毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
『ヴィヨンの妻』
WOWOWで録画してあった映画「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」を見た。あらすじはこんな感じ・・。
「戦後、混乱期の東京。ある夜、酒代を踏み倒した上に、その飲み屋から五千円を盗んで逃げ出した放蕩者の小説家・大谷(浅野忠信)を追いかけて、飲み屋夫婦の吉蔵(伊武雅刀)と巳代(室井滋)が大谷の自宅までやってきた。大谷は飲み屋夫婦と言い争うが、大谷の妻・佐知(松たか子)が割って入った瞬間、大谷はその場から逃げ出してしまう。翌朝、佐知はなんとか警察沙汰だけは許してもらおうと、吉蔵と巳代が経営する飲み屋・椿屋へ出向く。窮地にあっても不思議な生命力を発する佐知は、夫が踏み倒した過去の酒代の肩代わりに、その日から椿屋で働くことになる。いきいきと働く佐知の美しさと明るさが評判となって椿屋は大繁盛。客からチップを貰った佐知は、自分に魅力があると気付き、あっけらかんと「私、お金になるんですね」と言い放つ。一方、大谷は、酒を飲んでは借金を作り、浮気を繰り返し、たまに家に帰ってくると、何かに追いかけられているかのように喚き、佐知に救いを求めてくる。そして魂が抜けたようにまたふらりと出て行くのであった。彼は小説家の仕事はしているが、家に金を入れることはほとんどなかった。だが、家ではあまり会うことのなかった夫と、椿屋で会うことができるようになった佐知は、そのことがとても嬉しく幸せだった。佐知がそれを大谷に話すと、彼は「女には幸福も不幸もないのです。男には不幸だけがあるんです」と呟く。そんな中、椿屋で働く佐知の前に、佐知に好意を持つ真面目な工員・岡田(妻夫木聡)や、かつて佐知が思いを寄せていた弁護士・辻(堤真一)が現れる。佐知の心は揺れ動くが、そんな佐知の気持ちを知ってか知らずか、大谷はバーの女・秋子(広末涼子)と共に姿を消してしまう・・・」
私は太宰治の原作をはるか昔に読んだと思っていたが、映画を見てもピンとこなかった。ひょっとしたら読んでなかったのかな、と心配になって、中央公論社の『日本の文学』を引っ張り出してきて、読んでみた。
だいたいの流れは映画と同じようだった。だが、短い小説だけあって、これだけでは2時間の映画を1本作るのが難しかったのだろう、原作にない弁護士を登場させて、妻・佐知との交情を描き、バーの女・秋子と大谷に心中未遂までさせている。したがって、どうしても「大谷=太宰」という先入観から抜けだせないし、大谷の言一つ一つが太宰が発した警句のように思えてしまう。例えば、
「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」
「女には、幸福も不幸も無いものです」
「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
(中略)
「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」
「お仕事が、おありですから」
「仕事なんてものは、なんでもないんです。傑作も駄作もありやしません。人がいいと言えば、よくなるし、悪いと言えば、悪くなるんです。ちょうど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」
「え?」
「いるんでしょうね?」
「私には、わかりませんわ」
「そう」
まさしく「太宰ワールド」だが、映画がその世界を過不足なく表現していたかと言えば、疑問に思う。松たか子は良かったが、浅野忠信にはちょっと荷が重かったような・・。まあ、それでも少し前にチラ見した生田斗真主演の「人間失格」よりも数段良かったが。
ところで、題名の「ヴィヨン」というのはどういう人物なのか、「日本の文学」の注解にその来歴が端的にまとめられているので、引用してみる。
『フランソワ・ヴィヨン François Villon(1431~?)フランス中世末期の詩人。1452年パリ大学文学士となる。百年戦争直後の混乱のうちに放蕩無頼の生活をおくり、1455年、恋愛事件から誤って殺人を犯し、翌年また徒党を組んで神学校から金を盗んで逃亡した。以後、放浪と盗みと投獄の生活をおくった。1462年に書いた「遺言詩集」は、失われた青春への嘆き、老衰への不安、獄吏への憎しみなどを歌って哀切をきわめ、中世最高の叙情詩といわれる』
