歴史読本『民俗学のふるさと 辻川』
辻川史編集委員会 編集
辻川区自治会 発行
令和5年(2023年)3月1日 発行
兵庫県神崎郡福崎町の辻川区の自治会によって発行された本です。
自治会でこれほどレベルの高い本を発行できるなんて、さすが柳田(松岡)國男の出身地ですね。
はじめに
柳田國男は心のよすがとなった辻川について、「辻川というような非常に旧い道路の十文字になったところに育ったことが、幼い私にいろいろの知識を与えてくれたように思う。その道路の上を通った者のことが記憶に残っていたり、自分でも様々な見聞をしたりしたので、外部のものの一つ一つに対してこんなに関心を寄せながら成長するようになったのであろう。もしも横丁か何かの隅っこにいたのだったら、私もこんな風な人間にならなかったかもしれない」(故郷七十年)と記す。
また「辻川は全国中にも珍しき好山河なり。殊に岡(辻川山や桃山)の上からの眺望は絵にも写し難き感じ也。家の屋根の形と勾配、ともに他の地方に優るかと思ふ」(北国紀行)とも記している。
第1章 辻川のはじまりと自然
柳田國男が「諸国の旅を重ねた後に始めて心づいて見ると、我村は日本にも珍しい好い處であった。水に随う南北の風透しと日当り、左右(東西)の丘陵の遠さと高さ、稲田に宜しき緩やかな傾斜面、仮に瀬戸内海の豊かなる供給が無かったとしても、古人の愛し来り住むべき土地柄であった」(妹の力)と記述する辻川の風景は、辻川山から眺めるとよく分かる。
第2章 江戸時代の辻川
「辻川を東西に貫いて前之庄を通り、佐用の方へ延びる古い街道に、十字路に交叉して、古く開けた港の飾磨津より北上して達する道のあることがその由来であると気づくようになった」(故郷七十年)
市川流域の高瀬舟による舟運は1626年に仁豊野に始まり、盛時でも北限は現市川町浅野か、せいぜい屋形までであった。
川を遡るときは両岸から牛か人が舟を引いて上がった。
第3章 明治時代の辻川
「私(國男少年)はまだ幼年時代に、三々九度のお酌をする役を二度させられた。男の子は五つ、女の子の方は七つに限るわけで、男蝶・女蝶になるのだが、女の子はただお酌をしていればいいのに、男の子の方にはちゃんというべき言葉が決まっている」(故郷七十年)
第4章 大正時代~太平洋戦争終結までの辻川
第5章 戦後、昭和時代の終わりまでの辻川
田原町、八千種村、旧福崎町の合併が動き出したが、昭和29年9月末、合併協議自体が中断する。
30年、瀬加村、八千種村、田原村が合併し、辻川町とする話もあったが、認められなかった。
結局、31年に町名を福崎、役場を田原が、そして初代町長が八千種という形で新福崎町が誕生した。
柳田國男の最後の帰郷は昭和27年10月であった。
第6章 辻川の社寺と祭礼行事
第7章 辻川の生活
國男は長兄鼎が明治11年に19歳で昌文小学校校長になったこともあり、翌12年に数え5歳で入学し飛び級を重ね、同17年11月に10歳で卒業した。
(岩波書店「柳田国男と折口信夫」の年譜では16年9歳で昌文小学校を卒業し加西郡北条町の高等小学校に入り、18年11歳で高等小学校を卒業、とある)
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