落葉松亭日記

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「尖閣は日本の領土」動かぬ証拠

2013年01月24日 | 政治・外交
あなた方(支那)の先祖がこう云ってるよ。
尖閣の史実がまた新たに発見された。
尖閣、400年前は支配外…明王朝公式日誌に
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130121-OYT1T00687.htm

 中国の明王朝の公式日誌「皇明実録(こうみんじつろく)」の中に、明の地方長官が日本の使者との間で、明の支配する海域が尖閣諸島(沖縄県)より中国側にある台湾の馬祖(ばそ)列島までと明言し、その外側の海は自由に航行できるとした記述を、長崎純心大の石井望准教授(漢文学)が見つけ、21日午前に長崎市内で記者会見して明らかにした。
 中国は現在、尖閣諸島を約600年前の明の時代から支配してきたと主張しているが、石井氏は記者会見で、「歴史的に見ても、尖閣を巡る論争は日本側の主張が正しいということが、この史料からわかる」と語った。
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尖閣のみならず台湾も。
新発見の「尖閣史実」(皇明実録)に「中国の主張」を覆す威力 2013/01/22/Tue
ブログ「台湾は日本の生命線」より。ブログでは関連写真も↓
http://mamoretaiwan.blog100.fc2.com/blog-entry-2023.html

■覆る中国「明の時代から支配」の主張
明国皇帝十三代の記録である『明実録』(皇明実録)は明国史研究の基本的史料だが、そこには中国が主張する尖閣諸島の領有権の歴史根拠を根底から覆す記述があることが、このほどわかった。
読売新聞が一月二十一日に配信の記事「尖閣、400年前は支配外…明王朝公式日誌に」によると、長崎純心大の石井望准教授(漢文学)は同日の記者会見で、中国の明王朝の公式日誌「皇明実録」に「明の地方長官が日本の使者との間で、明の支配する海域が尖閣諸島(沖縄県)より中国側にある台湾の馬祖列島までと明言し、その外側の海は自由に航行できるとした記述」があるのを発見したことを明らかにした。
中国は現在、尖閣諸島を「約600年前の明の時代から支配してきた」と主張しているが、石井氏は「歴史的に見ても、尖閣を巡る論争は日本側の主張が正しいということが、この史料からわかる」と語ったそうだ。

■上奏文での記載だから間違いない
読売記事はさらに次のように伝える。
―――石井氏が見つけたのは、江戸時代初期にあたる1617年8月の皇明実録の記述。沿岸を守る長官だった「海道副使」(海防監察長官)が、長崎からの使者・明石道友を逮捕・尋問した際の記録で、皇帝への上奏文として納められていた。
―――それによると、この海道副使は明石に対し、沿岸から約40キロ・メートルの「東湧島」(現在の馬祖列島東端・東引島)などの島々を明示したうえで、この外側の海を「華夷の共にする所なり」とし、中国でも他国でも自由に使える海域だと指摘したという。魚釣島などからなる尖閣諸島は、中国大陸から約330キロ・メートル離れている。
―――中国は、明王朝の1530年代に琉球に派遣された使者の記録をもとに、琉球の支配海域の境界は尖閣諸島の東側にある久米島と同諸島の大正島の間にあり、魚釣島などは明の領土だったと主張している。だが、今回の記述により、明の支配海域は沿岸から約40キロ・メートルまでで、尖閣諸島はどこの国にも属さない「無主地」だったことが明らかになった、と石井氏は指摘している。
海防監察長官がそう指摘し、そのことが上奏文に記されているのだから間違いないだろう。

■中国政府の『籌海図編』宣伝は最早無効
読売記事にもあるように、たしかに琉球へと渡航する明国の使者の航海記録には尖閣諸島に関する記述は少なくない。だが明国が同諸島を領土として支配したのを事実と証明する記録などどこにもないのである。
そこで中国政府は自己正当化の武器として、一五六二年に淅直総督胡宗憲の幕僚で明国時代の地理学の鼻祖である鄭若が編纂した海防研究書『籌海図編』所載の海図「沿海山沙図」(福七)に「釣魚山」(尖閣諸島の魚釣島)が明国の海防拠点として記載されていることを指摘し、それを同諸島実効支配の証だと強調している。
だが中国政府は断じて認めようとしないことだが、実際にはその海図は明国の支配が及ばない海域(倭寇の進行ルート)の中で尖閣諸島を描いたのであり、今回の石井氏の発見は、そのことをも裏付けて余りある。

