「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

大谷選手は「モーツァルト」の現代版?

2025年02月01日 | 音楽談義

先日のこと、テレビ番組が「学校で教えてくれない音楽の知られざる秘密」というタイトルで特集を組んでいた。

一般の人にはちょっと敷居が高いとされるクラシック音楽を身近に分かりやすく解説してもっと親しんでもらおうという目論みで、解説はヴァイオリニストの「葉加瀬太郎」氏。

冒頭に「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」(イギリスの文学者)という言葉が紹介された。

その意味は、たとえば同じ芸術の範疇にある文学の場合はどうしてもその時代の道徳とか社会のルールに制約を受けてしまう、一例をあげると一夫多妻制の国と一夫一妻制の国とでは、複数の女性を愛したときの文章表現がどうしても変わってしまう。

その点、音楽は音符の組み合わせによって調べを作るだけなので、言語の違いなどを含めて何ら制約を受けることなくあらゆる国境を乗り越えて人の心に沁みこみ親しまれるという趣旨だった。

「音楽は哲学よりもさらに高い啓示である」と言ったのはベートーヴェンだが、芸術はスポーツなどと違って順番を付けるのはまったく意味が無いなので「音楽はあらゆる芸術の中で最高だ」なんて野暮な話は抜きにしましょうね(笑)。

さて、本題に戻って、この番組の中で葉加瀬氏が「モーツァルトは天才です。次から次に楽想が浮かんで音符を書くのが追いつかないほどで彼の楽譜に接するたびに天才と対面している思いがします。」と言っていた。

これまで「モーツァルト天才説」は耳にタコができるほど聞かされてきたが、はたしてほんとうの意味で天才だったのだろうか?

熱烈なモーツァルトファンのひとりとして大いに興味があるので「検証」にチャレンジ
してみましょう。

実は、それには格好の「道しるべ」となる本があるんです。ちょっと長くなるが要約してみます。



ご存知のとおり、人間一人ひとりは生まれながらにして風貌も違えば五感すべての感受性も違うし、運動能力にも天地の違いがある。 

そして、その差が遺伝子の相違に起因することは疑いがない。さらに人間はこの遺伝子に加えて生まれ育った環境と経験によっても変容を遂げていく。そうすると、一人の人間の人生行路に占める遺伝子の働きの割合は”どのくらい”と考えたらいいのだろうか。 

自然科学の実験結果のようにスパッとした解答が出ないのはもちろんだが、脳科学専攻の大学教授の間でも説は分かれる。「知能指数IQの60%くらいは遺伝に依存する」との説。「脳の神経細胞同士をつなげる神経線維の増やし方にかかっているので、脳の使い方、育て方によって決まる」との説などいろいろある。

集約すると「およそ60%の高い比率で遺伝子の影響を受けるとしても残り40%の活かし方で人生は千変万化する」とのこと。モーツァルト級の楽才の遺伝子は極めて稀だが、人類史上数百人に宿っていたと考えられ、これらの人たちが第二のモーツァルトになれなかったのは、生まれた時代、受けた教育も含めて育った環境の違いによるとのこと。

この育った環境に注目して
「臨界期」という興味深い言葉が本書の52頁に登場する。

これは、一定の年齢以下で経験させなければ以後いかなる努力をなそうとも身に付かない能力、技術というものがあり、物事を超一流のレベルで修得していく過程に、「年齢」という厳しい制限が大きく立ちはだかっていることを指している。

顕著な一例として、ヨーロッパ言語の修得の際、日本人には難解とされるLとRの発音、および聴き取りの技術は生後八~九ヶ月が最適期であり、マルチリンガルの時期は八歳前後というのが定説で、0歳から八歳までの時期が才能開発のための「臨界期」というわけである。

もちろん、音楽の才能もその例に漏れない。

ここでモーツァルトの登場である。幼児期から作曲の才能に秀で、5歳のときにピアノのための小曲を、八歳のときに最初の交響曲を、十一歳のときにオペラを書いたという音楽史上稀に見る早熟の天才である。

モーツァルトは産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、三歳のときから名教師である父親から音楽理論と実技の双方を徹底的に叩き込まれている。

この父親(レオポルド)は当時としては画期的な「ヴァイオリン基本教程試論」を書いたほどの名教育者であり、「作曲するときはできるだけ音符の数を少なく」と(モーツァルトを)鍛え上げたのは有名な話。

こうしてモーツァルトは「臨界期」の条件を完璧に満たしたモデルのような存在であり、この父親の教育をはじめとした周囲の環境があってこそはじめて出来上がった天才といえる。

したがって、モーツァルトは高度の作曲能力を「身につけた」のであって、「持って生まれてきた」わけでは決してない。群百の音楽家に比して百倍も千倍も努力し、その努力を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかっただけの話。

そこで結局、モーツァルトに当てはまる「天才の秘密」とは、育った環境に恵まれていたことに加えて、「好きでたまらない」ためにどんなに困難な努力が伴ってもそれを苦労と感じない「類稀なる学習能力」という生まれつきの遺伝子を持っていた。

というのが本書の結論でした。キーワードは「苦労と感じない類まれなる学習能力」ですかね。「天才とは努力し得る才である」(ゲーテ)。


「好きでたまらない」ことに伴う苦労を楽しみに換える能力が天才の条件のひとつとすれば、かなりの人が臨界期の環境に恵まれてさえいれば天才となる可能性を秘めているような気がします。

天才とは凡人にとって意外と身近な存在であり、もしかすると紙一重の存在なのかもしれないですね。

と、ここでついMLBの大谷選手を連想してしまいました。

父親と母親が両方ともスポーツマンで、遺伝的に体格や運動神経に恵まれていたこと、父親が野球の模範的な指導者だったこと、幼少の頃から野球漬けの環境だったこと、好きでたまらない野球に対してたゆまない努力を苦痛と思わない勤勉性・・、音楽とスポーツの違いがあるとはいえ、彼は
まさに「モーツァルト」の現代版ではないでしょうかねえ・・、そうは思いませんか(笑)。



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脳を麻痺させて音楽を受け入れやすくする工夫

2025年01月21日 | 音楽談義

いまだに「過去記事ランキング」にときどき登場するのが「バッハとウィスキー」。

もう2年ほど前の記事になるのに・・、、大半の記事が はかなくて もろい「打ち上げ花火」のようなものだからこういう事例は極めて珍しい(笑)。

よほど読者の共感を得るものがあるのだろうか。

念のため記事の内容を振り返っておくと、(要約)

「フランス発のミステリー番組(「アストリッドとラファエル」)の中でバッハの名曲「フーガの技法」の一部が登場していた。自分はモーツァルト一辺倒の人間だが、やはり音楽の母バッハには一目置かざるを得ない。

そこで、該当のCDを購入して聴いたところサッパリ馴染めず山の頂きに登る道筋さえも分からない。そこで、自棄(やけ)になって空きっ腹にウィスキーを流し込んで聴くと少し馴染みやすくなった」

という内容でした。

ちょっと話が逸れるが、実は夕食後にアルコールを嗜みながらゆったりクラシックを聴くのが一般的なのだろうが、ブログ主はなにしろ日頃から「血糖値が高目」なものだから、やむなく夕食前の「空きっ腹」のタイミングとならざるを得ないのが残念、無念(笑)。

そして、現在はウィスキーではなく、空きっ腹に「銀座のすずめ琥珀(麦焼酎)」を流し込んでいる。



で、本題に戻って、(読者の)興味の要因を推察してみよう。

 バッハ晩年の名曲「フーガの技法」の曲自体に興味を持った

 「バッハの音楽は難しいよね」と共感を覚えた

 いささか線香臭いバッハの音楽に馴染めずウィスキーまで持ち込むなんて・・、脳を麻痺させて音楽を受け入れやくする工夫に共感を覚えた

以上の3つぐらいかな~。もし、ほかにもあると思われる方はためらうことなくメールをくださいね。

ちなみに、「チャットGPT」に「バッハとウィスキー」と打ち込んでみたところ、つぎのような文章がスラスラと出てきた。

「バッハとウィスキーには直接的な関連はありませんが、それぞれは音楽と飲み物という異なる分野で重要な役割を果たしています。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、18世紀のドイツの作曲家であり、西洋音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされています。

バッハは多くの教会音楽やオルガン曲を作曲し、その作品は技巧的で複雑な構造や美しい旋律で知られています。彼の作品は音楽愛好家や音楽家にとって、永遠の名作となっています。

一方、ウィスキーはスコットランドやアイルランドなどで生産される蒸留酒の一種です。ウィスキーは大麦やトウモロコシ、ライ麦などの穀物を発酵させて蒸留し、熟成させることで作られます。

さまざまな種類のウィスキーがあり、それぞれ特有の風味とキャラクターを持っています。ウィスキーは世界中で愛され、飲み物として楽しまれるだけでなく、一部の人々にとっては芸術のようなものとも考えられています。

バッハとウィスキーは、異なる形態の芸術としての楽しみ方を提供しています。バッハの音楽は聴く人々に感情や美を与え、ウィスキーは飲む人々にリラックスや楽しみをもたらします。それぞれの領域で、深い探求や研究が行われ、人々の生活に豊かさをもたらしています。

ただし、バッハの音楽を聴きながらウィスキーを楽しむことは、音楽や飲み物それぞれの個別の鑑賞に集中するために、お互いの楽しみを最大限に引き出す方法とは言えません。それぞれを個別に楽しむことをおすすめします。」

そうかな・・、「チャットGPT」の限界を知る思いがしました!

