「自力と他力の境界」と題して、以下のようなことを書いてブログに投稿しないままでいた。何だか自分勝手な物言いだなぁと書き手の私が感じていたからだ。
そんな折り、近所のお年寄りために雪下ろしをしていて亡くなった46歳のお父さんの話を新聞で読んで、やはり簡単なことは言えない、と改めて思った。今日は少し長い。まず、投稿しないままでいたものを読んでもらおう。
【自力と他力の境界】
新燃岳の噴火で町に火山灰が積もったことで、目の見えない人が安心して外を歩けない状態になっているという。自動車の走る道路は火山灰の除去が行われているが、歩道は火山灰が積もりっぱなしになっており、点字ブロックを足の底で感じたり杖で感じたりすることができない状況だという。あまりに深く積もっているため、盲導犬も自由に歩けないらしい。当然、体の弱った老人や病後の方々にとっても、また、小さなお子さんをベビーカーで連れて歩いているお母さんなどにとっても状況は似たり寄ったりだろう。社会は時間をかけて様々なサービスを積み上げている。健康だとわからないことも多い。
しかし、いつもと違う事態がいきなり襲ってくると、ようやく積み上げてきたものは、ガラガラと崩れ去ってしまう。だがよく考えれば、積み上げているサービスは障害を持った方々が普通の健康である人たちの手を借りずに、自分勝手に自由に生きていける手助けになるサービスに過ぎない。点字ブロックを触る感触がわからないなら、見える人が案内すればいい。盲導犬やベビーカーが通りづらいなら車道を走る車が道を譲ればいい。助け合わなければ生きていけないなら、助け合えばいいのだ。
そんな勝手なことを言うな、と言われそうだ。多くの人は、そんな簡単な話ではない、と言うだろう。いろいろな理由があって、弱者は不便を強いられる。だがだからと言って、弱者が、助けてほしいと言ってはいけない、などと誰も言っていないのだ。健常者も、健康だが障害を持って生きている人も、若い人もお年寄りも、困った時、助けてほしい時は、「助けて欲しい」と言えばいいのだ。助けなどいらないという顔で、自分一人で何とかしようなどと思わぬほうがいい。
人に助けを求めるか求めないか、その境界線はいったいどこにあるのだろうか。助けを求めなかったばっかりに、または、助けを求めるのが遅くなってしまったばっかりに、命を危険にさらすこともあるだろう。私たちは常日頃から、もっともっと人に助けを求める練習を積んだほうが良いように思う。中には、あまりに依存心が強すぎて自立できていないように見えてしまう人もいるだろう。しかし、そんな人も案外、肝心の時には助けが求められなかったりするかもしれない。
助けを求めることが、すなわちプライドを捨てることではない。私たちはどうもそこが弱い。人に助けを求めることが自分のプライドを捨てることのように感じてしまう。自分の身に起こった事件を自分で解決できず人を頼ってしまうことが恥ずかしい。だが人に起きた事件については、そんな風に思わず観察している。なんで頼ってくれないのか、そんな風に感じることもある。困ったときは助けてくれと言わないほうが恥ずかしいことだ、という教育をしてもいい。助けてほしいと言って来た人がいる時、多くの日本人はいつでも助ける準備ができているような気がする。いい連中がウジャウジャいる。いい国だ。だが困っているようだと気づいても、頑張っていて助けを求めない人がいると、助けるに助けられない。それでも助けてしまう人はほとんどいない。
火山灰で点字ブロックが触れない、と困った人は、おそらく誰かに助けを求めたのだ。助けを求められた誰かは、また誰かに助けを求めた。その誰かは自治体に掛け合ったかもしれないし、また誰かに助けを求めたかもしれない。そして、いつしかその連鎖の声がマスコミに届き、ニュースになって私の知るところとなり、ブログにまで書かれているのだ。困っている誰もが助けを求めなかったら、今もその事実を知る人はおらず、困った状況は何も変わって行くことが無いだろう。
と、いうようなことを書いて、ほったらかしにしておいたのだ。そうしたら、近所の90歳のおばあちゃんの家の雪下ろし中に屋根から転落して亡くなった方の記事を読んで、書き直そう、という思いに至った。
彼は無口で目立つことが嫌いな男だった。朝2時に起き出して近所一帯の雪かきや雪下ろしのボランティアを買って出る。経営しているよろず屋の商品を買い物が不便なお年寄りの世帯に配達して回る。彼こそが地元の生活の支えだった。頑張って頑張って頑張り通してやって来たに違いない。二人の息子がおり、自慢の父だったという。そんな風に頑張ってきた人に『「助けて欲しい」と言えばいいのだ。助けなどいらないという顔で、自分一人で何とかしようなどと思わぬほうがいい』などと何ともひどいことを言える訳がない。
だが、やはり助けは必要だったのだろう。人助けをしたがために命を落としてしまった人の話を聞くと、胸が苦しい。もっともっと助け合いの輪が広がらないと助けられる人も助けられない。
monipet
動物病院の犬猫の見守りをサポート
病院を離れる夜間でも安心
ASSE/CORPA
センサー、IoT、ビッグデータを活用して新たな価値を創造
「できたらいいな」を「できる」に
OSGi対応 ECHONET Lite ミドルウェア
短納期HEMS開発をサポート!
