やっぱり幸せ♪

日常の色んなこと、特に発達障害を持つ息子との素晴らしき日々を綴っていきたいと思います。

土曜参観

2015年06月14日 | 日記(息子・小4)

昨日は、土曜参観でした。
2時間目の算数と3時間目の社会が参観で、社会の授業では、先日の校外学習で見学して作った浄水場やゴミ処理場の新聞を一人ずつ発表をするということでした。

 

毎月のようにはソーシャルスキルトレーニングの参観に行っている私としては、「土曜参観こそ主人の出番! 主人に任そう!」と思っていたのですが、
「ママに、新聞の発表見に来てほしい!」と息子が言うので、3時間目だけ参観に行ってきました。

 

「嫌やなぁ。出来るかなぁ・・・」と、ずっと不安そうにしていた新聞です。
なんとか新聞が出来上がって、今度は、発表の台本を作ることになり、また、どうしていいか分からずに悩んでいました。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ! 分からん時は先生に聞いたらいいんやで」と、私が言っても
「今さら分からへんって、思われたくないねん」と、聞けない様子。

新聞を持って帰ってこれたら私がアドバイスできるのですが、そうもいかないので、担任の先生に電話して、それとなく息子に教えていただけるようお願いしました。

 

そうして、頑張って頑張って作り上げてきた新聞発表なので、私も見に行かないわけにはいきません。
股関節に湿布を貼って、腰にコルセットを巻いて、学校へと向かいました。

 

前に出て、一人1分の発表に、子供達はとても緊張していたのか、発表の声が小さくてはっきり聞き取れないところが残念でしたが、みんな頑張って発表していました。
発表に合わせて、先生が、一人一人の新聞をプロジェクターを使って黒板に写してくれました。
きれいな字、元気な字、それぞれの個性あふれる新聞です。

はらはらドキドキしながら、息子の発表を見守り、「よく頑張った!」と、他の子の時よりも大きい大拍手を送りました。


 

そうして、30分ぐらい経ったところで、思ったより股関節が痛むので教室を後にしました。

これで、また一つ、頑張ってやり遂げたと息子を誇らしく思い、胸をなでおろしながら・・・


64000円!

2015年06月11日 | 日記

息子が骨折し、病院に通っていたので、府民共済から共済金をいただけることになりました。

その金額、なんと64000円も!!

 

息子は右腕をシーネギプスで固定していたので、30日間までは毎日通院したとみなしてくれ、30日以後に実際に通院した2日分と合わせて、1日2000円×32日分の通院保険金を受け取れることになったのです。

 

本人は、痛くて不自由な思いをしてかわいそうだったけど、いざ、お金を受け取れると、嬉しいものです。

ショルダーバックや袖のゆったりした服、シーネギプスに巻いて毎日取り替えていたガーゼ代、サージカルテープや包帯代、全部支払っても、まだまだお金が残ります。
家族でおいしい焼肉でも食べに行って、残りは、主人の高~いお薬代に回すとしましょう。

 

でもでも、やっぱり、健康が一番ですからね 


父のそれから・・・8

2015年06月10日 | 高次脳機能障害の父と・・・

父が自宅で生活するようになって、一番困ったことは、お酒を飲むようになったことです。

 

父が飲んでいた脳の薬は、お酒を飲むと効果が出すぎるので、原則的にお酒は飲まないよう注意書きがされています。

でも、父は大好きなお酒を飲みたがり、医者の許可を得て、1日コップ1杯だけ飲むようになりました。

高齢者住宅では、夕方に、コップに入れたお酒を部屋に持ってきてくださり、父は、お風呂上がりの楽しみにしていました。

 

自宅に帰ってからも、私が、曜日を記したコップに父のお酒を準備をしていました。

それが、高齢者住宅との契約が切れた4月頃から、父は、自分でお酒を買いに行き、約束のコップ1杯以上のお酒を飲むようになってしまいました。

 

