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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

宗教と科学

2019-08-04 20:48:45 | 文化
>348200 宗教と科学は唯一絶対の不変真理という思考で貫かれている  >匿名希望SY 19/08/04 AM02 【印刷用へ】
>宗教と科学は、地動説か天動説かのように対比的に語られることが多い。>宗教裁判にかけられたガリレオにしろ、火あぶりになったブルーノにしろ、万物の創造者であり世界の中心である神(聖書)に対し科学の立場で異を唱えたのが科学者だ、と対立的な構図で捉えられがちだ。

そうですね。宗教と科学は、対立していますね。科学者は、現実直視 (実験と観察) をしますからね。現実直視を認めない人たちとは、対立せざるを得ませんね。

>しかし、ニュートンもガリレオもコペルニクスもギリシャ哲学のピタゴラスも、西洋の科学者は全て崇敬なキリスト教信者であり、彼らは神の創造したものを解読することが科学だという視点で一致している。

そうですね。彼らの目的は解読ですね。

>神の言葉、創造物を否定する意識は全くなく、むしろ神の存在を所与のものとしその啓示に迫ることが彼らの科学だ。

そうですね。しかし、彼等の現実を直視する行為は、彼らの出発時点の目的を裏切る結果になりましたね。

>ガリレオは数学を「神の創造物を解読するための第二の聖書」と言っており、神の創造物だからこそ、美しいものであり単純であり明快なものである、という思考のベクトルが前提の認識として働いている。(=オッカムの剃刀) >万物の対象は複雑に関係し常に変化しながら調和しているが、そのような変化を一切受け入れない唯一絶対の不変真理とするスタンスが数学の世界だ。

そうですね。数学には、現実直視の必要がありませんね。それならば、考えを改める必要も生じません。しかし、天文学など科学には、現実直視が必要ですね。ですから、現在の考えを改める必要性を否定することはできません。

>それは、とりもなおさず、現実を対象化せず非現実の世界を言葉化した神=旧約聖書を絶対不変の真理とする排他的思考と全く変わりはないのである。

そうですね。現実直視を問題にしない思考は、排他的思考ですね。

> 現代の科学はそのドグマから抜け出せず思考を停止しているが、実は近代科学は最初から進化ではなく滅亡のベクトルを刻印されているとも言える。

現代の科学は、現実直視 (実験と観察) を重視していますね。ですから、排他的思考にはなりえませんね。
新しく現れた個人により様々な考えが提案され、次から次へと考えが更新されています。ですから、科学は際限なく進歩します。
現実の内容は、千変万化する。そして、その内容はただ一つある。非現実 (考え) の内容は、絶対不変である。そして、その内容は、人により様々である。矛盾を含まない内容は、すべて正しい考えをしめしています。ですから、正解は一つではない。幾らでもあります。ユダヤ人は、他の宗教も認めます。だから、布教活動もしないとのことです。


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責任

2019-08-04 03:25:10 | 文化

>326034 権利、自由、責任について
>蘆花 ( 50代 会社員 ) 17/04/26 PM00 【印刷用へ】
(略)
> 昔の日本には権利や自由という言葉はなかった。 >しかし何の不自由もなく社会は回っていた。

‘不自由を常と思えば不足なし’ ということでしょう。

>なぜなら間違ったことをやれば腹を切って責任を取るという文化が日本社会にはあったからである。>権利や自由や人権などの言葉が西洋から輸入され責任が片隅に追いやられ日本社会は本当に軽薄になってしまった。

日本人には意思がない。だから、責任もないでしょう。
肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り) 

>「何かあれば責任を取る」という文化が薄らいで、権利だ、自由だ、人権だと叫んでいる欧米国家以上の「無責任国家」になった。

この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかったですね。兎角、この世は無責任である。

> 権利や自由の前にあるのは責任である。

自由とは、意思の自由のことである。日本人には、意思がない。意思がなければ、自由にも意味がない。
意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には、未来時制が存在しない。それで、日本人には、意思がない。
意思の無い人には、責任がない。ちょうど、死刑執行人のようなものである。彼らは、人が死んでも殺人罪には問われない。彼らには、殺意がないからである。 
日本人には、意思がない。しかし、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思の自由は認められても、恣意の自由は認められない。恣意の自由は、’自由のはき違え’ になるからである。だから、意思の無い日本人には、’不自由を常と思えば不足なし’ となっている。

> 少し茶化していえば、聖書には“初めに言葉ありき”とある。 >やおら神が何か言おうとしたので「神様、ちょっと待ってくださいよ、何か言うのはいいけれど、言葉の前には責任ありきですよ。 >発言するなら、ちゃんと責任をもって発言してくださいよ」ということなのである。

そうでしょうかね。神様は、全知全能であるから、何ら問題を起こすことはないでしょう。

> 私たち日本人が“言動には常に責任が伴うのだ”と責任感さえしっかりと認識するようになれば、権利や自由や人権を叫ぶ無責任国家とおさらばし、もう少しまともな国家になれるのだが。

日本人には、意思がない。だから、相手の意思の内容を尋ねる人もいなければ、自ら意思の内容を公言する人もいない。
意思疎通が無くて、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) がある。恣意の自由は認められない。それで、無責任国家は持続する。
自由とは、意思の自由のことである。ところが、日本人には意思がない。だから、せっかくの自由にも、意味がない。’不自由を常と思えば不足なし’ ということである。

>責任感の復権こそが日本の復権のカギである。

意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思の無い人には、責任がない。意思のない人には、責任感もない。意思の無い人が不幸にして責任感を持つと、問題の解決手段を持っていないので、残酷物語となる。だから、責任感だけを考えていても、この問題は解決しない。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を十分に理解しよう。そして、非現実 (考え) の内容を表現しよう。さすれば、自己の意思も世界観の内容も表現可能になります。そして、外国人にも文章内容を通して、自己の考えを理解してもらうことが可能になります。未来社会の建設に国際的な協力者を得て、人類の進歩に大きく貢献できます。


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