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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

主観の暴走

2019-08-18 18:04:37 | 政治

> (略)
> 戦前戦中の日本も、状況が悪化した時、指導部の不手際という要素を最初から除外して、外的要因に責任転嫁する思考に囚われ続けた。

そうですね。日本人には、意思がない。意思の無い人には、責任がない。だから、外的要因に責任転嫁する思考に囚われますね。

> 『戦前回帰』でも書いたが、国体明徴運動から敗戦までの10年間、日本を支配した思考を端的に言えば「主観の暴走」に尽きると思う。

そうですね。非言語の世界での暴走ですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを表している。だから、正解は、一つではない。考えの内容は、人様々である。だから、正解も無数にある。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えを表すものになる。だから、矛盾の除去には、対話・議論が役に立つ。

> 「万邦無比の国体」という主観でしか物事を見ず、客観的視点や合理的判断を捨てた結果、意志決定がことごとく「自分たちに都合のいいシナリオ」に基づくものとなった。

国体とは、国家体制のことですね。わが国は、万邦無比の序列国家ですね。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがあります。 ‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的判断が適切でないと、日本語の日常会話にも差し支えますね。そのうえ、日本人の礼儀作法は、序列作法になっているので、’ものの上下’ という世俗的な心得がないと、礼儀正しい日本人にはなれません。’人を見損なってはいけない’ という想いが高じて、強迫観念の域に達しています。ですから、日本人は、対人関係でいつも緊張していなければなりません。
日本人には意思がない。だが、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。それで、意思決定 (理性判断) がなく、恣意決定 (盲目の判断) がある。意思疎通がなく、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。恣意は、バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在し、文章にならないので意味も無い。客観的な視点や合理的な判断が見当たらないので、日本人には説得力もない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

> 当然現実との齟齬が生じるが、新たな主観的解釈で「自分たちに都合のいいシナリオ」に合っているかのように見せかけた。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その話がわかる為には、文法に従って、文章内容を理解しなければならない。これは、骨の折れる作業である。だから、日本人は、通常、理解はしない。忖度 (推察) を使って、その場の処理している。
ところが、理解と忖度は、似ても似つかぬ別物である。そのことを日本人は、知らない。’理解’ は、発言者の内容に関する事柄である。しかるに、’忖度’ は、聞き手の勝手な解釈である。発言者には、何の責任の無いことである。だから、忖度する人は、現実直視 (実験と観察) が全くできていないことになる。これは危険というよりも、悲惨なことになる。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

> 竹槍も特攻も、全て「主観の暴走」が生み出した幻想だったが、今また当時と同じような「主観の暴走」「都合のいいシナリオありきの意志決定」が、国の中枢で行われている。

そうですね。都合の良い〇〇〇〇の意思決定とは、恣意決定のことですね。歴史は、繰り返しますね。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、言語における時制の大切さを十分に深く理解する必要があますね。さすれば、自己の世界観と意思の表現が可能になり、自己実現の可能性が開かれます。考えの内容を広く世界に理解してもらうことにより自己の信頼が得られるようになります。未来社会の建設に国際的な協力者を得て、人類の進歩に貢献することができます。

>(略)


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現代教育 2/2

2019-08-18 13:58:11 | 政治

>国家としてのアイデンティティを失えば、統一した国家、国家の独立を保つことができなくなる。>その事は、国家体制の崩壊を意味するのである。

国体明徴 (天皇中心主義の国家観念を明らかに証拠だてること) は、必要ですか。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。世俗的な ’上と見るか・下と見るか’ の判断が疎かであると、日本語の日常会話にも支障をきたすことになる。
そのうえ、日本人の礼儀作法が序列作法になっているために、序列観念が欠落していると礼儀正しい日本人にはなれない。村八分・非国民・外人となる。
世俗の上下の考えを発展させて、全国規模の序列制度を作る。序列制度は、わが国の国体 (国家体制) といわている。天皇を中心とした国家観念に、人間序列がもとなる。序列の間に各人が自己の名前を差し挟むことにより、自己の国家への帰属意識を確信させている。この帰属意識は、哲学ではない。準文法のようなものである。序列意識の崩壊は、国家体制の崩壊を意味します。序列人間は、序列を失うと行きどころがない。だから、特に国体を強調することになります。 

>我が国では、かつて、それぞれの地域が独自の教育をしてきた。>その根本は、郷土愛である。>郷土愛が生む出した地域独特の教育システムや学校は、個性的な多くの人材を生み出し、開国後の近代日本の発展を担ってきた。>郷土愛の根底には、家族愛、そして、自己愛があり、郷土愛が発展したものが、愛国心だ。

そうですね。愛国心は、個人的な感情で、他人から説教されるような性質のものではありませんね。恋愛感情のようなものか。
それをわざわざ人前に出てきて愛国心の説教する人には、何か邪な企みがあると考えた方が良いでしょう。無哲学・能天気の人には、政治哲学もありませんからね。

>しかし、愛国心は、軍国主義、全体主義の中で変質し、ゆがめられた。

そうですね。愛国心は、政治家に利用されました。
“勿論、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ” (ヘルマン・ゲーリング)。

>真の愛国心は、生活の場である地域社会に根ざしながら、それを健全に発展させたものだ。>本来の愛国心は、郷土愛に、そして、家族愛、自己愛に根ざしていなければならない。

