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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

佐藤賢志氏

2019-08-12 15:13:33 | 社会

>佐藤賢志 ( 51 デザイナー ) 14/07/18 PM05 【印刷用へ】
>現代人の精神に潜む、何事も『他人事』という意識は、一体どこから生まれたのか? >その大きな要因は「共同体の崩壊」にある。

そうでしょうね。わが国の序列社会が崩れかけているからでしょうね。

>かつての村落共同体では、様々な問題が起きた時、答えが出るまで年寄りたちの寄合い協議が、夜を徹して2~3日続けられたという。

そうですね。村落共同体の人々は、親分・子分の関係で結ばれていましたからね。

>そこには、共同体への帰属意識と、自分たちで解決するしかない現実の圧力があり、そしてまた未来(子孫~末代まで)もその共同体の存続を信じ実現する意志が根付いていた。

そうですね。我々は、序列人間であります。序列人間は、序列社会の中に自己の帰属意識を宿らせています。ですから、共同体の中の出来事は、我が事のように感じられます。

> 翻って、現代はどうだろうか? > 都市住民のほとんどは「根無し草」であり、今や帰属意識の源泉であるはずの「家庭」でさえ崩壊している。 >「守る」という規範意識さえ虚ろだ。

そうですね。戦前の修身教育の徳目は、すでに日本人の脳裏から失われていますね。’ものの上下’ の考えは、家庭内でさえ説得力を持っていません。

> 所属する企業では個々人の私権確保で手一杯。 >生活する「地域」も、それぞれが異なる課題に追われ、結束する必然がない。 >子供たちを見守るにしても、分断された一時期にすぎず永続性がない。> 視野を広げて、社会や世界を見渡しても、すでに大衆は「脱市場」「脱お上」の潮流にあり、ますますその浮遊度が甚だしい。

世間は、処世術の一本やりで統一されていますね。国体序列への帰属意識は、昔に比べれば薄れていますね。

>・・・つまり、自らが寄って立つ、自らが責任を背負い主体的に生きていく基盤がないのだ。

そうですね。日本人には、意思がない。意思の無い人には、能動的・主体的な行動がない。それで、自ら責任をとることができない。
意思は、未来時制の文章内容である。日本語の文法には、時制 (tense) というものがないので、日本語の脳裏には、未来時制は存在しない。それで、日本人には、意思がない。

>残るはせいぜいちっぽけな「自分」を守るくらいだろうが、それさえ「他人事」と自らを欺いている人さえ居る。

それは、自国の国防を他国に依頼するようなものか。

> 出自が異なる人を結集させ、新たに共同体を再構築していくには、生まれた瞬間から共同体の一員となったかつての村落とは違い、決意性が必要になる。

そうですね。新しい共同体の意思決定が必要ですね。個人的な未来社会の内容を公表するとともに、それを支援する共同体の意思決定が必要ですね。
しかるに、日本人には意思がないから、意思決定は難しい。日本語には時制がないから、未来時制の文章内容を公に提示することも難しい。
だから、’鳴かず・飛ばず’ の状態でいる。これが、真の問題です。

> 男には「骨を埋める」「皆を必ず守る」「必ず勝つ」など、自らの存在を賭けた気迫溢れる志に加え、現在~これからを生き抜くために不可欠な構造認識を駆使していく必要性の自覚が求められる。

そうですね。世界観が必要ですね。しかるに、日本人には非現実 (考え) の内容の文章がなく、個人的な世界観が存在しない。個人を主体とする批判ができない。
我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解する必要があります。さすれば、我々は自己の意思と世界観を文章内容として表現できます。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。個人的な意思と世界観の内容を公表可能にして、広く国際的に支持を得られるようになったら、未来社会の建設に取り掛かることができます。そして、人類の進歩に指導的な役割を果たすことも可能になります。

>その志や自覚が、全てを「自分の事」と心底から捉えることに繋がり、人類が元来有している生命力、活力が無限上昇してゆく。

そうですね。個人的な意思と世界観は、’自分の事’ と心底から捉えることを可能にしますね。そして、人類が元来持っている生命力・活力を無限に上昇させていくことになるでしょうね。


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時代の風潮に疑問

2019-08-12 10:04:33 | 社会

>日本人はなぜ「神社」に行くのか! >「願いは一つ、景気回復 神田明神、参拝者で大盛況」(~中略) >とあった。 > 最近、こういった「神社」に関する話題が多くなったと、思う。 >オタクも歴女も若い娘も神社に詣でる。

他に行くところもないでしょうからね。

>近年、こんな記事を良く目にするようになった。 >ここには、「商売繁盛」とか「幸せスポットを求めて」とか「アニメキャラの絵を見せたい」とかいったそんな単純な動機だけではないように思う。>彼らが、これらの目的を本当に叶えたいと考えたならば、なにもわざわざ旧態然とした社寺や、外国人から見れば明らかに宗教的場所である「神社」へ行く意味はないはずだ。

