昨日の「しんぶん赤旗」は、戦前、戦後の歴史を踏まえた、政党の歴史と役割について、「特集」記事を掲載しました。
立教大学名誉教授の粟屋憲太郎さんが、次のようなコメントを寄せています。
「戦前、日本共産党が権力に与えた衝撃は非常に大きかった。 天皇制廃止と侵略戦争反対を掲げた政党は初めてでしたから。 だから治安維持法を最高刑=死刑に改悪して弾圧したわけです。 共産党の表での活動は1935年まででした。 しかしその後も支配層への恐怖感は大きいものがありました」
「一方、政友会も民政党も、勢力圏である『満州』を維持することではいっしょで戦争賛成でした。 幣原外交と田中外交との差は部分的なものです。 中国は一撃で頭を下げると楽観的で、戦争があんなに続くとは思っていなかった」
(注)「幣原外交と田中外交」 1920年代から30年代初め、民政党系内閣の幣原喜重郎外相の政策は「国際協調主義」、政友会・田中義一内閣の外交はより強硬な「対中国積極外交」と呼ばれました。
自民党の前身の政友会や民政党は、日本が1931年9月18日、中国東北部への侵略戦争(「満州事変」)を開始した翌日9月19日、「与党の民政党は、『正当防衛の挙』とする声明を発表し、野党の政友会も11月の議員総会で『満州事変は在満同胞の保護と既得権益の擁護を基調とする自衛権の発動』であり、『断じて撤兵を許さず』と決議しました」
「社会党の前身の社会大衆党も、満蒙の権益の無条件放棄は『我らの断じて取らざるところ』との声明を発表しました。
「これらの諸党は、太平洋戦争を前にして自ら解散し、40年10月、侵略戦争推進のための国民動員組織「大政翼賛会」(大政翼賛とは天皇の政治を補佐すること)に合流しました」
「日本共産党は当時、非合法で活動せざるを得ませんでしたが、『満州事変』開始翌日の9月19日、直ちに『奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ! 一人の兵士も戦線に送るな』との声明を発表しました」
「日本共産党は、天皇制廃止を求める思想と運動を犯罪とする治安維持法によって激しい弾圧を受け、作家の小林多喜二をはじめ拷問で命を奪われる党員も相次ぎました。 この困難の中でも、党は反戦平和の旗を掲げ続けました」
今、再び日本は戦争か平和かの歴史的岐路に立っています。
「集団的自衛権行使の『閣議決定』(7月1日)を受けて開かれた衆参両院の予算委員会での集中審議(同14、15両日)。 質問のなかで自民党の高村正彦副総裁は、中国、北朝鮮の脅威論を持ち出し、『もし日本を攻撃したらアメリカが相手をたたきつぶすということをはっきり理解してこそ抑止力だ』と主張しました」
「公明党の北川一雄副代表も『わが国防衛のための日米防衛協力体制をより実効性、信頼性あるものにしていくのが一番大事』と発言」
「一方、野党第1党の民主党。 党内に集団的自衛権賛成派と慎重派がいて、党としての明確な態度を示せません」
「日本維新の会やみんなの党などは、『閣議決定』について、『日米同盟の強化になり、抑止力の向上になる』(維新)、『行使容認の必要性は認識している』(みんなの党)となびき、”翼賛政党”ぶりを発揮しました」
日本共産党の志位和夫委員長は、7月15日の党創立92周年記念講演会で次のように強調しました。
「日本共産党は、92年の歴史で反戦平和を一筋につらぬいた政党としての存在意義をかけて、 『海外で戦争する国』づくりを許さないために全力をあげる決意を表明するものです」