快風丸

俺の船に乗らないか。

編曲するということ

2012-08-25 18:44:48 | Weblog

 音楽にまつわるデスクワークの中では、これがいちばん楽しい。

作曲した「曲」というのは、素材であって、メロディー、コード、詞が決まっている程度のもので、

ギターで弾き語りができる程度の完成度なのです。

 そこから、バンドでどのように演奏するのかを決める作業が、編曲です。アレンジ。

 

 まったく、料理と同じで、その素材をいかに生かして、おいしいメニューとして提供できるか。

拍子は? 速さは? どの楽器をどう鳴らす? 2本のギターの振り分けは?

 この作業で、楽しい曲が、より楽しくなったり、また、悲しい歌詞が、少し抑えた表現になったり、

素材が、料理として出来上がってゆくのです。

 

 例えば、今回の新曲、「太陽」の場合、弾き語りしながら、イメージがふくらんでいきました。

田舎の未舗装の一本道を、夜明けとともに歩きだす感じ。

 具体的には、ビリージョエルの「Say good-bye to hollywood」とか、ザ・ブルーハーツの

「青空」の感じ。テンポは、ミドル。シンプルなギターカッティングを丁寧に弾く、そして、ギターソロは

あえて入れないことで、物語としての連続性を意識した曲にする。

 

 さて、デスクワークとしての編曲は、このあたりまで。MTRで作り込みたいところだが、正直、時間が

それを許さないというのが昨今の事情である。

 で、この状態で、スタジオでメンバーにお披露目。弾き語りして、こんなイメージと口頭で伝える。

バンドの初期には、ここからの作業がこなれていずに、時間がかかっていたのを思い出す。

ああしよう、こうしようという意見がまとまらなくなってくるワケです。

 

 ここで、マリーアンドファナーズは、ルールを作るワケです。結局、アレンジに関する堂々巡りは、バンド

にとって不毛な時間なのです。特に、この練習時間の限られた「遠距離恋愛バンド」にとって、致命的な

ロスとなりかねません。名付けて 「作曲者優先制度」。

 アレンジの最終決定権は、作曲した者が持つ、というシンプルなものです。シンプルであるからこそ、

これは有効に機能しています。

 

 さて、そうして、バンドで、演奏しながらアレンジしてゆくのです。

最近は、すっかりこの短時間で仕上げる感じに、皆が慣れてきたようで、まとまるのも早いです。

というか、そうせざるを得ない状況に良く順応していると言うべきかもしれません。

 

 例えば、ボーカルは、弾きながら歌うので、凝ったフレーズを弾けません。そこで、もうひとりのギターが、

高音のギターフレーズを絡めます。ドラマーとベースは連携して、リズムの綾を織っていきます。

ときどき、ハッとするような素晴らしいバッキングが聞こえてくるのです。震えますね。

これが、編曲の楽しさの本質です。

 信頼するメンバーが、曲を理解し、より良いものへと向上させていくわけです。この「曲が成長する」、

そんな感覚なのです。

 

 高校のとき、初めてバンドを組んで、スタジオの重いドアを開けたときの感触を今でも覚えている。

それが、今でも、スタジオのドアを開けるとき、蘇る。

 そう、スタジオの練習も、あのころと変わらず、とても新鮮なワクワクするような気持ちで入っています。

それが、新しい可能性の扉だから、なのかもしれません。


詞を書くということ

2012-08-25 02:36:47 | Weblog

 「詞ってどうやって書くのですか。」

マリーアンドファナーズの売りは、詞である。

いかに詞を聞かせるかが演奏の大前提であることはメンバーの共通認識である。

 