ウィスキーは脳をある程度麻痺させて「馴染めそうにない音楽」を受け入れる素地をつくってくれる大切な役割を担っている、とくれば満点を上げたのにね~(笑)。

さらには、若いころの瑞々しい感性が失われつつある高齢者になればなるほど「音楽」に対してますます夢中にさせる麻薬的な効果もある・・、つまり「音楽とアルコール」の相乗効果も期待できる!

というわけですが、周知のとおりアルコールは「もろ刃の剣」ですよね。

成功談と失敗談・・、読者の方々のうち「音楽とアルコール」に関するエピソードがもしありましたらお聞かせくださいな~。



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優れた芸術とは奥深い疑問を我々に付きつけるテキストのことだ

2025年01月13日 | 音楽談義

つい先日、家人がドキリとするようなことを言った。

「昔は、お父さんはモーツァルトの音楽を聴いて ”涙が出るほどいいなあ~” とよく感激していたのに、この頃はなんだかオーディオのことばかり熱中してちっとも音楽を話題にしなくなったね~」。

ウーム、言われてみるとそうかもしれない。このところ、どうも音楽にのめり込む気がしないのも事実でいったいどうして?

やはり集中力と根気(持続性)が少なくなったことは否めないようで、たとえば長時間のオペラをずっと聴きとおすことはほぼ無くなっていることに気付かされる。肝心の感受性が鈍くなったとは思っていないけどね~(笑)。

このブログでもこのところ、好きな曲目の紹介など音楽関係の記事とはほぼ無縁の状態で「スピーカーをどうしたこうした、いい音とは・・」とかのオーディオ関係の記事が氾濫しているのはご承知の通り。

で、丁度いい機会だからここで改めて「音楽&とオーディオ」の関係について考えてみよう。

今さら述べるほどのことでもないが、これはいわば「主従の関係」であり「目的と手段」の関係でもある。

もちろん王様が音楽、オーディオが召使いである。音楽を聴くためにオーデイオが存在するのだから当然至極。

そして、音楽がおろそかになってオーディオが主になっている人は俗にいう「音キチ」とされ、これは道を踏み間違えて倒錯している人に対する蔑称となる。

で、当然のごとく「音キチでいいじゃないか!」と開き直る方がいてもちっとも不思議ではない。

あまり大きな声では言えないが、実は自分もその心境に近づいているのだ(笑)。

若干言い訳めくが「好きな音楽をいい音で聴きたい」と、一心不乱にシステムの一部を代えたり、ちょっとした工夫で「いい音」になったときの快感が忘れられず、それは名曲に親しむときに覚える快感に勝るとも劣らないといえる。

とはいえ、「キリがない」のも事実で、いくら「いい音」を手に入れたとしても何回も聴いているうちに何かしら不満が出てきてどこかをいじりたくなる、その繰り返しが延々と続いていく。いわばずっとトンネルの中にいて出口の明かりが見えないし、むしろ見ようともしないのかもしれない。

対比するとしたら、音楽は完結の世界になるが、オーディオは永遠に彷徨を続ける未完のような世界となる。

で、どちらが飽きがこないかといえばそれは後者でしょう(笑)。どんなに気に入った音楽でも何回も聴いていると飽きてくる経験をどなたでもお持ちのはずだから。

と、ここで堂々巡りの混迷の中、何らかの指針を得る意味で「村上春樹」さんの言葉を引用しよう。

「 僕は思うのだが、優れた芸術とは多くの奥深い疑問を我々に突き付けるテキストのことだ。そしてたいていの場合、そこには解答は用意されていない。解答は我々一人ひとりが自分の力で見つけていくしかない。

おまけにそのテキストは~もしそれが優れたテキストであればだが~休みなく動き続け、形を変え続ける。そこには無限の可能性がある。時には間違った解答も出てくることもあるかもしれない。そこにはそんな危険性もある、しかし可能性とは危険性の同義語でもあるのだ。」(バイロイト日記:文芸春秋)

音楽作品に対する奥深い疑問を自分なりに持ち続けてコツコツとその解答を見つけていく・・、まさに「頂門の一針」(ちょうもんのいっしん)で平和ボケした頭をガツンと殴られたような衝撃を受けましたよ(笑)。

で、その「奥深い疑問」とは、たとえば「神の存在」「信仰」あるいは「死」・・、「一流の芸術はその底流に死を内在させている」(河合隼雄氏)といったことになるんでしょうか。

音楽自体は芸術に昇華できるけどオーディオはどんなにいい音を出そうと不可能だという冷徹な事実を前に、チマチマした「音楽&オーディオ」論議なんか軽く吹き飛んでしまいますね~。

しかし、その一方では「面倒くさい話は抜きにして音楽もオーディオもそれなりに楽しめばいいんじゃない」という声が囁いてくる~、アハハ(笑)。



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人間の情念の深さを物語る名曲

2025年01月07日 | 音楽談義

ずっと昔の学生時代の話だが、長兄が持っていたレコードの中にオッテルロー指揮の「アルルの女」(ビゼー作曲:フランス)があった。

当時のことなのでまことにチャチなステレオ装置だったが、音の良し悪しなんかにはいっさい興味がなく、ひたすら音楽だけで十分満足していた頃で、レコードのライナーノートを繰り返し読みながらこの曲を聴き耽ったものだった。

そして「三つ子の魂百までも」で、どうしてももう一度聴いてみたいと、すでに「廃盤」となっていたが、やっとの思いでオークションでオッテルロー指揮のCD盤(外盤)を見つけて競り落としたのはまだ記憶に新しい頃だった。

急いで長兄に連絡してそのライナーノートをコピーして送ってもらったのは言うまでもない。


           

余談だが、このオッテルローさんはジャケットにあるとおりの自動車狂で、スピードを出し過ぎて交通事故で亡くなってしまった。当時からすでにオランダ最高の指揮者として君臨し、さらに将来を嘱望されていたのに惜しいことをしたものだ。

さて、このライナーノートから、かいつまんで要点を記してみよう。

≪アルルの女≫はドーデが書いた「風車小屋だより」(短編集)の第六番目に出てくる物語で、自ら脚色して三幕物の芝居として仕立てあげた。これに作曲したのがビゼーだったが、初演は大失敗。ドーデはこう嘆く。

「ああ!もうだめだ。半年の骨折りと、夢と、疲労と、希望、これらいっさいが、たった一夜のガス燈の焔に、焼けて、消えて、飛び去ってしまったのだ。」

しかし、本当に価値のある作品はいつまでも埋もれているはずがなく、初演から13年後に再演され、今度は大当たりをとって今日までフランス演劇の重要なレパートリーとなっている。

芝居の「あらすじ」は、ご存知の方も多いと思うが次のとおりである。

「アルル近郊の町の旧家の長男”フレデリ”は20歳の青年。父はすでに亡く、母と白痴の弟、それに老僕の4人暮らし。

あるとき闘牛場で知り合った妖艶な”アルルの女”に心を奪われてしまう。しかし、その女は牧場の番人の愛人だった。

フレデリは家族の猛反対にあって、仕方なく諦めて幼馴染の農家の娘との結婚話を進めるが、アルルの女が牧場の番人と駆け落ちすると知り、嫉妬と絶望のあまり塔の頂上から身を躍らせて自殺する。

その亡骸を見ながら老僕がつぶやく。”ごらんよ。恋で死ぬ男があるか、ないか・・・・”」


もちろん音楽も良かったが、当時まだ未成年のスレていない初心(うぶ)なハートにはストーリーの方がショックで、いまだ知らぬ大人の世界への憧れも手伝って「人間は恋のために死ねるのか!」と、その狂おしいまでの情熱に大いに心が揺り動かされたものだった。

こういう思い出があるから、長じても「アルルの女」にはひときわ”こだわり”があり、小林利之氏(音楽評論家)が推薦する名盤をコツコツと収集した。

オッテルロー盤以外にも、トスカニーニ盤、クリュイタンス盤、マルケヴィッチ盤、オーマンディ盤、デュトワ盤。
            

いずれ劣らぬ名演だと思うが、真打となると前述の「オッテルロー」盤と並んでケーゲル盤となる。「許 光俊」氏の評論を読んで共感を覚えた勢いでオークションで外盤を手に入れた。

オッテルロー盤を購入したときと同様に、当時このケーゲル盤は「廃盤」になっていて、それは、それは高値で取引されていた。
           

この曲はクラシックには珍しくサキソフォンが使われており、それが実に牧歌的な”いい味”を出しているが、賑やかさの中に悲しい結末に収束していく物悲しさが全編に漂っている。

共産党の体制側の幹部だったケーゲル(東ドイツ)はソ連邦の崩壊とともに拳銃自殺を遂げた指揮者だが、まるでそれを予感させるかのように全体に哀愁を帯びて心の中に染み入ってくる味わい深い演奏。

たとえ架空の物語にしろ「恋のために死ぬ人間がいる」かと思えば、実際に「イデオロギーの違いで死ぬ人間」もいる。「死は僕の最良の友達です」と言ったのはモーツァルトだが、とかく人間の死は操りがたい。

