JSP_Blog

ジェイエスピー社員が綴る日替わりブログ

let it snow

2010-12-20 10:51:27 | 日記
 日曜日は朝から食事の準備、犬の散歩、洗濯物干し、掃除、買い物、昼の食事の準備と午前中はほとんど休む間もない。買い物は近所の「いなげや」とほぼ決まっている。自動車を持っていても年に3~4回ゴルフに行くのと、毎週日曜日のいなげやへの買い物に行くぐらいしか運転しなくなった。昨日もその「いなげや」に買い物に行くと、繰り返し繰り返し「let it snow」がかかっていた。
 「let it snow」は第二次大戦末期の暑い夏の日にハリウッドで書かれた歌で、終戦の翌年、全米ナンバー1ソングになっている。ドリス・デイやでディーン・マーチンもカバーしたようだ。「いなげや」でも聞けるほど日本でもクリスマスになると流されるようになったのは、フランク・シナトラがカバーしたバージョンが映画「ダイハード」で使われてからだ。クリスマスになると災難に会う男ジョン・マクレーン。彼のとてつもないアクションと対照的に、こののほほんとしたアメリカの空気を伝える音楽が強烈に焼き付いて離れない。

 日本ではお気楽に「let it snow」なんて曲を流していられるが、ヨーロッパでは今、寒波と大雪で交通が混乱して大変らしい。夏は猛暑、冬は大雪。自然破壊がもたらした結果だとすれば、もうずっと前からこんなことになってしまうぞ、という警鐘は鳴っていた。しかし、人は目の前の利益に目がくらんでしまうものだ。そのうちにだんだん周囲が見えなくなり、世界には自分だけしかいないような振る舞いをするようになる。ダイハードでマクレーン警部が戦ってきたのは、みんなそんな人たちだった。

 キリスト教を信仰しているわけではないが、クリスマスは神聖な日、という思いがある。きっと幼い時期のどこかで、刷り込まれたのだろう。そういえば、通っていた幼稚園では聖書の中から言葉を引用して園児に教えを伝えていたかもしれない。小さな頃の教育はかなり有効だ。その証拠を自分の中に見るような思いがする。
 クリスマスには奇跡が起きてもおかしくない。そんな気がする。理屈を言えば、生きていること自体、奇跡みたいなものなのだろうという思いが無いわけではない。しかし、心から何かに、つまり神様に感謝したくなるような、切実な願いが、かなってしまう日、それがクリスマスであっても良いような気がするのだ。

 誰かのちょっとした優しさが奇跡を呼ぶのなら、その「誰か」は私やあなたであっておかしいはずがない。寒い季節だが、よけいに温かさが身にしみる季節でもある。ほんのひとこと声をかけるだけで、奇跡が生まれるかもしれない。


monipet
  動物病院の犬猫の見守りをサポート
  病院を離れる夜間でも安心

ASSE/CORPA
  センサー、IoT、ビッグデータを活用して新たな価値を創造
  「できたらいいな」を「できる」に

OSGi対応 ECHONET Lite ミドルウェア
  短納期HEMS開発をサポート!

GuruPlug
  カードサイズ スマートサーバ

株式会社ジェイエスピー
  横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
  製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遊び

2010-12-17 09:34:00 | 日記
 ある準大手企業の経営陣のおひとりと食事をさせて頂く機会を持った。どこからそうなったのか話の発端は思い出せないが、若手が遊ばない、という話になった。飲みに行っても世間話だけしてサッサと帰ると言う。「まだ早いじゃないですか、もう一軒行ききましょう」なんてドラマのセリフみたいに誘ってくれる若手はいなくなった、と嘆いておられた。

 なるほどその通り、遊ばなくなったのかなぁ、と思う。彼にとっては私がすでに若手なのである。
そもそも酒が飲めないと言うのは致命的だ。昭和30年代40年代のサラリーマン映画などを見ると、幕末と変わらない飲み会のスタイルが描かれている。座敷にあぐらをかいて座り、小さな座卓の料理をつまむ。
 芸者さんがしゃくをして回ったりする。温泉旅館に泊まったりすると、今もこのスタイルは残っているが、なかなか芸者さんを呼ぶまでは行かない。昔の映画だと座敷で飲んだ後、銀座あたりの店中応接セットの販売フロアみたいにソファが並んだ店で両脇に美人をはべらせてまた酒を飲むことになる。

