じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

京教大事件の背景

2009-06-02 11:00:42 | Weblog
★ 京都教育大学事件、教育大学数十年の歴史の中で最大の破廉恥な事件がなぜ起こったのか、その背景を考えてみる。

★ まず、今回の事件は酒に乗じて起こった突発的事件なのだろうか。こうした酒席での卑劣な行為が常態化しており、今回たまたま被害女性が告訴をしたために発覚したのではないか。

★ 体育学科(今は体育領域というらしい)、体育会特有のタテ関係が、負の方向に働いたのではないか。体育学科は他の学科に比べて先輩、後輩関係が厳しい。犯行を目にしても先輩達の蛮行を制止できない風土があったのであろう。学校におけるいじめ構造と似たヒエラルヒー「スクールカースト」があったのではないか。

★ 体育学科の教官と学生の人間関係はどうか。学生は3回生になると各研究室に所属する。人数的には教育環境に恵まれた国立大学である。かつては非常にしっかりとした教官たちがエネルギーあふれる学生たちを指導していた。その指導体制が弱体化しているのではないか。学校現場と同じく、新人類の学生達に手を焼いているのか。

★ 教育大学はどうか。ほんの数年前、京都教育大学は教職への就職率が低迷し、滋賀大教育学部や奈良教育大学との統合が検討された時代があった。ここ数年、団塊の世代が退職し、急に教員需要が増え、京教でもゼロ免コース(教員免許の修得を卒業要件としないコース)が廃止され、全員が教職コースとなった。

★ 定員は私が在籍していたころに比べて7割程度。大学院や専門職大学院も設置され地域に密着しつつ、教育の高度化が図られてきた。大学としては上昇機運にあったが、そんな折の今回の事件である。

★ 先端技術の開発に走る中で、基盤となる何かが欠けていたのではないか。

★ 大学の閉鎖性も課題だ。教員社会の閉鎖性はよく指摘される。小中高そして教員養成大学、その後、教員に採用されるとずっと「学校」という社会の中で生きることとなる。教員としての専門性が高まる一方で、他の社会との接点が不足し、結果的に視野が狭くなってしまうことがある。

★ 大学の教員にも同様なことが言えるのではないか。大学教員は研究者としての顔と教育者としての顔をもつ。年齢を経るとこれに経営者としての顔も加わる。このバランスがうまくいっていないのではないか。

★ 近年は学校現場経験者も多く採用され、より実践的な教育が行われるようになってきた。しかし、学校現場以前に大学生教育を考え直さなければならないようだ。「大学生」という存在に、教官と学生との間でジェネレーションギャップがあるのではないか。今の「大学生」はかつての大学生ではないようだ。

★ 集団的犯罪にはそれを誘発する土壌、風土がある。それを改善しなければ、事件は再発する。小中学校における「いじめ」と同じく、抑え込むだけでは本当の解決にはならない。
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教育上の配慮

2009-06-02 00:02:12 | Weblog
★ 京教大学生による集団性的暴行事件。大学名を出すのもおぞましいが事実だから仕方がない。学長の謝罪会見が行われた。

★ そこで連発されたのが「教育上の配慮」。被害にあった女子学生のプライバシーを尊重してというならわからなくもない。しかし、加害者をかばうためにこの表現を使われたのではたまらない。

★ なぜ、大学は犯罪事実を認識しながら内部処分で済まそうとしたのだろうか。何らかの「政治的」配慮が働いたのだろうか。

★ 加害者たちは、学生とはいえ成人である。犯罪を犯した成人に対して「教育上の配慮」というのはどうも解せない。大学当局者に強姦が重罪だと言う認識が欠如していたとしか言いようがない。

★ セクハラやアカハラ、パワハラなど、大学は信じられないほど窮屈になっている。その一方で、そうした次元を超えた犯罪行為が行われている現状をどう考えればよいのか。

★ 大学は今回の事実を認識した後でハラスメント委員会を立ち上げ事実関係を調査したと言う。しかし、大学の自主的な調査に限界があることは学長自ら認めているところだ。であればこそ、なぜ事件をうやむやにしようとしたのか理解に苦しむ。

★ 「教育上の配慮」という言葉は実に便利である。しかし、この言葉のもとに超法規的な措置が行われたり、大学当局の責任が曖昧にされることがあってはならない。 
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