そして、これら幾多の名演の中で一番好きなのはやはりオッテルロー盤だ。


感受性豊かな若い頃にひとたび脳裡に深く刷り込まれた演奏は、その後どんな名演が出てこようと、覆るのは難しい。

どうやら個人的な「記憶」と「音楽」とは「情念」という深い部分で分かち難く結びついているものらしい。 



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楽器の王様「ストラディヴァリ」

2024年12月31日 | 音楽談義

この1年を締めくくるのに相応しい話題として選んだのは「楽器の王様」です。

クラシック音楽を奏でる楽器の内で「どれが一番好きか?」と、問われたとしたら大いに迷うけどやっぱりヴァイオリンでしょうか・・。どこか物悲し気で愁いを含んだ音色がはるか過ぎ去った昔の郷愁を呼び起こしてくれる。

クラシック音楽に絶対欠かせない楽器として、我が家のオーディオシステムで少なくともヴァイオリンが上手く鳴ってくれないと即アウトである。

言い換えると、常にヴァイオリンひいては弦楽器が上手く鳴ってくれることを念頭において調整に励んでいる。

然るに、ジャズ音楽には滅多なことではヴァイオリンが登場しない・・、いわば音楽再生の形態がまったく違うともいえるが、このことはクラシック愛好家とジャズ愛好家との基本的に相容れない溝を物語っているような気がしてならない(笑)。

改めてヴァイオリンの特徴を羅列してみよう。「チャットGPT」の出番です。

〇 豊かな音色
非常に表現力豊かな楽器なので、さまざまな音色を作り出すことができる。深く響く音から、明るく軽やかな音まで、演奏者の感情を込めて表現できる。

〇 幅広い音域
ヴァイオリンは、低音から高音まで広い音域をカバーでき、メロディやハーモニーを自由に演奏することができる。特に高音域でのピッチの正確さが求められるが、これができると非常に魅力的な音を出せる。

〇 表現力
弓の使い方、指の圧力、ヴィブラートなど、演奏者の技術や感性が大きく反映される楽器です。音の強弱やテンポ、リズムの変化を細かく表現することができ、音楽に感情を込めやすいです。

〇 ソロとアンサンブル両方で活躍
ヴァイオリンはソロ楽器としてもアンサンブル(オーケストラや室内楽)での演奏にも非常に重要な役割を果たす。ソロ演奏では個々の才能を表現する場があり、アンサンブルでは他の楽器と調和し、音楽全体を支える役割を果たす。

〇 多様な音楽ジャンルで使用
クラシック音楽だけでなく、ポップスなど、さまざまなジャンルで使われており、ヴァイオリンは非常に多才な楽器です。そのため、さまざまな音楽スタイルを楽しめることが魅力の一つです。

〇 
見た目の美しさ
ヴァイオリンのデザインや構造も美しく、演奏する際の姿勢や動きも優雅に見えます。この視覚的な美しさも多くの人々に愛されています。

これらの特徴が、ヴァイオリンを魅力的な楽器としている理由です。

というわけだが、もう一つ付け加えることがある。

それは途方もないお値段がすること。まあ、ヴァイオリンといってもピンからキリだろうが、1714年に製作された「ストラディヴァリ」なんかは20億円以上もするのだから度肝を抜かれる。まさに楽器の王様に相応しいですね。

関連して、先日のネット記事をちょっと長くなるが引用しよう。



アントニオ・ストラディバリが「黄金時代」に製作した「ヨアヒム・マ・ストラディバリウス」がサザビーズに出品される。最後の所有者である名ヴァイオリニスト、シホン・マの遺志により、売上は全て母校ニューイングランド音楽院の奨学金に充てられる予定だ。

かつて19世紀を代表するハンガリーのヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムが所有し、その後、アメリカで活躍した著名ヴァイオリニストで教育者でもあったシホン・マが受け継いだストラディバリウス「ヨアヒム・マ・ストラディバリウス」が2025年2月、ニューイングランド音楽院(NEC)から委託を受け、サザビーズに出品されることがわかった。

予想落札価格は1200万ドルから1800万ドル(約18億円〜約27億円)で、売上は全てNECの奨学金に充てられる予定。

このヴァイオリンは、アントニオ・ストラディバリが「黄金時代」にあたる1714年に製作したもので、マが2009年に亡くなるまで演奏し続けた。その後2016年に故人の意思を継ぎ、将来、母校NECの奨学金のために売却できるという条件で同校に寄贈された。NECへの寄贈後は、同院の上級学生数人によって演奏されてきた。今回の売却にあたり、NEC院長のアンドレア・カリンは、こう喜びを語る。

「私たちはこれにより、さらに多くの学生に投資し、彼らにチャンスを与える機会を得ることができます。NECに新たな才能を迎え入れ、次世代の音楽を支援し続けることができるのです。この楽器がこれまで、その音色を聞いた人、演奏した人すべてに影響を与えてきたように、今後もこの奨学金制度を通じて、その遺産をさらに多くの人々に広げることができることを嬉しく思います」

またサザビーズ会長兼アメリカ社長でグローバルビジネス開発責任者のマリ=クラウディア・ジメネスは、今回の出品について、「われわれが初めてこの楽器を目にしたとき、その存在感に圧倒されました」と語っている。卓越した芸術家や著名人が所有してきた美術品を数多く見てきたジメネスでさえ、これまで、ストラディバリウスを実際に見たり触ったことはなかったという。

「このヴァイオリンは300年以上前に作られたものですが、所有してきた伝説的な演奏家の影響で、クラシック音楽史に燦然と輝く楽器です。その長い歴史と世界に与えた影響について考えると、身震いする思いです」

サザビーズのプレスリリースによると、ヨアヒムは1879年、ブラームス本人による指揮のもと、ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調:作品77をこの楽器で初演したと言われている。

サザビーズの専門家は、確認されているストラディバリウス(約500本)の価格と、過去のオークション実績に基づき、並外れた品質と状態の「ヨアヒム・マ・ストラディバリウス」の推定価格を決定したという。ストラディバリウスの大半は、アントニオ・ストラディバリが生まれたイタリアの都市クレモナを中心に、博物館や文化施設に所蔵されている。

ジメネスは、「ヨアヒム・マは演奏可能な完璧な状態であると同時に、ストラディバリの黄金時代を象徴するもの。Lutier(弦楽器職人)としての頂点に君臨する楽器です。したがって、今回のオークションではストラディバリウスの新記録を樹立する可能性が十分にあると考えています」

オークションで落札されたヴァイオリンの現在の最高額は、かつてバイロン卿の孫娘が所有し、2011年にタリシオ・オークションハウスが落札したストラディバリウス「レディ・ブラント」の1590万ドル(現在の為替レートで23億8000万円)。

サザビーズは、幅広いコレクター、特に「恐竜や合衆国憲法、あるいは十戒の石版を落札するような」顧客層が入札に関心を示すと予想している。ジメネスは、「一生に一度あるかないかの逸品であり、楽器という枠を超越した存在。特別なヴァイオリンという以上の存在です」と興奮を隠さない。

「ヨアヒム・マ・ストラディバリウス」は、ロンドンと香港のサザビーズのオフィスで展示されたあと、2025年2月の「マスターズ・ウィーク」で競売にかけられる。」

以上のとおりで、来年(2025年)2月の落札価格が楽しみ~、しかるべき音楽関係者の手に落ちるといいのだが、当然のごとく「投資」ということも考えられる。

東南アジアの某国やアラブのお金持ちが暗躍する可能性大いにありだと睨んでいるがはたして・・(笑)。



最後に、どうか皆様「良いお年」をお迎えください。来年もよろしくお願いします。

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名演はオーディオを駆逐する

2024年12月27日 | 音楽談義

ずっと以前のブログで「演奏をとるか、録音をとるか」をテーマにしたことがある。

つまり、「あなたは音楽愛好家ですか or オーディオ愛好家ですか」の「二択」のリトマス試験紙のような問いかけである(笑)。

この中でフルトヴェングラー指揮のオペラ「ドン・ジョバンニ」(モーツァルト)を例に挙げて、「録音よりも演奏優位」とコメントしたところ、すぐにジャズファンの方からメールが来て「ジャズの場合も演奏優先ですよ。」とあったのはちょっと意外だった。

ジャズファンといえば圧倒的にオーディオ愛好家が多くて、おそらく「音キチ」だろうから録音の方により一層こだわるはずと思っていたので・・・。どうやら勘違いしていたようでたいへん失礼しました(笑)。

それにしても、いくらCD盤といったって録音状態は周知のとおり千差万別だが、オーディオシステムの再生能力との関係はいったいどうなってるんだろう。

つまり、悪い録音ほど高級システムが必要なのかどうか・・、有識者の見解を一度訊いてみたい気がする。

ところで、このほど娘に貸していたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲がようやく手元に戻ってきた。近々帰省予定の正月用の荷物と一緒に送ってきたもので、音楽評論家によるランキングで最も評判のいい「グリュミオー」盤である。

久しぶりに「3番と5番」を聴いてみたが何だかやたらに甘美(技巧)に走り過ぎた演奏のような気がして、昔とは悪い方向に印象が変わってしまった。

このところオーディオシステムが様変わりしたせいかもしれないし、耳(脳)が成長したのかそれとも退化したのか・・(笑)。

ちなみにモーツァルトのヴァイオリン協奏曲の最後となる5番は作品番号(KV:ケッヘル)219だからわずか19歳のときの作品となる。一方、ピアノ協奏曲の最後となる27番はKV.595だから亡くなる年の35歳のときの作品だ。