 座敷では世間話だけだったつきあいが、急に人間臭いものになる。遊ばない、とおっしやっておられたのは自分をさらけ出さない、という話でもあるかもしれない。できる限り自分をさらけ出すよう努力しているが、確かにTPOがある。場所が変われば違う自分も出る。

 ちょっと前までは一夜にして、いろいろな側面を見せあえる大人の社交術みたいなものが、型となって先輩から後輩に引き継がれていたのだろう。しかし、最近は多様性の時代だ。男性だけがビジネスを作り上げているわけではない。いろいろな楽しみに真面目に取り組んでいる人も多い。だが、「遊び」が少ない、余裕がない、待てない社会に変容しつつあることは間違いないように感じる。今すぐ結果が欲しい人が増えている。遊び自体がせわしなくチェックし、すぐ結果を出すことを強迫するような内容のゲームになりつつある。

 桃栗三年柿八年と言われる。石の上にも三年などという。本当はそういうことなのではないかと思う。本人の辛抱は言わずもがなだが、社会も辛抱できる体力をつけていかなければならないだろう。

 話は変わるが、わが社のニューヨークで働く社員が現地のクリスマスムードを送ってくれた写真の中の一枚だ。ロックフェラーセンターのクリスマスツリーが写っている。


monipet
  動物病院の犬猫の見守りをサポート
  病院を離れる夜間でも安心

ASSE/CORPA
  センサー、IoT、ビッグデータを活用して新たな価値を創造
  「できたらいいな」を「できる」に

OSGi対応 ECHONET Lite ミドルウェア
  短納期HEMS開発をサポート!

GuruPlug
  カードサイズ スマートサーバ

株式会社ジェイエスピー
  横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
  製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠い自然

2010-12-16 08:57:45 | 日記
 星野道夫さんの講演をまとめた「魔法のことば」という本に、「近い自然」と「遠い自然」という話しが出てくる。自分の身の回りにあって手で触れることができるような「近い自然」が守られることは大切なことだが、例えばアラスカの原野にオオカミが暮らしていることやカリブーが大群で移動することのように、ほとんどの人がまったく知らない「遠い自然」もまた、そこにある、というだけで非常に大切なことだ、と語っておられる。「遠い自然」が存在しなくなってしまったら、人はその大切さを想像することもできない。「遠い自然」が存在しているのを感じられるだけでほっとする、という。

 この話を読んで、「家族」や「仲間」と言うのがまさに「近い自然」と「遠い自然」なのではないか、と思ったものだ。目の前の家族や仲間も大切だが、自分を育ててくれた人々が、遠いところで、たった今も自分の生活様式を守りながら暮らしているだろうと思うだけで何となくほっとするし、心強い。

 ちょっと違うかもしれないが、「上司」もまあ、先頭に立って戦ってくれなくても、連絡をすれば必ずそこにいて連絡が取れる、というだけで安心する。人によっては、上司こそ先頭に立ってガンガン行ってくれ、と思うかもしれないが、私はそう思うタイプではない。「新宿鮫」という話に主人公鮫島の上司桃井と言う人が出てくる。この人はじっと机に座っていて、何もしない、と周囲には思われている。しかし、外から連絡をすれば必ず連絡が取れ、何もしていないのではなく、絶えず自分の部下の状況を想像し心配している。だからそれを知っている新宿鮫も安心して泳ぎまわることが出来る。私は、主人公の鮫島のことより桃井の動向が知りたくてこの本を読んだものだ。

 昔の仲間達、あの人もこの人も、自分が知っているそこにいて今日も頑張っているだろう、と考えるだけで自分も頑張る力が湧いてくる。だから、たまに、その中の誰かが本来いて欲しい場所を辞めてしまったりするとかなりショックだったりする。おそらく「遠い自然」がいきなり大きく破壊されてしまった場合も同じように大きなショックを受けるのだろう。
 それぞれにいろいろな都合があるわけなので、自分勝手にみんなそのままでいてほしいと願うことは出来ない。ただ、遠い仲間が元気でいてくれることを願うばかりだ。ただそれだけを願うばかりだ。


monipet
  動物病院の犬猫の見守りをサポート
  病院を離れる夜間でも安心

ASSE/CORPA
  センサー、IoT、ビッグデータを活用して新たな価値を創造
  「できたらいいな」を「できる」に

OSGi対応 ECHONET Lite ミドルウェア
  短納期HEMS開発をサポート!

