ヨーロッパ歴史紀行
堀米庸三 著
筑摩書房 発行
1981年7月20日 第1刷発行
はしがき わがうちなる「ヨーロッパ」をもとめて
1971年、梅雨明け頃から2か月ほどヨーロッパを巡る堀米さん
ドナウ諸国をゆく
ベオグラードは古代以来、東西交通の要衝だった。
ベオグラードの西方シルミウムの附近を通過した民族
ゲルマン、フン、アヴァール、スラヴ、ハンガリー、オスマン・トルコ
12年前、2年に近い外国生活を終えて帰国した時最初に気付いてはっとしたことは、街を歩いて耳に入る人々の会話がみなわかるということ。
当たり前のことだが、その時の堀米さんは何か魔法によって鳥や獣の声が途端に分かるようになったという、おとぎ話の人間にも似た驚きを感じた。
精神の輝きが消えた東欧
ヨーロッパの東と西について、西ドイツの政治家の中には、アドリア海の奥のフィウメからバルト海奥のエストニアのレヴァル(現在のタリン)に向けて線をひくと、この線はちょうど哲学者カントの町ケーニヒスベルグ(カリーニングラード)の辺をとおる、この線の西が西欧ないし厳密な意味のヨーロッパなのだ、という人がいる。
この直線はウイーンも通る。
ソ連型の共産世界の中で、ユーゴはその限界を超えていた。可能だったのはそれが東欧共産圏の縁辺に位するのみならず、アドリア海に面しているためである。このユーゴをおさえることは、アメリカとの一戦を覚悟せずにはできない。
シルミウムの重要性は東西交通の要衝で、北方防備の拠点であった点だけでなく、4世紀には帝国貨幣鋳造所のひとつでもあった。
東ヨーロッパの救いは、どの都市にもみられる豊かな樹蔭。ブカレストやソフィアの市中公園と街路樹の見事さ。
ルーマニア語は周辺のどの言語とも異なっており、もし最も近い言葉はときかれるならば、ラテン語とこたえるほかはないとのことだった。
パリのブーローニュの森はドライブウェイが四通八達している点でやはり公園であることを免れない。ところがソフィアの公園は純然たる森林である点で、他に類がない。
世界の都・イスタンブール
イスタンブールは東西南北どの世界にも、どの文明に属すると同程度に、専属的にはどの世界にもどの文明も属さない独特の世界なのだ。
ケルコポルタという非常門
ある意味で1453年、コンスタンティノープル陥落の悲運を決定した扉
ブラケルネー宮
第四回十字軍のコンスタンティノープル攻撃に際し、ヴェニス海軍の金角湾制圧後における主戦場となった場所。
フランスの騎士ヴィルアルドゥアンの『コンスタンティノープル征服記』にあり。
ハギア・ソフィア
一口に言うと、コンスタンティノープル=イスタンブール千数百年の歴史が、それを彩る壮大絢爛たる事件の数々をともなって、あたかもかの大円蓋を渦巻き流れるかの印象を禁じ得ない。
ハギア・ソフィアの幅広い石畳の登り道
ローマの聖アンジェロ城中心部にある登路以外こんなものに出くわした記憶がない。
大円蓋というと、私たちがすぐ思い出すのは、ローマのパンテオンであり、カラカルラ、ディオクレティアヌスの浴場である。
前記のルメルルによると、建築における円蓋の使用はアーチと同じくメソポタミアないしイランに始まり、ローマに輸入されたものだった。
しかもローマでの円蓋使用はコンスタンティヌスとともにほぼ終了し、彼とともに東、つまりコンスタンティノープル、ないしはこれを中心とした帝国東半分にうつる。
円形(ロトンド)形式の礼拝堂や洗礼堂では既洗礼者と未洗礼者が区別しにくい。
バジリカ式の身廊に直角に交わる横断廊(トランセプト)を加えると、洗礼者の区別ができ、増大する聖職者や信徒を収容することが出来る。
ビザンツ絵画には「磔刑」が少ない。
ビザンツの聖画像なるものがすべて絵画であり、彫刻は丸彫りはもちろん、高浮彫さえもほとんど使われない。
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