不破さんは、「ユーゴスラヴィア解放戦争」の過程でのスターリンの覇権主義について、「戦慄を禁じることができません」と怒りを込めて告発しています。(「前衛」誌10月号225頁) その内容は次の通りです。
「ユーゴスラヴィアの解放政権の打倒というスターリンのこの目標は、1944年2月に到着したソ連の軍事使節団の行動にも現れました。 この使節団は、軍事的協力という任務のほか、ユーゴスラヴィアの解放勢力の内部にスパイ・協力者を組織するというNKVD的任務をもっていたのです」
「ソ連の最初の軍事使節団が来たとき、その士官のある人々はソ連の諜報機関に勤務させるためにユーゴの市民を使いはじめた。 ソ連の使節団は、彼らのほしい一切の情報をわれわれの全国委員会から手に入れられることができたのに、それでは満足せずに、われわれの党や国家機構の中に彼ら自身の手下をつくっておき、好機到来の節に役立たせようとしたのである」
「彼らは、ユーゴの当局者にかくれてユーゴの市民を雇い、その1人1人に対しそのことについて沈黙を守るようにと言いつけた。 戦時中および戦争直後、こういう誘惑の手がのばされたのはかなりの数にのぼっている。 ソ連の士官たちは色々の手を使った。 ソ連にたいする信頼の念につけ込んで誘惑したものもあった。 金をやり、良い地位を約束して従わせるものもあった。 また、手伝わないと困ることになるぞ、といって脅迫したこともある。 彼らは、個人の生活のなかで知られては困ることを、あるいは隣近所の人々にかくしておくことを、いつも見つけ出しては、彼らの諜報機関に協力しないならばバクロするぞといっておどかした。 こういうやり方は、あらゆる方面でおこなわれた。 中央委員会の委員からはじまって、党や国家機構の暗号係にまで及ぶという有様であった」(デディエ、231ページ)
不破さんは、こうした記録を踏まえて、
「これは、ソ連が戦後の世界でも常套手段としたことですが、生死をかけた戦闘がたたかわれているパルチザン部隊の本拠に到着した使節団が、そのただなかで、解放勢力の打倒の準備のためにスパイ・諜報網の組織に取り掛かったという事実には、スターリンの覇権主義の諸機構のあまりもの醜悪さに戦慄を禁じることができません」(「同誌」225頁)と書いています。
そして、新政権確立の過程が書かれています。
「ユーゴスラヴィア完全開放の後、臨時国民議会が開かれ、憲法制定議会選挙に必要な法令が決定されました。 憲法制定議会は、連邦議会と民族会議の二院から構成され、その選挙が11月11日におこなわれました。 その結果は、人民戦線の候補者名簿は、連邦議会では、投票総数の90.5%、民族会議では88.7%の得票を得、解放勢力は圧倒的勝利を得ました。 憲法制定議会は、この結果をふまえて、11月29日、『ユーゴスラヴィア連邦人民共和国宣言』を発表しました。」(同誌228頁)
私は、不破さんの次の指摘に、日本共産党の綱領路線とも重なる意味で注目させられました。
「ヤイツェ会談で決めた通り、君主制か共和制かという国の体制の問題は、ユーゴスラヴィア人民の意思によって決定され、人民主権、自主独立の新しい国家が出発したのでした。 また、二つの大国の圧力によって、複雑な経過をたどったとはいえ、新国家が、旧王制国家から法制的連続性を保ちながら成立したということは、特別の意味を持ちました」
そして、
「あらゆる艱苦に耐えて祖国の自由と独立のための英雄的闘争を続けたユーゴスラヴィア人民の勝利であると同時に、外部からのいかなる圧力にも屈しないで自主独立の立場を貫きとおしたチトーを先頭としたユーゴスラヴィア共産党の大きな政治的勝利でした。このことが、ユーゴスラヴィアの側でどれだけ理解されていたかは、それを推し量る確かな資料はありません。 しかし、誰よりも強く、そのことを痛感していたのは、スターリンでした」(「同誌」229頁)
「しかし、ユーゴスラヴィアの側では、さまざまな疎外感は節々でもちながらも、スターリンの覇権主義の実態についても、スターリンの敵意の深刻さについても、彼がこの国家の転覆を最終目標にしていることについても、ほとんど気づかいないまま、戦後を迎えることになりました」(「同誌」231頁)