GuruPlug
  カードサイズ スマートサーバ

株式会社ジェイエスピー
  横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
  製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都市再生

2010-12-15 08:39:46 | 日記
 日本の人口は2010年11月現在で1億2700万人程度と言われる。昨年同月と比べると13万人減ったそうだ。今後10年から20年、つまり今年就職した方々が社会の中心になって日本を支えてくれるだろう時期にどうなっているかと考えた時、日本の人口が今より増えていると予想する人はほとんどいないだろう。おそらくグラフの向きは確実に右肩下がりになっている。これは今の日本で何を意味するかと言うと、例えば伝染病で多くの人が亡くなって人口が減るとか、戦争の犠牲になって人口が減るとか、そんなことではない。子供を産む数より亡くなる人の数が多くて人口が減るという自然減の状況なのである。
 
 日本はつまり徹底的に子供の数が少ないのだ。これからどうなるかと言うと、見渡す限り老人ばかり、と言う光景が当たり前になる、ということだが、新しい世代の老人は外に出たがらない可能性もあるので、周囲を見渡しても人が見つからない、という社会になって行くかもしれない。消費者の購買をあてにして成り立っているビジネスは当然ながら人口グラフに比例して右肩下がりにならざるを得ない。世界に目を転じれば人口はまだ増加傾向にある。ビジネスとしては世界を相手に考えればそれでなんとかやって行くことができるかもしれない。しかし、企業が生まれ故郷を相手にしなくなるのも寂しいものだ。

 人口が減り老人ばかりの国になって行く状況にあっては、長期的に考えて資源を分散する政策はほとんど意味がない。資源を集中することを考えるべきだ。不公平とか人権無視とか言われてもなお、政府は資源を集中する政策を粘り強く実施しなければならないだろう。例えば、過疎化の問題だ。人口が急激に減少し若者が少なくなっている現状では、過疎化の問題を避けて通ることはできない。過疎が進み、以前は多くの人口を擁した町や村が数百人の老人しか住んでいない地域に変貌を遂げてしまったとする。また、そうなる方向性がはっきり見えている地域があるとする。人が集中している都市の機能を充実させるための費用と同じ予算を過疎化してしまった地域に投資しても社会福祉効果は薄い。

 人を育てる時に言う言葉に、「長所を伸ばす」というものがある。日本の都市の利便性の高さ、治安の良さは世界の中でも明らかに誇れるものであると思う。日本の都市は江戸時代以前から脈々と受け継がれてきた大事な資産だ。東京への一極集中を問題視する声は根強い。だが、長い目で見ると、東京はじめ日本の大都市に人口が集中することのほうが、日本を再生するためには好都合ではないだろうか。閑散とした町ばかり増えてしまっては、日本の活気と未来は失われる。

 都市自体が今や過疎化の状態にある。空洞化し子供がいない、人がいない地域も多い。まず都市を再生することだ。若い世代と老人が同居し、安心して子度を産んで育てることができる、子供と若い夫婦と老人に優しい都市を作り上げることだ。当然多くの制度を見直す必要があろう。特に税制の改革と教育の改革が柱になるに違いない。国の根幹をなすのが税と教育だ。先日このブログでも書いたが、役務としての税制もひとつの方向性として考えてよいと思う。


monipet
  動物病院の犬猫の見守りをサポート
  病院を離れる夜間でも安心

ASSE/CORPA
  センサー、IoT、ビッグデータを活用して新たな価値を創造
  「できたらいいな」を「できる」に

OSGi対応 ECHONET Lite ミドルウェア
  短納期HEMS開発をサポート!