 前のベーシストが、詩を書く人だった。

マリーアンドファナーズの前身の「えせジャズバンド」のころ、ノートを見せてもらった。

たくさん詩を書いていた。

 「この詩に曲をつけてくれ。」

ある日、酔っぱらってスタジオに入ったとき、まさに酔狂で、この詩で即興演奏をした。

ボーカルは、ササ氏と交代で、このノートを見ながら、即興で歌い、ギターでリズムを決めて、

なんとなく全員で合わせる。

このときの演奏は、カセットテープに録ってあり、「狂気セッション」と仲間うちで呼んでいた。

ここから実際にレパートリーとして採用されたものもある。

’91年ごろだったと思うが、このころは、素面で練習なんかしたことが無かった。

楽しかったけど、後ろめたさの残る、あと味の悪い楽しさだった。

 このセッションを通じて、このベーシスト詩人のすごさを発見することになるのだ。

 

 「えせジャズ」からロックへと舵を切り始めたバンドは、クラブトンとか、サンハウス

などのコピーをやっていたが、マリーアンドファナーズのオリジナルは、こうやってスタートした。

 ギター、ササ氏は、多作だった。次から次へとノートの詩に曲を付けていった。

カセットMTRにリズムマシーン、ギター、ベース、ボーカルの入ったテープでもらっていた。

 自分も曲を付けてみた。いや、むしろ、詩が曲を要求するというか、すでに詩がメロディーとリズムを

持っていて、それを引き出すような作業だった。

不思議なことに、同じことをササ氏も言っている。

 

 

 さて、そして、自分でも詞を作りたいと思うようになる。

前ベーシストのは、曲にすることを前提としない文学としての詩であり、自分のは、曲に付ける「詞」である。

その詩があまりにも素晴らしいので、感化されたワケです。そもそも言葉による表現には得意意識があった。

 ギター・ササ氏は、この後もベーシスト詩をもとにヒット曲を連発する。

ライバル意識のようなものが目覚めてくる。

常に意識していたのは、ベーシスト詩に負けないクオリティーの詞ということ。

安易に体裁の良い言葉を並べたててコ゜ロ合わせをしたような陳腐なものでは、どうしても見劣り

してしまうだ。それでは、ライブ全体のなかで、バランスが悪くなってしまう。そうならないために、

詞のクオリティーということをいつも意識している。

 

 今回、初めて披露した「太陽」という曲ですが、この詞のコンセプトは、「ポジティブにいこう」。

このコンセプトに対して、「がんばろう」という言葉を用いてはダメ。

「お前もがんばれよ」と返されるのがオチだ。

聞き手を意識することである。

我々が、有名なロックスターだったら、歌詞なんかなんでも良いのだ。「がんばれ」と歌えば、

「がんばる」と返ってくるであろう。

もっと言えば、オーディエンスとの関係性の問題なのだ。

アマチュアのロックバンドと、半分義理で聞きに来たオーディエンス。なんという希薄な関係性で

あることか。では、どうやってこの関係をもっと深く、そしてその時間をお互い有意義なものへと

変質させるのかが問題なのである。

 

 では、具体的にどうするのか。

「もっと前向きにいこうよ」

と言いたいのであるが、そのままでは伝わらない。通じない。

そこで、たとえば、詞の中で、状況設定をします。

「太陽」の場合、まず、夜であることを設定します。

そして、「太陽が昇ったら、金色に輝く道を、あてもなく走り出せ、新しい旅をはじめよう。」

という、形を変えた「がんばろう」を示すわけです。

つまり、聞き手が、自発的に「がんばりたい」と思わせるわけです。この自発性を促すというのが大事

なのです。

 

 理屈で言うと、以上のようになるのです。

歌うのはこちら。勝手に歌います。感じるのは聞き手の方です。

勝手に歌いますが、その歌で、何かを感じて欲しいと思いを込めるのです。

これは、ボーカルだけでなく、マリーアンドファナーズの全員がそう思っています。

だから、一生懸命練習します。金にもならないことにいい大人が真剣に取り組むのです。

これを滑稽と笑うむきもありましよう。

しかし、ときどき

「あの歌、良かったよ」

と言って頂ける事があるのです。全てが報われます。ほんの少し、何かが伝わったという実感。

この経験のために、金をかけ、時間をかけ、疲れた身体に鞭を入れ、知恵と理屈を最大限に

絞り出すのです。

 

 こんなやりがいのある仕事はないと思っています。