決められた以上のお酒を飲むと、父はわけが解らなくなってしまいます。

物に当たったのか、父が倒れたのか分かりませんが、大きな音がして、弟から連絡が来ます。

私が駆けつけると、グラスが割れ、ぐちゃぐちゃになった部屋の中に、父が失禁したまま倒れています。

そればかりか、ストーマ(人工肛門)を外そうとしたのか、汚れた手で部屋のあちこちを触っていて、部屋中がうんちだらけになっています。

 

父は、お風呂上がりにお酒を飲むので、そんな時は、夜中に実家に駆けつけ、父を着替えさせ寝かせた後、弟と二人で部屋を片付け、私は、夜明け前、息子が目を覚ます前にやっと自宅に戻ることが出来るのでした。

 

お酒を飲みすぎた次の日、父は、一日中調子が悪そうにボーっとしています。

「コップ1杯以上、お酒を飲んだやろ!」と言っても、父は、「そんなはずない」と首を横に振ります。

「お父さんが買ってきたお酒やろ!」と、証拠のお酒のパックを見せると、父はきょとんとしています。



どうやら、父には記憶がないようです。

それでも、父は、買い物に行っては衝動的にお酒を買ってしまい、私が気付かなければ、それを飲んで、また倒れるの繰り返しになるので、私は、毎日、実家を家探しし、お酒を見つけては処分していました。

そこまでしても、父は、いつの間にかお酒を買ってきて飲んでしまうのです。

 

「もう、お酒自体をやめよう」と、何度も説得しました。

でも、父は、「お酒を飲まんな、眠られへんのや」と、断固として拒否します。

過去も未来も繋がらない「今」しかない父の、不安でやってられない気持ちが、お酒を欲するのでしょうか。

 

「でも、お父さんの体が心配やから、絶対に、お酒はコップ1杯だけ! これ以上、勝手にお酒買って飲むんやったら、家での生活は無理やで。ケアマネージャーさんに、施設で生活するよう、探してもらうよ」

 

私が父に言い聞かせたことは、父の脳に、いや、父の心に残っているのでしょうか。

お酒をやめられないのは、高次脳機能障害のせい?



父は、無茶苦茶お酒を飲むわけではありません。

ただ、ほんの少し飲む量が多かっただけでも、脳が異変を起こしてしまうのです。

そういう脳になってしまったことを理解できない病識の欠如。約束を覚えられない記憶障害。

それとも、衝動の抑制がきかないせい? 

 

冷蔵庫や玄関のドアに張り紙をしたり、父の顔を見るたびに、「お父さんの体のためやで! お酒はコップ1杯まで!」と、念を押したりするのですが、それでもなお、父は、お酒を買って飲んでしまうのです。

 

息子が書いてくれた張り紙

 

私は、ケアマネージャーさんに、父が入れる施設を紹介してくださるようお願いしました。

 


父のそれから・・・7

2015年06月09日 | 高次脳機能障害の父と・・・

高次脳機能障害を持つ父が自宅で生活することを、私が決断したのは、父が「なやクリニック」の高次脳機能デイケアで訓練を受け、納谷先生からも、ヘルパーさん達のサポートを受けながら、自宅で生活することは可能だと言われたからでした。

また、高齢者住宅での生活も落ち着き、食事などの簡単な家事も自分でこなすようになったからでもありました。

何よりも、実家で生活している弟の存在があったからかもしれません。

 

弟は、高校生の時に不登校になり、それから色んな経過がありましたが、いわゆるひきこもり状態のまま現在に至っています。

その理由は単純なものではなく、簡単に説明できるものでもありません。

ただ一つ言えることは、彼は、私にとって大切な大切な家族であるということです。

 

その彼は、父が実家に帰ることに強く反対していました。

一言で言えば、「時期尚早」と。



確かに、ケアマネージャーさんやヘルパーさん、リハビリの先生が一緒にいてくれる時間は限りがあり、自由度の高い自宅での生活では、衝動的に行動したり記憶がしっかりしないというのは、大きな不安材料です。

