天の蛇
ニコライ・ネフスキーの生涯
加藤九祚 著
河出書房新社 発行
昭和54年10月15日 5版発行
柳田国男の文章にもよく出てくるロシア人ニコライ・ネフスキーの波乱の人生を叙述した本です。
悲劇的な最期を迎えますが、流暢な日本語で元気よくフィールドワークしていて、生を全うしたんだなということを知ることができ、救われたようなような気持ちになりました。
第一章 ヴォルガの岸辺で
1892年、ヤロスラヴリに生まれたネフスキー
一 家庭の幸福に恵まれなかった幼少年時代
二 東洋語に対する興味の目ざめ
日露戦争たけなわの1904年10月1日、約800人の日本人がヴォルガ川を船でさかのぼり、ルィビンスクに上陸した。
彼らはロシア領の沿海州や東部シベリアの居留して商売などを営んでいたが、引揚げが間に合わずにロシア領内に残留を余儀なくされた人々。女性が多いのは、シベリアでの売笑婦が多数含まれていたからである。
一行は開戦から八か月近く、ロシア各地でさまざまな辛酸をなめ、ウラルを西に越えてドイツのブレーメン港を経由して後、12月14日長崎港に帰着した。
第二章 ペテルブルグにて
一 アジア博物館
ロシア東洋学誕生の礎石
二 人類学・民族学博物館
三 支那学者V・アレクセエフ
中国語および中国文学、中国の考古学、民族学、歴史学など多方面にわたる優れた業績
四 アレクセエフの中国観
中国の民間信仰の最大の特徴として宗教的折衷主義をあげている。
五 民族学者L・シュテルンベルグ
ネフスキーにおけるシュテルンベルグの影響は、後年彼が行った民族学的研究の方法、とくに曹族言語の調査方法に明瞭に見られる。
六 黒野義文
ペテルブルグ大学でネフスキーらに日本語を教える。
ウラジオストクでは女郎屋の用心棒に雇われたという話もある
七 日本学者スパルヴィン
日本論『横眼で見た日本』で日本とソ連との文化的関係の歴史に一つの道標を残した。
スパルヴィンの教えを受け、ネフスキーの先生だったドーリャという日本語講師のエピソード
授業の中でみんなが眠くなったとき「君ら、×××という日本語を知っているか。ちょうど目のような形をしているので、そういうのだ。あっ、もう時間が来たから、今日はこれで失敬するよ」という調子だった。
第三章 日本留学と学友たち。ロシア革命
一 日本留学
二 日本文学研究家S・エリセエフ
後にハーバード大学の教授としてアメリカにおける日本文学研究の祖となる。
三 エリセエフの見たロシア革命
四 ソ連における日本学の父N・コンラド
ソ連では、コンラド氏のことを知らない日本学者、また彼の教え子、あるいは教え子の教え子であることを誇りと感じていないような日本学者は一人もいない
ネフスキーとコンラドは中国文学と中国語のまれに見る大家高橋天民について三年間漢学を学んだ。
五 仏教学者ローゼンベルグ
夜遅くまで話し合い、日本研究を分け合うことに決めた。
ローゼンベルグは仏教哲学を、ネフスキーは神道を”手に入れ”、私(コンラド)は日本における中国文化、漢文を”ものに”しました。
日本はこの夜ふけに眠っていて知らないんだが、三人のロシア人の少壮学者がいま日本を分割したってわけだね。
六 プレトネル兄弟
近藤富江著『本郷菊富士ホテル』に出てくる
第四章 東京在住時代
一 中山太郎らとの出会い
中山太郎は民衆史の立場から歴史的な文献を多く用いて多方面の民俗史を書く。
茨城県の安寺・持方を旅するネフスキーと中山
閉口したことは
・子供が大勢してネフスキーについてくる
・歩きながらネフスキーから質問責にされる
ネフスキーが持方だけに通用する言葉は「盲目帳」という租税徴収簿のことらしい
日本のオドリの語原については、女子が舞踊を以て男子の注意を惹いたオトリ(男取り)の意、と語ったネフスキー
二 柳田国男・折口信夫に師事
第五章 帰国の延期
一 病に倒る。友人からの来信
二 日本滞在を決意
ネフスキーの論文「農業に関する血液の土俗」は柳田国男宅で播磨風土記を読んだ時の着想がもとになっている。
第六章 小樽在住時代
一 若きネフスキーのロマンティシズム
二 オシラ神の研究
柳田国男から、佐々木喜善と共同でオシラ神の研究をしたらどうかとすすめられた。
三 東北地方縦断の旅
オシラ神の本場というべき東北地方への縦断旅行を思い立つ。
四 アイヌ語と宮古方言の研究
五 萬谷イソとの出会い。結婚
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