「作曲家の本質は生涯に亘って間断なく取り組んだジャンルに顕われる」(石堂淑朗氏)とすれば、比較的若いときにモーツァルトはこの「ヴァイオリン協奏曲」のジャンルを放棄したことが分かる。

あのベートーヴェンだってヴァイオリン協奏曲の表現力に限界を感じて1曲だけの作曲にとどまっているので、このジャンルの作品はそもそも「大作曲家」にとっては「画家の若描き」(未熟だけどシンプルな良さ)の類に属するのかもしれない。

それはともかく、グリュミオー以外にもっとマシな演奏はないものかと手持ちのCDを眺めてみた。

フランチェスカッティ、レーピン、オイストラフ、ハイフェッツ、オークレール、シュタインバッハー、そしてフリッツ・クライスラー。

フルトヴェングラーのこともあって、この中から一番期待した演奏はクライスラー(1875~1962)だった。往年の名ヴァイオリニストとしてつとに有名だが、何せ活躍した時代が時代だから現代に遺されたものはすべて78回転のSP時代の復刻版ばかり。

近代のデジタル録音からすると想像もできないような貧弱な音質に違いないとは聴く前から分かるが、あとは演奏がどうカバーするかだろう。
            

このクライスラーさんは自分が作曲した作品を大家の作品だと偽っていたことで有名だが、通常は逆で「大家の作品を自分の作曲だ」というのがありきたりのパターンなのでほんとにご愛嬌。

「フリッツ・クライスラー全集」(10枚セット)の中から、1939年に録音された「ヴァイオリン協奏曲第4番」(モーツァルト)を聴いてみた。ちなみに昔の録音は少し大きめの音で聴くに限る。

音が出た途端に「こりゃアカン」と思った。高音も低音も伸びていなくて周波数レンジが狭く何だか押しこめられた様な印象を受けたが、段々聴いている内に耳が慣れてきたせいかとても滋味深い演奏のように思えてきた。

近年のハイレゾとはまったく無縁の世界だが、ときどきこういう録音に浸るのもいい。むしろ音質がどうのこうのと気にしないでいいから、つまり、はなっから諦めがついているので純粋に音楽を鑑賞するにはもってこいかもしれない。

はじめに「ウェストミンスター」で聴き、途中から「AXIOM80」に切り替えたが、このくらいの名演になると、もうどちらでもヨロシという気分になってきましたよ~。

名演はオーディオを駆逐する・・(笑)。


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付かず離れずでいきましょうよ

2024年12月22日 | 音楽談義

前々回のブログ「壺中の天地を求めて」からの続きです。

ここ2か月余り「AXIOM80」がらみでご厚誼を賜っている「H」さんだが、オーデイオ絡みのメールのやり取りに加えて音楽についての情報交換も頻繁に行っている。

そういう「やり取り」を通じて、お互いのことをよく知り合えるのはたいへんいいことには違いないが、あまり近付きすぎても危険な要素を孕んでいるような気もする。

というのも・・、来し方
50年以上のオーディオ歴を振り返ってみて、様々な方々との「離合集散」を繰り返してきたが(けっして褒められたことではないですけどね・・)、その原因ともなると交流の密度が濃くなるにつれ、いろんな「不一致」が顕在化していって段々と疎遠になっていった気がする。

で、その「不一致」を具体的に挙げてみると、

 「オーディオ=音質」の好みの不一致

〇 「音楽」の好みの不一致

 「考え方・生活習慣」の不一致

これらの違いによって、「所詮は分かりあえないんだよなあ~」、という隙間風がそこはかとなく吹いてくるわけだが、生まれも育ちも、したがって「感性」も違う人間同士が一致するのは至難の業(わざ)というものですよね!

よって、相互の 「無暗(むやみ)な深入り」 は禁物というのが「大人の知恵」みたいな気がするわけで、その辺はHさんもご承知の様で「付かず離れずでいきましょうよ」と仰るので、(交流が)長続きするコツを分かっていらっしゃる・・と、大いに感心した。おそらく人生の酸いも甘いも噛分けた方なんだろうと推察している(笑)。

そういう前提のもとでの話だが、交流が深まるにつれHさんとかなり好みが一致しそうな気がしてきている。

たとえば、音質の好みに関しては同じ「AXIOM80」愛好家だから言うに及ばず、そして音楽の好みもなかなかの一致レベルなのである。

たとえば、Hさんの愛聴盤「荒城の月」のCDを「聴いてみませんか」と送っていただいたところ、これがなかなかいい。



このCDには20種類にもわたる様々な演奏が網羅されている。

たとえば、「第7トラック」に「マルセル・モイーズ(フルート)」、「第15トラック」には「ピエール・ランパル(フルート)」、そして「第16トラック」には「ゲリー・カー(コントラバス)とハーモン・ルイス(オルガン)」などが含まれていて、聴いていて心が洗われる思いがした。

原曲は周知のとおり「滝 廉太郎」(たき れんたろう)作曲で、幼少期を大分県竹田市で過ごした明治期きっての作曲家だったが、23歳と11か月であえなく病没したのは返す返すも惜しい。

もう少し長生きしていれば、彼は「日本のモーツァルト」になれた可能性が大いにあると思う~。

「荒城の月」以外にも「花」(♪春のうららの 隅田川・・)なんか有名ですよね。

ほかにもHさんは「加藤登紀子」さんがお好きと仰るから「満州里小唄をご存知ですか?」と情報提供した。



「You Tube」で簡単に聴けるから、と挙げたのだが、哀愁を帯びた歌唱力にゾッコンで「琵琶湖周航の歌」と並んでこの曲は加藤登紀子さんの代表曲じゃないかな~。

ちなみに、Hさんはお気に入りの曲についてけっして「You Tube」で済まそうとはされない、必ずCDを購入されるほど念が入っており、この「満州里小唄」もわざわざCDを購入されたそう。

「100点で聴けるものを95点で済ますわけにはいきませんからね」とのことで「シビヤでいい耳をされてますね!」「ハイ、AXIOM80のおかげです」

ウ~ン、参りました!(笑)。

最後に、これはまだHさんにはご連絡していないが、「ナナ・ムスクーリ」(1934~)という往年のギリシャの名花を自信を持ってお薦めしたい。このところ毎日「You Tube」でアルバムを聴くのが定番となっている。



ネットにはこうある。

「全世界で300万枚以上のレコード、450枚のアルバムを発売し、15言語(ギリシア語、フランス語、英語などど)で約1500曲の歌を発表した。

また、世界中で230以上のゴールド及びプラティナディスクを記録している。世界で最も、レコードの売り上げが多い歌手の一人であり、その売り上げ枚数は、2億3000枚以上ともいわれる。

クラシックの素養に裏打ちされた歌唱力もあって、持ち歌のレパートリーは大変広く、ジャズからポップス、クラシック、ギリシャ音楽からラテン、各国の民謡・童謡まで、オールラウンドにこなす。

ヒット曲は「愛」をテーマにしたものが多く、憂鬱、切望、および感傷的な黙想を愛の歌によって、かもし出しているといわれている。」

明らかにクラシック出身と思わせるその歌唱力、琴線に触れてくる独特の声音・・、ヒーリング系の歌手として是非一度聴いてみる価値ありだと思いますよ。もうとっくの昔に知ってるよという方がいらっしゃるかもしれないが~。

このブログの毎日の読者がおよそ1000人余り、そのうちの2割が「You Tube」で実際に聴かれたとしてそれが200名、そのうちの2割の「40名」が「満州里小唄」や「ナナ・ムスクーリ」を気に入られたとしたらブログ主は上出来だと思っています。

えっ、なぜ2割か?ですって・・、ほら「パレートの法則」(20対80のバラツキの法則)ってのがあるじゃないですか!(笑)


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気になる「クラシック音楽の行く末」

2024年12月19日 | 音楽談義

ブログを始めてから19年と2か月になる。長いか短いかは別として、愚にもつかないことを毎回グダグダと書き連ねているわけだが、お馴染の読者さんならご承知のように内容の主体はオーディオがらみの話になっている。

で、ときどき目先を変える意味でオーディオ以外の話題、たとえばクラシック音楽の話に振ったりすると途端にアクセスがガクンと落ちてしまう(笑)。

「桐一葉落ちて天下の秋を知る」・・、おそらく世間一般的にクラシック音楽の話にはあまり興味がないことの一つの証左になるのだろう。

まあ、アクセス数の多寡なんか他人にとってはどうでもいいことだろうし、本人にとっても何らかの得失につながるわけでもないのだがクラシック音楽の現状に対して思わず「ため息」をつきたくなる。

ジャズなんかは
ファン層からして一様に元気がいい印象を受けるのだが、クラシックファンとなると先細りの傾向だと思うのは自分だけだろうか。

それにクラシック音楽は自己の内面に「静謐(せいひつ)感」を持っていないと鑑賞できない音楽だが、身の回りにこうもネットやスマホの情報が氾濫して騒々しい世の中ともなると、ますます環境が悪くなり「退屈な音楽」として時代に取り残されていくばかりのように思われてならない。

折しも、先日の日本経済新聞の文化欄に次のような記事が掲載されていた。

    