GuruPlug
カードサイズ スマートサーバ
株式会社ジェイエスピー
横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業
そんな折り、近所のお年寄りために雪下ろしをしていて亡くなった46歳のお父さんの話を新聞で読んで、やはり簡単なことは言えない、と改めて思った。今日は少し長い。まず、投稿しないままでいたものを読んでもらおう。
【自力と他力の境界】
新燃岳の噴火で町に火山灰が積もったことで、目の見えない人が安心して外を歩けない状態になっているという。自動車の走る道路は火山灰の除去が行われているが、歩道は火山灰が積もりっぱなしになっており、点字ブロックを足の底で感じたり杖で感じたりすることができない状況だという。あまりに深く積もっているため、盲導犬も自由に歩けないらしい。当然、体の弱った老人や病後の方々にとっても、また、小さなお子さんをベビーカーで連れて歩いているお母さんなどにとっても状況は似たり寄ったりだろう。社会は時間をかけて様々なサービスを積み上げている。健康だとわからないことも多い。
しかし、いつもと違う事態がいきなり襲ってくると、ようやく積み上げてきたものは、ガラガラと崩れ去ってしまう。だがよく考えれば、積み上げているサービスは障害を持った方々が普通の健康である人たちの手を借りずに、自分勝手に自由に生きていける手助けになるサービスに過ぎない。点字ブロックを触る感触がわからないなら、見える人が案内すればいい。盲導犬やベビーカーが通りづらいなら車道を走る車が道を譲ればいい。助け合わなければ生きていけないなら、助け合えばいいのだ。
そんな勝手なことを言うな、と言われそうだ。多くの人は、そんな簡単な話ではない、と言うだろう。いろいろな理由があって、弱者は不便を強いられる。だがだからと言って、弱者が、助けてほしいと言ってはいけない、などと誰も言っていないのだ。健常者も、健康だが障害を持って生きている人も、若い人もお年寄りも、困った時、助けてほしい時は、「助けて欲しい」と言えばいいのだ。助けなどいらないという顔で、自分一人で何とかしようなどと思わぬほうがいい。
人に助けを求めるか求めないか、その境界線はいったいどこにあるのだろうか。助けを求めなかったばっかりに、または、助けを求めるのが遅くなってしまったばっかりに、命を危険にさらすこともあるだろう。私たちは常日頃から、もっともっと人に助けを求める練習を積んだほうが良いように思う。中には、あまりに依存心が強すぎて自立できていないように見えてしまう人もいるだろう。しかし、そんな人も案外、肝心の時には助けが求められなかったりするかもしれない。
助けを求めることが、すなわちプライドを捨てることではない。私たちはどうもそこが弱い。人に助けを求めることが自分のプライドを捨てることのように感じてしまう。自分の身に起こった事件を自分で解決できず人を頼ってしまうことが恥ずかしい。だが人に起きた事件については、そんな風に思わず観察している。なんで頼ってくれないのか、そんな風に感じることもある。困ったときは助けてくれと言わないほうが恥ずかしいことだ、という教育をしてもいい。助けてほしいと言って来た人がいる時、多くの日本人はいつでも助ける準備ができているような気がする。いい連中がウジャウジャいる。いい国だ。だが困っているようだと気づいても、頑張っていて助けを求めない人がいると、助けるに助けられない。それでも助けてしまう人はほとんどいない。
火山灰で点字ブロックが触れない、と困った人は、おそらく誰かに助けを求めたのだ。助けを求められた誰かは、また誰かに助けを求めた。その誰かは自治体に掛け合ったかもしれないし、また誰かに助けを求めたかもしれない。そして、いつしかその連鎖の声がマスコミに届き、ニュースになって私の知るところとなり、ブログにまで書かれているのだ。困っている誰もが助けを求めなかったら、今もその事実を知る人はおらず、困った状況は何も変わって行くことが無いだろう。
と、いうようなことを書いて、ほったらかしにしておいたのだ。そうしたら、近所の90歳のおばあちゃんの家の雪下ろし中に屋根から転落して亡くなった方の記事を読んで、書き直そう、という思いに至った。
彼は無口で目立つことが嫌いな男だった。朝2時に起き出して近所一帯の雪かきや雪下ろしのボランティアを買って出る。経営しているよろず屋の商品を買い物が不便なお年寄りの世帯に配達して回る。彼こそが地元の生活の支えだった。頑張って頑張って頑張り通してやって来たに違いない。二人の息子がおり、自慢の父だったという。そんな風に頑張ってきた人に『「助けて欲しい」と言えばいいのだ。助けなどいらないという顔で、自分一人で何とかしようなどと思わぬほうがいい』などと何ともひどいことを言える訳がない。
だが、やはり助けは必要だったのだろう。人助けをしたがために命を落としてしまった人の話を聞くと、胸が苦しい。もっともっと助け合いの輪が広がらないと助けられる人も助けられない。
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株式会社ジェイエスピー
横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業