【福岡小1殺害】「子供殺し自分も死のうと思った」 育児に悩み将来悲観 逮捕の母親
『母親の薫容疑者(35)が福岡県警捜査本部の調べに対し、「育児に悩んでいた。自分の病気のこともあり将来を悲観し、子どもを殺して自分も死のうと思った」などと供述していることが22日、わかった』
殺し以外にとるべき手が無かったのか、それしか考えられないほど思い詰めていたのか?
かつての村社会では福子(宝子・福助)と呼ばれ、知的障害児をかなり好意的に扱っていた時代があったそうだ。以前何かの本で読んだのだが、村社会という共同体は「穀潰し」であるはずの障害児を抱擁する文化と力があったということだろう。
しかし反対に『鬼子』という概念もあった。
障害の程度や奇形など、見た目や行動が村社会の許容値を超える場合である。
『一つのことに集中できなかったり、突然走りだすなど予想できない行動を取ったりすることがあり、特別支援学級に在籍。登校をいやがることもあった』という被害者は、注意欠陥・多動性障害(AD/HD)か、それに類する状態だったと推測されるが、かつての村社会ではそれを「福子」として受け入れたか、「鬼子」として排除したのか…
生産性が低い社会で障害児を福子として内包していたということに、当時衝撃を受けたのだが、生産性が高いにもかかわらず、障害児を排除する傾向が強い現代社会の方がもっと衝撃的かもしれない。
この親は「障害児」を「排除」したのであり、区別ではあるが特殊学級も見方によれば「排除」だ。AD/HDの場合、程度にもよるが他の児童への影響は無視出来ないだろう。もっとも学級崩壊が進んでいるという現代。児童の多くはAD/HDなんじゃないかとさえ思えてくる。
全てがそうかどうかは解らないが、AD/HDは遺伝的要素が疑われ、脳の一部が萎縮しているという。いわば脳の奇形だ。現代の文明社会が、短時間で猛烈に発達した人間の脳組織を破壊しはじめているのかもしれない。
まぁ、こんな戯れ言は自分が障碍者でもなく、自分の子供が障碍者である訳じゃないので言えることなんだろう。子供は「五体満足」であって欲しいし、もし障碍児だったとしたら大いに落胆するだろうし、前向きになるためにはかなりの時間が必要だろうと思う。
ただかつての村社会ほど障碍者を受け入れ、支える社会ではない事は確かだ。障害者福祉だなんだといっても、そんなものが理想のお題目通りに機能していないからこういう事が起きるのだ。まず直ることがない脳障害の子供に「直るかもしれないから」と、障害の等級を落としてみたり、ヤクザの請求だと重度障害にしてみたりと、そういう社会なのだ。おまけに僅かな授産施設の稼ぎを根こそぎかっぱらう事が「福祉だ」という社会なのだ。
『母親の薫容疑者(35)が福岡県警捜査本部の調べに対し、「育児に悩んでいた。自分の病気のこともあり将来を悲観し、子どもを殺して自分も死のうと思った」などと供述していることが22日、わかった』
殺し以外にとるべき手が無かったのか、それしか考えられないほど思い詰めていたのか?
かつての村社会では福子(宝子・福助)と呼ばれ、知的障害児をかなり好意的に扱っていた時代があったそうだ。以前何かの本で読んだのだが、村社会という共同体は「穀潰し」であるはずの障害児を抱擁する文化と力があったということだろう。
しかし反対に『鬼子』という概念もあった。
障害の程度や奇形など、見た目や行動が村社会の許容値を超える場合である。
『一つのことに集中できなかったり、突然走りだすなど予想できない行動を取ったりすることがあり、特別支援学級に在籍。登校をいやがることもあった』という被害者は、注意欠陥・多動性障害(AD/HD)か、それに類する状態だったと推測されるが、かつての村社会ではそれを「福子」として受け入れたか、「鬼子」として排除したのか…
生産性が低い社会で障害児を福子として内包していたということに、当時衝撃を受けたのだが、生産性が高いにもかかわらず、障害児を排除する傾向が強い現代社会の方がもっと衝撃的かもしれない。
この親は「障害児」を「排除」したのであり、区別ではあるが特殊学級も見方によれば「排除」だ。AD/HDの場合、程度にもよるが他の児童への影響は無視出来ないだろう。もっとも学級崩壊が進んでいるという現代。児童の多くはAD/HDなんじゃないかとさえ思えてくる。
全てがそうかどうかは解らないが、AD/HDは遺伝的要素が疑われ、脳の一部が萎縮しているという。いわば脳の奇形だ。現代の文明社会が、短時間で猛烈に発達した人間の脳組織を破壊しはじめているのかもしれない。
まぁ、こんな戯れ言は自分が障碍者でもなく、自分の子供が障碍者である訳じゃないので言えることなんだろう。子供は「五体満足」であって欲しいし、もし障碍児だったとしたら大いに落胆するだろうし、前向きになるためにはかなりの時間が必要だろうと思う。
ただかつての村社会ほど障碍者を受け入れ、支える社会ではない事は確かだ。障害者福祉だなんだといっても、そんなものが理想のお題目通りに機能していないからこういう事が起きるのだ。まず直ることがない脳障害の子供に「直るかもしれないから」と、障害の等級を落としてみたり、ヤクザの請求だと重度障害にしてみたりと、そういう社会なのだ。おまけに僅かな授産施設の稼ぎを根こそぎかっぱらう事が「福祉だ」という社会なのだ。