タイトルは「クラシック界の未来」。記事の作者は「片山杜秀」(かたやま・もりひで)氏で、音楽評論家であり、また現役の慶応大学教授としてご活躍されている。

内容をかいつまんでみると以下のとおり。

「クラシック音楽はポップスなどと比べると効率が悪く、コンサートの開催などにとてもお金がかかる。そこで関係者が心配しているのが文化芸術に対する公的規模の助成の削減だ。オリンピック後は予算が介護や教育で手いっぱいになってしまうし、そもそもクラシック音楽の優先順位は決して高くないのでこれから衰退の一途をたどるばかりではなかろうか。

日本の豊かさのモデルは欧米にあり、品のいい欧米の上流・中流家庭のイメージに見合うのはまずその種の音楽だった。大正や昭和初期の富裕な高学歴層のステータス・シンブルの一つは西洋クラシック音楽であり、それが理解できることが先端的な教養だった。

しかし、それは一時の夢だったようで、60年代以降の若者たちは高齢世代への反発も手伝ってロックやフォークに自由な気分を求めていった。この世代は歳を取ってもクラシック音楽になびかない。日本に限らず欧米でもそうなっている。

クラシック好きの割合は「40~50代」は上の世代よりも激減しているのがコンサートの客層からして見て取れる。今後、先進資本主義国の経済と社会の様相は変貌する一方であり、厚い中産層が解体して貧富の差が広まる。それはすなわちクラシック音楽の趣味を持ちうる階層が壊れていくことである。

それでも西洋諸国にとってのクラシックは「伝統芸能」であり「観光資源」であるから無くなっては困るというコンセンサスは残るだろう。だが日本は歌舞伎や文楽や能もある。クラシック音楽は援助しないと成り立たない厄介な外来文化にすぎない。その事情がますます顕在化するのが令和の御代になるのだろう。

厳しい時代だ。とはいえ、クラシック音楽は一定規模で定着している趣味には違いない。たとえ縮小するにしても市民権はある。適正な規模での生き残りの主張をしていけば、なお未来はあると信じている。」

とまあ、大要は以上のとおり。

実際にその通りなんだろうし、内容にいろいろケチをつけるつもりはないのだが、すでにお気づきの方もいると思うが、「クラシックはコンサートに尽きる、したがってお金がかかり過ぎるので衰退の一途を辿るだろう。」という論調がちょっと気になる。

何もコンサートには行かなくても自宅のオーディオシステムでささやかながらクラシック音楽を楽しんでいる連中はいっぱい居るのになあ(笑)。

女流ピアニストの「マリア・ジョアオ・ピリス」は、いつぞやのテレビ番組で「何も着飾ってコンサートに行く必要はない。それよりも日常の家庭生活の中で身近にクラシック音楽を楽しむべきだ。」と言っていた。その通りだと思う。

むしろコンサートの減少云々よりも、これからクラシック音楽を若い世代、とりわけ幼少期にどうやって広げていくかが課題というべきだろう。

別にクラシック音楽に親しむことで他人に優しくなれるわけでもないし、世の中のお役に立てるわけでもないが、個人の人生が豊かになることはたしかだし、情操教育にもいくらかは役に立つことだろうから、幼少期からのクラシック音楽への触れ合いはとても意義のあることだと思う。

自分の拙い経験で言わせてもらうと、小学校の低学年のときにプラネタリウムを見学したときのこと、星座が投影されていく中でBGMとして流されていた音楽が何となく頭の片隅に残り、ずっと後になってそれがシューベルトの「未完成」交響曲の一節だったことが分かった。

したがって学生時代になって最初に購入したレコードはいまだに忘れもしない「運命/未完成」(ブルーノ・ワルター指揮)だった。

今思うと、あれがクラシック音楽に芽生えた瞬間だったんだよなあ~。


とにかく「食わず嫌い」が一番良くないので小中学生ぐらいのときに、どうやってクラシック音楽に触れ合う機会をつくるかが肝要だと思う。

たとえば学校に安価でもいいから、そこそこのシステムを設置して授業などを通じて音楽鑑賞をしたり、時間外にはオーディオシステムによるコンサートを開いたりするも一つの方法かと思うが、こればかりはひとえに教師の熱意にかかっているがはたして現実はどうなんだろう。

そういえばマニアの遺族が不要になったオーディオ機器類を小中学校に寄贈できる仕組みがあったりするといいかもしれない。すると管理もたいへんそうなので「校医」ならぬ「音楽&オーディオ医」も必要かもしれないですね。

もし要請されたとしたら、ボランティアとして喜び勇んで駆け付けますよ~(笑)。



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私のモーツァルト「ベスト5」

2024年12月16日 | 音楽談義

50年以上に亘って聴き込んできたモーツァルトの作品・・、自分で言うのも何だがもはや「自家薬籠中の物」だと思っている。

で、かって好みの「ベスト5」を公表したことがある。芸術に順位を付けるのは無意味だが、その人の愛好度を示すということで許して欲しい。

1位 オペラ「魔笛」 2位 オペラ「ドン・ジョバンニ」 3位 「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K364」 4位 「踊れ、喜べ汝幸いなる魂よ K165」 5位 「ディヴェルトメント K136」

今でも不動のメンバーで、モーツァルトの晩年(30歳以降)の作品が2曲、中期の作品が1曲 初期(20歳前後)の作品が2曲と年代的にもバランスがとれていると思う。

で、この「ベスト5」に対して読者の中からさっそく反応を示されたのがMさんだった。

「私もモーツァルト・ベスト5に参加させてください」とメールが届いたが、いかにも熱烈なファンを彷彿とさせる内容だった。

タメになる話は繰り返し、繰り返し何度も反復させてもらうのが、このブログのモットーなので再掲させてもらおう!(笑)

第1位「ドン・ジョバンニ」

「魔笛」とは迷うところですが、ここ数年は「ドン・ジョバンニ」のほうを上にしています。ただ、ある日突然、逆になるかもしれませんが。

CDはあれこれと聴いてきましたが、結局はクリップス盤。シエピのドン・ジョバンニ、それを古いといいながらもステレオで聴けるのがなによりです。


なお「魔笛」は敢えてベスト5から外しました。


「ドン・ジョバンニ」との優劣をつけられるはずもないので、どちらか一つとしました。
モーツァルトのオペラを「魔笛」から入門したので外すには忍びないのですが。

第2位 13管楽器の為のセレナード「グラン・パルティータ」K361

これは不動の2位?

モーツァルトの作品の中で一番回数を聴いてきたのがこの曲で、とにかく、いつ聴いても、何度聴いても楽しい。

ただ、この曲をあげる人、特に専門家はいないようです。

たぶん曲としての出来がモーツァルトとしてはイマイチなのかも?

本当は1位にしたいのですが重量感に乏しい?よって1位ではなくて不動の2位ということで(笑)

演奏は。。。迷ったあげくコレギウム・アウレウム合奏団

第3位 弦楽三重奏の為のディベルティメント K563。

比較的若い時から、この曲に親しんできましたが、歳をとるごとにこの美しさ、純粋な音楽美が、心に染みるようになり第3位。演奏はフランス三重奏団。

第4位 ヴァイオリン・ソナタK526

クラシック音楽を聴き始めて間もなく何故かシェリングの全集を買い込みカセットに録音してクルマの中でも聴いていました。

当初はK304、K378、K379などを中心に聴いていましたが、今はK526がヴァイオリン・ソナタのベスト・ワンであり、全モーツァルトの作品のなかでもベスト5入りとなります。演奏は昔からなじんできたシェリング盤になります。

第5位 ピアノ・ソナタK331

やはりピアノソナタを外すわけにはいかないのです。曲は最初に聴いたK331。

一時はK576やK570などを好んで聴いていましたが、今は元に戻ってK331。特に第1楽章の主題と変奏曲が大好き。これを最初に聴いたのは中学時代。買ったのは25㎝盤で安かったバドゥラ・スコダの演奏。

毎日のように聴いていました。そのせいか今でも、この曲の第1楽章が鳴り出すと当時のこと、安物の電蓄の前で座って聴いていた自分を思い出します。

演奏は。。。極端に言うと誰の演奏でもいいかな?

