じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「大学淘汰の時代」

2009-06-12 03:20:29 | Weblog
★ 募集を停止する大学が相次いでいる。大学全入時代と言われる中、いよいよ大学淘汰の時代がやってきた。

★ そこで、喜多村和之著「大学淘汰の時代」(中公新書)を再読した。1990年に出された書物だが、その内容は実に先見性に満ちている。

★ まず冒頭、かつてアメリカ産業の主役であった自動車産業の衰退を受け、それと高等教育の衰退を比較している。

★ 1980年代、衰退と言ってもまだビッグ3は健在していた。それが20年後ついに息絶えることを、本書は予測していたようだ。自動車産業と高等教育が同じ傾向にあるとするならば、遠からず高等教育も破綻するのだろう。

★ 最近日本で頻発するドラッグや性的暴力などの学生の不祥事。学生不足を留学生で補おうとして失敗する大学。経営破たんし統廃合する大学。高等教育の地殻変動はすでに始まっているようだ。

★ 「産業社会」から「消費社会」へ時代が移り変わる中、大学も「教師の大学」から「学生の大学」と変貌すると喜多村氏は指摘する。「学生消費者主義の時代の到来」という。

★ 高等教育は売り手市場から買い手市場へと移行したのである。

★ こうした動向を大学関係者は見過ごしていたわけではない。むしろ敏感に変化を感じ取っていたのだろう。いつ頃からか、○○大学・大学院教授という肩書が目立つようになった。かつての高等教育は今や大学院で行われ、大学は教養課程あるいは中等教育レベルと言いたげな様子である。

★ 大学が大衆化される中で、もはや大学は「商売」と割り切り、かつての伝統的なアカデミズムをせめて大学院で実現しようと言うことなのだろう。

★ アメリカ自動車産業の衰退は、経営者が手っ取り早いカネ儲けに走るあまり、モノづくりの本質を忘れたことにあるという。かつての栄光に酔いしれて、不断の改革を怠ったからだと言う。消費者に迎合するだけで、市場への情報提言力を軽んじたからだと言う。

★ 随分と耳の痛い話ではないか。

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フェーズ6

2009-06-12 00:26:46 | Weblog
★ WHOは新型インフルエンザに対して、遂にフェーズ6(世界的大流行)を宣言した。

★ 関西では5月のパニック状態がウソのようなありさまだが、感染はもはや蔓延化し南は九州、北は東北、北海道まで拡大している。東京では、休校する高校も出たという。

★ 爆発的な感染はないが、ウィルスは着々と人間社会に浸透しているようだ。フェーズ6は1968年の香港風邪以来だと言う。今回のインフルエンザ、今のところ毒性が弱いのがせめてもの救いだ。

★ ところで、福岡市と福岡県は感染者拡大の責任をなすりあっている。都道府県内に政令指定都市を抱えるところは、そんなに権限関係がややこしいのか。それとも感染を認めたくないから、政治的に検査をしないようにしているのか。

★ 不明瞭なことをしていると、痛くない腹を探られる結果を招く。危機管理の在り方に問題があるなら早急に改めるべきだし、市や県で調整がつかなければ、国が調整に乗り出して欲しいものだ。

★ 南半球は不安な冬季を迎える。そして数ヵ月後には、日本に第2波がやってくる。核シェルターにこもるなんてことはできないが、自己防衛は考えておかねばならないだろう。
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マスクと防空頭巾

2009-06-05 03:14:10 | Weblog
★ 3日の京都新聞、「現論」というコラムで文芸評論家の斎藤美奈子さんが「危機煽る社会の危うさ」という論稿を寄せられていた。

★ 今になって見れば過剰反応が滑稽にも思えるインフル騒動から、マスクに収れんされるグッズ信仰、横並び志向、組織の保身を見てとり、危機意識を過剰に煽る社会、煽られた危機をモノに転換する社会の危うさを鋭く指摘されている。

★ そう言えば、最大の感染者を数えるのにマスク姿を見かけないアメリカと店頭からマスクが消え去り、街中にマスク姿があふれた日本との対比は鮮烈だった。

★ 日本の様子は海外メディアからすると実に好奇心煽られるものであったであろう。用意周到と言うべきか、臆病と言うべきか、社会的マナー(公共心)の高さと言うべきか、自己保身への執着と言うべきか、いずれにせよ実に日本的な光景であったに違いない。

