イエス・キリストは12使徒たちに、だれが一番偉い者かではなく、「だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者でなければならない」、また「あなた方の奴隷でなければならない」と諭されました。それはイエスが、「ちょうど人の子(イエス)が、仕えてもらためではなく、むしろ仕え、自分の魂(命)を、多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのと同じです」と教えられた通りに、イエスの残された模範的な手本に見倣わなければならないことを、弟子たちに銘記させるものでした(マタイ20:20~28.ペテロ第一2:21)。次いでイエスと12使徒たちが出る時に、道路わきに座っていた「二人の盲人」のイエスに示した信仰ゆえに、即座にその二人の盲人の目を見えるようにされた場面が次のように記録されています。
「さて、一行がエリコを出た時、大群衆が彼(イエス)のあとに従った。すると、見よ、二人の盲人が道路のわきに座っていたが、イエスがそばを通っておられることを聞くと、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と叫んだ。ところが群衆は、黙っているようにと彼らに厳しく言った。けれも彼らはいよいよ大声で叫び、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と言った。それでイエスは止まり、彼らに呼びかけて言われた、「わたしに何をしてほしいのですか」。彼らは、「主よ、わたしたちの目を開くようにしてください」と言った。イエスは哀れに思い、彼らの目にお触れになった。すると、彼らはすぐに見えるようになり、イエスの後に従った」(マタイ20:29~34)。
二人の盲人は、イエスの行う奇跡の癒しの業を聞いていたに違いありません。当然ながら二人の盲人はイエスの奇跡の癒しの業を見たわけではありません。それでも、イエスは「自分たちの目を開き、見えるようにしてくださる!」と確信していました。二人の盲人はイエスが傍を通り過ぎるのを聞くと、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と叫んでいます。すると群衆は、その二人の盲人に黙っているようにと厳しく言いました。すると二人の盲人は「いよいよ大声で叫び、「主よ、わたしたちに憐れみをおかけください、ダビデの子よ!」と叫んでいます。この状況から分かる通りに、二人の盲人は、イエスは必ず自分たちに憐れみをかけてくださり、必ず目を開き見えるようにしてくださる、と確信を抱いてたのです。周りの人々の制止する指示などは、意に介しませんでした。イエスは二人の盲人の助けを求める叫びを聞き、足を止め哀れに思われます。イエスは彼らに何をしてほしいかを尋ねると、彼らは、明確に自分たちの願いである「目を開くようにしてください」と懇願しました。イエスが彼らの目に触れると、即座に目が開き見えるようになったのです。
福音書筆者の一人であるマルコはこの場面で、イエスが「行きなさい、あなたの信仰があなたをよくならせました」と言われたことを記録しています(マルコ10:52)。イエスは二人の盲人の信仰ゆえに、目を開き、見えるように治してくださったのです。私たちも堅く信仰に立ち、義の宿る地上の楽園の回復に期待したいと思います(ペテロ第二3:13)。
花々に 蜜を備えし 神の知恵 今日の一句
庭に次々と咲く「白色ムクゲ」