と、言っては実もふたもないのでアリシア・デ・ラローチャのCDを取り出すことが多くなっています。

以上が私のベスト5となります。」

どうもありがとうございました。とてつもない「モーツァルティアン」がこの日本にもいらっしゃるようで、なんだか楽しくなりましたよ。

こういうご意見を頂戴すると、人それぞれに「モーツァルト・ベスト5」があっても少しも不思議ではないですね。

何しろ35歳で亡くなるまで600曲以上にも及ぶ膨大な作品群があり、ジャンルについてもオペラ、シンフォニー、ピアノソナタ、ヴィオリンソナタ、管楽器の協奏曲、歌曲まで多岐に亘っているのだから選ぶのに一苦労する。

ただし、そういう天才モーツァルトでも「根気と努力」の側面があることに気が付かせられたのがこの本の裏表紙。



図書館発の「モーツァルトのオペラ~全21作品の解説~」の裏表紙の画像だが、これで彼が作曲したオペラの歴史が一目でわかります。

力作が後半に集中しているのがよくわかるが、そこまでに至る過程でこれほど多数のオペラがあったなんてまったく意外の感に打たれた。

これらの死屍累々の「習作」があったからこそ晩年のオペラ群の傑作の花が咲いたともいえる。

まことに俗な言い方になるが「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」というわけ!(笑)

ただし、これはオペラに限らないようで、彼は生涯で600曲以上の作品を作ったが、現在よく知られているのはせいぜい100曲ぐらいで、秀作の確率は1/6程度となり打率は2割にも届かない。

あの天才と謳われるモーツァルトでさえもこれだからね~、ただし、2割のために残りの8割が役立っていることは論を待たない。

そういえば、人間の遺伝子だって90%以上は無駄な代物というか役に立っていないと何かの本で読んだことがある。しかし、それらはけっして無駄ではなくて、きっとひと握りの脚光を浴びる遺伝子の役に立っているに違いない。

この世の中には少数派と多数派の関係が蔓延している・・、たとえば金持ちとビンボー人、秀才と鈍才、美人と不美人・・等々だが、それぞれの互恵関係に微妙な思いを馳せるのもこれまた良きかな~。

このブログも「質より量」に方針を転換して、せっせと毎日更新している真っ最中だが、その根気と努力を誰か誉めてくれる人がいないかなあ~。

「好きでやってんだろ、誰が感心するか・・」、まあそう言わずに(笑)。



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「モーツァルト天才説」を考える

2024年12月06日 | 音楽談義

あるとき「テレビ番組」で「学校で教えてくれない音楽の知られざる秘密」というタイトルで特集を組んでいた。

一般の人にはちょっと敷居が高いとされるクラシック音楽を身近に分かりやすく解説してもっと親しんでもらおうという目論みで、解説はヴァイオリニストの「葉加瀬太郎」氏。

冒頭に「すべての芸術は音楽の状態に憧れる」(イギリスの文学者)という言葉が紹介された。

その意味とは、たとえば同じ芸術の範疇にある文学の場合はどうしてもその時代の道徳とか社会のルールに制約を受けてしまう、一例をあげると一夫多妻制の国と一夫一妻制の国とでは、複数の女性を愛したときの文章表現がどうしても変わってしまう。

その点、音楽は音符の組み合わせによって調べを作るだけなので、言語の違いなどを含めて何ら制約を受けることなくあらゆる国境を乗り越えて人の心に沁みこみ親しまれるという趣旨だった。

さらに葉加瀬氏が「モーツァルトは天才です。次から次に楽想が浮かんで音符を書くのが追いつかないほどで彼の楽譜に接するたびに天才と対面している思いがします。」と言っていた。

これまで「モーツァルト天才説」は耳にタコができるほど聞かされてきたが、はたしてほんとうの意味で天才だったのだろうか?

モーツァルトのファンの一人として大いに興味があるところだが、格好の著作がある。

以下要約すると、

「ご存知のとおり、人間一人ひとりは生まれながらにして風貌も違えば五感すべての感受性も違うし、運動能力にも天地の違いがある。 

そして、その差が遺伝子の相違に起因することは疑いがない。さらに人間はこの遺伝子に加えて生まれ育った環境と経験によっても変容を遂げていく。そうすると、一人の人間の人生行路に占める遺伝子の働きの割合は”どのくらい”と考えたらいいのだろうか。 

本書ではこの興味深いテーマを天才の代名詞ともいうべきモーツァルトを題材にして解明を試みた。                           

自然科学の実験結果のようにスパッとした解答が出ないのはもちろんだが、脳科学専攻の大学教授の間でも説は分かれる。

「知能指数IQの60%くらいは遺伝に依存する」との説。「脳の神経細胞同士をつなげる神経線維の増やし方にかかっているので、脳の使い方、育て方によって決まる」との説などいろいろある。

集約すると「およそ60%の高い比率で遺伝子の影響を受けるとしても残り40%の活かし方で人生は千変万化する」とのこと。

モーツァルト級の楽才の遺伝子は極めて稀だが、人類史上数百人に宿っていたと考えられ、これらの人たちが第二のモーツァルトになれなかったのは、生まれた時代、受けた教育も含めて育った環境の違いによるとのこと。

この育った環境に注目して
「臨界期」
という興味深い言葉が本書の52頁に登場する。

これは、一定の年齢以下で経験させなければ以後いかなる努力をなそうとも身に付かない能力、技術というものがあり、物事を超一流のレベルで修得していく過程に、「年齢」という厳しい制限が大きく立ちはだかっていることを指している。

顕著な一例として、ヨーロッパ言語の修得の際、日本人には難解とされるLとRの発音、および聴き取りの技術は生後八~九ヶ月が最適期であり、マルチリンガルの時期は八歳前後というのが定説で、0歳から八歳までの時期が才能開発のための「臨界期」というわけである。

もちろん、音楽の才能もその例に漏れない。

ここでモーツァルトの登場である。
幼児期から作曲の才能に秀で、5歳のときにピアノのための小曲を、八歳のときに最初の交響曲を、十一歳のときにオペラを書いたという音楽史上稀に見る早熟の天才である。

モーツァルトは産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、三歳のときから名教師である父親から音楽理論と実技の双方を徹底的に叩き込まれている。

この父親(レオポルド)は当時としては画期的な「ヴァイオリン基本教程試論」を書いたほどの名教育者であり、「作曲するときはできるだけ音符の数を少なく」と(モーツァルトを)鍛え上げたのは有名な話。

こうしてモーツァルトは「臨界期」の条件を完璧に満たしたモデルのような存在であり、この父親の教育をはじめとした周囲の環境があってこそはじめて出来上がった天才といえる。

したがって、モーツァルトは高度の作曲能力を「身につけた」のであって、「持って生まれてきた」わけでは決してない。群百の音楽家に比して百倍も千倍も努力し、その努力を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかっただけの話。

そこで結局、モーツァルトに当てはまる「天才の秘密」とは、育った環境に恵まれていたことに加えて、「好きでたまらない」ためにどんなに困難な努力が伴ってもそれを苦労と感じない「類稀なる学習能力」という生まれつきの遺伝子を持っていた。

というのが本書の結論だった。


「好きでたまらない」ことに伴う苦労を楽しみに換える能力が天才の条件のひとつとすれば、かなりの人が臨界期の環境に恵まれてさえいれば天才となる可能性を秘めているといえるような気がする。天才とは凡人にとって意外と身近な存在であり、もしかすると紙一重の存在なのかもしれないですね。

というわけで、「天才」という言葉は「天賦の才」という意味であって、人工的に手を加えられた才能ではないので、巷間「モーツァルト天才」説を聞くたびにいつも違和感を覚えてしまう。

ただし、世の中には幼少の頃天才と謳われても、成人になると凡人になってしまう例がごまんとある。

したがって「類稀なる学習能力を極めながら高みに登っていくことこそ天才の証しだ」と、反論される方がいるかもしれない。


皆さまはどちらに与(くみ)しますか?(笑)



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ベートーヴェンのピアノソナタ「作品111」

2024年11月30日 | 音楽談義

「クラシック音楽がすーっとわかるピアノ音楽入門」(山本一太著、講談社刊)に、「ベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタ」について次のような記述(95~96頁)があった。

          

~以下引用~


『ベートーヴェンは、1820年から22年にかけて「第30番作品109」、「第31番作品110」、「第32番作品111」のピアノ・ソナタを書き、これらがこのジャンルの最後の作品となった。

この三曲をお聴きになったことのある人なら、これが現世を突き抜けた新しい境地で鳴り響く音楽だとして理解していただけると思う。

とにかくこういう超越的な音楽の神々しさを適切に美しく語ることは、少なくとも著者には不可能なので、簡単なメモ程度の文章でご容赦ください。
ベートーヴェンの晩年の音楽の特徴として、饒舌よりは簡潔、エネルギーの放射よりは極度の内向性ということが挙げられる。

簡潔さの極致は「作品111」でご存知のようにこの作品は序奏を伴った堂々たるアレグロと感動的なアダージョの変奏曲の二つの楽章しか持っていない。ベートーヴェンは、これ以上何も付け加えることなしに、言うべきことを言い尽くしたと考えたのだろう。

こんなに性格の異なる二つの楽章を、何というか、ただぶっきらぼうに並べて、なおかつ見事なまでの統一性を達成しているというのは、控え目にいっても奇跡に類することだと思う。

もっとも、この曲を演奏会で聴くと、何といっても第二楽章の言語に絶する変奏曲が私の胸をしめつけるので、聴いた後は、第一楽章の音楽がはるかかなたの出来事であったかのような気分になることも事実だが。』

以上のように非常に抑制のきいた控え目な表現に大いに親近感を持ったのだが、「音楽の神々しさを適切に美しく語ることは不可能」という言葉に、ふと憶い出したのがずっと昔に読んだ小林秀雄氏(評論家)の文章。

「美しいものは諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。」(「美を求める心」より)

いささか堅苦しくなったが(笑)、自分も「作品111」についてまったく著者の山本氏と同様の感想のもと、この第二楽章こそは数あるクラシック音楽の作品の中で「人を黙らせる力」にかけては一番ではなかろうかとの想いは20代の頃から今日まで一貫して変わらない。

とはいえ、ベートーヴェン自身がピアノの名手だったせいか、ハイドンやモーツァルトの作品よりも技術的には格段にむずかしくなっているそうで、標記の本では「最高音と最低音との幅がドンドン大きくなっている」「高い音と低い音を同時に鳴らす傾向が目立つ」といった具合。