★ 斎藤さんの論稿の中で面白かったのが、マスクと防空頭巾の類似性の指摘だ。危機が結局、目に見えるものへ収れんされたという指摘だ。

★ 飛沫の飛散を防ぐというマスクが、霊験あらたかなお札のように貴ばれ、それを身につけることで社会的な同化性がアピールできる。日本社会にとっては実に便利なグッズであったようだ。

★ 斎藤さんが言うように防空頭巾もマスクも「気やすめ」にすぎないだろう。そして、先を争ってマスクを買いに走る危うさ、マスクさえすれば安心してしまう無邪気なほどの楽観性は、庶民のせめてもの防衛とはいえ、反省しておく必要があるかも知れない。

★ 兵庫県の高校ではマスクが不足し教師たちが手作りのマスクを作ったという。物資がない中、子どものために身近なモノで防空頭巾を作る母親の姿を思い起こさせる一幕であった。せめてもの美談としたいものだ。
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京教大事件の背景

2009-06-02 11:00:42 | Weblog
★ 京都教育大学事件、教育大学数十年の歴史の中で最大の破廉恥な事件がなぜ起こったのか、その背景を考えてみる。

★ まず、今回の事件は酒に乗じて起こった突発的事件なのだろうか。こうした酒席での卑劣な行為が常態化しており、今回たまたま被害女性が告訴をしたために発覚したのではないか。

★ 体育学科(今は体育領域というらしい)、体育会特有のタテ関係が、負の方向に働いたのではないか。体育学科は他の学科に比べて先輩、後輩関係が厳しい。犯行を目にしても先輩達の蛮行を制止できない風土があったのであろう。学校におけるいじめ構造と似たヒエラルヒー「スクールカースト」があったのではないか。

★ 体育学科の教官と学生の人間関係はどうか。学生は3回生になると各研究室に所属する。人数的には教育環境に恵まれた国立大学である。かつては非常にしっかりとした教官たちがエネルギーあふれる学生たちを指導していた。その指導体制が弱体化しているのではないか。学校現場と同じく、新人類の学生達に手を焼いているのか。

★ 教育大学はどうか。ほんの数年前、京都教育大学は教職への就職率が低迷し、滋賀大教育学部や奈良教育大学との統合が検討された時代があった。ここ数年、団塊の世代が退職し、急に教員需要が増え、京教でもゼロ免コース(教員免許の修得を卒業要件としないコース)が廃止され、全員が教職コースとなった。

★ 定員は私が在籍していたころに比べて7割程度。大学院や専門職大学院も設置され地域に密着しつつ、教育の高度化が図られてきた。大学としては上昇機運にあったが、そんな折の今回の事件である。

★ 先端技術の開発に走る中で、基盤となる何かが欠けていたのではないか。

★ 大学の閉鎖性も課題だ。教員社会の閉鎖性はよく指摘される。小中高そして教員養成大学、その後、教員に採用されるとずっと「学校」という社会の中で生きることとなる。教員としての専門性が高まる一方で、他の社会との接点が不足し、結果的に視野が狭くなってしまうことがある。

★ 大学の教員にも同様なことが言えるのではないか。大学教員は研究者としての顔と教育者としての顔をもつ。年齢を経るとこれに経営者としての顔も加わる。このバランスがうまくいっていないのではないか。

★ 近年は学校現場経験者も多く採用され、より実践的な教育が行われるようになってきた。しかし、学校現場以前に大学生教育を考え直さなければならないようだ。「大学生」という存在に、教官と学生との間でジェネレーションギャップがあるのではないか。今の「大学生」はかつての大学生ではないようだ。

★ 集団的犯罪にはそれを誘発する土壌、風土がある。それを改善しなければ、事件は再発する。小中学校における「いじめ」と同じく、抑え込むだけでは本当の解決にはならない。
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教育上の配慮

2009-06-02 00:02:12 | Weblog
★ 京教大学生による集団性的暴行事件。大学名を出すのもおぞましいが事実だから仕方がない。学長の謝罪会見が行われた。