なんて迷惑な奴・・。でもそれを気取る奴は、もっと邪魔くさい・・。
「戦後、混乱期の東京。ある夜、酒代を踏み倒した上に、その飲み屋から五千円を盗んで逃げ出した放蕩者の小説家・大谷(浅野忠信)を追いかけて、飲み屋夫婦の吉蔵(伊武雅刀)と巳代(室井滋)が大谷の自宅までやってきた。大谷は飲み屋夫婦と言い争うが、大谷の妻・佐知(松たか子)が割って入った瞬間、大谷はその場から逃げ出してしまう。翌朝、佐知はなんとか警察沙汰だけは許してもらおうと、吉蔵と巳代が経営する飲み屋・椿屋へ出向く。窮地にあっても不思議な生命力を発する佐知は、夫が踏み倒した過去の酒代の肩代わりに、その日から椿屋で働くことになる。いきいきと働く佐知の美しさと明るさが評判となって椿屋は大繁盛。客からチップを貰った佐知は、自分に魅力があると気付き、あっけらかんと「私、お金になるんですね」と言い放つ。一方、大谷は、酒を飲んでは借金を作り、浮気を繰り返し、たまに家に帰ってくると、何かに追いかけられているかのように喚き、佐知に救いを求めてくる。そして魂が抜けたようにまたふらりと出て行くのであった。彼は小説家の仕事はしているが、家に金を入れることはほとんどなかった。だが、家ではあまり会うことのなかった夫と、椿屋で会うことができるようになった佐知は、そのことがとても嬉しく幸せだった。佐知がそれを大谷に話すと、彼は「女には幸福も不幸もないのです。男には不幸だけがあるんです」と呟く。そんな中、椿屋で働く佐知の前に、佐知に好意を持つ真面目な工員・岡田(妻夫木聡)や、かつて佐知が思いを寄せていた弁護士・辻(堤真一)が現れる。佐知の心は揺れ動くが、そんな佐知の気持ちを知ってか知らずか、大谷はバーの女・秋子(広末涼子)と共に姿を消してしまう・・・」
私は太宰治の原作をはるか昔に読んだと思っていたが、映画を見てもピンとこなかった。ひょっとしたら読んでなかったのかな、と心配になって、中央公論社の『日本の文学』を引っ張り出してきて、読んでみた。
だいたいの流れは映画と同じようだった。だが、短い小説だけあって、これだけでは2時間の映画を1本作るのが難しかったのだろう、原作にない弁護士を登場させて、妻・佐知との交情を描き、バーの女・秋子と大谷に心中未遂までさせている。したがって、どうしても「大谷=太宰」という先入観から抜けだせないし、大谷の言一つ一つが太宰が発した警句のように思えてしまう。例えば、
「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」
「女には、幸福も不幸も無いものです」
「そうなの? そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
(中略)
「僕はね、キザのようですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」
「お仕事が、おありですから」
「仕事なんてものは、なんでもないんです。傑作も駄作もありやしません。人がいいと言えば、よくなるし、悪いと言えば、悪くなるんです。ちょうど吐くいきと、引くいきみたいなものなんです。おそろしいのはね、この世の中の、どこかに神がいる、という事なんです。いるんでしょうね?」
「え?」
「いるんでしょうね?」
「私には、わかりませんわ」
「そう」
まさしく「太宰ワールド」だが、映画がその世界を過不足なく表現していたかと言えば、疑問に思う。松たか子は良かったが、浅野忠信にはちょっと荷が重かったような・・。まあ、それでも少し前にチラ見した生田斗真主演の「人間失格」よりも数段良かったが。
ところで、題名の「ヴィヨン」というのはどういう人物なのか、「日本の文学」の注解にその来歴が端的にまとめられているので、引用してみる。
『フランソワ・ヴィヨン François Villon(1431~?)フランス中世末期の詩人。1452年パリ大学文学士となる。百年戦争直後の混乱のうちに放蕩無頼の生活をおくり、1455年、恋愛事件から誤って殺人を犯し、翌年また徒党を組んで神学校から金を盗んで逃亡した。以後、放浪と盗みと投獄の生活をおくった。1462年に書いた「遺言詩集」は、失われた青春への嘆き、老衰への不安、獄吏への憎しみなどを歌って哀切をきわめ、中世最高の叙情詩といわれる』
なんて迷惑な奴・・。でもそれを気取る奴は、もっと邪魔くさい・・。
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