‘他力本願・神頼み’ の為ですね。

>まして、込み合う日に混雑する場所をわざわざ選んで、その行列に並び、作法にならってお辞儀をし、拝殿に向かって手を合わせるなんてことはあまり意味のないことになる。

参拝者は、良い気分・雰囲気を味わっているのでしょうね。求める者は、作法・形式の中にあります。

>(そんな時間があるなら、サラリーマンは日経新聞でも東洋経済でもいいから穴が開くほど読んでろ、という話になるわけだ。)

それは、無粋の人の言うことですね。

>しかし彼らは何のためらいもなく、また何の疑問を持つことなく、自然と「社寺」へと向かうのだ。

参拝者は、良い気分・雰囲気を味わいたいと願うからでしょうね。

> 日本人は「無宗教者」「無神論者」だと大多数の人が思っているが、実のところ、心のよりどころを求めるように「神社」や「寺」に足を運んでいるのである。

そうですね。日本人は、無哲学・能天気であっても、作法・形式に心を込めているのでしょうね。

> 不景気だから神頼み、などといっていたテレビコメンテーターがいたが、これは短絡的発想で、「日本」及び「日本人」が余りにも分かっていない。

神頼みばかりではない。お礼参りもあるでしょう。

>(こんな人たちが堂々と文化人とか知識人とか解説委員などと名乗っている。バカな話だ。) 

文化人とか知識人とか解説委員も、無哲学・能天気ですからね。

>また、皇室への好意的関心も近年高まっているように感じる。

それは、序列信仰によるものでしょうね。日本人序列の中に自分を入れて想定することで、わが国の人間序列に対する自己の帰属意識が高まります。

> 新年恒例の一般参賀が2日、皇居・宮殿の東庭であり、天候にも恵まれ昨年より約3500人多い約7万9290人(皇宮警察本部調べ)が訪れ、即位20周年式典には3万人以上の人が集まった。 >とある。 >これは前回記事の宝島社全面広告のときの記事でも少し触れたが、現代日本人は、いま、大きな岐路に立たされ(政治的にも経済的にも国際情勢的にも)、将来への漠然たる不安を目の前にして、わたしたち日本人は何なのか、日本という国は何で成り立っているのかという原点に立ち帰って、自らを見つめ直そうとしている時期に差し掛かっているのではないだろうか。

そうですね。‘我々は何処から来たか’ ‘我々は何者であるか’ ‘我々はどこに向かうか’ などの哲学的命題を考える時期にさしかかっていますね。

>日本人としてのアイデンティティーは喪失しかけ、日本人が日本人であることの「矜持」も否定され、自分の国への帰属意識も薄れている、

無哲学・能天気では、矜持 (pride) はありませんね。あるのは、序列メンタリティばかりですね。序列が存在する社会では、上位の者と下位の者の間に自分の位置を見出して、社会に対する帰属意識を得ることができますね。

>まさに国としての「危機的」状況を向かえている。

序列の復活ではなく、無哲学・能天気の解消が大切ですね。

>まさしく日本人は混迷状態の中にあるのだ。

浮世と憂世の混迷状態の中にあります。

>いま、この反動が起こっている。>何かが違う、どこかがおかしいと、これまでの時代の風潮に疑問を持つ人々は戸惑いを感じ始めている。

そうですね。我々日本人は、’考える人’ になろうとしているのでしょうね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) の内容は、頭の中に存在する。それは、見ることができない。ただの話である。話が分かる為には、文法に従って文章を理解しなくてはならない。これは、骨の折れる作業である。だから、私たち日本人は、通常これをやらない。忖度 (推察) で行く。
理解と忖度は、似ていて非なるものである。だから、要注意である。理解は話し手の内容に関する事柄である。しかるに、忖度は、聞き手の勝手な解釈である。話し手には、何の責任もない。現実直視 (実験・観察) になっていない。独りよがりである。歌詠みのようなものである。日本人社会の混乱の基である。 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
非現実 (考え) の内容を文章にするには、時制 (tense) というものが必要である。時制のある文章は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表わすことができる。初めは各人ともにその内容は、白紙の状態にある。めいめいが自分なりに三世界の内容を埋めて行く。これが各人の個人的な世界観である。この非現実の内容を基準にして、現実の内容を批判すれば、その人は批判精神の持ち主になる。英文法には時制があるので、英米人には世界観がある。そして、彼らは、批判精神の持ち主となる。日本語文法には時制がなく、日本人には、世界観がない。だから、つかみどころのない浮世と憂世に住んでいる。日本人は、批判精神の持ち主にもならない。ここがおかしい。

>そんな不安感を拭うかのように、心のより所を求めて、日本の根本を成す場所へと、意識が向いているのではないだろか。 > 時代が混迷すればするほど、こうした意識は強くなっていくだろう。

そうですね。我々日本人は、’考える人’ になる必要がありますね。各人に哲学は、必要です。Everyone needs a philosophy.

> (~後略)


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