高次脳機能障害を持つ父は、高齢者住宅を出て自宅で生活することを目指し、食事を自分で作るようになりました。
まず、朝食は全て自分で準備し、夕食は、火・木だけ自分で作ることに決めました。
やはり、栄養面が気になるので、昼食と月・水・金・日の夕食は、栄養士さんが献立を考えてくれる施設の食事を食べてもらうことにしました。
土曜日は、私たち家族と一緒に食事をすることが多く、後に、訓練を兼ねて、土・日は自宅で過ごすようになりました。
右手に少し麻痺が残っているので、何度か包丁で指を切ってケガをすることもありましたが、食事を作るという仕事は、父の張り合いになりました。
また、食事を作るために、献立を考えたり、買い物に行ったり、作り方を勉強するために本を読んだり、実際に作ったり・・・と、どれもが、脳を活性化する効果的なリハビリにもなっていたと思います。
父が自宅で生活するために、まず、介護保険を使って、実家の玄関や階段、お風呂に手すりを取り付けました。
生活している高齢者住宅が大阪で、実家は和歌山だったので、「一時帰宅のために介護保険は使えない」と、なかなか認可がおりませんでした。
けれど、自宅で生活できるよう訓練するためには、手すりがないと危ないので、絶対に必要だとお願いし、取り付けていただくことが出来ました。
土・日に家に帰ると、「やっぱり、家は落ち着くな~」とくつろぐ父ですが、夜になると、
「そろそろ家に帰ろか~」と言うことがあります。
父の言う「家」とは、和歌山に引越す前に住んでいた、昔の我が家のことです。
「帰ろう」と一度思ってしまうと、父は、そのことが頭から消えずに、そわそわ落ち着かなくなってしまいます。
「ここがお父さんの家だよ」と説明しても、余計に混乱して機嫌が悪くなるので、
「もう遅いから、明日にしようよ」と説得します。
不思議なことに、父は、納得したことについては、すぐに忘れてしまうのです。
翌日になって、私が、「お父さん、こんなこと言ってたで~」と言っても、
「そんなん言うたか~???」と、 きょとんとしていました。
家に帰る度に、父は、押し入れや引き出しという引き出しを開けて、部屋中ゴソゴソと何かを探し回っていました。
以前帰ってきた時に探した場所であっても、記憶がないので、もう一度探し回ります。
永久に続くかのような作業の中で、父は、見つけた物から、自分が何者なのか探し出そうとしているように見えました。
父は写真を撮るのが趣味で、病気前には、1年かけて日本を一周し、たくさんの写真を撮っていました。
その写真をA4サイズで大きく印刷し、ファイルにはさんで父に見せましたが、自分で撮ったことも、撮った景色も全く覚えていませんでした。
それでも、家にあるたくさんのカメラを見て、懐かしそうに手に取り、写真を撮るポーズをとっていました。
残念ながら、父はカメラの操作を覚えていませんでしたが、「説明書を読んだら分かる!」と、カメラを高齢者住宅に持ち帰りました。
そのカメラで父が撮った写真は、最初は何を撮っているのかよく分からないものばかりでした。
あまりにも拡大して撮った写真が多くて、何を撮ったのか、まるでクイズのようでした。
しかも、右手の麻痺のせいで、どうしてもシャッターをうまく押せずに、ぶれてしまうのです。
それでも、父は、こつこつと練習を重ねていました。
「幼稚園最後の運動会には、じいじも見に来てね♪」と、約束していたので、息子の勇姿を撮ってやろうと頑張ってくれていたのです。
作業療法士さんと行く散歩にも、カメラを持って出かけていたようでした。
その年の運動会は、感慨深いものになりました。
息子が年少さんの時に父が病に倒れたので、よくぞここまで回復して、運動会を見に来てくれたという思いと、年長さんになった息子の凛々しく成長した姿。
涙腺が緩みっぱなしの一日でした。
父が撮ってくれた写真