言い換えるとピアニストにとっても弾きこなすのが大変な難曲というわけで、聴く側にとっては芸術家のテクニックと資質を試すのにもってこいの作品ともいえる。

以前のブログでこの「作品111」について手持ちのCD8セットについて3回に分けて聴き比べをしたことがある。

そのときのお気に入りの順番といえば次のとおり。

  1 バックハウス  2 リヒテル  3 内田光子 4 アラウ  5 グールド  6 ケンプ  7 ミケランジェリ  
8 ブレンデル

         

       

ちなみに、天才の名にふさわしいピアニストのグールドがこのベートーヴェンの至高のソナタともいえる作品で5番目というのはちょっと意外だけど、これは自分ばかりでなく世評においてもこの演奏に限ってあまり芳しくない評価が横行しているのだがその原因について先日のこと、音楽好きのオーディオ仲間が面白いことを言っていた。

『グールドはすべての作品を演奏するにあたって、いったん全体をバラバラに分解して自分なりに咀嚼し、そして見事に再構築して自分の色に染め上げて演奏する。モーツァルトのピアノソナタはその典型だと思う。

だが、この簡潔にして完全無欠の構成を持った「作品111」についてはどうにも分解のしようがなくて結局、彼独自の色彩を出せなかったのではないでしょうか。』


グールドの演奏に常に彼独自の句読点を持った個性的な文章を感じるのは自分だけではないと思うが、この「作品111」の演奏にはそれが感じられないので、この指摘はかなり的(まと)を射たものではないかと思える。

天才ともいえる演奏家がどんなにチャレンジしても分解することすら許さない、いわば「付け入る隙(すき)をまったく与えない」完璧な作品を創っていたベートーヴェンの晩年はやっぱり楽聖としか言いようがない



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クラシック専門の音楽喫茶「アマデウス」

2024年11月21日 | 音楽談義

指揮者「ウォルフガング・サバリッシュ」(1923~2013)についてどのくらいの方々がご記憶だろうか?

彼はN響の桂冠名誉指揮者だったので、全国放映の機会も多くもしかして演奏風景をご覧になった方があるかもしれない。




いかにも大学教授然とした風貌の持ち主で享年89歳だったので行年に不足はないがとても好きな指揮者の一人だった。

周知のとおり、本家、ヨーロッパのクラシック界ではオペラが重要な演目になっており、「オペラを振らせると指揮者の実力が分かる」とまで言われているが、彼が指揮したオペラ「魔笛」は大のお気に入り~。

極めてオーソドックスな解釈のもと、どこといって破綻のない、まことに中庸を得た演奏だったので安心して「魔笛」の世界に浸れたものだった。

改めて手持ちを確認してみるとサバリッシュ指揮のものはCD盤(2枚組)とDVD、それぞれ一組あった。



「魔笛」の主役級の歌手は5人いるが、全て粒よりのメンバーが揃うことは不可能に近く、どういう盤にも何らかの配役に憾みを残す。

このサバリッシュのCD盤では、高僧役に「クルト・モル」、王子役に、「ペーター・シュライアー」、道化役に「ウォルター・ベリー」と、男性陣に最高のメンバーを得ているものの、女性役二人がちょっと物足りない。

その一方、DVD盤では女性陣として夜の女王に「エディタ・グルヴェローヴァ」、王女役に「ルチア・ポップ」と、この上ない豪華な顔ぶれだが、今度は男性陣2名が物足りないといった具合。

巷間、「魔笛に決定盤なし」と言われている所以がこれらサバリッシュ盤にも如実に伺われるところ。

ところで、サバリッシュのフルネームは「ウォルフガング・サバリッシュ」である。ピンと来る方がきっといるに違いない。

そう、あのモーツァルトのフルネームが「ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト」である。ちなみにかってのウィーンフィルの首席フルートは「ウォルフガング・シュルツ」(故人)だった。



いったい「ウォルフガング」とはどういう語源を持つんだろうか?こういうときにはググってみるに限る。

すると、「Wolfgangは主にドイツ語圏などで見かけることができる人名で「Wolf Gang」(”狼の牙”)という意味を持つ」と、あった。

英語でも狼のことをウルフと呼んでいるので、おそらく狩猟民族に由来する名前なんだろう。

モーツァルトの「天馬空を駆ける」音楽と「狼の牙」のイメージがどうも結びつかないけどねえ(笑)。


なお、「アマデウス」とは「神に愛されし者」という意味だが、この「アマデウス」という言葉には思い出があって、ここでちょっと過去を振り返らせてもらおう。

大なり小なり「人生は山あり谷あり」なので、誰にでもスランプや不遇の時代があると思うが、そういうときには自分の場合、転職を考えるのが常だった。

まあ、一種の逃げみたいなものですね~(笑)。

当時を振り返ると、往年のベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」(渡辺和子さん著)なんて、高邁で強い精神にはなれなかったことを今でも恥ずかしく憶い出す。

そして、逃げ道候補の一番手はクラシック専門の「音楽喫茶」を開くことだった。

当時は、「ブランド信仰」丸出しのタンノイ・ファンだったのでオートグラフをドカンと店内に据えて真空管アンプで鳴らそうなんて夢みたいなことを考えていたが、その時の音楽喫茶の名前を一貫して心に刻み込んでいたのが「アマデウス」だったというわけ。

奇しくも、2セット目の「AXIOM80」を譲ってくれた千葉のSさんも音楽喫茶を開くのが夢で、その時には店名を「アマデウス」にしようと決意されていたそうで、「音楽好きは似たようなことを考えますね~」と二人で苦笑(ネット間で)したものだった。


さて、この音楽喫茶の顛末だが「こんな田舎でどれだけクラシック・ファンがいると思っているんですか。食べていけるわけがないでしょう!」との家人の凄い剣幕に気圧されて、結局諦めざるを得なかった。常識的に考えても、おそらく誰もがそう言うに違いない。

こうして、今となっては引退後に何不自由なく音楽・オーディオ三昧の日々が送られているのだから、当時の選択はおそらく正しかったのだろうがやはり一抹の寂しさは拭えない。

残り時間が音を立てて崩れていく状況のもと、人生は一度きりというのがつらいなあと、秋が深まる中でとみに思う今日この頃~(笑)。


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芸術的な価値はコストで割り切れるものだろうか

2024年11月19日 | 音楽談義

いつぞやの「読売新聞」に掲載されていた記事がこれ。
         

ストラディバリウスといえば周知のとおり数あるヴァイオリンの中でも王様的な存在だが、この種のネタは旧くて新しいテーマとしてこれまでも度々提起されている。

その理由は「数億円もするヴァイオリンが、はたしてそれに見合う音を出しているのか?」の一点に尽きる。

煎じ詰めると
「藝術的な価値をコストで割り切れるのか」というわけで、結論の出しようがない不毛の議論が性懲りも無く何度も何度も繰り返されている~(笑)。

この新聞記事では演奏者の正体が明かされていないところがポイントで、たとえば一流の演奏家が弾くのと二流の演奏家が弾くのとではいかなる名器であっても違った響きを出すのが当たり前だから随分と無茶な話のように思える。

ちなみに、ずっと以前に「名器ストラディバリウスの真価とは」と題して投稿したことがある。


「よく分かる音響の基本と仕組み」(2007年、岩宮真一郎著)  

音の正体、聴覚の仕組み、など興味深い項目について分りやすく解説されていた。それに頁のところどころにはさんである”コラム”も面白い。193頁に以下のコラムがあった。

ヴァイオリンの世界では「ストラディバリウス」や「ガルネリ」といったいわゆる「名器」がとてつもない値段で取引されている。中には10億円以上のものがある。こういった神格化された名器の音は、はたしてその値段にふさわしいものだろうか。
 

きちんとした聴き比べ実験が試みられている。ストラディバリウス(数億円)、プレッセンダ(数千万円)、中級品(50万円)、低級品(5万円)の4種類のグレードのヴァイオリンが使われた。

一流の演奏家による演奏を録音し、被験者に何度も聴かしてそれぞれの音の特徴を覚えさせる。そして、音だけ聴かせてどの楽器かを回答させた。その結果、ストラディバリウスの正答率は53%だった。あまり高い正答率とはいえないが、全然分らないというものでもない。少なくとも「中級品」「低級品」と間違えることは少なかった。

「音の伸びがいい」「音の厚みがある」ことがストラディバリウスと判断する手がかりだったという。

ところがである。同じ被験者で生演奏で同じ実験をしたところ、正答率は22%に下がってしまった。これはほぼ偶然にあたる確率である。演奏者の素晴らしい演奏に聴き入ってしまい聴き比べがおろそかになってしまったのだろうか?名器の秘密に迫るのは難しそうだ。

この話、オーディオ的にみて実に興味深いものを含んでいるように思う。

電気回路を通した音では聴き分けられたものが、生の音では聴き分けられなかったいうのがポイント。

このことは目の前でじかに聴く音の瑞々しさ、生々しさは楽器のグレードの差でさえも簡単にカバーしてしまうことを示唆している。

したがって、オーディオにはあまり熱を入れず生の演奏会を重視する人たちがいるというのも一理あるのかもしれない。

ちなみにブログ主はオーディオシステムから「生の音」を出そうとはゆめゆめ思ってません。どうあがいても無理です!(笑)。それよりも「システムの存在を忘れて音楽に純粋に浸れる音」を目指しています。