でも、高齢者住宅で生活していても、これ以上障害自体の回復は望めず、自宅での生活の中で新たに生活スキルを積み上げていくしかないと、私は思いました。

 

弟は、「自宅での(父の)生活に一切関与しないし、責任も持てない」と言い、事実、私が実家にいない時に、弟が部屋から出て父と一緒にいることはありませんでした。

それでも、父の様子がおかしい時には、すぐに私に連絡をくれるので、私は、随分助けられました。

 

例えば、父が、セールスマンを自宅に上げ、話しこんでいるとき。

父は、3回も、色んな業者と太陽光発電の契約を結んでしまいましたが、弟のおかげで、早期に解約することが出来ました。

父が車に乗っていることも、弟が何かおかしいと教えてくれたので、問題が起きる前に知人に車を預かってもらうことが出来ました。

 

また、父が畑仕事をしていて、裏庭の崖から落ちたときも。

父は、自分で救急車を呼び、病院に運ばれましたが、その事実を弟から聞き、いち早く病院に駆けつけることが出来ました。

幸い、父は鎖骨の骨折だけで、3週間ほどの入院ですみました。

 

弟の言うとおり、「時期尚早」だったのでしょうか?

でも、万全の状態になることが望めないなら、いつ自宅で生活できるようになるのでしょう。



父が自宅に帰ってから、私は、いつも、これで良かったのかと悩みながら、父が無茶しないかと心配し、気の抜けない生活を送っていました。

 


花の色

2015年06月08日 | 日記

最近、あじさい「ダンスパーティ」の薄い青紫色だった花の色が、どんどん白くなってきたような気がします。
土の養分がなくなってきたのかしら・・・?

 

お花と一緒に入っていた説明書には、「植え替えは花後に」って書いてあるのですが、5号鉢が小さすぎてよく倒れるのではないかと気になっていたので、今朝、植え替えをしました。

 

うちに花壇はなく、犬を飼っていた頃、駐車場の一角だけ、ワンちゃんのためにコンクリートで固めず土のままにしていた箇所があります。

その花壇もどきには、8年くらい前にばあば(主人のお母さん)が蒔いた柿の種が奇跡的に育っていて、表札とポストを兼ねた門柱の横、お隣との境界線近くという非常に微妙な場所に、柿の木が一本茂っています。
毎年、たくさんの花を咲かせるのですが、鳥たちについばまれ、収穫できる柿は5つぐらい。
何の手もかけないせいか、お味はしぶくてまずいです。

 

そこに、実家から持ってきた肥料を適当に土に混ぜ、「ダンスパーティ」を植え替えたのですが、どうでしょう?
肥料って、分量とか決まっているのかしら???

 

とにかく、元気になりますように。

そういえば、あじさいの花の色は、土の性質によって変わるそうだけど、白から何色になるのでしょう?


 

植え替えた「ダンスパーティ」

 

 

 


強迫性障害

2015年06月06日 | 息子の広汎性発達障害と強迫性障害、適応障害

息子が、「頭の中に何かが浮かんで消えない」と言い始めて2ヶ月。
残念ながら、まだ治まる様子がなく、勉強やゲームに集中出来ずに困っています。

 

一昨日の「習字がうまく書けるかな」という不安にも通じるものがありますが、言葉であったり、形であったり、また言葉で説明出来ないような何かが、息子の頭の中を占領して、彼の生活を不安で落ち着かないものにさせているようです。

「どうしたら消せるの~?」「いつになったら治るの~?」と不安がる息子を安心させてあげたくて、今日、児童精神科の先生がいるメンタルクリニックを受診してきました。

 

近くには、大人の精神科か、紹介状のない初診は10800円の自己負担が必要で、尚且つ予約が1ヶ月以上先という大学病院しかないので、片道1時間程かけて、堺の「さわだメンタルクリニック」まで行ってきました。

