★ 近隣の中学校が荒れ始めている。窓ガラスなど学校の器物が破壊される事件が頻発し、昨秋には教師に対する暴力で中3生が逮捕された。
★ 昨日は中2の男子が女性教師に暴力を振るって問題になっていた。対教師暴力がエスカレートする傾向にある。
★ 対教師暴力は「学校」という場面で起こることを特徴としている。問題を起こす生徒は決して学校外で通り魔的に暴行を行っているわけではない。彼らは自暴自棄にキレているようで、その行動には実は緻密な計算があるようにも思える。
★ 先の逮捕された中3生の場合は、彼の友人に注意をした教師への暴行であった。それも同じ場所に居合わせてのものではなく、しばらく時間がたってからの犯行であるという。彼の行動の背景には「友情」などというものではなく、何となくのモヤモヤ感、ムカツク気分や「スクールカースト」と呼ばれる社会現象があるようだ。
★ 「スクールカースト」はいじめ問題で使われる言葉だが、生徒が学級、学年、学校の中でどのポジションを占めるかということを表している。教師に暴力を振るうことによって、スクールカーストの中での位置づけを上げようとしているのか。
★ 一方、中2生の犯行は幼児のダダに似ている。家庭内暴力の延長ということか。ターゲットの教師も中年の女性教師という風に厳選されている。小学生時代からよくキレていたというから、精神的な疾患も疑われる。
★ 対教師暴力は「学校」という仮想社会への挑戦だ。「学校」とは大人たちが「教師」を演じ、子どもたちが「生徒」を演じている舞台とも言える。そこにはいくつかの「お決まり」があり、生徒が教師に暴力を振るうなどはあってはならない筋書きだった。
★ 最初のちょっとした生徒の暴力に対して教師が断固とした対応をとらなければ、「教師」の権威は一気に失墜する。子どもたちを「かわいい」と少しでもスキを見せようものなら、無邪気な悪魔達はそのスキを見逃さない。
★ 尾崎豊の「十五の夜」や「卒業」で歌われているような、社会的権威に反抗することによって自らを確立しようともがいている姿とも違う。
★ 金八先生の「腐ったミカン」の時代のツッパリとも何か違う。ツッパリにもツッパリの理屈があった。
★ 教師や社会は昔のような「管理」や高圧的な権力で彼らを押さえつけようとしているのではなく、むしろ生徒たちに近づこうと努力している。1クラスの人数が減り、考えられないほど手厚いサポートをしている。公教育は「権利」や「義務」から「サービス」に変質し、生徒や保護者は「お客様」になってきた。
★ こうした変化が、「教師」と「生徒」の役回りを変えているのだろうか。
★ 対教師暴力は生徒同士の「いじめ」にも通じるものがある。生徒たちにとってもはや教師さえも同列の存在ということか。教師を巻き込んだスクールカーストが生まれているということか。
★ 私たちは教育病理現象という言葉をよく使うが、目に見えないウィルスが「学校」という社会集団を蝕んでいるのかもしれない。そう考えるならば、ウィルスを発生し蔓延させる学校(学校における人間関係や学校を取り囲む人的・物的環境など)の特徴をよく分析することが必要だ。そのメカニズムが解明できれば治療法を見つけることができるかも知れない。ワクチンを開発することができるかも知れない。
★ 教育病理学の一層の発展が必要だ。
★ 昨日は中2の男子が女性教師に暴力を振るって問題になっていた。対教師暴力がエスカレートする傾向にある。
★ 対教師暴力は「学校」という場面で起こることを特徴としている。問題を起こす生徒は決して学校外で通り魔的に暴行を行っているわけではない。彼らは自暴自棄にキレているようで、その行動には実は緻密な計算があるようにも思える。
★ 先の逮捕された中3生の場合は、彼の友人に注意をした教師への暴行であった。それも同じ場所に居合わせてのものではなく、しばらく時間がたってからの犯行であるという。彼の行動の背景には「友情」などというものではなく、何となくのモヤモヤ感、ムカツク気分や「スクールカースト」と呼ばれる社会現象があるようだ。
★ 「スクールカースト」はいじめ問題で使われる言葉だが、生徒が学級、学年、学校の中でどのポジションを占めるかということを表している。教師に暴力を振るうことによって、スクールカーストの中での位置づけを上げようとしているのか。
★ 一方、中2生の犯行は幼児のダダに似ている。家庭内暴力の延長ということか。ターゲットの教師も中年の女性教師という風に厳選されている。小学生時代からよくキレていたというから、精神的な疾患も疑われる。
★ 対教師暴力は「学校」という仮想社会への挑戦だ。「学校」とは大人たちが「教師」を演じ、子どもたちが「生徒」を演じている舞台とも言える。そこにはいくつかの「お決まり」があり、生徒が教師に暴力を振るうなどはあってはならない筋書きだった。
★ 最初のちょっとした生徒の暴力に対して教師が断固とした対応をとらなければ、「教師」の権威は一気に失墜する。子どもたちを「かわいい」と少しでもスキを見せようものなら、無邪気な悪魔達はそのスキを見逃さない。
★ 尾崎豊の「十五の夜」や「卒業」で歌われているような、社会的権威に反抗することによって自らを確立しようともがいている姿とも違う。
★ 金八先生の「腐ったミカン」の時代のツッパリとも何か違う。ツッパリにもツッパリの理屈があった。
★ 教師や社会は昔のような「管理」や高圧的な権力で彼らを押さえつけようとしているのではなく、むしろ生徒たちに近づこうと努力している。1クラスの人数が減り、考えられないほど手厚いサポートをしている。公教育は「権利」や「義務」から「サービス」に変質し、生徒や保護者は「お客様」になってきた。
★ こうした変化が、「教師」と「生徒」の役回りを変えているのだろうか。
★ 対教師暴力は生徒同士の「いじめ」にも通じるものがある。生徒たちにとってもはや教師さえも同列の存在ということか。教師を巻き込んだスクールカーストが生まれているということか。
★ 私たちは教育病理現象という言葉をよく使うが、目に見えないウィルスが「学校」という社会集団を蝕んでいるのかもしれない。そう考えるならば、ウィルスを発生し蔓延させる学校(学校における人間関係や学校を取り囲む人的・物的環境など)の特徴をよく分析することが必要だ。そのメカニズムが解明できれば治療法を見つけることができるかも知れない。ワクチンを開発することができるかも知れない。
★ 教育病理学の一層の発展が必要だ。