そうですね。同感です。

>そして、それが民主主義的、個人主義的、愛国心なのである。

自己の無哲学・能天気の空白を埋め合わせるために、政治屋は汚れ無き愛国心を政治的に利用するのですね。民主主義、個人主義は、哲学である。だが、愛国心は、個人的な感情ですね。各人の想いが各様であるように、各人の哲学の内容も一様ではない。政治家は、’我らは何処に行くべきか’ という哲学的な命題に対する個人的な内容を明らかにして、国民の支持を得るべきですね。

> 健全な愛国心を教育の場で育てられないのは、地域社会、そして、そこに根付く伝統や文化を育めなくなる事を意味する。>また、同時に、健全な民主主義の発展も期待できなくなる。>それは、我が国の歴史と伝統、文化の破綻を招き、国家の統一と独立を保てなくする。

無哲学・能天気な政治屋に率いられた国民は、いったい何処に行くのであろうか。考えもなく、不安ばかりが募ります。これは、哲学に対する不勉強の至りか。

>それが意味することは、日本人が日本人としての誇りを失い、国家としての自決ができなくなる、 >すなわち、我が国が、他国の支配を許し、植民地になることを意味するのである。

日本人には、意思 (will) がない。意思の無い人は、受動ばかりの人である。能動がなくては自己の責任が果たせない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人は、仕方がないので無為無策でいる。だから、他国の支配を許し、ポチになる。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。

>物理的な面ではともかく、精神的な、文化的な植民地にはすでになりかけている。> 愛国心を教育の場で育めないのは、現代教育最大の弊害である。

愛国心は、個人的な感情である。他からとやかく言われて育てる筋合いのものではないでしょう。だから、これを政治的に利用するのは好ましくない。政治哲学を持たない政治屋が愛国心を政治に利用したがっている時には、目を光らせる必要があります。


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現代教育 1/2

2019-08-18 11:41:16 | 教育

>348529 現代教育の弊害② >kanarchy ( 22 会社員 ) 19/08/15 PM09 【印刷用へ】
>試験の成績と偏差値だけで、評価される隔離された世界に閉じこめられ、子供達は、逃げ場を失っていく。

序列社会の侘しさですね。

>当然そのはけ口は、仲間や弱者に向かっていく。

‘下におれ、下におれ’ と、心の中で掛け声をかけているのですかね。

>しかも、その閉ざされた逃げ場のない社会、隔離された社会において、その社会にしか通用しない掟が、生じるのは、自然な成り行きである。

真空地帯ですね。

(略)
>どこかの大学教授のように、自分の出した答えと結果が違ったから、結果が間違っているというのは、神をも恐れぬ所行である。>学校教育にどっぷりと浸かった優等生が言いそうなことである。> 受験勉強期間というのは、人間の成長にとって大切な年代である。

そうですね。

>その大切な時間を無意味な勉強によって浪費される。>それは、子供達には、耐えられない苦痛である。

そうですね。日本人には意思がない。だから、能動もない。受動ばかりの動作を続けると、牛馬の苦しみになる。だから、日本人はお互いに、’頑張って’ と絶えず声を掛けあっている。ちなみに日系二世のアメリカ人に ‘頑張って’ の意味を尋ねてみると、’Take it easy!’ (じゃあね) とか、’Good Luck!’ (成功を祈る) であるという。彼らの心境は、我々のものとは近づかないようである。

>彼らは、耐えられない苦痛から回避するために、現実から逃避していく。>そのとき、人格の崩壊は起こる。>典型的なのは、人格の分裂や自己の喪失、逃避である。

日本語の使用による閉塞状態でしょうね。
現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。正解は、唯一つである。考える必要は無い。楽ちんである。だが、逃げ場はない。戦争中に、玉砕するまで戦い抜いた日本人のようなものですね。

>日本人の中に、国語辞典を、一冊、丸暗記している人間がどれほどいるだろうか。>ところが、受験戦争の中では、英語が話せないのに、英語辞典をまるまる暗記している人間が何人もいるのだ。>これは、狂気である。>しかし、試験制度の中では、その異常さに疑念を持つことすら許されない。

そうですね。戦争は、狂気を伴いますね。戦時中の神風特別攻撃隊のようなものですね。

> つまり、それを強要する側も、受け入れる側も、それを容認する側も全てが狂っているのである。>冷静に考えれば、普通ではない。>変態的な性が世の中に蔓延するのもわかる気がする。>全てが異常なのだ。

そうですね。日本人が、気分・雰囲気に酔いしれているのでしょうね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>その証拠に、一般社会において、こんな事を強要したら、立派な犯罪である。>また、それに耐えられる人間がいたら、その人自体、異常だしと思われる。>お前は、変態か。>しかし、それがまかり通る、それが、受験戦争である。

そうですね。戦争さなかの異常心理ですね。‘欲しがりません。勝つまでは、’

>戦争は、確かに異常だ。>しかし、受験戦争は、その目的が、判然としない分、さらに異常である。

受験戦争は、序列順位獲得の為の戦争です。序列メンタリティに駆動されている社会は、さらに異常ですね。

> 現在教育のもう一つの弊害は、愛国心に対する教育がなされていない事によって日本人としての誇り、自尊心が育たない事である。>また、愛国心を正面きっていえないために、教育の目的が明らかにできない事である。

自己慶賀には、警戒しないといけませんね。有頂天になって国粋主義 (超国家主義) になる。この道は、いつか来た道。

>それは、国家目標をも見失わせ、国家としてのアイデンティティをも失わせてしまう。

無哲学・能天気の人民の苦しみですね。国家目標がないから、自己慶賀という代用品で済ませようとする。だが、自己慶賀は、政治哲学の代わりにはならなで、勘違いになる。


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