 

この症状は、「強迫性障害」の「強迫観念」だということでした。

強迫性障害を引き起こす原因は、はっきりとは分からないそうですが、不安や緊張からくるストレスや、広汎性発達障害の特性が引き起こす場合もあるということでした。
薬で脳内のドーパミンやセロトニンの分泌量を調整することで、症状の改善がみられるようです。
もちろん、薬を飲んでも、効果があるかは人によるそうですが・・・。

 

私は、薬を飲むことには抵抗があり、もうしばらく様子をみようかとも悩みました。

去年の秋には、突然、「食べ物の中に何かが入っているかもしれない」と、気にして、息子は、ねずみのようにちょぼちょぼとしか食べ物を口にすることが出来なくなってしまいました。
ハイチュウのようなお菓子で、「入っているわけないやろ!」というようなものまで、3口ぐらいに分けて、確認しながらかじって食べて、そのため、食事の度にぼろぼろとこぼしまくっていました。
2日に1回はラグを洗濯しないといけない状況で、私は、本当に大変でしたが、本人は、「中になんか入ってるんちゃうかって、気になるんやもん!」と、それほど悲壮感はなかったので、様子を見ていると、3ヶ月ぐらいでいつの間にか治っていました。

 

今回も、あと1ヶ月くらいしたら、自然に治るかも・・・という思いと、本人が苦しんでいるのに、今すぐにでも治してやりたい・・・という思いが、私の中で戦っています。

 

薬は、1日の量としては、リスパダールOD錠0.25mgと、フルボキサミンマレイン酸塩錠12.5mg。
ごくごく少量から、様子をみることになりました。

 

息子の強迫観念が消えますように!
そして、薬の副作用が出ませんように!

 


頑張りすぎないで・・・

2015年06月05日 | 日記(息子・小4)

昨日、息子の学校で、習字の授業がありました。

息子は習字が苦手です。

手先が不器用な上に、左ききなので、筆で字を書く感覚がなかなかつかめないようです。

困ったことは、習字のことが気になって、前の時間の授業が手につかないことです。

 

息子が時間割を合わせている時に気がついたのですが、前日の算数の宿題プリントがそのまま入っていました。

いつも、算数の時間に、前日の宿題を丸付けすることになっています。

 

息子に聞いてみると、

「習字、ちゃんと書けるかな・・・って、気になって、先生が何言ってるか分からへんで、丸出来へんかった」

と、言うのです。

もしかして、一日中、習字のことを考えていたのかしら・・・

 

この日の習字は、失敗してばかりで時間中に清書できなくて、放課後に一人だけ残って書き上げたらしいです。

 

今日は、先日の校外学習で見学した浄水場やゴミ処理場の新聞を作る授業があるそうです。

 

「嫌やなぁ。出来るかなぁ・・・」と、昨日は、不安そうに何度も私に聞いてきました。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、私が言っても

「グループじゃなくて、一人で作るんやで」と、心配そうです。

「みんなも、『出来るかな』って思ってるかもしれへんで。やり方分からん時は、先生に聞いたらええんやで」

 

もっと気楽に考えたらいいのにとも思うけれど、この子は、学校での勉強や活動に、どれだけ気を遣い、どれだけ努力をしているのでしょう。

定規を使って線を引くとか、マスの中に字を書くとか、人が簡単に出来てしまうことでも、神経を遣い、集中して努力しなければなりません。

また、集中して何かをしている時は、耳から入る言葉は聞き取れず、その結果、何をしなければならないのか分からなくなってしまうことがあります。 

不安に思い緊張しても、無理はありません。

 

今朝、起きてきてすぐに、息子が言いました。

「新聞作るのに、ええこと思いついた!」 

ずーっと、どうしようか考えていたのでしょうか。

「もらったパンフレットをそのまま写したらいいねん!!」

 

