宮応かつゆきの日本改革ブログ

●日本共産党
総選挙で市民と野党の共闘で政権交代を、共産党の躍進をめざします。

レーニン、”スターリンとの生死をかけた闘争”科学的社会主義の党建設の決定的意味(7)

2017年12月21日 | 未来社会へのプロセス

 同記事を読み続けたいと思います。

「レーニンはソ連邦の結成をめぐり、ロシア連邦がウクライナ、ベラルーシ、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャンの各ソビエト共和国を吸収・合併するというスターリンの大国主義的な方針に反対し、『大ロシア人的排外主義に対する生死をかけたたたかい』を宣言。最終的に、各ソビエト共和国が対等・平等の権利で新しいソビエト連邦に加盟するというレーニンの統合プランにもとづいてソ連邦が結成されました(1922年)」

 しかし、これで問題は解決されませんでした。以下、志位氏の「綱領教室」第2巻185~187ページを紹介します。

「統合プランの基本原則のうえでは、謝りは是正されましたが、実際にはスターリンの謝りは、深刻な形で進行していたのです。その誤りがグルジアで猛威をふるい、矛盾が火を噴きます」

「グルジアは、スターリンの生まれたところですが、グルジア共産党は、スターリンの大国主義的な併合的やり方に一番強く反対していた共産党でした。スターリンは、この抵抗を力づくで抑え込もうという企てをすすめます。グルジアがあるのはザカフカズ地方といいますが、ザカフカズ地方にあるグルジアとアルメニアとアゼルバイジャンの3つの共和国を1つの『ザカフカズ蓮邦』に統一して、統一した『連邦』をソ連邦に加入させるというやり方で、グルジアの民族自決権を奪ってしまう企てをすすめたのです」

「レーニンは、この問題にかかわるスターリンの行状を知るなかで、スターリンはあまりに粗暴すぎる、書記長から更迭すべきだということも『大会への手紙』のなかに残します。しかし、レーニンは、1923年3月に脳卒中で活動不能に陥り、翌年1月になくなりました」

「レーニンが亡くなった後に、この問題で、レーニンの遺志を理解し、それを勇気をもって引き継ごうという人物は、残念ながら党の指導部にはいませんでした。こうして、スターリンの覇権主義の横暴が横行することになっていったのです」

 同記事に戻ります。

「レーニン死後、ソ連の指導者となったスターリン(1878~1953年)とその後継者は、社会主義の原則を投げ捨て、『対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道』(日本共産党綱領)を進みました」

「日本の千島列島や北海道の一部である歯舞・色丹の占領も連合国の戦後処理の大原則=『領土不拡大』を踏みにじった暴挙でした」

「スターリン死後も、覇権主義はその後継者たちに無批判に引き継がれ、ついにはアフガ二スタン侵略(1979年)の『泥沼化』、国民への抑圧、経済停滞などが重なり、ソ連の衛星国家の東欧諸国が崩壊したのに続いて、1991年、ソ連共産党は解散、ソ連邦も解体しました」

 こうした歴史を振り返るなかで、痛切に考えさせられることは、科学的社会主義の党建設の決定的な重要性です。

 日本共産党は、「科学的社会主義を理論的な基礎」(規約)として活動しています。 今回の総選挙は、経験のない緊急事態で、かつ複雑性を伴なったたたかいでした。この総選挙に大局的な立場で、逆流の本質を見抜き、何よりも、市民との約束を守り貫くことが党の最大の責任であることを全党の認識にしてたたかうことができた背景には、まさに、科学的社会主義の哲学と理論があったからだと考えています。

複雑で総選挙の