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播磨の街道 『中国行程記』を歩く

2022-10-16 15:43:35 | ヨーロッパあれこれ

 

播磨の街道 
『中国行程記』を歩く
橘川真一 著
大国正美 解説
ひめしん文化会 発行
姫路文庫10
2004年1月25日 第1刷発行

萩藩(山口県)の絵師、有馬喜惣太が、藩主へ江戸への参勤の道を示すために制作した詳細な絵図である『中国行程記』をもとに、西国街道(山陽道)のうち、兵庫・岡山県境の船坂峠から須磨・一の谷まで歩き、街道筋の歴史や風物をやさしく解説しています。
なお本書は、平成10年から同12年にかけて山陽電鉄発行の「山陽ニュース」に「古い歴史を刻む道」と題して33回にわたって連載したものに加筆したものです。p205

 

西播磨 上郡町~太子町
ヒバリが鳴いた龍野藩領 龍野市
この付近の街道の様子を描いた人にドイツの医師で、日本研究でも知られたフィリップ・フランツ・シーボルトがいる。
文政6年(1823)に来日したシーボルトは、同9年に長崎から江戸を往復した際の様子を『江戸参府紀行』として記録しているが、門前付近を通ったのは3月9日の昼過ぎであった。p50

旗振山だった太田の楯岩城 太子町太田
『行程記』には、石地蔵のそばに「天神」の赤い鳥居と社殿が描かれている。何の説明もないが、播磨の地誌『峰相記』には、伝説の人といわれる藤原貞国の物語が書かれている。
奈良時代の天平宝字8年(764)に異国の軍船二万余艘が播磨国まで攻め込んできて、家島などに陣を敷いた。驚いた朝廷は、鉄を射通すという貞国を将軍にして討伐させた。
大勝を収めた貞国は播磨の西五カ国の大領になり、大田郷(太子町太田)の楯鼓原に住んだ。貞国が亡くなったあと村の人々は黒岡明神に祀ったという。
これは鉄人伝説の一つで、貞国も実在の人物ではない。p58

 

中播磨 姫路市 
古代の市があった市之郷 姫路市市之郷
平安時代中期の歌人・清少納言が著した随筆集『枕草子』の十二段「市は」に奈良の辰の市、椿市、飛鳥の市や飾磨の市があると書かれている。大和の市と同じように、都にも知られた市が姫路の飾磨にあった。
飾磨の市は、今の姫路市城東地区、市之郷町周辺にあったものとみられ、この町名や、すぐ東を流れていた市川の名も、飾磨の市から付いたといわれる。
山陽道ぞいにあった飾磨の市は、平安から鎌倉前期にかけて姫路周辺、市川流域の物資の集積地として最も栄えていたようで、この辺りには、市之郷廃寺跡と礎石、播磨政所などの史跡が残っている。p98-99

 

東播磨 高砂市~神戸市須磨区
謎の巨石・石の宝殿 高砂市阿弥陀町生石
文政9年(1826)3月10日に博物学者・シーボルトもここに来て「石の宝殿は巨大な石が突然そこに出てきたという伝説」と「江戸参府紀行」に記している。p136

明石の城下町 明石市鍛冶屋町ほか
元禄4年(1691)に播磨の海を通ったドイツ人医師ケンペルは、明石の町を見て、美しい城で高い樹木に覆われていて、城壁の中央と両端に三層の櫓があり、白壁の二面だけが輝いていたと、褒めているが、文政9年(1826)に明石を歩いたオランダ商館の博物学者シーボルトは、明石は大きな町だが、秩序や規律の見られない取るに足りない町と酷評している。p191

絶景の海辺の道 神戸市垂水区
『日本書紀』には五色塚は偽陵だと書いてあるが、現在の調査では、この古墳は四世紀から五世紀にかけて築造されたもので、偽陵ではなく、明石海峡を支配した豪族の首長の墓ではないかといわれている。p199

 



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