宮応かつゆきの日本改革ブログ

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舘野鉄工所米軍ジェット機墜落事故50周年9・13慰霊祭開催せまる。 当日は、ご子息が参列

2014年09月10日 | 基地・オスプレイ

 今年1月1日(水)毎日新聞は、「基地のあるまち」の連載をはじめました。 同年1月3日付「第1部・犠牲」(連載2)で、舘野鉄工所米軍ジェット機突入、爆発事故を生々しく報じています。

 「1964(昭和39年)年9月8日午前10時55分ごろ。 大和市上草柳の『舘野鉄工所』に米海軍厚木基地を離陸したF8Cクルセイダー戦闘機が突っ込んだ。 現場を挟み向いにあった機械工場で働いていた男性(71)は、当時のことを今でも鮮明に記憶している」

 「『ドーン』というすごい音がして外へ飛び出したら、とてつもない炎が上がっていた。 火の中から従業員が2人出てきたが、全身真っ黒で、声も出せない状態だった」

 「墜落したのは米第7艦隊の空母ボノム・リシャールの艦載機。 厚木基地で離着陸訓練中だった。 北に向って離陸し滑走路の北側を通過した直後、エンジンの故障により上空約50㍍で失速した。 パイロットはパラシュートで脱出し、無人の機体はそのまま降下した。 滑走路北側から1㌔北に位置するブロック塀や建物を破壊し、さらに約50㍍先にあった舘野鉄工所に突入、中に置かれた大型機械に激突して大破した。 鉄工所内で使っていたアセチレンガスに引火し、爆発した」

 「墜落の衝撃で機体はバラバラになり、近くの住宅や田畑、樹木に飛散した。 エンジンは畑の上を数回バウンドして、鉄工所の北約300㍍の陸稲の中で止まった」

 「この時、舘野鉄工所の中で従業員5人が作業をしていた。 当時50歳だった経営者、舘野正盛さんの長男年数さん(当時25歳)、次男幸男さん(同23歳)、三男和之さん(同19歳)、おい文三さん(同25歳)そして角田正雄さん(同39歳)」

 「向いの機械工場の男性が見たのは幸男さんと角田さんだった。 『とにかく早く病院に連れて行かないと』。 男性は近所の人たちとともに、瀕死の状態だった2人をトラックの荷台に載せ、大和市立病院へ運んだ」

 「その後、利数さん、和之さん、文三さんは、鉄工所の焼け跡から遺体で見つかった。 舘野さんの妻は隣接する自宅に、当時22歳だった長女、16歳だった次女、12歳だった四男は学校などにいて、いずれも難を逃れた」

 「所用で大和市役所にいた舘野さんは、そこで知らせを聞き、パトカーの先導で鉄工所に戻った。 東京都大田区から1年半前に移り、ようやく経営が軌道に乗り始めた鉄工所は廃墟と化し、その前には銃を手にした米兵が警戒していた。 夢中で追い払って中に入り、油と泥水の中に横たわった3人の遺体と対面した。 みな変わり果て、見るに堪えない姿だった。 ぼうぜんとする舘野さんの頭上を、意に介さないように米軍のジェット機がごう音を立てて飛び交っていた」

 米軍の暴虐ぶりは今も何一つ変わっていません。

 しかし、この事故で奪われた尊い命の重さを私たちは絶対に忘れません。 13日の慰霊祭には、4男のご子息が参列していただくことになりました。