「そうやん!」私も言いました。

「パンフレット写して、最後にちょこっとだけ自分の感想書いたらええねん!」

 

そして、笑顔で息子を送り出します。

「今日行ったら、明日はお休みやね。行ってらっしゃい!!」

 


父のそれから・・・6

2015年06月03日 | 高次脳機能障害の父と・・・

回復期病棟を出てから1年9ヶ月の間、父は、高齢者住宅で、リハビリを兼ねての生活を送ってきました。

 

そして、64歳の誕生日を自宅で迎えられるよう、前日の1月26日、ついに父は実家に戻ってきました。

脳炎により危篤状態になったのが、平成21年10月、あれから2年と3ヶ月余りの月日が流れていました。

 

父が実家で生活出来るのか見極めるため、3月まで高齢者住宅の契約を続けることにしましたが、実家でも良いケアマネージャーさん、ヘルパーさん、訪問リハビリの先生に恵まれ、順調に生活はスタートしました。

ただ、高齢者住宅と違って一人でいる時間が長いため、私は、出来るだけ毎日、実家に帰るようにしました。

 

父は、訪問リハビリの先生と一緒に、裏庭に畑を作ることにしました。

先生に野菜の苗をいただき、育て方を教えてもらい、一緒に土から作っていました。

元々、凝り性の父でしたが、本を読んだりしながら、本格的に野菜を作り始めていました。

 

土など必要なものは、私と一緒にホームセンターに買いに行っていたのですが、ある日、大量に土が増えていることに気付きました。

父にどうしたのか聞くと、「畑を増やすから、車で買いに行ってきたで」と、事も無げに答えました。

 

車の鍵のある場所も、運転の仕方も、ホームセンターの道順も、全く問題なく覚えていて、普通に車を運転して、買い物に行ってきたようです。

 

「なやクリニック」の先生から、兵庫に脳損傷者が運転可能であるかテストをしてくれるところがあると聞いていたので、いずれはそこでテストをしてもらおうと思っていたのですが、まだまだ、何かが起こったときに、通常の反応が出来るとは思えません。

 

「手も足も少し麻痺が残ってるし、脳も、もっともっとこれから良くなっていくから、もうちょっと我慢して!今、無理して事故を起こしたら、お父さんの命もそうやけど、相手も、命を落としたり、高次脳機能障害になるんやで。お父さんが、その辛さ、一番分かってるやろ!」

 

私は、父を説得し、車を知人に預かってもらうことにしました。

私が、しょっちゅう実家に来ているし、どうしてもの時はタクシーを呼べばいいのですが、本人はものすごく不服そうでした。

「ちょっとした買い物に行きたいだけや」というのです。

田舎なので、歩いて行くのも遠いというので、がっちりとして安定感のある電動自転車を買いました。

リハビリの先生に練習してもらい、近所限定で乗ってもらうことにしました。

 

運転のように長年身に染み込んだものは、しっかり体が覚えているのですね。

通い慣れた実家の近くの道も、迷うことはないようです。

 

自宅に帰ると、出来ることがいっぱい出てきます。

そして、出来そうに思っていたことが、出来なかったりもします。

 

父は、実家のコーヒーメーカーのフィルターに、コーヒー豆を挽いたものではなく、インスタントコーヒーをセットして飲んでいたのです。

米びつからボタンを押してお米を計る方法が分からなかったり、便利な電化製品の使い方は、全く分からなくなっていました。

分からないことが分かれば、一つ一つ手順書を作り、そばに貼ってあげれば出来るようになります。

ただ、父は、分からなかったこと、困ったことを覚えていることが出来ないので、その時そばにいなければ、私が気付かないこともたくさんあったと思います。

 

それでも、父は、自宅での生活を楽しんでいるように見えました。


父のそれから・・・5

2015年06月02日 | 高次脳機能障害の父と・・・

高次脳機能障害を持つ父は、高齢者住宅を出て自宅で生活することを目指し、食事を自分で作るようになりました。

 

まず、朝食は全て自分で準備し、夕食は、火・木だけ自分で作ることに決めました。

やはり、栄養面が気になるので、昼食と月・水・金・日の夕食は、栄養士さんが献立を考えてくれる施設の食事を食べてもらうことにしました。

土曜日は、私たち家族と一緒に食事をすることが多く、後に、訓練を兼ねて、土・日は自宅で過ごすようになりました。

 

右手に少し麻痺が残っているので、何度か包丁で指を切ってケガをすることもありましたが、食事を作るという仕事は、父の張り合いになりました。

また、食事を作るために、献立を考えたり、買い物に行ったり、作り方を勉強するために本を読んだり、実際に作ったり・・・と、どれもが、脳を活性化する効果的なリハビリにもなっていたと思います。

 

父が自宅で生活するために、まず、介護保険を使って、実家の玄関や階段、お風呂に手すりを取り付けました。

生活している高齢者住宅が大阪で、実家は和歌山だったので、「一時帰宅のために介護保険は使えない」と、なかなか認可がおりませんでした。

けれど、自宅で生活できるよう訓練するためには、手すりがないと危ないので、絶対に必要だとお願いし、取り付けていただくことが出来ました。

 

土・日に家に帰ると、「やっぱり、家は落ち着くな~」とくつろぐ父ですが、夜になると、

「そろそろ家に帰ろか~」と言うことがあります。

父の言う「家」とは、和歌山に引越す前に住んでいた、昔の我が家のことです。

 

「帰ろう」と一度思ってしまうと、父は、そのことが頭から消えずに、そわそわ落ち着かなくなってしまいます。

「ここがお父さんの家だよ」と説明しても、余計に混乱して機嫌が悪くなるので、

「もう遅いから、明日にしようよ」と説得します。



不思議なことに、父は、納得したことについては、すぐに忘れてしまうのです。

翌日になって、私が、「お父さん、こんなこと言ってたで~」と言っても、

「そんなん言うたか~???」と、 きょとんとしていました。

 

家に帰る度に、父は、押し入れや引き出しという引き出しを開けて、部屋中ゴソゴソと何かを探し回っていました。

以前帰ってきた時に探した場所であっても、記憶がないので、もう一度探し回ります。

永久に続くかのような作業の中で、父は、見つけた物から、自分が何者なのか探し出そうとしているように見えました。

 

父は写真を撮るのが趣味で、病気前には、1年かけて日本を一周し、たくさんの写真を撮っていました。

その写真をA4サイズで大きく印刷し、ファイルにはさんで父に見せましたが、自分で撮ったことも、撮った景色も全く覚えていませんでした。

それでも、家にあるたくさんのカメラを見て、懐かしそうに手に取り、写真を撮るポーズをとっていました。

 

残念ながら、父はカメラの操作を覚えていませんでしたが、「説明書を読んだら分かる!」と、カメラを高齢者住宅に持ち帰りました。

 

そのカメラで父が撮った写真は、最初は何を撮っているのかよく分からないものばかりでした。

あまりにも拡大して撮った写真が多くて、何を撮ったのか、まるでクイズのようでした。

しかも、右手の麻痺のせいで、どうしてもシャッターをうまく押せずに、ぶれてしまうのです。

 

それでも、父は、こつこつと練習を重ねていました。

「幼稚園最後の運動会には、じいじも見に来てね♪」と、約束していたので、息子の勇姿を撮ってやろうと頑張ってくれていたのです。

作業療法士さんと行く散歩にも、カメラを持って出かけていたようでした。

 

その年の運動会は、感慨深いものになりました。

息子が年少さんの時に父が病に倒れたので、よくぞここまで回復して、運動会を見に来てくれたという思いと、年長さんになった息子の凛々しく成長した姿。

涙腺が緩みっぱなしの一日でした。

 

 父が撮ってくれた写真