近所の家の本箱に「庄司博一追悼集」が見えたので、借りてきました。
故人とゆかりがあったのは、親の代で、
現在の所有者(私と同い年)は、親を通して知ってる位らしかった。
私は故人を知ってました。
長男が幼稚園児だったとき、集合場所の公園が、庄司さん宅の前だった。
子どもの集合時間が、彼が家を出る時間と同じで、
いつも「おはよう」と、声をかけてくれていたのです。
ママ友に「オシャレの先生」がいて、彼女曰く「庄司さんはとってもオシャレ」ですと。
「毎日変えているネクタイ、どれもセンスいい」とか。
私は分からなかったけど、奥さまに聞いてみました。
「とてもオシャレだって、お友だちも感心してますよ」
(奥様と、その程度の話は出来る関係でした)
「国鉄では「ドブネズミ」って言われる制服しか着なかったけど、
今はホテルになったので、ガラッと変わったでしょ。頑張ってるのよ。うふふ」
まあ、そうなんですか…。
そのご主人が急逝したのは1999年で、77歳だった。
とても悲しんだ奥さまが、供養にと作った「追悼集」。
読んで、分かったこと。
岡山へは、1969年、「岡山鉄道管理局長」で赴任。
山陽新幹線「新大阪~岡山間」が開業したのは、1972年3月15日。
そのとても大事な時期のトップだった。
同年の12月、国鉄退職し、岡山ターミナルビル専務取締役に。
今度は、商業ホテルや駅前開発のトップメンバーとしてご活躍。
私の解釈で、とても素晴らしいと思ったことは、大事な仕事をしていた年齢。
山陽新幹線開業の段取り仕事に着いたのは、47歳。
そして、国鉄の定年は50歳。別分野の仕事に就く。
若い人(今の私が感じる)が重要な仕事を担っていたことについて。
香川県庁の設計を、知事さんが丹下健三さんに依頼した話を思い出しました。
「丹下さんは、研究室の学生に、設計図を描け、と言った。
描けなかったら怒って、3日くらい研究室に出てこなかった。
そして、自宅で描いた「平面・立面・断面図」を持ってきた、
それがあの建物だ」
(県庁は1958年竣工、その時、丹下氏45歳。学生は20代?)
それより前、丹下健三氏が「広島平和記念公園」を設計したのは、36歳。
丹下氏だけが特別なのではななく、
昔は、大事な仕事を、若い人がやったんですよね。
今の世も、こうあって欲しいと思います。
故人とゆかりがあったのは、親の代で、
現在の所有者(私と同い年)は、親を通して知ってる位らしかった。
私は故人を知ってました。
長男が幼稚園児だったとき、集合場所の公園が、庄司さん宅の前だった。
子どもの集合時間が、彼が家を出る時間と同じで、
いつも「おはよう」と、声をかけてくれていたのです。
ママ友に「オシャレの先生」がいて、彼女曰く「庄司さんはとってもオシャレ」ですと。
「毎日変えているネクタイ、どれもセンスいい」とか。
私は分からなかったけど、奥さまに聞いてみました。
「とてもオシャレだって、お友だちも感心してますよ」
(奥様と、その程度の話は出来る関係でした)
「国鉄では「ドブネズミ」って言われる制服しか着なかったけど、
今はホテルになったので、ガラッと変わったでしょ。頑張ってるのよ。うふふ」
まあ、そうなんですか…。
そのご主人が急逝したのは1999年で、77歳だった。
とても悲しんだ奥さまが、供養にと作った「追悼集」。
読んで、分かったこと。
岡山へは、1969年、「岡山鉄道管理局長」で赴任。
山陽新幹線「新大阪~岡山間」が開業したのは、1972年3月15日。
そのとても大事な時期のトップだった。
同年の12月、国鉄退職し、岡山ターミナルビル専務取締役に。
今度は、商業ホテルや駅前開発のトップメンバーとしてご活躍。
私の解釈で、とても素晴らしいと思ったことは、大事な仕事をしていた年齢。
山陽新幹線開業の段取り仕事に着いたのは、47歳。
そして、国鉄の定年は50歳。別分野の仕事に就く。
若い人(今の私が感じる)が重要な仕事を担っていたことについて。
香川県庁の設計を、知事さんが丹下健三さんに依頼した話を思い出しました。
「丹下さんは、研究室の学生に、設計図を描け、と言った。
描けなかったら怒って、3日くらい研究室に出てこなかった。
そして、自宅で描いた「平面・立面・断面図」を持ってきた、
それがあの建物だ」
(県庁は1958年竣工、その時、丹下氏45歳。学生は20代?)
それより前、丹下健三氏が「広島平和記念公園」を設計したのは、36歳。
丹下氏だけが特別なのではななく、
昔は、大事な仕事を、若い人がやったんですよね。
今の世も、こうあって欲しいと思います。