GuruPlug
  カードサイズ スマートサーバ

株式会社ジェイエスピー
  横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
  製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ら-+

2010-12-14 08:57:19 | 日記
 「ガソリンスタンドでレンタカーが、借りれちゃう」と書かれたチラシがポストに入っていた。チラシを見て、いよいよここまで来たか、と感じた。ガソリンスタンドでレンタカーが借りられる、ということに驚いているのではない。多くの人が見る広告チラシに「借りれちゃう」と書くところまで、来てしまったのか、という驚きというか、呆れ、というか、そんな気持ちが胸に迫る、と言うことである。
 本来「借りれちゃう」じゃなくて「借りられちゃう」である。「借りれちゃう」は「ら」抜き言葉なのである。しかし、私自身も、ここで「借りられちゃう」と「ら」を使うことに違和感を感じてしまう。では言い換えて「借りられる」ではまったくインパクトが無い。まだ「借りられます」としたほうが良い。だが、「借りれちゃう」の強さには全くかなわない。つまり、いよいよここまで来てしまったのである。

 少しずつ世間には平成生まれの社会人が生まれつつある。彼ら彼女らには、「ら」抜き言葉のほうが標準語なのだろう。と、思うと「ら」が挿入されてしまう表現というのもよく聞く。場所を示す表現だ。例えば「駅のぉ、真ん中らへんでぇ、待ってるからぁ」などと携帯電話に向かって大声で叫んでいる若い女の子を見かけることがある。「真ん中らへん」のへんは「辺」と言う漢字に直すことができるが、これは「そのあたり」を意味しており、「ら」とほぼ同じ意味だ。つまり「真ん中あたりあたり」とか「真ん中へんへん」とかそんな風に言っているのと同じ意味合いだが、きっと平成生まれの少年少女のみなさんは「真ん中らへん」のほうが親しみやすいのだろう。

 今年の流行語でツイッター用語として語尾に「なう」と言う言葉を付けるのが流行った、と報道された。本当なのだろうか。時代に遅れてはいけないと考えた若いともいえない年齢層の一部が一生懸命頑張ってみた、と言う感じがしないでもない。多くの若者はメールで十分で、ツイッターで「なうなう」言う必要性を感じていないように思えてならない。

 言葉は生活様式や生活習慣によって大きく変わって行かざるを得ない。誰も彼も携帯電話を持つようになって、使う言葉も携帯電話用の言葉になって行かざるを得ないだろう。例えば、先ほどの「真ん中らへん」である。携帯電話が発達する以前は、きっちり待ち合わせ場所を決め、しかるべき時間に集合したものである。ところが携帯電話が発達したおかげで、「らへん」で済む。平成生まれのみなさんと、携帯電話を持たない時代に生まれて育った昭和生まれの皆さんに同じ単位時間、例えば1分以内で場所を特定する説明をさせてみたらおもしろい結果が出るだろうと思う。おそらく携帯電話以前世代の方々のほうがうまく説明する。が、携帯電話以前世代の方々は、電子的な方法、例えば電子メールなどでそれを伝える術ですでに携帯電話世代に比べて表現力やツールの利用力が大きく劣っている。せっかく独自の表現力を持っていても音声か紙に筆記してしかそれが伝えられないから、結局携帯電話を持っている相手に電話してしまったほうが面倒がなくて良い、と言うことになる。携帯電話で電話して誘導するなら別に「らへん」でも結構なのである。
 
 とはいえ、先輩世代は若い世代に最近の歴史を教える義務がある。ずっと昔から日本人が「借りれちゃう」と話してきた、と思わせてはいけない。人前で「借りれちゃう」と話すと違和感を覚える大人も多いことを知っておいたほうが、きっと良い。


monipet
  動物病院の犬猫の見守りをサポート
  病院を離れる夜間でも安心

ASSE/CORPA
  センサー、IoT、ビッグデータを活用して新たな価値を創造
  「できたらいいな」を「できる」に

OSGi対応 ECHONET Lite ミドルウェア
  短納期HEMS開発をサポート!

GuruPlug
  カードサイズ スマートサーバ

株式会社ジェイエスピー
  横浜に拠点を置くソフトウェア開発・システム開発・
  製品開発(monipet)、それに農業も手がけるIT企業
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする