愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

目立った言葉:「二人の盲人」のイエスに示した信仰

2014-07-19 22:38:45 | 神の言葉・聖書

 イエス・キリストは12使徒たちに、だれが一番偉い者かではなくだれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方奉仕者でなければならない」、また「あなた方の奴隷でなければならない」と諭されました。それはイエスが、「ちょうど人の子(イエス)が、仕えてもらためではなく、むしろ仕え、自分の魂(命)を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」と教えられた通りに、イエスの残された模範的な手本に見倣わなければならないことを、弟子たちに銘記させるものでした(マタイ20:20~28.ペテロ第一2:21)。次いでイエスと12使徒たちが出る時に、道路わきに座っていた二人の盲人」のイエスに示したゆえに、即座にその二人の盲人の目を見えるようにされた場面が次のように記録されています。

 「さて、一行がエリコを出た時、大群衆が彼(イエス)のあとに従った。すると、見よ、二人の盲人が道路のわきに座っていたが、イエスがそばを通っておられることを聞くと、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と叫んだ。ところが群衆は、黙っているようにと彼らに厳しく言った。けれも彼らはいよいよ大声で叫び、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と言った。それでイエスは止まり、彼らに呼びかけて言われた、「わたしに何をしてほしいのですか」。彼らは、「主よ、わたしたちの目を開くようにしてください」と言った。イエスは哀れに思い、彼らの目にお触れになった。すると、彼らはすぐに見えるようになり、イエスの後に従った」(マタイ20:29~34)。

 二人の盲人は、イエスの行う奇跡の癒しの業を聞いていたに違いありません。当然ながら二人の盲人はイエスの奇跡の癒しの業を見たわけではありません。それでも、イエスは「自分たちの目を開き、見えるようにしてくださる!」と確信していました。二人の盲人はイエスが傍を通り過ぎるのを聞くと、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と叫んでいます。すると群衆は、その二人の盲人に黙っているようにと厳しく言いました。すると二人の盲人「いよいよ大声で叫び、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と叫んでいます。この状況から分かる通りに、二人の盲人は、イエスは必ず自分たちに憐れみをかけてくださり、必ず目を開き見えるようにしてくださる、と確信を抱いてたのです。周りの人々の制止する指示などは、意に介しませんでした。イエスは二人の盲人の助けを求める叫びを聞き、足を止め哀れに思われます。イエスは彼らに何をしてほしいかを尋ねると、彼らは、明確に自分たちの願いである「目を開くようにしてください」と懇願しました。イエスが彼らの目に触れると、即座に目が開き見えるようになったのです。

 福音書筆者の一人であるマルコはこの場面で、イエスが「行きなさい、あなたの信仰があなたをよくならせました」と言われたことを記録しています(マルコ10:52)。イエスは二人の盲人の信仰ゆえに、目を開き、見えるように治してくださったのです。私たちも堅く信仰に立ち、義の宿る地上の楽園の回復に期待したいと思います(ペテロ第二3:13)。

        花々に 蜜を備えし 神の知恵 今日の一句

                   庭に次々と咲く「白色ムクゲ」

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ルリマツリとランタナにツマグロヒョウモン蝶

2014-07-19 20:05:39 | 四季折々の花々

 庭にルリマツリの枝を挿し木していたら、枝を伸ばし花を咲かせました。5枚の花びらには光沢があり、綺麗な花です。ルリマツリは南アフリカの原産でつる性の植物と花図鑑には紹介されています。花期は4月~11月と長い期間です。用途は鉢植えです。花言葉は「中和」です。

 今日はルリマツリとランタナにツマグロヒョウモン蝶を紹介致します。

                     庭に咲いた「ルリマツリ」

                庭の「ランタナにツマグロヒョウモン蝶」

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目立った言葉:「偉くなりたいと思う者は奉仕者でなければならない」

2014-07-19 01:17:14 | 神の言葉・聖書

 イエス・キリストは十二弟子たちにそっと、ご自身の死と復活について三度目の予告をされました(マタイ20:17~20)。しかし、イエスの弟子たちはイエスの死と復活に関する予告の意味を理解していませんでした。使徒ヤコブとヨハネの母親のサロメも、エルサレムでの過ぎ越しの祭りに行く旅行者たちの中にいます。一時期、ヤコブとヨハネは神の王国で高い地位に就こうという野心を抱き、そのような願いを母親に伝えていました。それで母親はイエスに近づきイエスに恵みを願い求めした。そうした弟子たちの高い地位に就こうという野心に対してイエスが教えられた事柄がマタイの福音書に次のように記されています。

 「その時、ゼベダイの息子たち(ヤコブとヨハネ)の母親がその息子たちと共に近づき、敬意をささげながら何事かを彼(イエス)に求めた。イエスは彼女に言われた、「あなたは何を望むのですか」。彼女は言った、「これらわたしの二人の息子が、あなたの王国で、一人はあなたの右に一人はあなたの左に座るようにお申しつけください」。イエスは答えて言われた、「あなた方は自分が何を求めているかを知っていません。あなた方はわたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」。彼らは「できます」と言った。イエスは彼らに言われた、「確かにあなた方はわたしの杯を飲むでしょう。しかし、わたしの右また左に座るこのことは、わたしの授けることではなく、わたしの父(エホバ)によってそれが備えられている人たちのものです」。

 このことについて聞くと、ほかの十人はその二人の兄弟のことで憤慨した。しかしイエスは、彼らを自分のところに呼んでこう言われた。「あなた方は、諸国民の支配者たちが人々に対して威張り、偉い者たちが人々の上に権威を振るうことを知っています。あなた方の間ではそうであってはなりません。かえって、だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならず、また、だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません。ちょうど人の子(イエス)が、仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、自分の魂(命)を、多くの人々と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」」(マタイ20:20~28)。

 上の聖句のイエスが「飲もうとしている杯」とはどんな意味でしょうか。そのは、イエスが捕らえられ激しい迫害に遭って、最後に処刑されるという、そのような意味の「杯」です。イエスの弟子たちは、そのような重大な意味を理解していませんでした。しかし、弟子たちにイエスは立腹されることなく、ご自身の「右また左に座るこのことは」、ご自身がその座を授けるのではなく「わたしの父(エホバ)によってそれが備えられている人たちのものです」と答え、謙遜にみ父エホバに権限があることを示されました。これらのイエスの言葉からも分かりますが、イエスは、み父エホバと同等ではないことをはっきり示しておられます。

 イエスの使徒たちは、以前にも使徒たちの間でだれが一番偉いのかについて議論が起きたとき、ヤコブとヨハネが先頭に立って語っていたのかも知れません。二人の弟子がこの問題について、イエスの与えられた諭しを自分たちに適用しなかったことは、今回の要望を見ても明らかです。残念なことに彼らは諸国民の支配者たちと同じような目立つ立場を望んでいたのです。

 イエスは、最近に起きた弟子たちの間でだれが一番偉いのか、という論争のために生じた弟子たちの反目に対処するために、十二使徒を呼び集めます。そして愛を込めて使徒たちに諭しを与えられました。イエスは「だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならい」また「奴隷でなければならない」と教えられました。

 イエス・キリストは弟子たちが見倣うべき模範を手本として残されました(ペテロ第一2;21)。そのことをこのように説明されています。丁度イエスご自身が「仕えてもらうためではなく、むしろ仕え、自分の魂(命)を、多くの人々と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」(マタイ20:28)。イエスの弟子たちも、イエスのそうした神エホバのご意志を行う決意に見倣い、、仕えてもらうよりも仕えることを願い、立った立場に就くよりも、より小さい者になることを願う、イエスのような気質を必要としていることを銘記されました。現在のイエスの真の弟子たちであるクリスチャンもこの教えを心に留め、生き方に適用しなければなりません。

         焼きナスや とろける甘さ 夕餉かな 今日の一句

                  妻の育てる裏の畑の「スイカ」

 

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