> 大陸から適度に離れた位置にある日本は、異民族(とくに遊牧民族)による侵略、強奪、虐殺、征服など悲惨な体験をもたず、また自文化が抹殺される体験ももたなかった。
そうですね。
>これに対して、ヨーロッパにしてもアジアにしても大陸の国々は、異民族との戦いに明け暮れ、異民族に侵略され、征服され、虐殺されるというような悲惨な歴史を繰り返してきた。 >それゆえ大陸の人々は傾向として、常に相手からつけこ込まれたり、裏切られたりするのではないかと怯え、基本的には人間を信頼しない。 >つねに警戒すると同時に、どうやったら相手を出し抜き、ごかませるかと、攻撃的、戦略的に身構える。
>そこには前提として人間不信がある。
そうですね。日本人は、序列人間である。序列を作らない人間を信頼しませんからね。人間を信頼するのではない。序列を信頼するのである。
> 一方日本のように、異民族との闘争のない平和で安定した社会は、長期的な人間関係が生活の基盤となる。 >相互信頼に基づく長期的な人間関係の場を大切に育てることが可能だったし、それを育て守ることが日本人のもっとも基本的な価値感となった。 >その背後には人間は信頼できるものという性善説が横たわっている。
そうですね。日本人には、意思がない。加害者意識がない。罪の意識がない。悪の意識を持つことが難しい。
> 加えて、日本は稲作農業を基盤とした社会であった。 >人口の8割以上が農民であり、田植えから刈入れまでいちばん適切な時期に、効率よく集中的に全体の協力体制で作業をする訓練を、千数百年に渡って繰り返してきた。 >侵略によってそういうあり方が破壊されることもなかった。
そうですね。幸いにして強大な蒙古にもやられなかった。
> 礼儀正しさ、規律性、社会の秩序、治安のよさ、勤勉さ、仕事への責任感、親切、他人への思いやりなどは、こうした歴史的な背景から生まれてきたのであろう。
日本人には、意思がない。だから、優柔不断・意志薄弱である。あらかじめ作法を決めて教え込んでおけば、万事滞りなくことを運ぶことができる。
>また、異民族に制圧されたり征服されたりした国は、征服された民族が奴隷となったり下層階級を形成したりして、強固な階級社会が形成される傾向がある。 >たとえばイギリスは、日本と同じ島国でありながら、大陸との海峡がそれほどの防御壁とならなかったためか、アングロ・サクソンの侵入からノルマン王朝の成立いたる征服の歴史がある。 >それがイギリスの現代にまで続く階級社会のもとになっている。
そうですね。
>すでに触れたが、日本にそのような異民族による制圧の歴史がなかったことが、日本を階級によって完全に分断されない相対的に平等な国にした。 >武士などの一部のエリートに権力や富や栄誉のすべてが集中するのではない社会にした。 >特に江戸時代、庶民は自らの文化を育て楽しみ、それが江戸文化の中心になっていった。 >庶民は、どんな仕事をするにせよ、自分たちがそれを作っている、世に送り出している、社会の一角を支えているという「当事者意識」(責任感)を持つことができる。 >自分の仕事に誇りや、情熱を持つことができる。
駕籠に載る人担ぐ人そのまたと草履を作る人 (階級や貧富には種々あって、同じ人間でもその境遇の差は甚だしいことのたとえ)
> 階級によって分断された社会では、下層階級の人々はどこかに強力な被差別意識があり、自分たちの仕事に誇りをもつという意識は生まれにくい。 >奴隷は、とくにそういう意識を持つことができない。 >日本文化のユニークさのひとつは、奴隷制を持たなかったことであった。 >奴隷制の記憶が残り、下層階級が上層階級に虐げられていたという記憶が残る社会では、労働は押し付けられたものであり、そこに誇りをもつことは難しいだろう。
奴隷の子孫は、大統領になることは難しい。非差別落民の子孫なら総理大臣になれるであろうか。
> 『私は日本のここが好き!―外国人54人が語る 』や『続 私は日本のここが好き! 外国人43人が深く語る 』を読んで、私がいちばん強く印象に残るのは、外国人が日本人の仕事への責任感や誇り、誠実さを語る部分である。
そうですね。日本人には、自己の仕事へのこだわりがある。しかし、日本人には意思がないので、責任を取ることが難しい。意思のあるところに方法 (仕方) がある。意思がなく仕方のない日本人は、無為無策に終わる。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)
>私たちは、こういう私たちの長所をもっと自覚すべきだと思う。>自覚してこそ、守り伝えていくこともできるのだから。
あまり自己慶賀に酔いしれない方が、身の為になるでしょうね。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。兎角、この世は無責任。
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