kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

定家も「病持ち」だった

2022年06月07日 | 健康
どこだったか分からないけど、
迷いながら歩き、疲れ果てた夢を見ました。

朝、気が付くと、腰から肩まで、ぺったり鉛みたい。
そんな時は「サロンシップ」を。

気分によっては、朝風呂で血行を良くすることもあるけど
今朝は、そんな気分じゃなかったので、サロンシップ。
腰と背中に1枚ずつ、半分に切って両肩に1枚分。
これで大丈夫o(^o^)o


すっかり忘れ去っていたこのブログ、
不要なのを消していたら、こんな記事がありました。
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2015年01月19日
「定家も芭蕉も病持ちだった」

「定家」の部分を、書き直して、こちらへ移します。
(「芭蕉」については、後日)
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藤原定家(1162~1241、80歳没)は、平安末期から鎌倉初期の公家。
『百人一首』や『新古今和歌集』の選者です。

『明月記』と呼ばれる詳細な日記が残っています。
19歳から74歳までの56年間の記録です。
私たちにも読みやすく編集された本があり、
それをながめて感じたこと…。

定家は、80歳まで生きたので、当時としては長命でしたが、
ずっと色々な病気に悩まされていたことが記されています。

体調不良・終夜辛苦・病気不快・脚気不快・風病・
膝股激痛・歩行不能・数日病悩・終夜病悩・咳病悪化・肩病悪化。
前後不覚となる、石淋病と判明(尿路結石らしい、性病ではなく)。
以後体調不良・病気により日記をつけることができず
雑熱・腹痛・念誦を始める
病がちであることを憂う…

年譜からの拾い書き。
面倒になって止めました、50代までで。

対症法は以下の如し。

蛭を飼う・護身を受ける・土光祭を修す・服薬・灸治・湯治。

特に「蛭を飼う」は多いです。
歯にも飼ったりしています。
これが当時の治療法だったんでしょうね。

同じ年譜ですが、60歳以降について、「和歌の仕事」の欄を追いました。

63歳 家中の少女たちに命じて『源氏物語』書写を開始し、校合する
   11月~翌年2月 54帖に外題(げだい)を書く
71歳 『新勅撰和歌集』を編集
73歳 『伊勢物語』書写
   『百人一首』を選んだ(多分)
74歳 『土佐日記』書写
(75歳以降は、記事が現存せず)


当時は印刷がないので、「書写」によって伝えられます。
筆による草書なので写し間違いがあったり、
欠損があったり、前後がごちゃまぜだったりします。

校合(きょうごう)は、2種以上の写本を比べ合わせて、
異同や誤りを正し、前後の順番を整える作業。
そうしてまとめた本の表紙に書くのが、外題(げだい)。

『源氏物語』を定家が校合したのは、
表紙が青かったことから『青表紙』と呼ばれ、
「紫式部の書いたもの」に最も近いとされています。

そんな気の遠くなるような作業を、
老いて故障多き身体で、よくぞやれたものですね。

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