★ そこで連発されたのが「教育上の配慮」。被害にあった女子学生のプライバシーを尊重してというならわからなくもない。しかし、加害者をかばうためにこの表現を使われたのではたまらない。

★ なぜ、大学は犯罪事実を認識しながら内部処分で済まそうとしたのだろうか。何らかの「政治的」配慮が働いたのだろうか。

★ 加害者たちは、学生とはいえ成人である。犯罪を犯した成人に対して「教育上の配慮」というのはどうも解せない。大学当局者に強姦が重罪だと言う認識が欠如していたとしか言いようがない。

★ セクハラやアカハラ、パワハラなど、大学は信じられないほど窮屈になっている。その一方で、そうした次元を超えた犯罪行為が行われている現状をどう考えればよいのか。

★ 大学は今回の事実を認識した後でハラスメント委員会を立ち上げ事実関係を調査したと言う。しかし、大学の自主的な調査に限界があることは学長自ら認めているところだ。であればこそ、なぜ事件をうやむやにしようとしたのか理解に苦しむ。

★ 「教育上の配慮」という言葉は実に便利である。しかし、この言葉のもとに超法規的な措置が行われたり、大学当局の責任が曖昧にされることがあってはならない。 
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学生の不祥事と大学の責任

2009-06-01 15:25:10 | Weblog
★ 母校の名誉の失墜には心が痛む。京都教育大学の学生6人が女子学生に対する集団暴行で逮捕された。何とも破廉恥極まりない所業だ。

★ 大学が大衆化され、いろいろな学生が大学に通うことになったとはいえ、先輩が集団で抵抗不能な後輩を辱めるなどとは、言語道断。

★ 6人の内5人は、この期に及んで「合意云々」と屁理屈をこねているそうだが、1対1の話ではない。

★ 逮捕された6人は自主退学か、除籍となるのだろうが、彼らが大学に残した課題は大きい。この事件が氷山の一角でないことを祈りたいものだ。

★ 今回の事件は大学の責任にも及ぶであろう。事件が報道され、慌てふためいてホームページ上に学長からのメッセージが掲載されたが、お決まりの言葉の羅列で失望した。

★ あえて社会的なリスクを覚悟し告訴した女子学生の気持ちを大学当局者はどれほど重く受け止めているのか。

★ 女子学生が告訴しなければ、無期限停学という処置でうやむやに終わらせようとしていたのか。犯罪性からして停学処分といった処分も甘かったのではないか。

★ 後からは何とでもいえる。被害女性の人権云々とか。警察沙汰になる前に示談が成立するとか、女子学生が泣き寝入りすると言ったことを暗に期待していたのではないか。

★ 学生のモラルは言うまでもないが、大学人としての在り方が問われよう。 
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「余命1ヶ月の花嫁」

2009-06-01 02:48:20 | Weblog
★ TBS「余命1ヶ月の花嫁」ドキュメンタリーの再放送を見た。泣けるなぁ。久々に出会ったすごいドキュメンタリー番組だった。

★ いろいろな思いが頭をめぐって、まとまりがつかない。

★ 24歳の長島千恵さん。がんとの闘いは辛かっただろうなぁ。体も心も。

★ ただ、お父さんや叔母さんや、太郎さんや素敵な友人たち、多くの優しい人々が千恵さんの周りにいた。千恵さんの人柄だね。

★ 「明日があることは奇跡だ」という言葉はしっかり噛みしめたい。「文才があれば・・・」と悩むシーンがあったけれど、彼女はすごいメッセージを残してくれたと思う。

★ ごくありふれた日常がどれほど幸せに満ちあふれているかということを彼女は教えてくれた。

★ 太郎さんが「犬を飼ってもいいよ」といったときの彼女の喜ぶ表情が忘れられない。

★ ウェディングドレス姿は美しかった。結婚式が挙げられたことも、彼女が太郎さんと出会えたことも、こうした番組ができたことも、この番組がきっかけとなって乳がん検診への関心が高まり、乳がんの早期発見ができたことも、すべて奇跡に思えてきた。

★ 人生は悲しいけれど、幸せに満ちている。人間関係は難しいけれど、人々は優しさに満ちている。千恵さんは多くのことを教えてくれたと思う。 
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