たまに「片手袋を感じる映画」というのがあるんですが、それには二種類あるんですね。
一つは「単純に片手袋が画面に描かれている映画」。『モンスターズインク』や『アナと雪の女王』、『ローズマリーの赤ちゃん』や『フレンチアルプスで起きたこと』なんかがそうです。どこに映っているかは、実際に見て確かめて下さい。
二つ目は「片手袋が映っている訳ではないが、片手袋的な思想を感じる映画」。近年では何といっても『君の名は。』がそうで、当ブログでその理由を解説しました。
で、今日見に行ったオタール・イオセリアーニ監督の『皆さま、ごきげんよう』という映画が、二つ目の意味で片手袋映画の傑作だったのです!忘れないうちにその理由を書いておこうと思います。
『皆さま、ごきげんよう』(2015) オタール・イオセリアーニ監督
フランス革命の時代、どこかの戦場、現代のパリ―時代が違っても、変わることなく繰り返される人間の営み。争いや略奪、犯罪は決してなくなることはない。それでも、溢れるほどの愛や友情、希望がある。寒い冬の後には、必ず花咲く春がやって来る。明けない夜はない。そう、明日は今日よりも良いことが待っている。混沌とする社会の不条理を反骨精神たっぷりのセンスの良いユーモアで、ノンシャランと笑い飛ばす。 (公式サイトより)
僕はフランスのジャック・タチ監督(1907-1982)の大ファンなんですが、世界中に「タチを感じさせる」と言われる映画監督がいるのです。今までそういう監督・作品を色々とチェックしてきましたが、個人的にはイオセリアーニ監督が一番タチに近いものを感じるんです。撮影スタイルや題材はそれほど似てないんだけど、作品を通して得られる印象や思想からタチの影響を強く感じるのです。
そんなイオセリアーニ監督久々の新作とあらば見ない訳に行きません。公開から一か月経ってしまったのですが、ようやく今日、岩波ホールに行き見る事が出来ました。
決して分かりやすい作品を撮る監督ではないので、終演後場内には「ポカーン」とした空気が蔓延しておりましたが、僕は大変感動いたしました。というのもこの作品、普通に見てしまうと確かに捉えどころがないのですが、片手袋というファクターを通して見てみると、驚くほど分かりやすくなると思うのです。
「この作品が最終的に言いたいのはこういう事だったんですよ!」というタイプの解説を受け付ける作品ではないのですが、作品全体の骨格となっている思想を読み解くために、片手袋を用いて幾つかの設定やシーンを解説してみたいと思います。
①異なる時代に同じような現象が見られたり、同じ俳優が幾つもの異なった役を演じたりしているのは何故か?
作品解説にもある通り、この作品には三つの異なる時代、場面が描かれています。フランス革命の時代、どこかの戦場、現代のパリです。しかも同じ俳優がそれぞれの時代に出てくる様々な登場人物を演じ分けたりしています。フランス革命時にはギロチン処刑で首を切られる側と執行する側が、現代のパリでは親友同士になっていたりする。
時代や場所が異なる人たちを描いているようで、それが最終的にはつながってくる。こういうのって、群像劇の醍醐味ですよね。近年では『クラウド・アトラス』という作品なんかが、時代も場所も超えて繋がってしまう人間関係を描いていて面白かったです。
イオセリアーニ監督の作品はこういう設定が多いのですが、他の監督の群像劇に比べると、その繋がりが緩やかなんですね。異なる時代に同じような人達が存在しているのだが、それぞれが結びつくようで結びつかず、でも劇的でない形ですれ違ったりする。
また、ギロチン処刑で首を切られる側と執行する側は、現代のパリでは親友同士になっているが、やっぱり首が意味を持っていたりする。でもその意味は物語に大きく影響を与えるようなものではなく、もっとささやかな偶然なのです。
この片手袋を落とした人、それを拾ってあげた人、手袋の指の間にエンピツを挟んだ人。おそらくそれらの現象は異なった時間、異なった人によって行われたのだが、この片手袋一点においてそれぞれの人生は一瞬すれ違ったのです。
また、片手袋を研究していると、全く違うタイミングで同じような現象に遭遇することが多々あります。その回数が多ければ片手袋分類図に組み込むんですが、例えば「自転車のハンドルにぶら下げられた片手袋」なんて、何か定型化できるような根拠はない。でも全然関係ない人達によって、同じような行動が繰り返されているのは事実なんですね。
イオセリアーニ監督が、異なる時代、異なる場所の人間達を緩やかにすれ違わせたり、意味を読み取れる程ではない位のレベルで同じような行動を取らせたりするのは、とても片手袋的だと思うのです。
②風は誰にでも吹く
劇中、とても印象的な場面があります。色んな場所で突風が吹き、色んな人達の色んなものが飛ばされていきます。
立場や階級、場所が異なっていても、風だけは誰にでも吹く。
軍手に毛糸、ファー付きの手袋まで。それぞれの持ち主の職種や経済状況はバラバラであろうとも、片手袋を落とすという一点においては平等です。金持ちも貧乏も、大人も子供も、人種や宗教も関係なく、どんな人間も手袋を落とす。だからこそ片手袋は人間の普遍的な本質に迫っている気がする(と僕が勝手に思い込んでいる)。
『皆さま、ごきげんよう』に吹く風は、まるで片手袋そのものです。
③ペシャンコになった人、ならなかった人
映画の中で最もショッキングでいながら、最も笑いがこぼれてしまう(そう、本作は基本的にコメディなのです!)シーン。それが道端で倒れた老人がローラー車に轢かれてペシャンコになってしまうところです。
よく『トムとジェリー』なんかで見るアニメ的誇張表現を、実写で再現してしまうんだから驚きました。しかも陰惨なシーンになるどころか、はっきりと本作一番の笑いどころにもなっています。
そしてこのシーン。映画の後半で違う登場人物達によって再現されます(複雑なんですが、演じてるのは同じ俳優なんですけどね)。しかし今度は、よろめいた老人を親友が支えてローラー車には轢かれません。
例えば、同じように路上に放置されている軍手でも、人や車に踏まれ続けてペシャンコになるものもあれば、原形を留めたまま無事でいるものもある。
もっと言えば、同じように電柱の傍で落とされたのに、そのまま放置されてるものもあれば、優しい誰かが拾い上げて電柱に引っ掛けてあげるものもある。
これら二つの片手袋がそれぞれ辿る運命は、何に・誰によって決定されるのか?それともそれを決めるのは偶然だけなのだろうか?
・人間は場所や時代を超えて結局同じような行動を取ってしまう。
・生まれ変わりがあったとしても、いつの時代でもくっ付いてしまう関係もあれば、毎回すれ違ったまま終わる関係もある。
・結局それぞれがそれぞれに勝手に生きているけど、風に代表されるような誰にでも等しく訪れる現象もある。
・人の死を決定してしまうような恐ろしい事態も、違う人が経験した時は誰かの助けによってそのまま過ぎていってしまう事もある
『皆さま、ごきげんよう』の、イオセリアーニ作品の、こんなところが非常に片手袋的だと思います。そして何より、「人間って、世の中って、基本的には糞ったれでどうしようもないけど、人が落した手袋を拾い上げるぐらいの良さはあるよね」という世界の認識が似てる気がするんですよ。
何の予備知識もなく触れると難解な印象を持ってしまうかもしれない本作ですが、こんな風に片手袋を通して見てみると、イオセリアーニ監督の厳しくも優しい視線が感じ取れると思いますよ。興味がある人は是非、どうぞ。
『皆さま、ごきげんよう』は神保町・岩波ホールで2月10日、金曜日まで上映しています。