庭の白のデュランタが次々に咲いて来ます。
デュウランタの花木は勢いのある花木で、
ひと夏で枝を大きくの伸ばします。
花期は7月~9月です。
用途は切り花、鉢植え、庭植へです。
花言葉は「独り善がり」と紹介されています。
今日は白のデュランタとキバナコスモスを紹介致します。
庭に咲いている「デュランタ」
宇和島市三間(みま)町の道辺の「キバナコスモス」
庭の白のデュランタが次々に咲いて来ます。
デュウランタの花木は勢いのある花木で、
ひと夏で枝を大きくの伸ばします。
花期は7月~9月です。
用途は切り花、鉢植え、庭植へです。
花言葉は「独り善がり」と紹介されています。
今日は白のデュランタとキバナコスモスを紹介致します。
庭に咲いている「デュランタ」
宇和島市三間(みま)町の道辺の「キバナコスモス」
イエスが遣わされていた時代の、自称律法に通じた者として自分たちを高めていたパリサイ派の祭司長や書士たちは、イエスに敵対し、イエスを捕えて殺そうと企んでいました(マルコ14:1,2)。そうした中で過ぎ越しと無酵母パンの祭りが二日後になっていた時、イエスの贖いの死を見越し、マリアが高価な香油をイエスに注いだ時の人々の反応とイエスの教えがマルコの福音書に次のように記されています。
「そして、イエスがベタニアでらい病人(ハンセン病人)シモンの家にいて、横になって食事をしておられた時であったが、ひとりの女(マリア)が、雪花石こうの容器に入った香油を携えてやって来た。(その香油は)本物のナルドであり、非常に高価なものであった。彼女(マリア)は雪花石こうの容器を割って開け、それを彼(イエス)の頭に注ぎ始めた。すると、互いに憤慨した様子を示す者たちがいて、「どうしてこんな(高価な)香油の無駄づかいをしたのか。この香油なら三百デナリ(300日分の賃金)以上で売れたし、そうすれば貧しい人たちに施すこともできたのに!」と言った。そして、彼女(マリア)のことを非常に不快に思っていた。しかしイエスは言われた、「彼女(マリア)をそのままにしておきなさい。なぜあなた方は彼女(マリア)を困らせようとするのですか。彼女はわたしに対してりっぱな行いをしたのです。あなた方にとって貧しい人たちは常におり、あなた方はいつでも望むときに彼ら(貧しい人たち)に善を行えますが、わたし(イエス)は常に共にいるわけではないからです。彼女(マリア)は自分にできることをしました。埋葬(贖いの死)を見越してわたしの体に前もって香油を付けようとしたのです。あなた方に真実に言いますが、世界中のどこでも(神の王国の)良いたよりが宣べ伝えられる所では、この女(マリア)のしたことも、彼女の記念として語られるでしょう」(マルコ14:3~9)。
上のマルコの福音書に記されている通り、イエス・キリストの贖いの死を見越し、マリアが高価な香油(300日分の賃金に相当)をイエスに注いだ時の人々の反応が記されています。人々は、高価な香油をイエスに注ぎ無駄なことをしたと憤慨し、かつ、その香油を売って貧しい人たちに施すことができた、とまで言っています。それに対してイエスは、はっきりとマリアは「わたしに対してりっぱなことをした」と褒められました。イエスの説明は明快です。貧しい人たちは常にいて、人々の望むときにいつでも彼らに善を行える、と教えられました。しかし、イエスは間もなく贖いの死を遂げるので「常に共にいるわけではない」と、説明し、マリアの行為が「りっぱなこと」であることを証しされました。イエスが言われた通り、マリアの行為は聖書に記録され、現在240の国や地域で神の王国の良いたよりの真理が証しされ、マリアの立派な行いも伝えられています。
このマリアの立派な行為を福音書を通してご存じだった方々は幸いです。
笑顔にて 稲刈り予定 述べる人 今日の一句
道辺に咲いている「キバナコスモス」
我が家の庭のボケの花木は、ピン玉位の実を
1,2個結ぶことがあります。
しかし、12日に宇和島市三間町の道辺には、卵より少しい大きい
ボケの実を沢山結んでいました。このようなボケの実を、しかも
沢山見たのは初めてでした。
今日はボケの実とテッポウユリを紹介致します。
卵より少し大きめの「ボケの実」
和島市三間(みま)町の道辺に咲いている「テッポウユリ」
皆様方も、友人に励ましの言葉を手紙で送ったり、あるいは送られたことがあるに違いありません。特に愛情深い励ましの言葉を手紙で頂くと、何度も読み返し、力が湧き、築き上げられ、深い感謝の念に包まれるのではないでしょうか。使徒パウロがコリントのクリスチャンに宛てた手紙の結びの励ましの言葉は、深い愛情に溢れ、読む私たちを築き上げるものとなっています(コリント第一8:1)。次のように記されています。
「さて、わたしたち(使徒たち)は、あなた方(コリントのクリスチャンたち)が何も悪を行わないようにと神(エホバ)に祈ります。それは、わたしたちが是認されているように見られるためではありません。たとえわたしたち自身は非とされているように見えても、あなた方がりっぱなことを行なうようになるためです。わたしたちは真理に逆らって何も行えません。ただ真理のためにしか行えないのです。本当にわたしたちは、自分たちが弱くて、あなた方が強力な時にはいつも歓びます。そして、あなた方がさらに(真理によって)調整を加えられてゆくこと、このことをわたしたちは祈り求めています。それゆえに、わたし(パウロ)は離れている間にこれらのことを書くのです。共にいるときに、主(イエス)がわたし(パウロ)に与えてくださった権威によって厳しく行動しなくてすむようにするためです。その権威は(互いに)築き上げるためのものであり、打ち壊すためのものではありません。終りに、兄弟たち、引き続き歓び、さらに調整が加えられ、(神エホバから)慰めを受け、同じ考えを持ち、平和に生活してゆきなさい。そうすれば、愛と平和の神(エホバ)があなた方と共にいてくださるでしょう。聖なる口づけを持って互いに挨拶を交わしなさい。聖なる者たち(使徒たち)すべてがあなた方にあいさつを送っています。
主イエス・キリストの過分のご親切と神(エホバ)の愛、ならびに聖霊にあずかることが、あなた方すべてにありますように」(コリント第二13:7~14)。
上の聖句に記されている通り、使徒パウロは、謙遜であり、優しい愛情に満ちた言葉で、コリントのクリスチャンを築き上げる言葉となっています。パウロは「愛は人を築き上げる」と教えましたが、パウロの手紙はそのことを例証しています(コリント第一8:1)。私たちもパウロの模範に見倣う者となりたいものです。
かつおぶし 昔ながらの 冷やっこ 今日の一句
8月12日の庭に咲いている「バラ」