だと偽っていたことで有名だが、通常は逆で「大家の作品を自分の作曲だ」というのがありきたりのパターンなのでほんとにご愛嬌。

「フリッツ・クライスラー全集」(10枚セット)の中から、1939年に録音された「ヴァイオリン協奏曲第4番」(モーツァルト)を聴いてみた。ちなみに昔の録音は少し大きめの音で聴くに限る。

音が出た途端に「こりゃアカン」と思った。高音も低音も伸びていなくて周波数レンジが狭く何だか押しこめられた様な印象を受けたが、段々聴いている内に耳が慣れてきたせいかとても滋味深い演奏のように思えてきた。

近年のハイレゾとはまったく無縁の世界だが、ときどきこういう録音に浸るのもいい。むしろ音質がどうのこうのと気にしないでいいから、つまり、はなっから諦めがついているので純粋に音楽を鑑賞するにはもってこいかもしれない。

はじめに「ウェストミンスター」で聴き、途中から「AXIOM80」に切り替えたが、このくらいの名演になると、もうどちらでもヨロシという気分になってきましたよ~。

名演はオーディオを駆逐する・・(笑)。


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付かず離れずでいきましょうよ

2024年12月22日 | 音楽談義

前々回のブログ「壺中の天地を求めて」からの続きです。

ここ2か月余り「AXIOM80」がらみでご厚誼を賜っている「H」さんだが、オーデイオ絡みのメールのやり取りに加えて音楽についての情報交換も頻繁に行っている。

そういう「やり取り」を通じて、お互いのことをよく知り合えるのはたいへんいいことには違いないが、あまり近付きすぎても危険な要素を孕んでいるような気もする。

というのも・・、来し方
50年以上のオーディオ歴を振り返ってみて、様々な方々との「離合集散」を繰り返してきたが(けっして褒められたことではないですけどね・・)、その原因ともなると交流の密度が濃くなるにつれ、いろんな「不一致」が顕在化していって段々と疎遠になっていった気がする。

で、その「不一致」を具体的に挙げてみると、

 「オーディオ=音質」の好みの不一致

〇 「音楽」の好みの不一致

 「考え方・生活習慣」の不一致

これらの違いによって、「所詮は分かりあえないんだよなあ~」、という隙間風がそこはかとなく吹いてくるわけだが、生まれも育ちも、したがって「感性」も違う人間同士が一致するのは至難の業(わざ)というものですよね!

よって、相互の 「無暗(むやみ)な深入り」 は禁物というのが「大人の知恵」みたいな気がするわけで、その辺はHさんもご承知の様で「付かず離れずでいきましょうよ」と仰るので、(交流が)長続きするコツを分かっていらっしゃる・・と、大いに感心した。おそらく人生の酸いも甘いも噛分けた方なんだろうと推察している(笑)。

そういう前提のもとでの話だが、交流が深まるにつれHさんとかなり好みが一致しそうな気がしてきている。

たとえば、音質の好みに関しては同じ「AXIOM80」愛好家だから言うに及ばず、そして音楽の好みもなかなかの一致レベルなのである。

たとえば、Hさんの愛聴盤「荒城の月」のCDを「聴いてみませんか」と送っていただいたところ、これがなかなかいい。



このCDには20種類にもわたる様々な演奏が網羅されている。

たとえば、「第7トラック」に「マルセル・モイーズ(フルート)」、「第15トラック」には「ピエール・ランパル(フルート)」、そして「第16トラック」には「ゲリー・カー(コントラバス)とハーモン・ルイス(オルガン)」などが含まれていて、聴いていて心が洗われる思いがした。

原曲は周知のとおり「滝 廉太郎」(たき れんたろう)作曲で、幼少期を大分県竹田市で過ごした明治期きっての作曲家だったが、23歳と11か月であえなく病没したのは返す返すも惜しい。

もう少し長生きしていれば、彼は「日本のモーツァルト」になれた可能性が大いにあると思う~。

「荒城の月」以外にも「花」(♪春のうららの 隅田川・・)なんか有名ですよね。

ほかにもHさんは「加藤登紀子」さんがお好きと仰るから「満州里小唄をご存知ですか?」と情報提供した。



「You Tube」で簡単に聴けるから、と挙げたのだが、哀愁を帯びた歌唱力にゾッコンで「琵琶湖周航の歌」と並んでこの曲は加藤登紀子さんの代表曲じゃないかな~。

ちなみに、Hさんはお気に入りの曲についてけっして「You Tube」で済まそうとはされない、必ずCDを購入されるほど念が入っており、この「満州里小唄」もわざわざCDを購入されたそう。

「100点で聴けるものを95点で済ますわけにはいきませんからね」とのことで「シビヤでいい耳をされてますね!」「ハイ、AXIOM80のおかげです」

ウ~ン、参りました!(笑)。

最後に、これはまだHさんにはご連絡していないが、「ナナ・ムスクーリ」(1934~)という往年のギリシャの名花を自信を持ってお薦めしたい。このところ毎日「You Tube」でアルバムを聴くのが定番となっている。



ネットにはこうある。

「全世界で300万枚以上のレコード、450枚のアルバムを発売し、15言語(ギリシア語、フランス語、英語などど)で約1500曲の歌を発表した。

また、世界中で230以上のゴールド及びプラティナディスクを記録している。世界で最も、レコードの売り上げが多い歌手の一人であり、その売り上げ枚数は、2億3000枚以上ともいわれる。

クラシックの素養に裏打ちされた歌唱力もあって、持ち歌のレパートリーは大変広く、ジャズからポップス、クラシック、ギリシャ音楽からラテン、各国の民謡・童謡まで、オールラウンドにこなす。

ヒット曲は「愛」をテーマにしたものが多く、憂鬱、切望、および感傷的な黙想を愛の歌によって、かもし出しているといわれている。」

明らかにクラシック出身と思わせるその歌唱力、琴線に触れてくる独特の声音・・、ヒーリング系の歌手として是非一度聴いてみる価値ありだと思いますよ。もうとっくの昔に知ってるよという方がいらっしゃるかもしれないが~。

このブログの毎日の読者がおよそ1000人余り、そのうちの2割が「You Tube」で実際に聴かれたとしてそれが200名、そのうちの2割の「40名」が「満州里小唄」や「ナナ・ムスクーリ」を気に入られたとしたらブログ主は上出来だと思っています。

えっ、なぜ2割か?ですって・・、ほら「パレートの法則」(20対80のバラツキの法則)ってのがあるじゃないですか!(笑)


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