それはさておき、ストラディバリウスの真価は果たしてこの程度のものだろうか。 

日本の女流ヴァイオリニスト千住真理子さんがストラディバリウスの中でも名品とされる「デュランティ」を手に入れられた経緯は、テレビの特集番組や著書「千住家にストラディバリが来た日」に詳しい。

テレビの映像で、彼女が「デュランティ」を手にしたときの上気してほんのりと頬に紅がさした顔がいまだに目に焼き付いて離れない。

千住さんによると、凡庸のヴァイオリンとはまったく響きが違い、いつまでも弾いていたいという気持ちにさせるそうである。

やはり、プロの演奏家にしか真価が分らないのが名器の秘密なのだろうか、なんて思っていたところ・・、逆に「ストラディヴァリは神話に過ぎない」とバッサリ一刀両断している本に出会った。               
                          

    「贋作・盗作 音楽夜話」

著者の「玉木宏樹」氏は東京芸大の器楽科(ヴァイオリン)を卒業されて現在は音楽関係の仕事をされている方。

本書は表題からもお分かりのとおり、音楽の裏話を面白おかしく綴った本だが、その57頁から75頁まで「ヴァイオリンの贋作1~3」の中でこう述べてある。 

「ではストラディヴァリは本当に名器なのでしょうか?私の結論から申し上げましょう。それは神話でしかありません。値段が高いからいい音がするわけではなく、300年も経った楽器はそろそろ寿命が近づいています」

「ヴァイオリンの高値構造というのは一部の海外悪徳業者と輸入代理店によってデッチ上げられたものですが、ヴァイオリニストというものは悲しいことに最初から自分独自の判断力を持つことを放棄させられています」

「ヴァイオリニストにとっての名器とはいちばん自分の身体にフィットして楽に音の出るものと決まっているはずなのに、その前にまずお金で判断してしまうのです」といった調子。

芸術家としての千住さんの話もご尤もだと思うし、玉木氏のドライな説もなかなか説得力があり、どちらに妥当性があるのか結論を出すのがなかなか難しいが、この問題は冒頭に述べたように「芸術的価値をコストで割り切れるのか」に帰するようで、つまるところ当のご本人の価値観に任せればそれで良し!

オーディオだって似たようなものだからね(笑)。



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モーツァルトの「ホトホンせれなード事件」

2024年10月31日 | 音楽談義

作家の「村上春樹」さんが書かれた文章の中に次のような一節がある。

「死んだ人や動物に対して、僕らがしてあげられるほとんど唯一のことは忘れないで覚えておいてあげることです」。

日頃から気に入った言葉や文章に出会うと、こまめにメモしているがこれはその中でも筆頭候補である。

私事でまことに恐縮だが13年前の9月に95歳を目前にして大往生を遂げた母のことを今でもときどき憶い出す。

享年としてはまあ不足はないにしても、いろんな方の話を伺うと「生きているうちにああしてあげればよかった、こうしてやればよかった」と悔いが残るそうで、逝った年齢には関係なく子供というものは親のこととなるといつも後悔するものらしい。


昨日も夕方のウォーキング中に母と似たような方とすれ違って、ふと思い出したのがモーツァルトの「ホトホンせれなード」事件。

経緯を記してみよう。

もう40年前ぐらいになるだろうか、NHKのBSハイの深夜番組でオペラを放映していた。長大なオペラの場合、3分程度の幕間休憩というのがあり、そのときに間奏曲として演奏されている曲目が実に心に沁みてきた。

こんこんと尽きせぬ泉が湧き出てくるようなごく自然な楽想で、これは絶対にモーツァルトの作品だと確信したが、如何せん曲名が分からない。

普段はそのまま聞き流して忘却の彼方になるのだが、あまりに強烈に印象に残ったので地元のNHK大分放送局に、放送があった時間帯をもとに問い合わせてみたところ、当然、すぐに曲名が判明するわけでもなく、ご親切にも「後日、返答します」ということになった。

当時は仕事に追われる毎日で残業続きのため家を留守にすることが多かったが、NHKからの回答を受けてくれたのが同居中の老母だった。

「NHKから電話があったよ」と、帰宅後に母からメモを渡され、そこに書いてあったのが「モーツァルト ホトホンせれなード」。

「ウ~ン、ホトホンとはありえない言葉で、これではちょっと分からないなあ!」と、ため息をもらしつつ、もうはっきりと覚えていないがきっと自分で再度NHKに問い合わせたと思う。

そして、ようやく具体的に判明した曲名が「セレナード第9番ニ長調 K.320 ポストホルン」。

急いでネヴィル・マリナー指揮のCDを取り寄せて聴いてみたところ、気に入った間奏曲に該当する部分は、同セレナードの第3楽章「Concertante(Andannte grazioso)」(9.02分間)だった。

          

いかにもモーツァルトの音楽「ここに極まれり!」と、胸を打たれるほどの名旋律で、これを聴くと「ホッ」として、心痛、愁いなどあらゆるマイナスの心理状態をはるかに超越させてくれる心境になる。音楽の効用はいろいろあるんだろうが、これが一番である。

昨日の夜は就寝前までこの曲目に聴き耽った。当時(母の)不自由だった手で書かれた「金釘流の文字」(画像右下)も今となってはたいへん懐かしい思い出だ。よくぞ捨てずにこれまで保管しておいたものだと我ながら感心する(笑)。

終わりに、冒頭の話に戻って人間はすべて生命に限りがあるが、自分が逝った後に身内を除いてどれだけの人の記憶に残っているかと考えると何だか儚(はかな)くなる。

このブログだって遅かれ早かれ店仕舞いのときがやってくる。

せめて、「そういえば、昔、モーツァルト狂いでオーディオに随分熱心な奴がいたなあ~」と、ときには思い出してくれる人が一人でもいてくれたら本望だが、はたしてどうなんだろう?(笑)



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悪貨(便利)は良貨(音質)を駆逐する

2024年10月25日 | 音楽談義

深夜のBS放送で「音楽のある風景」という番組を頻繁にやっている。

それこそクラシックからジャズ、ポップス、歌謡曲までいろんなCD全集の曲目のさわりの部分をピックアップして放映しており、どちらかといえば宣伝に特化した番組(30分)といえる。

これまでにも、つい釣られてしまい「木村好夫のムードギター全集」や「魅惑のラテン音楽全集」などを購入している。



クラシックについても、名曲ばかりを集めた「CD8枚組」の放映をやってた。題して「ヒーリング・クラシック・ザ・プレミアム」。

クラシックの楽しみはハーモニーと旋律を味わうことにあると思っているが、若い頃に聴き込んだ懐かしい曲目が多くて、つい ほだされて しまった。

「さわりの部分だけ聴いてどうする、全体を通して聴いてこそ曲の良さが分かるのに~」というご意見もあろうが、人生の残り時間が少なくなるにつれ「気短になる → 手っ取り早さ」が優先してくるのは否定できない(笑)。

8枚だから毎朝の起き抜けに1枚づつ聴いても8日はかかるし、早朝から「清々しい気持ち」になれるのも悪くはあるまいと電話で注文し、三日ほどして到着した。



全体で105もの「名曲」が網羅されているが、はたしてどういう曲目が収録されているのか、一例として4番目のCDを血祭りにあげてみよう。



「タイスの冥想曲」、「歌劇カヴァレニア・ルスティカーナの間奏曲」、「パガニーニの主題による狂詩曲」、「私のお父さん」「クラリネット協奏曲2楽章」など、名曲がズラリ。

初心者向きの曲目ともいえるが、たまに聴くとついウットリしてしまう。

8枚のCDすべて手軽に聴けるように「ブルーレイ・レコーダー」に収録しているので、本体の8枚は遊んでいる状態・・、ご興味のある方はお貸ししますよ、と言いたいところだが周知のとおり「音楽CD」は著作権という厄介な代物がついて回っている。

コピーしたCDを不特定多数にばらまくのはもちろん違法だが、「買ったCDを友人に貸すケース」に対してはどうなんだろう?

ネット情報によると、次のとおりだった。

「少数であればOKです。「友人」は、自分や家族のような「家庭内その他これに準ずる範囲」に含まれませんが、親しい友人の数人程度であれば違法にはなりません。とはいえ10人や50人、さらにそれ以上など大人数になってくると話は変わってきます。」

とのことだが、どうやら仰々しく騒ぎ立てるものではないようで水面下の話で済ませておくのが「大人の知恵」というものなんでしょう・・。

とはいえ、もはや「You Tube」によって、音楽が湯水のようにタダで聴けるんだから「CDの貸し借り」なんて、もう時代遅れですよねえ~。

ただし、「音質」となると別の話で我が家のケースではこうだ。

「CD」 → 「CDトラポ → DAC」(COAXケーブル)

「You Tube」 →「テレビ → DAC」(光ケーブル)

とでは、前者が上回るので、お客様が見えたときの音楽ソースは「CD」に限っている。

ただし、その差は「高齢者の耳」では「ごく僅か」・・、そこで「便利」を優先して、日常生活ではほとんど「You Tube」に頼っているのが実状である。

つまり、「悪貨(便利)は良貨(音質)を駆逐する」(グレシャムの法則)というわけです(笑)。

 

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