ところで、ここで現れた明石道友とは、いったいいかなる人物なのだろう。
■徳川家康の台湾征服計画と明石道友
「沿海山沙図」(福七)には「釣魚山」とともに、「鶏籠山」との名で台湾も記載されており、台湾もまた明国の支配を受けない無主の地だったことがわかる。
この島が歴史に浮上するのは古い話ではなく、おおよそ十六世紀半からで、当時は倭寇(日本や明国の海上交易勢力)の交易中継地となり、十七世紀に入るとオランダ人やスペイン人も入殖してくるのだが、それに先立って支配権を確立しようと試みたのが、幕府を開いた直後の徳川家康だった。

一六〇九年には肥前領主の有馬晴信の船団を派遣し、北部を調査させたが、得るものなかった。
ついで一六一六年には長崎代官の村山等安に十三隻の船に四千の兵を乗せて出征させたものの途中で台風に遭って船団は散り散りとなり、三隻だけが台湾北部に到着した。しかし百人から二百人が原住民に包囲され、自決するなどでさんざんな目に遭い、撤退するが、そこでの生き残りの一人が明石道友である。
一方、はぐれた七隻は台湾対岸の明国福建省へと向かったが、豊臣秀吉の領土拡張政策以来、日本を警戒する沈有容率いる明の軍船と交戦となり、一隻が沈められている。沈有容はこの戦功により福建水師提督に任命された。
そうしたなか、一隻が上記の東湧島にたどり着いた。そこで偵倭官である董伯起が漁民に扮して接触したところ、身分がばれて捉えられ、日本へと拉致された。だが村山等安は明国との交易を求めるため、翌年董伯起を鄭重に送還することとし、航海の指揮を明石道友に取らせたのだった。

■「尖閣は台湾の付属島嶼」も嘘だと明らかに
明石道友は福建省黄岐に至って董伯起を引き渡し、そこで沈有容や海道副使韓仲雍の取り調べを受けることになった。かくして物語は、今回発見された『明実録』のくだりへと繋がるわけだ。
その原文を探したところ、それは『明実録』中の「神宗顕皇帝実録」巻之五百六十にあった。
それによると、韓仲雍は明石道友に対し、前年の台湾出兵などについて、次のように聞いている。 「なぜ(台湾北部の)鶏籠、淡水で騒擾を起こしたのか」「なぜ(台湾西部の)北港で拠点を作ろうとしたのか」「なぜ(明国の)内地で略奪を行い、董伯起を連れ去り、ふたたび送り届けたのか。あるいは琉球で略奪を行ったのか(※一六〇九年の薩摩藩による琉球征伐を指すか)」
そしてその上で、こう告げるわけである。「南は台山(現・台山列島)、●山(現・四●列島)、東湧(現・東引島)、烏▲(現・烏▲嶼)、彭湖(現・台湾の澎湖諸島)までが福建の領域であり、そこに足を踏み入れることは許されない。それ以外の大海は中華と異民族が共にするところだから、自由にしてよい」と。
原文は「?南而為臺山、為●山、為東湧、為烏▲、為彭湖,皆我◎門庭之?,豈容汝?一跡,此外溟渤,華夷所共」。
台湾海峡の澎湖諸島(台湾の西五十キロ)を除けば、台山列島、四●列島、東引島、烏▲嶼はどれも福建省沿岸に位置しているが、それらより沖合に明国の勢力が及ばなかったことは、台湾の例を見ても明らかなことなのだ。
(●=石に霜、▲=土に丘、◎門に虫)

明国が支配したのは東引島(東湧島)など馬祖列島まで。台湾に手を伸ばせなかったのは当然だ
今回発見された『明実録』は、尖閣諸島が明国時代以来、「台湾の付属島嶼」だとする中国の主張の虚構を実証するものである。
更に言えば、「台湾は古来中国の不可分の領土」という宣伝自体をも根本的に否定するものですらあるのだ。
さて尋問を受けた明石道友だが、その後沈有容から船一隻と食糧、資金を与えられ、帰国している。沈有容には心服し、一六一七年に沈有容が東沙(現・東?)の倭寇の首領、桃煙門を討伐する際には、桃煙門に書を送り、六十九名の倭寇を投降させ、沈有容の名声を更に高めたことが今に語り継がれている。